ラブレター(20)
うちの設定って、本当に変わってるな、としみじみ思いました。
雪子さんと岡部さんが、異常にカッコよくていい役で、主役のふたりが性格破綻者とヘタレって。 いいんでしょうか、こんなん書いてて。
いや、書いてるほうは、すごく楽しいんですけど。(この展開を楽しいというのも、また問題が)
まあ、いいか。
自分が楽しけりゃ。(いや、ダメだろ、それじゃ)
ラブレター(20)
品川にある雪子のマンションは、築5年の新しいものだ。
立地条件と窓からの眺めが気に入って、売りに出されると同時に新規購入した。
女がマンションを購入するのは結婚を諦めた証拠だ、と助手の女の子に言われてしまったが、毎月の家賃を払うなら、経済的には同じことだ。だったら払い終わったときに現物が残った方が得ではないか。
もしも鈴木と結婚したにしても、しばらくはふたりで住みたいから、きっと彼がここに越してくることになったと思う。決して無駄にはならなかった筈だ。
今は、菅井の言った通りになってしまったが。
「入りなさい。お茶くらい、ご馳走してあげる」
雪子の腕力に恐れをなしたのか、みどりは逆らわずについてきた。
おそらく、みどりは雪子にも興味があるのだ。憧れていた男性の恋人だった女性。鈴木のことで聞きたいこともあるに違いない。
「突っ立ってないで座ったら」
「……どこへ?」
言われて雪子はあたりを見回した。
めちゃめちゃ汚い部屋である。
洋服が脱ぎ散らかされていて、床の色が見えない。何日掃除をしていないのか、埃があちこちに溜まっている。それに黒髪が絡まって、ものすごく見苦しい。部屋の隅に立てかけられた掃除機が活躍したのはいつだったか、雪子にも記憶がない。
「いつもはもう少し、きれいなんだけど」
「鈴木さんが、あなたといつまでも結婚しなかった理由がわかったわ」
無礼な娘だ。
雪子は台所へ行き、IHでお湯を沸かし始めた。電気ポットのお湯は、いつのものだかわからないから使えない。みどりは雪子と一緒にキッチンに来て、雪子の後ろに立った。
雪子は料理が大嫌いで、キッチンにはほとんど立ち入らないから、リビングよりはずっとマシだ。だいぶ埃は溜まっているが。
電子レンジの上に飾られている写真に目を留めて、みどりはそれを手に取った。
雪子と鈴木と薪の3人で、鈴木の家の別荘に行ったときの写真だ。全員半袖のシャツを着ているから、夏のことだ。
雪子が薪の後ろから細い肩に両手を載せて、その後ろからふたりをまとめて抱きしめるように、鈴木が長い腕を回している。
3人とも、全開の笑顔で写っている。明るい笑い声が聞こえてきそうな写真だった。
みどりは、食い入るように写真を見つめていた。
(鈴木さんが……鈴木さんだけが。あの頃のわたしに、こんな風に笑いかけて)
「やっぱり、許せない」
写真を見たことで怒りが甦ったのか、みどりは篭った声で呪いの言葉を吐いた。
「こんなに仲が良かったのに。どうして薪室長は、鈴木さんを殺したの?」
「仕方なかったの。薪くんの判断は正しかったわ」
「よくそんなふうに割り切れるわね。わたしにはできない。あのひとを恨まずにはいられない。あんなやつ、めちゃめちゃに壊してやりたい」
「鈴木くんの恋人だったあたしが薪くんのことを恨んでないのに、あんたにそんな権利があるわけないでしょ」
正論だと思ったのか、みどりは反駁してこなかった。
乱雑にものが押し込まれた戸棚から、F&Mのダージリンを手に取る。これは、雪子のお気に入りの銘柄だ。
「鈴木くんのご両親でさえ、なにも言わなかった。薪くんがどんな人間か、わかってるからよ」
薬缶から、カーカーという音がしてくる。紅茶は沸騰したお湯で淹れないと美味しくない。
「薪くんは、あたしの何倍も傷ついた」
使いっぱなしでシンクの中に置いてあった、紅茶のポットとカップを洗う。来客用のマイセンは、この前菅井が来たときに割ってしまったから、みどりには普段使っているもので我慢してもらおう。
「あのひとは、本当にズタボロになったの。あのプライドの高いひとが、人前でぼろぼろ泣いたり夢にうなされたり。食事も睡眠もまともに摂ることができなくて、骸骨みたいに痩せ衰えて。
あなたは、その薪くんを知らない」
それを知っているのは、雪子と岡部だけだ。青木も他の職員たちも知らない。
「昔はそうだったかもしれないけど、今のあのひとは、鈴木さんのことなんかこれぽっちも考えてない。あの青木って男と、楽しそうに笑って過ごしてるわ」
「そんなことない。いまだに薪くんは、夢にうなされて夜中に飛び起きる。彼、昼休みには、必ず昼寝してるでしょ。あれは慢性的な睡眠不足のせいよ」
「昼間眠いのは、夜中にあの男と睦みあってるからでしょ」
「あのふたりは、そんな関係じゃないってば」
今のところは、と心の中で付け加えて、雪子はため息をついた。
「あなただって、こうして写真なんか飾ってるけど、鈴木さんのことをどれだけ悼んでるっていうの?恋人を殺した男と楽しそうに話ができるなんて、わたしには信じられない」
薪の心痛をいくら説いても、みどりは頑なだ。
心の痛みは目に見えない。見えないものを信じるのは、人間の不得意分野だ。
監察医らしく短く切った爪の先が、ブラウスシャツの袖のボタンを外した。左袖が、肘まで捲り上げられる。
雪子は、夏でも白衣を着ている。その下には必ず長袖の服を着る。
その理由をこんな女に知られるのは屈辱だが、他人の気持ちを推し量ることのできない小娘には、必要な講義だ。
「大切なひとを亡くして、平気でいられる人間なんか、いるわけないでしょ。みんなそれを表に出さないだけよ」
雪子が差し出した左腕を見て、みどりの顔色が変わった。
何筋ものリストカットの痕。これは鈴木が雪子に遺した傷だ。
論より証拠だ。この娘も昔は警察官だったのだ。その精神は残っているはずだ。
「……あなたのことは信じる」
しばらく黙り込んだ後、みどりは低い声で言った。
「あなたが薪室長を信じる限りは、わたしも信じることにする」
みどりはひとつだけ、雪子の真実に気付いていた。
埃まみれの部屋の中で、この写真だけが塵ひとつ付いていなかった。おそらく雪子は、毎日この写真を手に取っているのだ。
「ごめんなさい。それ、他人に見られたくなかったでしょ」
みどりも女だ。その気持ちは解る。
間宮に近付くという目的のため、みどりは持って生まれた素顔を捨てた。
この顔になったときに味わったのは、異性からの賞賛と好意。同性からの微かな嫉妬。それはみどりにとって初めて味わう優越感だったが、反面、ひとの外見だけで態度を変える男たちが滑稽だと思った。
男という生き物に幻滅していたみどりだったが、それでも、この顔が作り物であることを、他人には知られたくない。
雪子たちには知られてしまったが、このひとたちは言いふらしたりしない。何故か、そう思える。
それは、あの場に居た人間のひとりとして、みどりの昔の顔を知ったときに、その態度を変えなかったからだろうか。みどりが覚悟していた軽蔑や哀れみの色は、どの顔にも浮かばなかった。
「ごめんなさい」
みどりがもう一度繰り返すと、雪子はニッと笑って、袖を元に戻した。不覚にも、みどりはその顔を美しいと思った。
「あなたが自分の秘密を見せてくれたから、わたしもひとつ白状する。薪室長は、わたしに指一本触れてない」
雪子に言っておけば、青木にも伝わるだろう。
別に、あのふたりがどうなろうと知ったことではないが、自分が薪と関係を持ったと雪子に思われるのもシャクだ。
「今日の昼、室長室でキスしてたって証言があるけど」
「あは。うまく行ったんだ。あの青木って男、ホントに単純ね。ノックの音が聞こえたから、眠ってる薪室長に口紅をつけただけ。それを見た誰かが、誤解すれば面白いと思って」
「やっぱりね。あの薪くんが、職場で昼間っからそんなことするはずないと思ったわよ。あっちのほうは本当にオクテなんだから。来たのが青木くん以外の人だったら、引っ掛からなかったかもね」
「あいつって、バカね」
「そうね。バカな男よね、ふたりとも」
雪子の言動に、みどりは軽いデジャビュを感じる。
「不器用でバカで。救いようがないわ」
面倒見きれないわよ、と言いながら、雪子の表情はとても楽しそうだ。昔、彼女の恋人が、親友のわがままをボヤきながら笑っていたときのように。
「さてと。ソファの上の服を退かせば、座るところができると思うんだけど。えーと、クッションはどこだったっけ」
雪子はリビングに戻り、ソファの上からドサドサと、服やぬいぐるみなどを床に落とした。綿埃がもうもうと舞い上がる。
「わっぷ! ゴホゴホッ!」
法一の女薪と恐れられ、仕事のできる女№1の称号に輝く雪子の情けないプライベートを見て、みどりは思わず苦笑した。
「お茶の前にお掃除ですね。わたし、お手伝いします」
雪子さんと岡部さんが、異常にカッコよくていい役で、主役のふたりが性格破綻者とヘタレって。 いいんでしょうか、こんなん書いてて。
いや、書いてるほうは、すごく楽しいんですけど。(この展開を楽しいというのも、また問題が)
まあ、いいか。
自分が楽しけりゃ。(いや、ダメだろ、それじゃ)
ラブレター(20)
品川にある雪子のマンションは、築5年の新しいものだ。
立地条件と窓からの眺めが気に入って、売りに出されると同時に新規購入した。
女がマンションを購入するのは結婚を諦めた証拠だ、と助手の女の子に言われてしまったが、毎月の家賃を払うなら、経済的には同じことだ。だったら払い終わったときに現物が残った方が得ではないか。
もしも鈴木と結婚したにしても、しばらくはふたりで住みたいから、きっと彼がここに越してくることになったと思う。決して無駄にはならなかった筈だ。
今は、菅井の言った通りになってしまったが。
「入りなさい。お茶くらい、ご馳走してあげる」
雪子の腕力に恐れをなしたのか、みどりは逆らわずについてきた。
おそらく、みどりは雪子にも興味があるのだ。憧れていた男性の恋人だった女性。鈴木のことで聞きたいこともあるに違いない。
「突っ立ってないで座ったら」
「……どこへ?」
言われて雪子はあたりを見回した。
めちゃめちゃ汚い部屋である。
洋服が脱ぎ散らかされていて、床の色が見えない。何日掃除をしていないのか、埃があちこちに溜まっている。それに黒髪が絡まって、ものすごく見苦しい。部屋の隅に立てかけられた掃除機が活躍したのはいつだったか、雪子にも記憶がない。
「いつもはもう少し、きれいなんだけど」
「鈴木さんが、あなたといつまでも結婚しなかった理由がわかったわ」
無礼な娘だ。
雪子は台所へ行き、IHでお湯を沸かし始めた。電気ポットのお湯は、いつのものだかわからないから使えない。みどりは雪子と一緒にキッチンに来て、雪子の後ろに立った。
雪子は料理が大嫌いで、キッチンにはほとんど立ち入らないから、リビングよりはずっとマシだ。だいぶ埃は溜まっているが。
電子レンジの上に飾られている写真に目を留めて、みどりはそれを手に取った。
雪子と鈴木と薪の3人で、鈴木の家の別荘に行ったときの写真だ。全員半袖のシャツを着ているから、夏のことだ。
雪子が薪の後ろから細い肩に両手を載せて、その後ろからふたりをまとめて抱きしめるように、鈴木が長い腕を回している。
3人とも、全開の笑顔で写っている。明るい笑い声が聞こえてきそうな写真だった。
みどりは、食い入るように写真を見つめていた。
(鈴木さんが……鈴木さんだけが。あの頃のわたしに、こんな風に笑いかけて)
「やっぱり、許せない」
写真を見たことで怒りが甦ったのか、みどりは篭った声で呪いの言葉を吐いた。
「こんなに仲が良かったのに。どうして薪室長は、鈴木さんを殺したの?」
「仕方なかったの。薪くんの判断は正しかったわ」
「よくそんなふうに割り切れるわね。わたしにはできない。あのひとを恨まずにはいられない。あんなやつ、めちゃめちゃに壊してやりたい」
「鈴木くんの恋人だったあたしが薪くんのことを恨んでないのに、あんたにそんな権利があるわけないでしょ」
正論だと思ったのか、みどりは反駁してこなかった。
乱雑にものが押し込まれた戸棚から、F&Mのダージリンを手に取る。これは、雪子のお気に入りの銘柄だ。
「鈴木くんのご両親でさえ、なにも言わなかった。薪くんがどんな人間か、わかってるからよ」
薬缶から、カーカーという音がしてくる。紅茶は沸騰したお湯で淹れないと美味しくない。
「薪くんは、あたしの何倍も傷ついた」
使いっぱなしでシンクの中に置いてあった、紅茶のポットとカップを洗う。来客用のマイセンは、この前菅井が来たときに割ってしまったから、みどりには普段使っているもので我慢してもらおう。
「あのひとは、本当にズタボロになったの。あのプライドの高いひとが、人前でぼろぼろ泣いたり夢にうなされたり。食事も睡眠もまともに摂ることができなくて、骸骨みたいに痩せ衰えて。
あなたは、その薪くんを知らない」
それを知っているのは、雪子と岡部だけだ。青木も他の職員たちも知らない。
「昔はそうだったかもしれないけど、今のあのひとは、鈴木さんのことなんかこれぽっちも考えてない。あの青木って男と、楽しそうに笑って過ごしてるわ」
「そんなことない。いまだに薪くんは、夢にうなされて夜中に飛び起きる。彼、昼休みには、必ず昼寝してるでしょ。あれは慢性的な睡眠不足のせいよ」
「昼間眠いのは、夜中にあの男と睦みあってるからでしょ」
「あのふたりは、そんな関係じゃないってば」
今のところは、と心の中で付け加えて、雪子はため息をついた。
「あなただって、こうして写真なんか飾ってるけど、鈴木さんのことをどれだけ悼んでるっていうの?恋人を殺した男と楽しそうに話ができるなんて、わたしには信じられない」
薪の心痛をいくら説いても、みどりは頑なだ。
心の痛みは目に見えない。見えないものを信じるのは、人間の不得意分野だ。
監察医らしく短く切った爪の先が、ブラウスシャツの袖のボタンを外した。左袖が、肘まで捲り上げられる。
雪子は、夏でも白衣を着ている。その下には必ず長袖の服を着る。
その理由をこんな女に知られるのは屈辱だが、他人の気持ちを推し量ることのできない小娘には、必要な講義だ。
「大切なひとを亡くして、平気でいられる人間なんか、いるわけないでしょ。みんなそれを表に出さないだけよ」
雪子が差し出した左腕を見て、みどりの顔色が変わった。
何筋ものリストカットの痕。これは鈴木が雪子に遺した傷だ。
論より証拠だ。この娘も昔は警察官だったのだ。その精神は残っているはずだ。
「……あなたのことは信じる」
しばらく黙り込んだ後、みどりは低い声で言った。
「あなたが薪室長を信じる限りは、わたしも信じることにする」
みどりはひとつだけ、雪子の真実に気付いていた。
埃まみれの部屋の中で、この写真だけが塵ひとつ付いていなかった。おそらく雪子は、毎日この写真を手に取っているのだ。
「ごめんなさい。それ、他人に見られたくなかったでしょ」
みどりも女だ。その気持ちは解る。
間宮に近付くという目的のため、みどりは持って生まれた素顔を捨てた。
この顔になったときに味わったのは、異性からの賞賛と好意。同性からの微かな嫉妬。それはみどりにとって初めて味わう優越感だったが、反面、ひとの外見だけで態度を変える男たちが滑稽だと思った。
男という生き物に幻滅していたみどりだったが、それでも、この顔が作り物であることを、他人には知られたくない。
雪子たちには知られてしまったが、このひとたちは言いふらしたりしない。何故か、そう思える。
それは、あの場に居た人間のひとりとして、みどりの昔の顔を知ったときに、その態度を変えなかったからだろうか。みどりが覚悟していた軽蔑や哀れみの色は、どの顔にも浮かばなかった。
「ごめんなさい」
みどりがもう一度繰り返すと、雪子はニッと笑って、袖を元に戻した。不覚にも、みどりはその顔を美しいと思った。
「あなたが自分の秘密を見せてくれたから、わたしもひとつ白状する。薪室長は、わたしに指一本触れてない」
雪子に言っておけば、青木にも伝わるだろう。
別に、あのふたりがどうなろうと知ったことではないが、自分が薪と関係を持ったと雪子に思われるのもシャクだ。
「今日の昼、室長室でキスしてたって証言があるけど」
「あは。うまく行ったんだ。あの青木って男、ホントに単純ね。ノックの音が聞こえたから、眠ってる薪室長に口紅をつけただけ。それを見た誰かが、誤解すれば面白いと思って」
「やっぱりね。あの薪くんが、職場で昼間っからそんなことするはずないと思ったわよ。あっちのほうは本当にオクテなんだから。来たのが青木くん以外の人だったら、引っ掛からなかったかもね」
「あいつって、バカね」
「そうね。バカな男よね、ふたりとも」
雪子の言動に、みどりは軽いデジャビュを感じる。
「不器用でバカで。救いようがないわ」
面倒見きれないわよ、と言いながら、雪子の表情はとても楽しそうだ。昔、彼女の恋人が、親友のわがままをボヤきながら笑っていたときのように。
「さてと。ソファの上の服を退かせば、座るところができると思うんだけど。えーと、クッションはどこだったっけ」
雪子はリビングに戻り、ソファの上からドサドサと、服やぬいぐるみなどを床に落とした。綿埃がもうもうと舞い上がる。
「わっぷ! ゴホゴホッ!」
法一の女薪と恐れられ、仕事のできる女№1の称号に輝く雪子の情けないプライベートを見て、みどりは思わず苦笑した。
「お茶の前にお掃除ですね。わたし、お手伝いします」