土曜の夜に花束を(3)
土曜の夜に花束を(3)
土曜日の夕方。
約束通り薪は、自宅で青木の来訪を待っていてくれた。予定の時間よりだいぶ早く着いてしまったのだが、ドアを開けて青木を迎え入れてくれた薪の身体からは石鹸のいい匂いがして、薪もそのつもりでいてくれたのだとわかった。
「夕飯、どうする?」
「薪さんは? おなか空いてます?」
「いや」
「オレもです。さすがに今日は喉を通りそうにありません。っていうか、早く薪さんが食べたいです」
青木が正直に言うと、薪は何故か困った顔をした。
「そのことなんだけど……まあ、ちょっと座れ」
リビングのソファを青木に勧めて、薪は隣に腰を下ろした。その困惑顔に青木は不安を覚える。
今になって、薪はなにを言い出すつもりだろう。今日という日を指折り数えて来たというのに、やっぱりあの約束はなかったことにしてくれとでも言われたら、青木は泣き出してしまうかもしれない。
「その……どうしてもしたいか?」
したい。腕の1本くらい引き換えにしてもいいから、したい。
どれほど夢に見てきたと思っているのだ。数字にしたら3桁を上回っている。寸止めされた回数も二桁に近い。その願いがやっと叶うと思ったのに―――ここで引き下がっていては今までと同じだ。恋人になると決めたのだから、この一線はなんとしても越えたい。
しかし。
「恋人ってそれだけが目的じゃないだろ。身体の関係なんかなくたって、今のままでも充分楽しいだろ?」
薪の不安そうな顔を見てしまっては、無理強いなどできない。とにかく、ぞっこん参っているのだ。薪の表情を曇らせる原因になどなりたくない。
「わかりました。薪さんが嫌なら」
「……泣くほどしたいのか」
顔に出てしまったらしい。
薪は両膝をソファの上で抱え込み、右の肩に首を倒して頬をつけた。困った顔になって、嫌そうに言葉を重ねる。
「おまえ、男とセックスしたことあるのか?」
「ないです。男の人を好きになったのは、薪さんが初めてですから」
「夢は夢のままにしておいたほうがいいぞ。僕の身体は普通の男の身体だぞ。おまえと同じモノついてんだぞ」
「知ってますよ。薪さんの裸は何度も見てますから」
その裸を見て、青木の男の部分がそういう状態になってしまったことも、薪は知っているはずだ。そのことを承知の上で、なおも薪は青木の決心を鈍らせようとその行為に辛辣な批評を加える。薪は往生際が悪い。
「男とのセックスなんか、そんなにいいもんじゃないぞ。男の体は固いし汚いし。女の子のほうがずっといいぞ。相手の何処に何を入れるか、知ってんのか?」
「それくらいは知ってます。オレ、何回も夢に見ました」
「夢っておまえ」
薪の身体が一瞬で1mほどバックした。
退いている。身体ごと青木から離れようとしている。
そういう夢の中で、自分がどんな役回りをさせられていたのか、察しがついたらしい。本当は夢だけではなく、毎晩のように青木の頭の中でその光景は繰り返されていたのだが。
「すみません」
「……どんなだった? その、夢の中の僕は」
「とってもきれいでした」
「それは夢だ。現実を見たら、絶対に幻滅するぞ」
そんなことはありえない。鈴木の脳の中に残っていた薪は、とてもきれいだった。
「幻滅なんかしません」
薪は大きなため息を吐くと、ソファの背もたれにどさりと寄りかかった。額に手を当ててしばらくの間考えを巡らせているようだったが、やがてぱっと立ち上がった。
「よし、僕も男だ。覚悟決めた」
開き直ったように、服を脱ぎ始める。
青木としてはもう少しムードが欲しいところだが、薪はもともとこういう性格だ。例え女の子が相手でもムードを大切にして、などという面倒なことはしない。それがかったるいから素人女は嫌いだ、と公言して憚らない男なのだ。
「男役はおまえがやれよ。僕はおまえのハダカ見ても勃たないから」
下着まで全部とって全裸になると、青木を指差して仕事の割り振りをするように役割を決める。しかもその理由が『勃たないから』ときた。
「早く来い。僕の気が変わらないうちに」
さっさと自分だけ寝室に入っていってしまう。こんな初夜があるだろうか。
鈴木さんとはきっと素敵な初夜を過ごしたんだろうな、と青木は心の隅で死人に嫉妬する。薪は鈴木のことが大好きだから、鈴木に初めて抱かれた夜は幸せそうに微笑んでいたはずだ。年もまだ20歳くらいだったというから、もっと初々しく恥ずかしそうに、可愛らしかったに違いない。
「いいなあ。鈴木さんは」
ふと、無意識のうちにサイドボードの上に何かを探して、青木の目が止まる。
写真がない。
白百合はきれいに咲いているが、その隣にいつも必ず飾ってあった鈴木の写真がない。
青木は、胸が熱くなる。
やっぱり薪は優しい人だ。鈴木のことは忘れられない、一生忘れる気はないと言いながらも、自分のために写真をしまってくれたのだ。
鈴木が薪にとってどんなに大切なひとか、青木は知っている。だからここまで強制する気はなかったのだが、正直に言うと寝室の写真だけは外しておいて欲しいと願っていた。それが家中の写真を片付けてくれたようで、こっそり見てみたローテーブルの引き出しの中にもアルバムはなかった。
薪はとても照れ屋だから、きっとあんな態度しか取れないのだ。仕事中の薪からはその片鱗も伺えなかったが、いくらかは今日の日を楽しみにしてくれていたに違いない。
「大急ぎでシャワー浴びますから、待っててくださいね」
寝室に声を掛けておいて、バスルームへ向かう。
青木の胸は早鐘のように打っていた。
土曜日の夕方。
約束通り薪は、自宅で青木の来訪を待っていてくれた。予定の時間よりだいぶ早く着いてしまったのだが、ドアを開けて青木を迎え入れてくれた薪の身体からは石鹸のいい匂いがして、薪もそのつもりでいてくれたのだとわかった。
「夕飯、どうする?」
「薪さんは? おなか空いてます?」
「いや」
「オレもです。さすがに今日は喉を通りそうにありません。っていうか、早く薪さんが食べたいです」
青木が正直に言うと、薪は何故か困った顔をした。
「そのことなんだけど……まあ、ちょっと座れ」
リビングのソファを青木に勧めて、薪は隣に腰を下ろした。その困惑顔に青木は不安を覚える。
今になって、薪はなにを言い出すつもりだろう。今日という日を指折り数えて来たというのに、やっぱりあの約束はなかったことにしてくれとでも言われたら、青木は泣き出してしまうかもしれない。
「その……どうしてもしたいか?」
したい。腕の1本くらい引き換えにしてもいいから、したい。
どれほど夢に見てきたと思っているのだ。数字にしたら3桁を上回っている。寸止めされた回数も二桁に近い。その願いがやっと叶うと思ったのに―――ここで引き下がっていては今までと同じだ。恋人になると決めたのだから、この一線はなんとしても越えたい。
しかし。
「恋人ってそれだけが目的じゃないだろ。身体の関係なんかなくたって、今のままでも充分楽しいだろ?」
薪の不安そうな顔を見てしまっては、無理強いなどできない。とにかく、ぞっこん参っているのだ。薪の表情を曇らせる原因になどなりたくない。
「わかりました。薪さんが嫌なら」
「……泣くほどしたいのか」
顔に出てしまったらしい。
薪は両膝をソファの上で抱え込み、右の肩に首を倒して頬をつけた。困った顔になって、嫌そうに言葉を重ねる。
「おまえ、男とセックスしたことあるのか?」
「ないです。男の人を好きになったのは、薪さんが初めてですから」
「夢は夢のままにしておいたほうがいいぞ。僕の身体は普通の男の身体だぞ。おまえと同じモノついてんだぞ」
「知ってますよ。薪さんの裸は何度も見てますから」
その裸を見て、青木の男の部分がそういう状態になってしまったことも、薪は知っているはずだ。そのことを承知の上で、なおも薪は青木の決心を鈍らせようとその行為に辛辣な批評を加える。薪は往生際が悪い。
「男とのセックスなんか、そんなにいいもんじゃないぞ。男の体は固いし汚いし。女の子のほうがずっといいぞ。相手の何処に何を入れるか、知ってんのか?」
「それくらいは知ってます。オレ、何回も夢に見ました」
「夢っておまえ」
薪の身体が一瞬で1mほどバックした。
退いている。身体ごと青木から離れようとしている。
そういう夢の中で、自分がどんな役回りをさせられていたのか、察しがついたらしい。本当は夢だけではなく、毎晩のように青木の頭の中でその光景は繰り返されていたのだが。
「すみません」
「……どんなだった? その、夢の中の僕は」
「とってもきれいでした」
「それは夢だ。現実を見たら、絶対に幻滅するぞ」
そんなことはありえない。鈴木の脳の中に残っていた薪は、とてもきれいだった。
「幻滅なんかしません」
薪は大きなため息を吐くと、ソファの背もたれにどさりと寄りかかった。額に手を当ててしばらくの間考えを巡らせているようだったが、やがてぱっと立ち上がった。
「よし、僕も男だ。覚悟決めた」
開き直ったように、服を脱ぎ始める。
青木としてはもう少しムードが欲しいところだが、薪はもともとこういう性格だ。例え女の子が相手でもムードを大切にして、などという面倒なことはしない。それがかったるいから素人女は嫌いだ、と公言して憚らない男なのだ。
「男役はおまえがやれよ。僕はおまえのハダカ見ても勃たないから」
下着まで全部とって全裸になると、青木を指差して仕事の割り振りをするように役割を決める。しかもその理由が『勃たないから』ときた。
「早く来い。僕の気が変わらないうちに」
さっさと自分だけ寝室に入っていってしまう。こんな初夜があるだろうか。
鈴木さんとはきっと素敵な初夜を過ごしたんだろうな、と青木は心の隅で死人に嫉妬する。薪は鈴木のことが大好きだから、鈴木に初めて抱かれた夜は幸せそうに微笑んでいたはずだ。年もまだ20歳くらいだったというから、もっと初々しく恥ずかしそうに、可愛らしかったに違いない。
「いいなあ。鈴木さんは」
ふと、無意識のうちにサイドボードの上に何かを探して、青木の目が止まる。
写真がない。
白百合はきれいに咲いているが、その隣にいつも必ず飾ってあった鈴木の写真がない。
青木は、胸が熱くなる。
やっぱり薪は優しい人だ。鈴木のことは忘れられない、一生忘れる気はないと言いながらも、自分のために写真をしまってくれたのだ。
鈴木が薪にとってどんなに大切なひとか、青木は知っている。だからここまで強制する気はなかったのだが、正直に言うと寝室の写真だけは外しておいて欲しいと願っていた。それが家中の写真を片付けてくれたようで、こっそり見てみたローテーブルの引き出しの中にもアルバムはなかった。
薪はとても照れ屋だから、きっとあんな態度しか取れないのだ。仕事中の薪からはその片鱗も伺えなかったが、いくらかは今日の日を楽しみにしてくれていたに違いない。
「大急ぎでシャワー浴びますから、待っててくださいね」
寝室に声を掛けておいて、バスルームへ向かう。
青木の胸は早鐘のように打っていた。