スキャンダル(2)

スキャンダル(2)





 土曜日の夕方。薪は、乗り心地のよい車の助手席で眠気と戦っていた。
 ハンドルを握っているのは、小野田の運転手兼ボディガードの坂崎という男だ。丁寧なハンドルさばきと穏やかなブレーキで、乗客を夢の世界へ誘う名人だ。
 これが恋人とのデートの帰りなら100%高鼾で眠っている薪だが、上司の手前、そんなことはできないと必死で欠伸を噛み殺している。

「お寝みになってはいかがですか?」
「あ、いえ。大丈夫です」
 坂崎に声を掛けられて、薪は出掛かった欠伸を両手で押さえる。後部座席の小野田には隠せても、運転席の坂崎には見えてしまったか。
 薪は慌てて姿勢を正し、眠気を追い払おうとした。

「官房室の忙しさは存じ上げております。特に期始めのこの時期、悠長に眠っている時間などないことも。移動中に睡眠を摂らないと、身体が持ちません。官房長もそうしてらっしゃいますよ」
 促されて後ろを向くと、なるほど小野田が熟睡している。
 確かに、官房室の就業は連日深夜に及ぶ。昨日も家に帰ったのは、2時を回っていた。今朝は早朝会議があって、睡眠時間は3時間弱。第九で徹夜には慣れている薪だが、官房室の仕事には一刻も早く犯人を突き止めなければ被害者が増える、というプレッシャーはない。そうなると本能が勝るのは当然のことで、睡魔との戦いは最近の薪の深刻な悩みになっている。
 官房室の仕事に携わることが決まってから、薪の生活は仕事一色に塗りつぶされた。休日どころかアフターもなかった。書類整理か資料作成か、あるいは接待のいずれかで、小野田についていくか首席参事官の中園に呼び出されて無理矢理付き合いを強いられるか、どちらかだった。

「マンションに着きましたら、起こして差し上げますから」
「すみません。じゃあ、お願いします」
 眠る前に、薪はメールを1本打った。
『帰宅予定20:00』
 それだけの文章だが、あいつにはこの意味が解るはず。
 
 何ヶ月ぶりかで、青木と一緒に過ごせる。今夜はいつものポーズは捨てて、うんと素直に甘えてみようか、などと恥ずかしいことを考えながら、薪は眠りについた。
 夢は見なかった。このところずっと見ていない。忘れてしまっているだけかもしれないが、官房室に勤務し始めてから、薪には夢の記憶がなかった。


「薪くん、起きて」
 小野田の声に揺り起こされたとき、薪は自分がどこにいるのか分からなかった。
 白い天井。見慣れない照明器具。顔を横に向けると、趣味のいいソファとテーブルが目に入った。ソファは革張りで、テーブルは木目が美しいアンティーク。床に敷かれた絨毯は、多分ゴブラン織りだ。
 さっと払われたカーテンの間から差し込む朝の日差し。薪はハッと我に返った。

「小野田さん。ここは」
「ぼくんちだよ。きみがあんまりよく眠ってたから、坂崎に運んでもらったんだ」
 何という失態。出張の帰りの車の中で眠りこけた挙句、官房長の家に泊めてもらうなんて、失礼にも程がある。
「すみませんでした。ご迷惑を掛けました」
 慌ててベッドから下りて平身低頭謝ると、小野田はひとの良さそうな笑顔を浮かべ、いつもの暢気な口調で言った。
「疲れてたんだね。ごめんよ、無理をさせて」
 こんなふうに、部下に優しい言葉を掛けてくれる上司は、警察機構では非常に少ない。小野田の言葉は口先だけではなく、薪の身体を心から気遣ってくれている。
「朝ごはん用意してあるから食べて。行きがけにきみのマンションに寄ってあげるから、着替えなさい」
「いえ、食事までお世話になるわけには……今、何時ですか!?」
 いや、時刻はどうでもいい。朝ごはん、てことは朝に決まってる。
 昨夜恋人に送った無責任なメールのことを思い出して、薪は青くなった。

 即刻マンションに帰りたい、いや、青木のアパートに行って謝りたいと思ったが、上司の手前そんなことはできない。小野田の予定は今日もてんこ盛りで、すぐに支度をしなくては間に合わない。4ヶ月以上もほったらかしの恋人のしょげた顔を思い、自分の睡眠欲の深さを呪いながらも、薪は上司の言葉に従わなければならない自分の立場を受け入れた。
 後悔で一杯の心を抱えつつ、小野田の妻と当たり障りのない会話をし、朝食の味噌汁の味を褒め、何とか電話だけでもできないかと機会を伺うが、小野田が隣にいてはそれも能わず、結局薪が恋人に謝罪できたのはそれから1時間後のことだった。

 その謝罪が電話ではなく、4ヶ月ぶりに逢えた恋人としての会話だったことは、幸運か、皮肉か。
 小野田と共に車に乗り、坂崎の運転でマンションに戻った薪は、自室の空気が入れ替えれていることに気付いた。もう長いこと帰って眠るだけの生活ですっかり淀んでしまっていた空気が清浄になり、ほのかに百合の香りが漂っている。その香りに心を和ませながらも、昨夜ここで自分の恋人が為したであろういくつかのことを思い、薪は眉根を寄せた。
「あ、薪さん。おかえりなさい」
「!?」
 ここにいるはずのない男の声を聞いて、それは確かに自分が呼び出したのだが、だけどいるなんて夢にも思わなかった彼の姿を見て、薪は驚愕した。

「お疲れさまでした」
 昨夜恋人に呼び出されて、でもすっぽかされて、その理由すら知らされずに怒り心頭に発しているはずの彼は、薪に向かって明るく笑いかけた。
 申し訳ない気持ちで一杯になるが、言い訳ひとつすることもかなわない。だったらやさしい言葉のひとつもかけてやればいいものを、気恥ずかしさが邪魔してそれもできず、ただ俯いてくちびるを噛んでいる薪の肩に、青木の両手が置かれた。
「気にしなくていいです。薪さんが大変なのはわかってますから」
 4ヶ月ぶりに会った恋人は相変わらずやさしくて、薪をどこまでも甘やかす。
「顔が見れて、うれしいです」
 顔を近づけられて自然に閉じようとした目蓋を、リビングに置かれたベル式の目覚まし時計の長針が止める。小野田が外で待っている。

「青木、あの」
「着替えに戻られたんですよね?」
 見ればリビングのソファには、クリーニングの掛かったスーツが一揃い出してある。夏らしく、薄いグレーのスーツに涼しげな水色のネクタイ。薪が予定していた今日の服装がそこにはあって、それは彼が薪のこれからの行動を知っているということだ。
「どうして」
「窓からずっと外を見てましたから」

 ずっと。
 昨夜からずっと、今朝もずっと。こいつは一晩中、僕を待って……。

 不意に薪の中にこみ上げてきた感情は驚くほどに強く、一瞬で薪を支配して青木の胸にその身を預けようと試みたが、長年培ってきた彼の理性はそれを押し留めた。流されてしまったら、この後の仕事に支障が出る。
 薪は青木のほうを見ないようにして、黙々と着替えを済ませた。
「朝ごはん、食べました?」
「小野田さんの家でごちそうになった」
 おそらく薪のために夕食も朝食も用意したであろう恋人は、それを聞いてもがっかりする素振りも見せず、美味しかったですか? とのん気に笑った。

「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
 最後までニコニコと笑う恋人に、やっぱり我慢ができなくて、薪は玄関口で青木にくちづけた。いつものように舌を絡ませることなく、甘い吐息を吸いあうこともない短い接触が、薪の焦りを物語っていた。

「ごめん」
 滅多なことでは口にしない台詞を搾り出すように言って、青木から離れる。いいえ、と嬉しそうに笑う恋人の顔を目に焼き付けて、薪はドアを閉めた。



 

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

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Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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