ジンクス(3)
ジンクス(3)
青木はこの頃、どうもおかしい。
仕事はきちんとこなしているのだが、心ここにあらずといった感じで、集中力を欠いているように思える。上がってくる報告書や書類にそれはまだ顕れてはいないが、フォローの必要性を室長は認識していた。
「8ヶ月、か」
「青木ですか?」
脈絡のない呟きに、岡部が応えを返す。少し驚くが、岡部との会話では珍しいことではない。端的な言葉から人の真意を汲み取る能力は、さすが捜一のもとエースだ。
「あいつ、このごろ少しヘンじゃないか?さっきもドアのところにボーっと突っ立ってたろ。疲れてるんじゃないのかな」
白いマグカップに顔を近づけて、薪はその香りに目を細める。
薪は夏でも、涼しい室内では熱いコーヒーを選ぶ。この香りはアイスでは楽しめない。好みはもちろんブラックコーヒーだ。胃には良くないのかも知れないが、砂糖やミルクはせっかくのコーヒーの味と香りを濁らせてしまう。
今日のコーヒーはキリマンジャロAA。
薪は食べることにはあまり興味がないが、コーヒーだけは好きで、よく飲んでいる。別に職場で飲むのだからインスタントでも文句は言わないが、数少ない室長の好物だからと部下のほうが気を使って、近くの珈琲問屋から焙煎したてのものを買ってきてくれる。その好意は素直に嬉しい。
「あのくらいの頃って、普通じゃ考え付かないようなミスをしてくれるんだよな。なんでそうなるんだ、ってカンジの。だから、大学出たての新人はあまり欲しくなかったんだ」
「まあ、誰もが通ってきた道ですから」
「そうそう。僕も警視庁で半年くらいの時にすごいポカやって、課長にえらい迷惑掛けた」
「何をやったんです?」
みんなには内緒だぞ、と前置きして、薪は過去の失敗を岡部にだけ打ち明けた。
「現場で押収した証拠品を失くしちゃったんだ。同じ日にあった別の事件の分とごっちゃになっちゃって、最後には見つかったんだけど、鑑識から預かったはずの証拠品が手元にないと分かったときのあの焦燥感って言ったら……いま思い出しても胃が痛くなる」
「室長でも、そんな時代がありましたか」
「あったさ。岡部は、そういうのなかったのか?」
秘密を共有する共犯者の笑顔で、岡部はそれに答えた。
「やりましたよ。それも室長みたいな、そんな可愛いもんじゃありませんよ。俺なんか」
岡部の失敗談に耳を傾けようとした薪の耳に、モニタールームからの叫び声が聞こえた。
『なにやってんだ、青木――――!!』
今井の声だ。
思わず室長室の2人は顔を見合わせる。穏やかな性格の今井が、こんな声を出すことは滅多にない。
「……やってくれたか?」
「そうらしいですね」
「はあ。聞きたくないな」
「そうもいかんでしょう」
ひょいと肩を竦めて、室長はモニタールームへと歩いていく。
その顔はいつもどおり冷静で、先刻の後ろ向きの台詞はただのポーズだったと分かる。部下のミスを拭うのは室長の仕事だ。薪はそれを自分の責務だと心得ている。
「どうした」
「あ、室長。その……」
モニターを見ると、画面が完全にバグっている。操作の途中でデータを破壊する何かを行ってしまったときに起こる現象だ。
「見事に消してくれたな。復旧にはどれくらいかかりそうだ?」
青くなってしまっている青木を横目に、いつもの少し皮肉な口調で室長が問う。
「システム自体はリスタートかければ済みますけど、元のデータのほうが」
「元データ? なんでだ? スパコンが破壊されたわけじゃあるまい」
言い渋る今井に、今度は岡部が尋ねる。
他の職員たちの表情からミスの大きさが予測される。嫌な予感がした。
青木はうつむいてしまって、何も言えないでいる。こういうときには下手に慰めないほうがいい。
「これは脳の画像じゃありません。CDです」
「CD? まさか」
「その、まさかです」
消してしまったデータの重要性に気付いた岡部は、思わず今井を怒鳴りつけた。
「なんでバックアップ取っておかないんだ、ばかやろう!」
「バックアップの最中に、青木が電源落としちゃったんですよ。MRIシステム専用の信号に切り替えしている途中で切れちゃったもんだから、情報流出防止の自動プログラムが働いて、メインシステムはおろかCDのハードにまでバグが回って……結局データがオシャカです」
MRIシステムにかけられる情報は極秘扱いのものが殆どで、その情報が外部に洩れないようにするために二重三重のガードが施されている。その機能のひとつに今井が言った情報流出防止プログラムがあり、セオリーから大きく外れた操作をした場合には自動的にこのプログラムが働くようになっている。
要はMRIシステムに詳しくない外部のものが簡単に情報を引き出せないようにするためのプログラムなのだが、このようなことも起こりうるとは。これだから新人は怖いのだ。
「なにやってんだ!」
怒りに青くなっている岡部に、室長の静かな声が聞こえた。
「岡部、もういい。データの控が厚生労働省に残っているはずだ。もう一度、取り寄せてもらえば済む話だ」
「いや、取り寄せるって、薪さん、これ」
「黙れ」
岡部がCD一枚のことで大騒ぎしているのには、もちろん理由がある。
現在捜査中の連続放火事件。
厚生労働省の官僚の自宅ばかりが、4件続けて被害に遭っている。明らかに厚生省に遺恨を持つものの仕業と考えられる。
これから被害に遭うかもしれない家宅の予測をつけるため、官僚の住所データがぜひとも欲しいところだが、お役所仕事はとにかく時間が掛かる。何枚もの書類を提出して何度も厚生省と警察庁を行ったり来たりして、ようやく情報を入手したときにはリストに載っている家は全部焼けてしまった後、と言う笑えない話になりかねない。
そこで、所長の田城を通じて、厚生省にいる三田村警務部長の同期から正規の手順を踏まずにリストを回して貰った。人の命が係っている以上、こんな方法でも取らざるを得ないこともある。
ところが、三田村は薪をひどく嫌っていて、このリストもさんざん嫌味を言われた挙句に渡してもらったのだ。それを誤って消してしまったのでもう一度ください、とはとても言えない。しかし、このリストがないとこの事件は捜査ができない。
青木はまだ新人で、室長の人間関係や確執には理解が及んでいないが、他の職員たちは警察庁の勤務自体が長いから、その辺のこともよく解っている。だからこんなに青くなっているのだ。
「青木、大丈夫だ。心配するな。システムの復旧をしておけ」
「すみません、室長」
申し訳なくて室長の顔が見られないらしく、青木はうつむいたまま低い声で謝罪した。
「気にするな。大したミスじゃない。みんな、仕事に戻れ」
落ち着いた声で部下の動揺を収めると、室長は研究室を出て行った。
その優美な後ろ姿には、苛立ちも焦燥も表れてはいない。いつもの通り、華奢ではあるが頼れる背中だ。
「青木。後で薪さんにもう一度よく謝っておけよ。なんたって」
「今井。もういい」
「岡部さん。でも」
「薪さんがいいと言うんだから、もういいんだ。さ、仕事仕事」
室長の意向を尊重して、岡部は新人捜査官の広い肩を元気付けるように叩いた。
青木はこの頃、どうもおかしい。
仕事はきちんとこなしているのだが、心ここにあらずといった感じで、集中力を欠いているように思える。上がってくる報告書や書類にそれはまだ顕れてはいないが、フォローの必要性を室長は認識していた。
「8ヶ月、か」
「青木ですか?」
脈絡のない呟きに、岡部が応えを返す。少し驚くが、岡部との会話では珍しいことではない。端的な言葉から人の真意を汲み取る能力は、さすが捜一のもとエースだ。
「あいつ、このごろ少しヘンじゃないか?さっきもドアのところにボーっと突っ立ってたろ。疲れてるんじゃないのかな」
白いマグカップに顔を近づけて、薪はその香りに目を細める。
薪は夏でも、涼しい室内では熱いコーヒーを選ぶ。この香りはアイスでは楽しめない。好みはもちろんブラックコーヒーだ。胃には良くないのかも知れないが、砂糖やミルクはせっかくのコーヒーの味と香りを濁らせてしまう。
今日のコーヒーはキリマンジャロAA。
薪は食べることにはあまり興味がないが、コーヒーだけは好きで、よく飲んでいる。別に職場で飲むのだからインスタントでも文句は言わないが、数少ない室長の好物だからと部下のほうが気を使って、近くの珈琲問屋から焙煎したてのものを買ってきてくれる。その好意は素直に嬉しい。
「あのくらいの頃って、普通じゃ考え付かないようなミスをしてくれるんだよな。なんでそうなるんだ、ってカンジの。だから、大学出たての新人はあまり欲しくなかったんだ」
「まあ、誰もが通ってきた道ですから」
「そうそう。僕も警視庁で半年くらいの時にすごいポカやって、課長にえらい迷惑掛けた」
「何をやったんです?」
みんなには内緒だぞ、と前置きして、薪は過去の失敗を岡部にだけ打ち明けた。
「現場で押収した証拠品を失くしちゃったんだ。同じ日にあった別の事件の分とごっちゃになっちゃって、最後には見つかったんだけど、鑑識から預かったはずの証拠品が手元にないと分かったときのあの焦燥感って言ったら……いま思い出しても胃が痛くなる」
「室長でも、そんな時代がありましたか」
「あったさ。岡部は、そういうのなかったのか?」
秘密を共有する共犯者の笑顔で、岡部はそれに答えた。
「やりましたよ。それも室長みたいな、そんな可愛いもんじゃありませんよ。俺なんか」
岡部の失敗談に耳を傾けようとした薪の耳に、モニタールームからの叫び声が聞こえた。
『なにやってんだ、青木――――!!』
今井の声だ。
思わず室長室の2人は顔を見合わせる。穏やかな性格の今井が、こんな声を出すことは滅多にない。
「……やってくれたか?」
「そうらしいですね」
「はあ。聞きたくないな」
「そうもいかんでしょう」
ひょいと肩を竦めて、室長はモニタールームへと歩いていく。
その顔はいつもどおり冷静で、先刻の後ろ向きの台詞はただのポーズだったと分かる。部下のミスを拭うのは室長の仕事だ。薪はそれを自分の責務だと心得ている。
「どうした」
「あ、室長。その……」
モニターを見ると、画面が完全にバグっている。操作の途中でデータを破壊する何かを行ってしまったときに起こる現象だ。
「見事に消してくれたな。復旧にはどれくらいかかりそうだ?」
青くなってしまっている青木を横目に、いつもの少し皮肉な口調で室長が問う。
「システム自体はリスタートかければ済みますけど、元のデータのほうが」
「元データ? なんでだ? スパコンが破壊されたわけじゃあるまい」
言い渋る今井に、今度は岡部が尋ねる。
他の職員たちの表情からミスの大きさが予測される。嫌な予感がした。
青木はうつむいてしまって、何も言えないでいる。こういうときには下手に慰めないほうがいい。
「これは脳の画像じゃありません。CDです」
「CD? まさか」
「その、まさかです」
消してしまったデータの重要性に気付いた岡部は、思わず今井を怒鳴りつけた。
「なんでバックアップ取っておかないんだ、ばかやろう!」
「バックアップの最中に、青木が電源落としちゃったんですよ。MRIシステム専用の信号に切り替えしている途中で切れちゃったもんだから、情報流出防止の自動プログラムが働いて、メインシステムはおろかCDのハードにまでバグが回って……結局データがオシャカです」
MRIシステムにかけられる情報は極秘扱いのものが殆どで、その情報が外部に洩れないようにするために二重三重のガードが施されている。その機能のひとつに今井が言った情報流出防止プログラムがあり、セオリーから大きく外れた操作をした場合には自動的にこのプログラムが働くようになっている。
要はMRIシステムに詳しくない外部のものが簡単に情報を引き出せないようにするためのプログラムなのだが、このようなことも起こりうるとは。これだから新人は怖いのだ。
「なにやってんだ!」
怒りに青くなっている岡部に、室長の静かな声が聞こえた。
「岡部、もういい。データの控が厚生労働省に残っているはずだ。もう一度、取り寄せてもらえば済む話だ」
「いや、取り寄せるって、薪さん、これ」
「黙れ」
岡部がCD一枚のことで大騒ぎしているのには、もちろん理由がある。
現在捜査中の連続放火事件。
厚生労働省の官僚の自宅ばかりが、4件続けて被害に遭っている。明らかに厚生省に遺恨を持つものの仕業と考えられる。
これから被害に遭うかもしれない家宅の予測をつけるため、官僚の住所データがぜひとも欲しいところだが、お役所仕事はとにかく時間が掛かる。何枚もの書類を提出して何度も厚生省と警察庁を行ったり来たりして、ようやく情報を入手したときにはリストに載っている家は全部焼けてしまった後、と言う笑えない話になりかねない。
そこで、所長の田城を通じて、厚生省にいる三田村警務部長の同期から正規の手順を踏まずにリストを回して貰った。人の命が係っている以上、こんな方法でも取らざるを得ないこともある。
ところが、三田村は薪をひどく嫌っていて、このリストもさんざん嫌味を言われた挙句に渡してもらったのだ。それを誤って消してしまったのでもう一度ください、とはとても言えない。しかし、このリストがないとこの事件は捜査ができない。
青木はまだ新人で、室長の人間関係や確執には理解が及んでいないが、他の職員たちは警察庁の勤務自体が長いから、その辺のこともよく解っている。だからこんなに青くなっているのだ。
「青木、大丈夫だ。心配するな。システムの復旧をしておけ」
「すみません、室長」
申し訳なくて室長の顔が見られないらしく、青木はうつむいたまま低い声で謝罪した。
「気にするな。大したミスじゃない。みんな、仕事に戻れ」
落ち着いた声で部下の動揺を収めると、室長は研究室を出て行った。
その優美な後ろ姿には、苛立ちも焦燥も表れてはいない。いつもの通り、華奢ではあるが頼れる背中だ。
「青木。後で薪さんにもう一度よく謝っておけよ。なんたって」
「今井。もういい」
「岡部さん。でも」
「薪さんがいいと言うんだから、もういいんだ。さ、仕事仕事」
室長の意向を尊重して、岡部は新人捜査官の広い肩を元気付けるように叩いた。