クッキング(8)

クッキング(8)






「先生、この書類に判を」
 言いかけて止まった可愛らしい声に、雪子は振り向いた。

「あ、すみません、風間先生とお話中でしたか。では、また後で伺います」
「大丈夫よ、緊急の打ち合わせじゃないから」
 急いでその場を立ち去ろうとする助手の背中に声をかけて彼女を留め、雪子は今まで会話をしていた人物に背を向ける。班長会議の後、先日彼と一緒に参加した最新医療のシンポジウムについて、ついつい話し込んでしまった。チーフ仲間の風間は専門も同じだから、研修内容も重なることが多いのだ。

「いえ、こちらこそ急ぎじゃないんです。どうぞごゆっくり」
「ゆっくりもしてられないでしょ、仕事中なんだから。どれ、貸して」
 菅井に渡された書類を確認する雪子の眼は、すぐさま冷静な監察医のそれになる。彼女が仲の良い同僚から仕事の鬼に切り替わったのを見て、風間は穏やかな表情で口を閉じた。

 じゃあまた、と手を上げて去っていく風間に雪子は会釈で応じ、菅井は、雪子には向けたことのないしおらしい態度でぺこりとお辞儀をして彼の後姿を見送った。
「けっこういいセン行ってますよね」
「いいえ、これでは不十分だわ。薬品投与から2時間後と6時間後のデータしか採らなかったの? 遺体が置かれていた現場の気温を考慮すると、最低でも12時間後のデータは必要になってくるはずよ」
「違いますよ、風間先生のことです。彼、雪子先生に気があるんじゃないですか?」
「はあ?」
 また始まった、菅井の悪い癖だ。男女が一緒にいるところを見ると、すぐに恋愛方面に発展させたがる。青木のときで懲りたかと思いきや、全然反省していない。

「風間先生はいい人ですよ。やさしいし、大人で包容力はあるし。顔だって、標準以上です」
「そお? 白衣効果ってやつじゃないの」
「先生。薪室長や青木さんを基準にしちゃダメですよ。そんなことしたら、世の中の9割の男性が醜男ってことになっちゃうじゃないですか」
 これもハンサムの弊害かしら、と雪子は自身の思い上がりを恥ずかしく思う。
 雪子のように、ハンサムな友人がたくさんいるというのはいいようでよくない。さすがに薪を基準にするつもりはないが、菅井が『かなりのイケメン』と評する青木は、雪子の感覚では普通だ。

 たぶん一番の原因は、竹内だ。
 遊園地に遊びに行ってから、休日の昼間、竹内に呼び出される事が多くなった。取り立ててしなければいけないこともなく、のんびりテレビを眺めていると彼から電話が掛かってくる。映画を観ないかとか、昼食を一緒にどうですか、とか、それに応じなければならない義理はないが「どうせヒマでしょ?」と言われると、嘘を吐いてまで彼の誘いを断る理由は見つからず、行けばけっこう楽しい事が分かっているから軽い気持ちで応じてきた。友だちと会うのと一緒だ。
 そんな具合に頻繁に会っているせいか、彼のビジュアルが標準に設定されつつある。慣れとは恐ろしいものだ。

「結婚が遅れたのだって、家や本人に問題があるわけじゃなくて、仕事が忙しかっただけでしょう。監察医なんて、本人が積極的に動かなかったら出会いもありませんしね」
 くりっとした愛らしい眼で大分下から雪子を見上げ、菅井はニコッと笑った。菅井は笑うとかわいい。彼女の笑みは、小動物を思わせる。庇護欲をそそるというか、守ってあげたくなるというか。このかわいい口からあんな毒のある言葉が出てくるなんて、男は誰も信じないだろう。

「確か今年で44。5つくらいの差なら許容範囲ですよ。雪子先生、彼にしておきましょうよ」
「何を勝手に決めてんのよ。バカなこと言ってないで、さっさと12時間後のデータを採ってちょうだい」
「はあい。うふ、照れちゃって。先生、可愛いんだから」
「あのねえ」
 疲れる、菅井のこういうところは本当に疲れる。立場も境遇もまるで違うが、竹内がしばらく恋愛から離れたい、という気持ちが分かるような気がする。

 腰に手を当ててギッと助手を睨むと、菅井は慌てて実験室へと戻っていった。プライベイトでは友だちでも、仕事中は上司と部下。睨みが利かないようでは困る。
 
 そんな具合に、菅井の言うことにはまるで取り合わなかった雪子だが、後に彼女は自称恋愛マスターの実力を知ることになる。
 風間が雪子に結婚を前提とした付き合いを申し込んできたのは、それから1ヵ月後のことだった。




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

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2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
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