新人教育(4)

 初めに謝っておきます。
 いろいろ汚くてすみません……。






新人教育(4)
 





 まんまと徹夜作業になった翌日、仮眠すら取れない状態で、青木は室長に呼び出された。
 事件現場へ向かうという室長を後部座席に乗せて、車のハンドルを握る。助手席には岡部の姿がある。昨日のことがあるので、室長と二人きりになるよりは岡部がいてくれたほうがありがたい。が、何となくつまらないような気もする。相変わらず複雑な心理状態が続いている青木である。

「現場検証に立ち会うんですか?第九が?」
「今日は特別でな」
 何故だろう。
 第九の仕事は、基本的に研究室の中に限られる。現場に出て証拠を集めたり聞き込みをしたりするのは、捜査一課の仕事だ。そのテリトリーに入ることは、一課の人間にとっても不愉快なことのはずだが。

 捜査現場は、鑑識や捜査官で溢れかえっていた。
 こんなに大勢の人間が現場に集まるのか、と青木は驚いている。現場はそれほど広くない公園だ。すべての出入り口はKEEPOUTと赤く印字された黄色いテープによって塞がれている。その中に40人~50人くらいの捜査官がひしめき合っている。たくさん居すぎて身動きが取れないのではないかと心配になるくらいだ。
 テレビドラマのように、10名くらいの人数で捜査をするというのは現実にはない。殺人事件ともなれば、こうして最低でも30人からの人員が捜査に携わるのが普通だ。青木も勿論それは承知していたが、こうしてそれを間近に見るのは実は初めてだ。警大のときに研修で見学をしたことはあるが、遠くから眺めただけで現場の中に入ったわけではない。警大の授業は机上の勉強だけで進んでいくものだ。
 圧倒される。一人だったら、とても中に入っていける雰囲気ではない。

 岡部が捜査官の一人と何事か話している。気心の知れた者らしく、砕けた口調だ。
「青木。こっちだ」
 岡部に呼ばれて、青木は人混みを掻き分けるようにして黄色いテープの内側を進んだ。薪が後ろから着いてくる。ちらちらと青木のほうを見ている瞳が、何事か言いたげだ。
 昨日は全員徹夜だったのだから、薪も岡部も眠っていないはずだ。自分よりだいぶ年上なのに、二人ともタフだ。頑丈そうな岡部はともかく、見るからに華奢な薪のどこにそんな体力があるのだろう。

 岡部の向かう先は、公園の植え込みの方だ。ごった返す捜査員の狭間に、シートを被せられた物体が見え隠れしている。近づくにつれ、死臭が強くなる。青木は手で鼻と口を覆う。これだけ離れていても物凄い臭気だ。
 シートの中のものを想像して、思わず青木は足を止めた。
 岡部が手招きをしている。行かなくてはダメだろうか。死体を見るのが第九の仕事ではないはずだが。
 躊躇していると、後ろから薪に背中を押された。もう少し心の準備をさせて欲しいが、どうやらその気遣いはしてくれないらしい。

 嫌がる足を無理に進めて、青木は岡部の横に立った。岡部は地面にしゃがみこみ、シートに手をかけている。青木にも屈むよう指でサインをする。あまり近寄りたくはないが、先輩の命令では仕方がない。
 薪は青木の背中越しに覗き込むように身を乗り出している。その目は被害者に向けられているようだが、何故か青木は薪の視線を感じる。さっきからずっとだ。室長は自分を見ている。
 岡部の無骨な手が、いきなりシートをめくった。
 その瞬間。
 青木の目に飛び込んできた凄絶な光景――――。
 土気色の顔。断末魔の形に歪められた口。落ち込んだ眼窩。鼻や耳、ありとあらゆる穴から湧き出している蛆虫が、もぞもぞと蠢いている。
 今まで嗅いだことのない強い腐敗臭に、猛烈な嘔吐感が沸き起こる。まるで身体の中に直接手を突っ込まれて胃をひっくり返されたかのようだ。意志の力で止められるものではない。

「青木、吐くな! 現場を汚すな!」
 岡部が叫ぶが、とても無理だ。
 もともとスプラッタは苦手なのだ。臭いのないMRIの画像でさえあんなに吐いていたのに、現実の腐乱死体に耐えられるはずがない。
 岡部の叫びが終わらないうちに、思い切り吐いてしまった。
 口元を押さえていた手の隙間から、吐瀉物が溢れてくる。すみませんと心の中で謝るが、裏返ってしまった胃は元に戻せない。
 こんなことなら朝食を食べるんじゃなかった。食べないと仕事にならないと思って無理に詰め込んだのに。しばらくはツナサンドが食べられなくなりそうだ。こんな間近に、未消化のものを見せられたのでは。

 あれ、と青木は思う。
 何故こんなに近くに吐いたものが有るんだろう。地面に落ちたはずなのに、この距離感はまるで宙に浮かんでいるようだ。

「終わったか?」
 薪の声が耳元で聞こえる。
 眇めた視線を横に走らせると、顔がくっつきそうなほど近くに薪の美貌があった。
 状況を把握しようと、しっかり目を開ける。
 後ろから薪が、青木の首に抱きつくようにして、両腕を前に回している。自分の上着を袋のような形に持って、青木の口の前に差し出している。上着の中は青木の吐いた汚物でどろどろだ。
 室長が自分の上着でとっさに汚物を受け止めてくれたのだ、とようやく理解する。理解して、青くなる。

「大丈夫か?まだ吐きそうか?」
 室長は青木の顔色の変化の意味を誤解して、やさしく言葉をかけてくれる。このパターンは確か前にもあったような。何故一番見られたくない人に、こういうところを見られてしまうのだろう。恥ずかしくて顔が上げられない。

「青木。どれだけ吐いてもいいから、よく見ておけ。これが現実だ」
 頬が触れそうな至近距離で、薪のつややかな唇が動く。
「このむごたらしい現実の上に僕たちの仕事はあるんだ。それを忘れるな」
 真剣な声音。強い眼差し。亜麻色の瞳は、凄惨な死体を真っ向から見据えている。
「人間は年を取って家族に看取られて、穏やかに死んでいくものだ。こんな悲惨な死に方をしなきゃいけない人間なんて、本来はいないはずだ。おまえだって自分の大事な家族や友だちに、こんな死を迎えて欲しくないだろう。
 僕たちが作らなきゃいけない社会は、人間が自分の人生に満足して死ねる社会だ。神様から貰った命を全部使い切って死ねる社会だ。他の誰かに途中で奪われるなんてことがあってはならないんだ」
 普段、口数の少ない室長の言葉は重みがある。
 それは青木の心にずっしりと沁みてくる。

「おまえは昨日、遺体はどうせ焼いてしまうのだからと言ったな。死んだ人間は痛みを感じないから、脳を取り出しても平気だと言ったよな。この死体もそうだ。痛みは感じないし、嗅覚も触覚も失っているから、この臭いも蛆虫が這い回るのも解らない。
 でも、どうだ。これを見ても同じことが言えるか? この被害者に今ここで、昨日のセリフを繰り返すことができるか? この被害者の遺族に、死体は何も感じないのだから腐っても平気です、と言えるか?」
……言えない。
 言えるわけがない。こんな悲惨な目に遭った可哀想なひとに、その家族に、そんな鬼のようなことが言えるものか。
「おまえが昨日、あの父親に言おうとしたのはそういうことだ」
 薪の横顔がゆっくりこちらに向いて、青木と目が合った。鼻先がぶつかりそうな距離で、長い睫毛に囲まれた亜麻色の瞳が瞬きもせずに青木の眼を見ている。

――――そうだ。
 不当に薪を責める父親を鬼だと青木は思った、でも。鬼は自分だった。

「事件の被害者たちは、みな理不尽に自分の人生を奪われて、夢半ばに死んでいくんだ。ものすごく痛い思いをして苦しんで苦しんで、そんな辛さを味わった被害者の脳を取り出すためにまた身体にメスを入れる。頭蓋骨をドリルで削って脳漿を抜いて脳髄を切り取って……文字通り、死者に鞭打って初めてMRI捜査は成り立つんだ。
 だから、僕たちを信用して愛する人の亡骸を預けてくれる遺族の人には、頭を下げるのが当然だ。社会正義のために、自分たちの身を切られるような痛みを推してまで協力してくれる。その気高い精神に敬服して、感謝するんだ」
 青木は自分を恥じた。
 人からはやさしいと褒められることが多い青木は、自分でもそれなりに優しい人間でいたつもりだった。なのに、自分はいつの間にこんな傲慢な人間になっていたのか。

 それは多分……薪に恋をしたからだ。

 薪のこと以外、目に入らなくなっていた。物事のすべての基準は薪にとって良いことかどうか、そんな風にしか考えられなくなっていたのだ。だから薪に冷たく当たったあの男に腹が立って、それを分かってくれない薪にまで苛立ちを覚えて。
 これではまるで、子供の恋だ。中学生の初恋どころか、幼稚園児の戯れだ。
 自分は薪を思うあまり、他の人々に対する気遣いがなくなっていたのだと初めて気づく。
 これではだめだ。こんなことでは、室長に迷惑を掛けるだけだ。
 室長の役に立ちたいと、室長の助けになりたいと思っていたはずだ。もっと大人にならなければ―――― もっともっと自分を磨かなければ、このひとを助けることはできない。

「すみませんでした」
 青木の吐き気が治まったのを見て取ると、薪はエチケット袋代わりの上着を持って立ち上がった。捨てとけよ、とそれを青木のほうへ渡す。死臭よりはマシだが、やはり臭う。

 現場から離れて、公園の外に出る。青木はようやくまともに呼吸が出来るようになった。
「今月は、洋服代がかさむな」
 昨日に引き続いて今日もまた、薪のスーツは駄目になってしまった。
「昨日はドロで今日はゲロですか。1字違うだけでえらい差ですな」
 室長とその腹心の部下は、信頼しあったものだけが持つ気安い空気の中で、とぼけた会話を交わしている。青木にはその関係がとても羨ましい。

 徹夜明けの薪は、大きく背伸びをして欠伸をした。二人とも、自分のために仮眠も取らずにここへ連れて来てくれたのだ。
 防弾チョッキを着ていない室長のワイシャツ姿は、とても細くて頼りなく見える。しかし、この人の強さは本物だ。自分が目指すのはこの強さだ。そして岡部のような懐の大きい人間になって、室長に信用してもらうのだ。

「青木、第九まで車で送ってくれ。そしたらおまえは、今日は家に帰っていい」
「室長はどうなさるんですか?」
「僕は、岡部と一緒に昨日の遺体を返しに行く」
「オレも連れて行ってください」
 ハンカチで口元を拭いて、青木は言った。
 岡部が眉を寄せて首を振る。行かないほうがいい、という意味だ。
「おまえ、昨日あの親父とケンカしてるだろう。親父の神経逆撫でしないほうがいいぞ」
「大丈夫です」
「あのな、青木。困るのは室長」
「岡部。おまえ小池と交代してやってくれ」
 室長を気遣う岡部の言葉を、涼やかなアルトの声が遮った。
「あいつ、先週の日曜も出てたんだ」
「室長」
「太田さんの所へは、僕と青木で行く。大丈夫だ」
「しかし」
「僕が大丈夫と言ったら大丈夫なんだ」
 自信に満ち溢れた声。背筋をピンと伸ばして腕を組み、しっかりと2本の足で立っている。長年、第九の室長として数多の窮地を切り抜けてきたという自信が、薪を輝かせている。
 なるほど、女性にモテるわけだ。男から見てもカッコイイ。

 暗い雲の切れ間から光が差してくる。梅雨時期の太陽はすでに夏の力強さを持っていて、その光は徹夜明けの青木の目にとても眩しい。そして、室長の白いワイシャツ姿はもっと眩しい。
 冷静な室長の仮面の裏に隠された、熱い正義感。守るべき人々に対する、深い愛情と感謝。
 この人はどこまできれいなんだろう。どこまでやさしい人なんだろう。

……完全に持って行かれた。

 心の片隅に生まれた感情はいつの間にか大きく育って、青木のこれまでの常識を粉々にぶち壊した。薪は男性だ。自分と同じ男のひとだ。でも。
 降参だ。
 すごい力で惹き寄せられる。もう、止まらない。自分にも止められない。
 この魅力の前に、自分の薄っぺらな理性など消し飛んでしまう。

 ああ、やっぱり室長はきれいだな、と青木は思う。きれいでかっこいい。
「青木。途中で洋品店に寄ってくれ。さすがにもう、替えの上着が無い」
 華奢な肩を竦めて両手を広げる。芝居がかった仕草は、青木の気持ちを汲み取ってくれた証拠だ。
 青木の答えを待たずに、踵を返して薪は歩き出す。2人の部下は、その華奢な背中を慌てて追いかける。

 この背中を守っていきたい――――。

 青木の心に、薪に対する深い尊敬が刻み込まれた一幕だった。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

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Aさまへ

Aさま。

ご指摘ありがとうございました(^^

ここはそのまんま「やはりくさい」と書いてしまいましたが、「やはり臭う」の方が日本語としてきれいですね~。
ではそのように直しておきますね。


6巻の岡部さんは、
惚れますよねっ!
岡部さんお人好しなんだもん。ミイラ取りがミイラになった、って警視総監に思われてるんだろうな(笑)

あの当時って青木さんが雪子さんにプロポーズした直後だったから、「薪さん、もう岡部さんにしときなよ」ってお声もちらほら上がってましたねえ。
今となってはそれも良い思い出です。

Aさまへ

Aさま。

そんな、気にしなくていいですよ!
余計なこととか思いませんでしたし!

>「香る」と「臭う」の使い分け

そうですね。
「香る」はいい匂いに使いますね。
逆に「臭う」は嫌なニオイに使いますね。


わたしは言葉に対してそれほどの拘りはありませんで、必ずしも日本語の規則を守っているわけではないのですけど、自分が漢字に詳しくないのは自覚しているので、書く前には辞書で調べます。
「におい」については下記のような記述を基にしました。
におい……嗅覚によって生じる感覚。普通よいにおいには〈匂い〉,悪いにおいには〈臭い〉が使われるが,においのよしあし自体はきわめて主観的な感覚である。

しかし、辞書によっては「修飾語の付かない匂いは悪臭であることが多い(良いにおいの場合は香りを使う)」と記載してあるものもありますので、Aさまのお考えは正しいですよ(^^

日本語って難しい、ていうか、面白いですよね? 主観的な感覚で使い分けるとか、この考え方は数学にはない。
数学は綺麗な学問だと思いますが、国語は面白い学問だと思います。

Eさまへ

Eさま。

>最初から再読

そそそそんな、うちの話は読み直す価値のあるものではなく~~~、
いいんですよ、気になったところだけつまみ読みとか、
人によってはRだけに拍手入れてく人もいますから。(ただうちのRって、グロイしキモイしで、ギャグ以上に申し訳ないんですよね(^^;)


>このお話、私も薪さんに持ってかれた感じです。

ありがとうございます(〃▽〃)
そうですね、ここから青木さんは迷いを捨てて、薪さん一筋になるんですね。なつかしーなー。


>しづさんの書かれる薪さんは原作の薪さんと同じ威力をお持ちなので

えっ、いや、そんなことないですよ。
原作薪さんの美しさ、綺羅綺羅しさがダイヤモンドだとしたら、うちの男爵はビー玉みたいなものです。ギャグだし。

仰る通り、薪さんの魅力は底なしです。
だからうちみたいなヘッポコ話でも、共感いただけるんだと思います。


>あぁもう、ご飯作りたくない(笑)

それは解ります~!
どっぷり世界に浸かってしまうと、現実に帰って来れなくなります。
薪さんの切なさに想いを馳せながら、肉じゃがとか作れないですよねww


プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
おかげさまで8歳になりました(^^♪
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