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 2年目の冬。
 喧嘩別れの夜、青木は行為の途中でベッドを飛び出した。それは賢明な彼らしからぬ愚挙だったが、様々な鬱屈を抱えた末の感情の爆発でもあった。

 雪子やその友人の協力で薪とは元の鞘に収まったが、青木には大きな変化があった。青木にしてみればこの些細なケンカは、(驚くなかれ、こんなケンカは彼らには日常茶飯なのだ)今までの思い上がった自分の姿に気付き、気持ちを新たに薪のことを愛していこうと決めた大事なエポックだった。

 自分はどうして薪の恋人になりたかったのか。何を目的として、彼の側にいたいと願ったのか。その原点に、立ち返ることができた。
 目標を定めることは、とても大切だ。それが明確な人間の行動は、実に合理的でかつ緻密なものだ。目的のためにあらゆる手段を講じ、最終的には最も短いルートでその目的に辿り着くことができる。
 目的のために、自分の心も身体もカスタマイズする。現在の青木は、それを実行している。

 彼の目的はひとつ。
 薪が笑ってくれること。

 だから、彼が望まないことはしないことに決めた。セックスも、薪が欲しがらないときにはしない。薪の異常な薄さから、その機会が半年に1ぺんしか訪れなかったとしても、彼が喜ばないことはしない。
 薪が笑ってくれるように、楽しい夜を過ごしてくれるように、自分といるときは心から安らげるように。何の不安も不満も抱かせたくない、その秀麗な眉を曇らせたくない。
 
「薪さん。今夜のDVD、どっちにします?」
 右手に推理ドラマ、左手に動物の感動ストーリーを持って、青木は快活に声をかけた。ソファに座ったまま、薪は黙ってコーヒーを飲んでいる。どちらの物語にも、食指が動かないようだ。それならば。
「そうだ、明日の日曜日は久しぶりに遠出しましょうか? T県の動物園はどうです? それとも、N県の牧場なんか」
 動物系のテーマパークと聞けば100%の確率で輝くはずの亜麻色の瞳は、その夜に限っては喜びを湛えず、「うん」と頷いたものの睫毛は下方に伏せられたまま。
 コーヒーを飲み終えて「風呂に入る」と言う薪に、「わかりました」と応じて、青木は帰り支度を始める。コートを手に取った青木に、薪の意外そうな声が掛かった。

「帰るのか?」
「明日は早いですからね」
「……なんで」
「今言ったでしょう? 明日は薪さんの好きな牧場ですよ。お弁当、よろしくお願いしますね」
 薪はとても複雑な表情で、青木を見た。困ったような怒ったような、哀しいようなほっとしたような、その中のどれとも断定できない表情。

 さあ、ここでチャレンジだ。
 先日、青木は誓った。薪に関して、自分はエキスパートになると。彼のどんな微細なこころの動きも読み取れるようになってみせると決めたのだ。

 青木の帰宅を咎めるような言い方をしている、つまり薪は青木がここに留まることを望んでいる。じゃあ、今からレンタカーの手配をネットでして、着替えを自宅から取ってきて薪の家に泊まることにしようか。
 青木がそう提案すると、薪はますます困った顔になった。……外したらしい。

 なんだろう、薪は何をどうしたいんだろう。やっぱりこのひとの考えてることは、よくわからない。
 長い沈黙の後、薪は小さな声で言った。

「…………今日は、土曜日だけど」
「はい」
「約束だったろ。土曜日は、その」
 それは2年も昔の決め事で。
 付き合いだした当初、薪のからだの負担を慮って、恋人としての夜を過ごすのは休前日の夜だけと限定した。薪はそのことを言っているのだろうが、翌日の予定が入っているときは当然のように、延期または中止になってきた。青木にとっては悲しいことだが、あまりセックスが好きではない薪はムリにでも予定を入れて、土曜日の就寝時間を早めようとしていたのも事実だ。
 そんな薪が自分からそのことを言い出すなんて、どうやら気を使ってくれているらしい。前回の派手なケンカの功名か。

「いいんですよ。これまで無理強いしてすみませんでした。薪さん、あんまり好きじゃないのに。もう、強制はしませんから。あ、誤解しないでくださいね、浮気とかじゃないですよ」
 このところ、ずっと薪の身体に触れていないから、また余計な気を回しているのかもしれない。このひとは高慢ちきなくせに意外としおらしい一面があって、青木が他の女性と過ごしたほうが楽しいのではないかと考えているらしいのだ。
「オレ、薪さんに喜んで欲しいんです。だから、あなたが嫌がることはしないようにしようと思ったんです」
 青木は正直に告白した。望まない情事に神経をすり減らすこともなくなって、薪も喜んでくれるだろうと思った。
 ところが。

 薪はつかつかと青木の方へ寄って来ると、青木の手からコートをひったくり、床に叩きつけた。乱暴な所作にびっくりしていると、大きな目をさらに大きくして、
「おまえなんか、大っきらいだっ!!」
 ………。
「もうおまえとは別れるっ、絶対に別れる! おまえみたいに勝手なやつと付き合ってられるか!」

 なんでっ!?
 わけがわからない。今の台詞の何が薪を怒らせたのか。
 薪が望むように、楽しい気分で過ごせるようにと自分なりに考えた末、我慢に我慢を重ねていたのに、その努力の結果がこれ?!

「おまえの言い分は、自分の気持ちばっかりじゃないか。僕の気持ち、考えたことあるのか」
 考えてますよ、いつだって。今だってフル回転してますよ。
「セックスが嫌だなんて言ってないだろ!」
 いや、言ってます。『お願いします』って言ったら100%『いやだ』って返ってきます。それともあれはオレの聞き間違いだとでも?

 反論は心の中だけに押し留めて、青木は言葉を選ぶ。あからさまに反駁すると、立場を失くした薪は暴力に訴えてくるからだ。空手2段の薪の蹴りは、とても痛い。
「でも、薪さんがあまりお好きじゃないのは事実でしょう? だから、オレはその負担を減らしたいって」
「ああ、好きじゃない。僕はセックスは女の子とじゃないと感じないんだ。男の身体なんか気持ち悪い。それなのに、どうしておまえとこんなことしてると思ってんだ」
「それは薪さんがやさしいから。オレが頼むから、仕方なく」
「そんな理由しか思いつかないのか? バカじゃないのか、おまえ」
 って、薪さんがいつも言ってるセリフじゃないですか。僕の忍耐に感謝しろ、とか終わったあと平気な顔で言いますよね? オレ、あれにはけっこう傷ついて。

「僕だっておまえのこと喜ばせたいって、なんでわかんないんだよ!」
「……わかりませんよっっ!! 」
 怒鳴り返して、抱きしめた。
 あなたの態度のどこに、そんな可愛らしい気持ちが隠れてるって、神さまにだってわかりゃしませんよ!!

「解れよ、バカ!」
 オレがバカなんですか? あなたの隠し方が完璧過ぎなんじゃなくて?
 
 身体の自由を奪われて自分と青木の力の差を認識させられた薪は、ますます怒って声のトーンを一段階上げる。仕事中とは種類の違う彼の甘えを含んだ怒号に、青木の中で重石を乗せられていた感覚がウズウズと動き出す。
「言ってくれなきゃ、わかりませんよ」
 青木の胸を押し返そうとする小さな手を無視して更に強く抱きしめれば、薪はバツが悪そうに横を向き、目の縁を朱く染めると、男がそんなこと言えるか、と口の中で呟いた。つややかなくちびるを尖らせて、拗ねたように恥らうように、躊躇いつつも青木の背中に回された彼の腕を感じれば、言葉よりも雄弁にかれの気持ちは伝わってきて。

 このひとは本当に、自分の手には負えない。ヒネクレ者で嘘つきで小憎らしくて生意気で、そのくせ……ああもう、なんでこんなにかわいいんだ!

 青木は背中を丸めて薪の首筋に顔を埋めると、有無を言わさず強く吸い上げた。シャツの裾を荒々しく捲り上げ、細いウエストから胸へと伸び上がる滑らかな曲線を露わにする。
「ちょっ、待て! 落ち着けったら、こら!」
 乱暴にするつもりはなくても、一気に爆発した感情が身体を突き動かすと、男はこんな風になりがちだ。もともと青木は野性味の少ない男だったはずだが、薪と付き合うようになってから、激情のままに動く獣のような雄が自分の中にいることを知った。利己的で身勝手で嫉妬深く、人間としてあるべき姿の対極を具現化したかのようなそれは、ただひとつの点において人としての規範を保っていた。

 薪を愛している。
 理性よりもやさしさよりも思いやりよりも、彼の愛情が一番強い。

 青木の指先は腹から上を目指して、目的のものを探り当てる。親指と人差し指でその小さな突起を弄る。薪はふっと息を詰め、背中の筋肉を固くした。最初の頃に比べると薪のそれは大きさを増して、感度も良くなってきている。平均よりは遅いかもしれないが、薪だってちゃんと成長しているのだ。
 床に膝をつき、薪の胸にくちびるを付けようとした青木を、薪は押し返すような仕草で拒否する。風呂が先だ、と怒ったように言うが、今の青木を支配している衝動はそれくらいで引きさがれるほど聞き分けの良い優等生ではない。
 色気のないジーパンに包まれた尻をさすり、後ろから足の間に手を入れる。手のひらに当たる部分をやんわりと揉み、彼の抵抗を封じる。ここを揉まれたら、男は力が抜けてしまうものだ。

 左手でその所作を続けながら、右手でジーパンのボタンを外そうとした青木の手を、細い手がピシリと叩いた。
「ダメだって、風呂が先だろ! キタナイ!」
 ……薪には効かないのか。さすがというか何と言うか、とことん色事に向かない人だ。が、このくらいでテンションを下げていたら、薪の恋人は務まらない。

「じゃ、一緒に入りましょ」
 無理矢理にでも奪ってしまえ、と吼える獣を理性で抑えて、青木は立ち上がる。決して目の前のご馳走を諦めたわけではなく、いわば狡猾な駆け引きだ。獣は獣のやり方で、理性は理性の方法で、薪が欲しいことに変わりはない。

 少し迷って、薪は妙に真面目な顔つきでコクリと頷いた。頬を赤くして睫毛を伏せて、それは彼が湿潤状態の密室で、これから何が行われるか予想している証拠。
 駆け引き成功だ。
 俯いてしまった薪の手を引いて、青木はサニタリーのドアを開いた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

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Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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