ハプニング(6)「青木、ちょっと来い」
名前を呼ばれて、彼は机の上を拭く手を止めた。声のした方を振り向くと、大きな背中が部屋の隅っこで何かしている。資料用キャビネットの整理をしているらしい。手伝え、という意味だろうと思ってそこに駆け寄った彼は、大きな目を細めて呆れ果てた声を出した。
「なんですか、これ」
半開きになった亜麻色の瞳がかろうじて映しているのは、キャビネットの一番上の棚に置かれた一対の榊と、小皿に盛られた塩と米。
「見れば解るだろ。神棚だ」
こともなげに答えて長身の男は、薄い和紙に包まれた四合瓶をお神酒に捧げ、パンパンと拍手を打つ。
「あの、薪さん。これは一体……」
「あんまり大っぴらに飾るわけにもいかないだろ? だから中身の整理をして、キャビネットの中にスペースを作ったんだ。元に戻れるように、これから毎日拝めよ」
資料を探すのは新人の仕事だから、この扉を開けるのはこれを設置した本人だけ、とそれは納得のいく場所のチョイスだったが、彼が聞きたいのはそういうことではない。
「元に戻れるようにって、まさか、本気でMRIの神さまが、オレたちを入れ替えたと思ってるんですか?」
「今のところ、それ以外の理由が思いつかない」
美貌の青年は何事か言いかけたが、すぐに細い首を振って諦めたように息を吐き、再度上方を見上げた。小柄な彼がそれを見るには、首を思い切り反らせる必要があった。
「……なんでご神体が鈴木さんの写真なんですか?」
ヘンに抑揚のない調子で質問を投げた彼に、長身の男は平然と答える。
「第九の神様的存在って言ったら、鈴木しかいないだろう?」
「神さまなんだ……勝てないわけだ……」
意味不明の呟きを洩らすと、青年は投げやりに小さな手を2回打ち鳴らした。青年が神棚に向かってお辞儀を終えたのを確認して、大柄な男はキャビネットを閉じ、鍵を掛けた。
それから時計を確認して、青年に室長室へ行くよう指示をする。そろそろ職員たちが出勤してくる頃だ。ここで一緒に掃除をしていたら、みなにおかしく思われる。
「おはようございます!」
朝の掃除をしているところに入ってきた小池に、陽気に挨拶をする。入れ替わって3日目、部下相手の敬語にもやっと慣れてきた。
「おはよう。おまえはいつも元気でいいなあ。悩みとかないんだろ」
「失礼な。ありますよ、オレだって悩みくらい。今日の昼メシ、何にしようかなあとか」
「ははっ、青木らしい」
ざっとこんなもんだ。だれも中身が薪だとは気付くまい。
青木一行という自分とは正反対のキャラクターを演じながら、薪はこの状況を密かに楽しんでいる自分を見つける。
不謹慎だが、これは正直な気持ちだ。というのも、青木の身体は思ったよりずっと快適なのだ。
まず、身長が高いから周りの人間を見下ろすことができる。常に他人のつむじが見えるという優越感を、薪は生まれて初めて味わった。中々に気分がいい。
更にうれしいのは、セクハラの被害を心配しなくていいということだ。電車に乗っても痴漢に遭わないし、間宮の姿を見かけても遠回りしなくて済む。第九の連中の人使いの荒さは室長命令で減少しているし、キライな会議には出なくていいし。いいこと尽くめだ。
薪の楽天的な心境には、理由がある。
不安の要素は多々あるが、どうせこれは一時的なものに過ぎないと薪は踏んでいる。科学的に説明が付かないことは、長続きしないものだ。長期的かつ多発的な現象なら、とっくに学説が確立されているはずだ。それがないということは、研究に足るほどの期間、この珍現象は続かないということだ。
長くても1週間と言ったところだろう。だったら、楽しんだほうが得だ。
引き換え、青木の方は大変らしい。
謙虚さが身に染み付いている青木は、どうしても部下である職員たちに上司らしく振舞うことができない。部下なんか家畜と一緒だ、とまで言い切る薪の暴君振りを模倣することはおろか、タメ口さえあやしい。
おかげで薪は大忙しだ。
『さん』付けで呼ばれて青ざめていた宇野には、「薪さんが新しい嫌がらせを開発したみたいですね」と嘘を吐き、付箋が付いた報告書を「お願いします」と渡されて卒倒しそうになっていた曽我には、「嫌味な言い方ですねえ」とフォローを入れておいた。それで部下たちに納得されてしまう自分の上司像が少々、いやかなり腑に落ちなかったが、事態が発覚するよりはマシだ。本当は岡部にだけは事情を話そうと思っていたのだが、なんかもう、今更言えないって感じだ。
日中、ふたりは特捜にかこつけて第四モニター室に篭り、画の確認のほうは青木に任せ、薪は上がってきた報告書の精査をする。指摘箇所に付箋をつけ、青木に持っていかせる。これで第九のほうは何とかなる。問題は部署外の仕事だ。
薪がフォローできるのは、あくまで室長と部下が行動を共にできる範囲だ。室長のみが参加を許された会合や、人権擁護団体役員相手の接待等には同席できない。青木からトラブルの報告は受けていないが、自分の目の届かない所はどうも心配だ。
「薪さん、新しい方法を見つけたんですけど」
第四モニター室で薪が買って来た昼食を摂りながら、青木が言う。この3日で、このセリフを聞くのは何度目だろう。
「雷に打たれて入れ替わった話があるみたいです」
「……却下」
「滝つぼに落ちたら、元に戻ったって話も」
「意識が戻らない確率の方が高くないか?」
無謀な提案を打ち捨てるように没ると、青木は主に叱られた子犬のようにうなだれた。青木の気持ちは分からなくはない。早く元に戻りたいのだ。青木の生活は快適だ。薪の生活よりずっと楽しい。
「薪さんの方は、何か収穫ありましたか?」
「うん。調べてはいるけど。おまえの案と似たようなもんだ」
そうですか、とため息を吐いて箸をしまう。弁当の中身は半分も減っていない。
「青木、それ残すのか? 食っていいか?」
「あ、どうぞ」
とにかく、この身体は腹が減る。自分でもびっくりするくらいたくさん食べられるのだ。この身体でいるうちに山水亭に行って、フルコースを食べ切ることができたら、一生の思い出になるに違いない。
「おまえの身体って快適だな。食事は旨いし、夜はよく眠れて。思いっきり仕事しても疲れないし」
楽しそうに食事をする薪とは対照的に、青木は深いため息を吐くと、モニター室を出て行った。程なく、2人分のコーヒーを持って帰ってくる。薪の姿で頻繁にコーヒーを淹れていたら怪しまれるから、研究室に職員がいないこの時間帯だけが青木のコーヒーを飲めるチャンスなのだ。
「お、サンキュ。う~ん、いい香りだ」
鼻孔をつくコーヒーの香は、自分が淹れたものとはまるで違う。魂を揺さぶるような、深みのある馨だ。
「そうだ、後でコーヒーの淹れ方教えてくれ。これさえマスターすれば、僕は完璧な青木一行だ。いっそのこと、このまま青木一行として人生やり直そうかな」
薪がおどけると青木は微笑して、「薪さんは」と言った。気楽でいいですね、と言われるのかと思ったが、青木はそんな嫌味は言わなかった。
「薪さんは、本当に大変な毎日を送ってらしたんですね」
青木は自分のコーヒーカップを机の上に置き、軽く握った手を右目の下に添えた。それは彼がいつもしている眼鏡を押し上げる動作だったが、曲げた中指に触るものはなく、そのことに気付いて青木は苦笑した。
「オレはずっとあなたを見てきたつもりでした。だけど、全然わかっていなかった。仕事量が多いのは覚悟してましたけど、何よりも針の筵みたいな他部署との会議や擁護団体との会合や……あなたの偉大さを改めて知りました」
湯気で曇るレンズの向こうに見える彼は、打ちひしがれて弱りきっていて、この入れ替わり生活にほとほと嫌気が差しているようだった。無理もない、青木は元々、他人と諍うことが苦手な平和主義者だ。面と向かって非難されることには慣れていない。その心痛は、察して余りある。
しかし青木は、ぱあっと太陽みたいに笑って、
「もしかしたら、これは神さまが薪さんに与えてくださった休暇なのかもしれません。オレなんかの身体で申し訳ないですけど、あなたが少しでも楽しい思いをしてくださってるなら、オレ、このままがんばりますから」
もう何年もこんなふうに笑ったことのない自分の笑顔を見るのはとても違和感があって、薪の胸がざわざわと騒ぐのはそのせいだ。青木のこういうところに僕は心底参ってる、とか今更思ってるわけじゃない。
思ってるわけじゃないけど……本当に、こいつにはかなわない。
「そうだな。神さまってのは、ちゃんといるのかもしれないな。この健康で大きな身体は、そのご褒美ってわけだ」
「ええ。きっと薪さんの頑張りを見て」
バカ、神さまにご褒美をもらってるのはおまえの方だ。僕のひねこびた性格には、チンケで貧弱な身体がお似合いってことだ。
きれいで真っ直ぐな青木。その伸びやかな魂。その器に、矮小な肉体は相応しくない。
「もう一度、試してみようか」
「はい?」
「モニタールームで、おまえの席で。なんか、今なら戻れそうな気がする」
急な話の展開についていけず、きょとんとする青木の腕を引いて立ち上がらせ、モニタールームに向かう。昼休みで誰もいない職務室で、ふたりはあの夜の体勢を取る。
「マットの用意がありませんけど」
「試すのは1回だけだ。ちゃんと受身取れよ」
「オレの身体、反応してないけど平気ですかね」
「それは関係ないだろ。いくぞ」
左足で床を蹴って、椅子ごと右側に倒れる。ガシャン!という大きな音がして、リノリウムの床が振動した。
「て、痛って……やっぱ、マットが無いときつい」
「そうですね」
薪は痛めた右肩をさすりながら、上体を起こした。同じように左足を擦っている相手を見る。薪の視線に気付くと、青木は少しだけ困ったように笑った。
「痛み損でしたね」
「そうだな」
気持ちの問題ではないらしい。
衝撃、タイミング、元の身体に戻ろうとする強い意志。そんなものとは関わりの無いところで、このハプニングは起きたということだろうか?
認めたくはないが、人智を越えた何かが関与しているとなると、じたばたしてもムダ、ということになるが。
「手の出しようが無いか」
神棚を設えてみたりしたけれど、薪は基本的に神の存在など認めてはいない。あれは、何というかシャレ的なもので、だって青木があんまり不安そうだったから。何かしら拠り所を作ってやろうと思って。
「自然に任せるしかないかもしれないな」
薪がため息混じりに呟くと、青木は神妙な顔つきになり、はい、と頷いた。
テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学