折れない翼(7) 羽佐間が薪の練習に付き合ってくれるようになった週の金曜日、ふたりは初めて一緒に酒を飲んだ。場所は羽佐間の行きつけの小料理屋で、焼き鳥と日本酒がお奨めの店らしい。
座敷に上がって座卓を挟み、二人は料理と酒を注文した。直ぐに突き出しと徳利が出てくる。羽佐間の自慢の女房のこと、薪の大学時代からの友人のこと、四方山話をしながら杯を傾ける。酒が進むにつれ興が乗り、ふたりは楽しいときを過ごした。
ここ何日かで、薪の印象はずい分変わった。と言っても、いけ好かないキャリアから、それほど嫌いでもないキャリアになっただけだが。
「なんで捜一(うち)になんか来たんだ?」
薪の酌を受けつつ、羽佐間はずっと聞きたかったことを切り出した。
「キャリアには無用な苦労を、どうして自分から?」
「出世への早道だと考えまして」
こいつ、俺がノンキャリアだと思って舐めてんな。
しゃあしゃあと言ってのけた薪のセリフが全くの的外れだということを、そして薪がそのことを承知していることを、羽佐間は知っていた。
捜査一課は、キャリアの出世コースの主要道路ではない。キャリアというのは警視正まではそれほど苦労せずとも誰もがなれる、しかしそこから先は限られたポストを争って熾烈な生存競争がなされる。そうなった時いかにして自分が生き残るか、それを考えたら捜査一課でノンキャリアと付き合うより、本庁で上層部キャリアの味方を増やしたほうがいい。
しかし、ここは騙された振りをしてやろう、と羽佐間は思う。何か言いたくない事情があるのだろう。警視庁の道場を使わずに研究所の道場で鍛錬を重ねていることからも解るように、薪は秘密主義者だ。容疑者でもないやつから無理矢理自白を取るほど、羽佐間は公私を混同する男ではない。
「異動することは考えなかったのか?」
「足りない分は、自分が成長すればいいって。僕を推薦してくれた教授が言ってました」
「そりゃそうだけどよ。現場で何度も犯人に吹っ飛ばされて、よくイヤにならなかったな」
薪の失敗の数々をあげつらって、羽佐間は豪快に笑った。嫌味を言われて機嫌を悪くするかと思えば、薪は穏やかに笑っていた。
「犯人は、みんな僕の姿を見て御し易しと踏んで、僕の方へ逃げてきます。それって裏を返せば、彼らに手錠を掛けられるチャンスが向こうから飛び込んでくるってことですよね?
僕の外見は刑事としては致命的な欠陥だと他人に言われたこともありますが、こんな使い方もありだと思います」
合理的だ。キャリアと言うのは、こういう考え方が身についているものなのか。
「現状は未だ不十分ですけど。今に必ず、皆さんに負けないくらい強い男になってみせます」
「けっ、坊ちゃんらしいぬるい考え方だな。現実はそんなに甘かねえぜ」
後輩の強く輝く亜麻色の瞳に満足を覚えつつ、しかし言葉は辛辣だ。羽佐間は相手への情を言葉に変換して満足する類の男ではなかった。
その日は機嫌よく飲んで帰途についた羽佐間だが、途中、大事なものを職場に忘れてきたことに気付いた。明日は奥方の誕生日。そのための贈り物を購入しておいたのだが、家に置いておくと当人に見つかってしまうと考えて、職場のロッカーにしまっておいたのだ。明日は非番だ、出てくるのも面倒くさい。
舌打ちしながらも大事な女房のため、本音は忘れたら何を言われるかわからない恐怖感から、羽佐間は職場に戻ることにした。
夜の十時、捜査一課にはまだ明かりがついていた。
どこかの班が残業をしているのだろうか。それほど難航している現場はなかったように思うが。
自分のロッカーから目的のものを回収し、羽佐間は帰り際にそっと部屋の中を覗いてみた。そこには羽佐間の上司である捜査一課の課長と、さっき別れたばかりの新人の姿があった。こんな時刻に夜の職場でふたりきり、薪が女だったらドアの隙間に張り付くところだが。
課長は席に座って、報告書らしきものに目を通している。薪は課長席の後ろに置かれた書類棚の前に立って、束になった報告書を読みふけっていた。いや、読んでいるというよりは、めくっているだけのように見える。あの速度で紙をめくって内容が頭に入るなんて、それは人間じゃない。人間の形をしたスキャンマシンだ。
「ありがとうございました、課長」
やがて薪はすべての報告書を読み終えて、後ろを振り向いた。もう終わったのか?と驚きの色を隠せない課長の声が聞こえる。
「ええ。例の、ホステス殺しは進展がありましたね。問題は犯人の潜伏先ですが。おそらく、幼少の頃を過ごした山陰の」
「黒崎と同じ考えだな。あいつの班のやつが、2人ほど飛んでるよ」
「あと未解決なのは、大曽根班の強盗事件ですか。防犯カメラに何も映っていなかったのが、まずはおかしいんですよね。犯人が事前に調べて死角を知っていたのか、あるいは被害者の資産状況を鑑みて……狂言」
「大曽根は後者だと睨んでる」
報告書の内容について課長と話している薪を見て、羽佐間は自分の常識がぐらつくのを感じた。
どうなってんだ、キャリアってのは目がカメラにでもなってるのか? そういう生き物なのか?
報告書の束を元通り棚に戻して、薪は自分の席に戻った。挨拶をして課長に頭を下げ、鞄を持ってこちらに歩いて来る。羽佐間は慌ててロッカーの陰に隠れた。
羽佐間が物陰に潜んでいることにはまるで気付かず、薪は階下へ降りて行った。現場での経験が皆無に近い彼に、張り込みに慣れた刑事を見つけることは至難の業だ。いくら優れた頭脳を持っていても、身体で覚えるスキルに関して薪は素人と一緒だ。
薪との間に充分な時間を置いて、羽佐間は警視庁を出た。
薪が読んでいたのは、今週課長のところへ上げられた事件経過の報告書だ。今現在、どんな事件が起きていて、どこまで捜査が進んでいるのかが記載されている。
資料室に篭もっていたら、情報は入ってこない。だから、薪はいつでも現場に復帰できるよう、情報を仕入れていたのか。そういえば、料理屋で薪は殆ど飲まなかった。あまり強くないので、と言い訳していたが、こういう予定があったからなのか。
ったく、陰に回ってこそこそと。でも。
嫌いじゃねえ。決して嫌いじゃねえ、と羽佐間は心の中で繰り返した。
初めこそカンベンしてくれと指導員に当てられた自分の不運を嘆いたが、日が経つに連れてどんどん印象が変わってくる。もしかしたら、自分はとてつもなく面白い男を指導しているのかもしれない、と羽佐間は思った。
月曜日。
いつものように出勤してきて行儀よく挨拶をし、自分の持ち場、つまり資料室へと入っていく薪を、羽佐間はじっと見つめていた。そんな羽佐間に気付いて、部下の一人が声を掛ける。
「羽佐間さん? 薪がどうかしましたか」
「ありゃあ、化けるかもしれねえなあ」
「そりゃキャリアですから、出世はするでしょうね。でも、おれ達には関係ないっすよ」
「そうじゃなくてよ。近い将来、うちのエースになるかもしれねえぜ」
「……すんません、もう一回お願いします。次は外さずに笑いますから」
「冗談じゃねえよ。今は坊だけどよ、そのうちきっと」
「坊? ぷぷっ、ぴったりっすね。ガキみたいな顔してるし」
「薪坊か。そうだな、あいつの呼び名はそれで行くか」
部下と一緒ににやにやと笑って、羽佐間は今自分が追いかけているゲームセンター強盗殺人事件の捜査に戻った。
テーマ : 二次創作:小説
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