ハプニング(16)

ハプニング(16)




 再び夢の中に戻って、薪は先刻と同じ場所に立っている。眠ったら、ここに来ることは分かっていた。悪夢とはそういうものだ。
 
 目覚める直前の光景は、既にそこには無かった。床の血溜りはきれいに拭かれ、雪子の死体は消え失せて、そうしてみればごくごく普通の、どこの家にもある風景だ。時間が来れば家族が集まってきて一緒に食事を摂る、当たり前で普遍的なコミュニケーションの発祥地。
 じっくりと観察すれば、食器棚にある子供用の食器や、夫婦揃いの茶碗や湯飲みが置いてある。電子レンジの横には炊飯器と電気ポット、そのいずれにもアニメのシールが貼られていて、両親はどうやら末の娘に甘いらしい。

「おかえり」
 声を掛けられて、薪は振り向く。別に驚いてはいない。予測していたことだ。
「まだなんか用か」
 ダイニングの椅子を引いて、薪はどっかりと腰を落ち着けた。長い黒髪の美しい女性を、ギッと睨み据える。
 弱みなんか見せない、引く気もない。さっきは不覚を取ったが、今度は負けない。自分で作り出した虚像の戯言なんかに惑わされてたまるか。

「ケンカなら買ってやるぞ」
 薪の強気な態度に怯んだか、冴子は苦笑して肩を竦めた。その仕草は彼女の肢体を包むフェミニンなワンピースとの相乗効果で、彼女を可憐に見せた。
 彼女は、整形を受ける前の顔に戻っていた。どこにもメスを入れる必要なんかない、かなりの美人だ。きれいな額と、美しい眉をしている。目はいくらか垂れて、長い睫毛と潤んだような瞳が印象的だ。鼻筋は細く通り、長卵形の輪郭から受ける儚い印象を崩さずに、奥ゆかしく顔の中心に収まっている。唇は小さく、ぽってりとした朱色。

「それ、なあに?」
 彼女が目で示したのは、薪の右手に握られたままの研究書だった。そのつもりは無かったが、持ってきてしまったらしい。
「何が書いてあるの?」
「おまえには関係ない」
「見せて」
「いやだ」
 冴子はすうっと空を滑ってきて薪の傍らに立つと、手を使わずに薪の右手から薄いノートを奪った。

「返せ!」
「いいじゃない。ちょっと貸してよ」
 冴子は薪の手を逃れて、天井へ逃げた。後を追いかけようとして、薪は自分の体が浮き上がらないことに驚いた。冴子は飛べるのに、自分はダメなのか。ここは自分の夢なのだから、自分に有利な設定になってもいいのに。

「降りてこい、卑怯者!」
「えーっと、なになに? 『今日、誰よりも早く事件の鍵になる画を見つけて薪さんに報告したら、薪さんがオレに笑いかけてくれた。春の女神みたいにきれいだった』……ポエム?」
「声に出して読むなあああ!!」
「『勇気を出して、昼休みが終わる10分前に薪さんを起こしてみた。出すぎた真似を咎められるかと思いきや、おまえが起こしにきてくれるなら安心して昼寝ができる、と言ってくれた。これで毎日、薪さんの寝顔が見れる。(はーとまーく)』……なにこれ、恥っずい!」
「やかましい!!」
 怒鳴り返したものの、確かに恥ずかしい。帰ったらこのノートは灰にしてやろうと、薪は固く決意する。

「『今日は初めて薪さんの方からキスを……』」
「ぎゃ―――!!!」
 なんだ、この羞恥プレイは!! 僕に恥をかかせやがって、これを書いた本人ごと燃やしてやるうぅ!!

「あらら、ここからはちょっと口に出せないわ」
 口に出せないって、どういうことだ? ぱらっと見ただけだから気付かなかったけど、まさか!?
「まー、すごい。へー、こんなことまで。ひゃー、一晩に5回も? あなたよく身体もってるわねえ」
 何を書いてんだ、あいつはっ!!!

 初めの毅然とした態度はどこへやら、薪はダイニングテーブルの下に隠れるように身を潜ませていた。
 もう恥ずかしくて恥ずかしくて、顔を上げていられない。床下収納庫に閉じこもりたいくらいだ。

「ああ、面白かった。はい、返すわ」
 真っ赤な顔をしてうずくまり、羞恥のあまり涙目になった薪に、冴子は青木の研究書を差し出した。ひったくるように受け取って、すぐさま破り捨てようとした薪の手を摑んで、冴子はクスクスと笑った。
「愛されてるわねえ」
 薪の目線の高さに合わせて自分も屈み、冴子はしんみりと言った。思わず、薪は真顔になって冴子を見た。
 彼女の黒い瞳は追憶の憂いを湛え、失くしたものを、もう取り返しのつかないそれらを悼み、静かに耐えるように震えるように、哀しみに満ちてそこにあった。短い人生の中で彼女が望んで止まなかったもの、それがこのノートには詰まっている。

「……知ってる」
 薪はぼそりと呟いた。
 そのことを、心から喜ぶ気にはなれなかった。切ないような、悲しいような、かすかな罪悪感を伴ったその感情は、彼女の不幸な人生に対する同情からか、それとも彼女に言われたように、これがかりそめの幸せだと分かっているからか。

「それなら、もう過去に囚われるのはやめなさい」
 彼女の言う過去が何を指しているか理解して、薪は心を強くしようと腹の底に力を込める。そこを突いてくる気なら、僕は負けない。鈴木のラストカットまで浚ってくれた、青木の努力を無駄にはしない。
「囚われてなんかいない。僕はちゃんと自分の人生を全うしようと思ってる。だから、青木のことも受け入れたんだ。彼を愛してる」
「じゃあ、どうして彼にそれを言ってあげないの?」
「それは」
「いつでも彼と別れられる準備をしているのは何故? これは一時の夢だと、自分に言い聞かせ続けているのは何故?」

 畳み掛けるように訊かれて、薪は口ごもる。出世のこととか相手の親のこととか、薪なりに理由はちゃんとある、だがそれを彼女に分かりやすく説明するのは難しい。
 言いあぐねる薪に、冴子は自分の意見を述べた。
「自分は幸せになっちゃいけないって、今でも思ってるからじゃないの?」
「ちがう。男同士ってのは、色々と難しいんだ。世間的なこととか、将来のこととか。僕は青木のためを思って」
「嘘」
 短い断定の言葉で、彼女は議論を打ち切った。さっと立ち上がり、スカートの皺を直すように手で整える。その仕草はとても女らしく、彼女本来のしおらしさを偲ばせた。

「あなたはとっても嘘が上手だけど、わたしには通用しないわ。あなた自身を騙せても、わたしは騙せない。だって」
 彼女は急に悪戯っ子のような表情になると、テーブルの陰に座ったままの薪を見下して言った。
「わたしは――――MRIの神さまだもの」

 聞き覚え、いや、言った覚えのあるたわ言に、薪は目を丸くした。
 あの夜、既に彼女の脳は第九に送られてきていた。見られていた、ということか?それはそれでめちゃめちゃ恥ずかしいが、彼女が敢えてその名詞を自分に冠した理由は?

「……まさか、おまえ!!」
「ぴんぽーん。入れ替えてみました」
 マジでか!?

「どうしてそんなことを」
「面白そうだったから」
「……死にたいか、こら」
 捜一時代に培った凄みを総動員して脅しをかけたつもりなのに、冴子は平気な顔でからからと笑い続けた。
「わたし、もう死んでるし」
 そうだった、幽霊相手にこの脅しは無意味だ。じゃあ、除霊か、お札か。いや、いま成仏されたら大変だ、元に戻れなくなる。

「戻せっ!! おまえがやったんなら、僕たちを元に戻せるだろう!」
 詰め寄ってくる薪の手をひらりとかわして、自称MRIの神さまは足を使わずに移動した。それはたしかに人外の移動手段だったが、こいつの場合は明らかに魔のほうだ。
 ああっ、くそ、こんなやつがMRIの神さまの正体だと解ってたら、お供えなんかするんじゃなかった! 僕の綾紫、返せ!!

「それはあなた次第。努力すれば自分が望む自分になれるんでしょう? わたしを納得させてみてよ。そうしたらわたしが間違っていたことを認めて、あなたたちを元に戻してあげる」
「この入れ替わったままの身体でか!? 無理に決まってるだろ、そんなの!!」
「ひとは外見じゃないんでしょ?」
 なんて意地悪な幽霊だ、さすがは僕の夢だ。意地悪が見る夢はやっぱり意地悪、ってなんでだ! てか誰に突っ込んでるんだ、僕は!!
 お定まりの独りツッコミでいくらか冷静さを取り戻した薪は、空いた左手を腰に当て、上空にいる女性を見上げた。

「もっと早くに出てくれば良かったのに。このアザ、どうしてくれるんだ」
 何度も床に倒れたものだから、自分たちの身体に傷がついた、と薪は主張した。そのほとんどは岡部との早朝訓練でこしらえたものだったが、自分が痛い思いをする原因になったのはこいつだ。責任の所在はこいつにあるはずだ。

「あなたがひとりになる機会を狙っていたの。それと、今までは場所が悪かったから」
「場所?」
「職場でもあなたの家でも、彼が目を光らせてるんだもの。怖くて近寄れなかったの」
「……彼って?」
 冴子は鼻で笑う素振りで、その問いに答えなかった。
 ムッときたが、実は薪もよく部下の前ではそういう顔をしている。わかりきったことを聞くな、と声にするのも面倒なほど、明確な事実に対する質問を受けたときにする顔だ。

「たしかに。ここには彼の写真はないな」
 薪が答えを出すと、冴子はそれに満足したのか、にっこり笑った。彼女の笑顔はあたたかかった。

「魔女の称号は、返上だな」
「あら。わたしはけっこう気に入ってたんだけど」
「性格は良くないけど、そんな顔ができるなら、友だちなんか直ぐに作れただろう」
「仕方ないわよ。こんな顔ができるようになったのは、死刑が決まってからだもの」
 自分は自分。他の何ものにもなれないと、やっと解ったから。
 だから自分を認められなかったら、誰も自分を愛してくれない。自分の中に、他人に愛される要素をたくさん植えて育ててやれるのは自分だけだと理解して初めて、彼女はこんなふうに笑えるようになった。生まれたままの素顔で。

「さて、そろそろ時間切れかしら。夜が明けるわ」
 静かに微笑んだ彼女の姿は、静謐に美しく。色素が徐々に抜けるように、その輪郭を曖昧にしていく。
 だんだんに薄くなっていく彼女の最後の声が、薪の耳に届いた。

「あなたはいつだって守られてる。そのことを知るべきよ」
 
 彼女の姿が完全に消えて、薪は目を開けた。朝の清浄な光の中、恋人の部屋の天井が見える。
 恋人のベッドで彼の匂いに包まれながら、薪はぽつりと呟いた。

「知ってるよ」



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

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Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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