官房長の娘(6)

官房長の娘(6)






 その日、法一の女医にかかってきた朝一番の緊急呼出は、捜査一課ではなく第九だった。
「なに? なにがあったの?」
 電話の向こうのただならぬ曽我の声に、取るものも取り合えず第九に駆けつけた雪子は、すぐさま研究室の不穏な空気に気が付いた。この重い、じっとりとした空気は前にも感じたことがある。
 この空気の発信源はあそこだ。
 長方形のドアが、重苦しい空気のせいで歪んで見える。いや、実際にいくらか傾いでいる。誰かが思い切りドアを蹴り飛ばしたらしい。

 そうっと室長室のドアを開けてみる。
 その部屋だけ暖房が効いていないかのような、冷たい空気。その原因はもちろんこの部屋の主だ。
 書類の向こうから、亜麻色の冷たい目がぎろりと雪子を睨む。いつもなら雪子に対してだけは優しさと気遣いを含むはずのその瞳は、今日に限っては氷のようだ。
 これは……回れ右だ。

「三好先生、なんとかしてくださいよ」
「無理無理無理。あれはあたしじゃムリ」
「こないだはケーキでうまくいったじゃないですか。ケーキ買ってきましょうか」
「だから、こないだは怒ってたんじゃなかったんだってば」
 雪子は白衣の肩を両手で抱いて、ぶるっと身を震わせた。
「あんなメデューサ状態の薪くん、久しぶりに見たわ。だれかよっぽど凄いことやらかしたのね」
「誰も何もしてませんよ」
 第九の職員たちが、室長相手に何ができるというのだろう。頭も喧嘩も権力も、薪はここにいるだれよりも強いのだ。

「あたし、2,3日ここへは近寄らないから。がんばってね」
「三好先生! 見捨てないでくださいよ!」
 部下たちの必死の叫びを白衣の背中で聞いて、雪子は本当に研究室を出て行ってしまった。
「逃げた……」
「三好先生が逃げたよ」
 雪子が当てにならないとなれば、次点の策だ。第九のバリスタの出番である。
 
「青木、おまえ行って来いよ。得意のコーヒーで室長の機嫌直してくれよ。このままじゃ、おっかなくて仕事にならないよ」
 いくら薪が怖くてもめげずに話ができる図太い新人は、しかし何故か二の足を踏んでいるようだ。いつもと違う薪の様子に、尻込みしているのかもしれない。
 ガミガミと職員を怒鳴りつけているときの薪は、あれでいて機嫌はいいのだ。とてもそうは見えないが、付き合いの長い第九の職員にはそれが分かっている。
 むしろ、黙って室長室にこもってしまうときのほうが問題だ。人権擁護団体から第九にクレームが来たり、捜査一課とケンカになったり、週刊誌に第九の悪口を書かれたりしたときには、そうなることが多い。そんなときには青木のコーヒーも役に立つし、それなりの効果を発揮してきたのだが、今回の空気の淀み方は今までとは比べ物にならない。

「いや、今日はちょっと。もしかすると薪さんの機嫌が悪い原因、オレかもしれないんです」
「じゃあ余計におまえが行けよ! 責任取れ!」
 厳しいが、尤もな意見である。
 小池と曽我と今井の3人がかりで、室長室に押し込まれてしまう。下っ端の青木には、先輩の命令に背く権利は認められていない。
「室長、コーヒーです」
「いらん」
 地を這うような声だ。いつもの涼やかなアルトの声とは別人のようである。
 青木のほうを見ようともしない。一切のものを受け付けない、拒絶のオーラが薪を包んでいる。
 この中に入っていくのは、至難の業だ。普通の神経を持った人間にはまず無理だ。鋼のような精神力の持ち主でないと、薪の心に辿りつくまでにぼろぼろにされてしまうだろう。
 それでもなんとか自分を奮い立たせて、青木は話題を探した。

「南青山の放火事件の報告書、キャビネットに入れといたんですけど」
「見た」
 斧で断ち切るように、青木の言葉を遮る。そのあと言葉を継ぐのはとても勇気がいる。
「写真はあれでよろしかったですか」
「ああ」
 室長は、仮面のような無表情で書類に目を落とし、冷静に仕事を続けている。会話はしてくれているが、声には抑揚がない。まるで機械と話をしているみたいだ。
 もう、これは素直に謝ってしまうべきだ。下手に言い訳などしないほうがいい。
 
「あの、上着のことですけど」
「何の話だ」
 あの上着に薪が気付いているのは間違いない。しかし、知らないふりをするということは、弁明させてくれる気もないらしい。
「すみません、薪さんの気持ちも考えずに。やっぱり、気分悪いですよね」
 薪のほうに聞く気がなくても、不愉快な思いをさせてしまったのは事実なのだから、謝っておかなければ気が済まない。青木は誠意を込めて頭を下げた。

「何のことか解らない」
 室長は静かな口調を崩さない。
 しかし、その姿は怒鳴りまくっているときの室長より遥かに怖い。口うるさく部下のミスをあげつらうときの薪は確かに怖いのだが、そこには薪の方からこちらへ流れてくる何かがある。
 おまえはもっとできるはずだ、ここさえ気をつければもっとうまくいく、おまえの本当の力はこんなもんじゃないだろう―――― あれだけ辛辣に貶されているのに、そう励まされているような気分になるから薪の叱責は不思議だ。

 でも、今は違う。
 睨んでもくれない。怒ってもくれない。
 静かな拒絶だけがそこにはあって、見捨てられたような気分になる。

「用件はそれだけか? だったら出て行け」
 はい、と頷くしかなかった。
 青木は無駄になってしまったコーヒーの盆を持って、室長室を出た。
 ドアの側には青木を室長室に送り込んだ3人が、しゃがんだままの体勢で固まっている。中の会話を盗み聞きしていたらしい。申し訳なさそうに頭を下げる青木を責めるものは、今度はいなかった。

 こうなったら最終兵器だ。
「岡部さ~ん……」
「おまえらなあ」
 最後にはやっぱりここにくるのだ。
 薪が一番信頼しているのは、腹心の部下、岡部である。あの事件が起きた直後の昨年の夏、第九の氷河期をともに乗り越えてきたのだ。その絆はだれよりも強い。
 
「ったく、しょうがねえな。俺だってあの薪さんは苦手なんだぞ」
 ぶつぶつ言いながらも腰を上げる。
 三田村部長がいなくなったから、今度は警視総監とでもやりあったかな、と大方の予想をつけて、岡部は室長室のドアを開けた。
「室長。いい加減にしてくださいよ。連中、浮き足立ってますよ。あれじゃ仕事になりませ――」
 薪は室長席にいなかった。
 寝椅子にもいない。室長室のドアはひとつだけだから、どこへも行くはずがない。
「室長?」
 大して広くもない部屋をぐるりと見回してみる。と、寝椅子の影から細い腕が見えた。

「薪さん!」
 キャビネットの前の床に、薪は倒れていた。慌てて走りよって身を起こすと、ひどく体が熱い。呼吸も荒い。首に手を当てると、焼け付くようだ。
「……おかべ。なんか、うごけないんだ」
「大丈夫ですか? こりゃ、病院に行かなきゃダメですよ。おい、あお」
「青木は呼ぶな」
「は? しかし」
 岡部は副室長のような役割を持っているから、薪がいないときはその代役を務めなければならない。他のものたちはみな単独で事件を抱えている。
 青木はまだひとりで事件を任せられるほどの力量がないため、他の捜査官と一緒にいずれかの事件を捜査している。よって、突発的に第九を離れても、仕事に支障がないのは青木だけなのだ。その事情は、室長の薪が一番良く分かっているはずなのだが。

「あいつはいやだ」
 何があったのかは知らないが、室長命令では仕方がない。岡部は自分の仕事を中断して、薪を病院へ運ぶことにした。
「どうしたんですか!?」
「大丈夫ですか、室長」
「少し熱が高いんだ。病院に連れて行くから、おまえら後を頼んだぞ」
「岡部さん。岡部さんの案件の報告書、今日までですよね。俺が連れて行きましょうか。俺のは昨日のうちに提出しましたから」
「悪いな、今井。そうしてくれるか」
 今井の腕に薪の体を託し、岡部は自分の机に戻る。早く報告書を上げて、病院へ様子を見に行かねば。薪はいつも無理をしすぎるのだ。

「こないだは栄養失調で今度は発熱かよ。いい加減にして欲しいよ」
「そのくせ『健康管理は社会人の基本だ』とかって俺たちには言うんだよな」
「ひとにそういうこと言う前に、倒れるまで仕事するクセ、どうにかしろってんだよ」
「まったくだよ。どれだけ他人に迷惑かけたら気が済むんだか」
 室長のいなくなった研究室では、口々に薪の困ったクセを非難している。言葉はかなり厳しい。薪のこのクセには、みな本当に頭にきているのだ。

 辛辣な陰口が出尽くした後、帰りにみんなで薪の家に寄って『健康管理は社会人の基本ですよ』という皮肉を言ってやろう、ということに意見が一致した。常日頃から聞かされている室長の嫌味は、こんなときでもなければ返せない。
 オニのいぬ間の定時退室を目指して、第九のエリートたちは目を瞠る集中力で捜査に取り組み始めた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

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Kさまへ

すいません、Kさま。
ありがとうございました。さっそく訂正いたしました!

もう、Kさまはしづの推敲担当ということで、これからもよろしくお願いします(笑)

> この件で、またしづさんは脳内薪さんに嫌味を言われるのでしょうか………うらやましい…
> ビアガーデン(7)のコメレスで薪さんに蕩けるようなお言葉を頂いた私ですが、実を言うと、
>
> 口先だけの甘い言葉より、冷た~い目線付きの辛辣なお言葉の方が嬉しいです!

> しづさんのお話読むようになってから、味噌汁を粉末出汁で作る度に頭の中に薪さんが現れ、
> 「専業主婦なのに…手抜きが多い」
> と言って下さいます。ゾクゾク…(←心底M)

くはあ!
Kさん、真性のMですね!

じゃ、うちの脳内薪さんに、なんか言ってもらいますか。
ほら、薪さん。あんた、嫌味得意でしょ?
・・・・・・なんか、うちの薪さんの皮肉と嫌味は、男のひと限定みたいで、女の子には言えないそうです・・・・すいません。

> と、いうわけで、薪さんに虐められるのは嬉しくても薪さんが辛い目に会うのは耐えがたい私は、
> 皆さまに倣って「ラブレター」は完結してから読むつもりにしておりますが、
> …2週間ですか! 長い…禁断症状出そう…。

> あ、でも新盆ですものね。お忙しいんですよね。

はい。それもありまして。
さすがにお盆中は、何日かお休みをいただくことになるかと思います。
うちは小さい会社をやっていて、しかも田舎なので、同業者や近所の人たちで、70~80人くらいは足を運んでくださると思うんです。その接待がありますので。
大好きなお義父さんのために来てくれるのだから、こころを込めておもてなしをしたいと思います。

> 湿度の高い、嫌な暑さが続いておりますので、どうぞ体調を崩されたりなさいませんように。

ありがとうございます。
Kさまも、ご自愛くださいますよう。

> しづさんのお話からは、たとえどんな状況の場面であっても、常に大きな温かいものが感じられます。
> それは、しづさんがお義父様やお義母様やご主人様からあふれるほどの愛を受けておられるだけでなく、
> しづさんの方もそれらをちゃんと受け止めて返しておられるから、作品にも自然に表れてくるのだなぁと思いました。
> なんか、わかったようなこと書いてすみません。

すごくうれしいお言葉なのですが。
あの~~、ヘンタイ間宮の話とか、デートのイタグロとか、あんなん書いちゃってますけど・・・・・それはいいのか?愛情をいっぱい受け取っておいて、あんな・・・・・
M 『人間失格だな、おまえ』
ぬお!女の子には言えないって言ったくせに!わたしは女じゃないのか!!

> 私自身も義父や義母に可愛がられている自覚があり、夫の甘さはしづさんとこといい勝負のような気がします。
> でも、私は駄目なの。私はその上に胡坐をかいている!
> ……脳内薪さん、叱って下さい。

ほらほら、薪さん。
わたしに言ったことと、同じことを言えばいいんだよ。言ってみ。

M 『・・・・・・そんなことはないと思います。Kさんのコメを見ればわかります。あなたはとてもやさしい方だ。このコメだって、このバカに気を使って、鍵をつけてくださった。
そんなあなたがみんなに愛されるのは、当然のことです。そして、愛というのは、一方通行はありえない。双方向性でない愛は、決して長持ちはしないものなんです。
旦那さまがKさんに甘いのは、Kさんがちゃんと旦那さまに愛を返しているからですよ。
僕はそう思います』

・・・・・・語り始めちゃったよ・・・・・。
やっぱり、ダメみたいです(笑)
プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
おかげさまで8歳になりました(^^♪
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