スキャンダル(9)
スキャンダル(9)
薪たちがコーヒーを飲んでいたラウンジの斜め向かいにあるカフェテリアで、青木は数人の男女と話していた。
レセプションホールで見かけた人間も、何人か混じっている。ということは、先刻のイベントのスタッフたちか。
即興の仲間とは言え、共にひとつの仕事をやり終えた連帯感から、彼らは朗らかに笑い合っている。薪の元恋人も、不思議と人を信用させる暖かい笑みを見せている。
青木の呑気な顔を見ていたら、ものすごく腹が立ってきた。
あいつ、なんであんなに平気な顔をしてるんだ。僕と別れたってのに、落ち込んだ様子なんかこれっぽっちもないじゃないか。こっちは夜が明けるまで泣き倒し……いやいやいや、あれはそうじゃない。半年くらい前に見た犬の映画が急にフィードバックしてきて、哀しくて涙が止まらなくなったんだ、そうなんだ、ってだれに言い訳してるんだ、僕は。
深刻な我が身と引きかえ、平生と変わらぬ青木に軽いショックを受ける。岡部も青木に変わった様子は無いと言っていたが、本当に何も感じていないのか。なんて冷たいやつだ。たとえ何ともなくたって、少しくらい凹んでみせるのが思いやりというものだ。
青木の心無い態度に心底腹を立てていた薪は、それでも青木が用事を終えるのを待って、しかし当然のように徳川園のパンフには見向きもせず、真っ直ぐ出口に向かった。
「薪さん、待ってくださいよ。せっかく小野田さんが割引券くれたのに」
知るか!
なんで別れた恋人と一緒に日本庭園を散策せにゃならんのだ。イジメか? これは、一方的に別れを告げた身勝手な恋人に対する報復なのか?
「徳川園がイヤなら、別のところにします? 近くに白鳥庭園て所もありますけど。ここなら人が少ないから落ち着けるかも」
なに普通に誘ってんだ! 僕たちはもう、別れたんだぞ?! もとから図々しいやつだとは思っていたが、ここまで厚顔だとは。
電話で一言言っただけだから納得していないだろうと予想してはいたが、何もなかったように振舞えるこいつの神経が理解できない。こうなったら説教だ。諄々諭してやる。
それにはゆっくりと秘密の話ができる場所が必要だと考え、昼間は殆ど人がいないという小さな庭園に案内させた。が、行って見て、薪はその美しさに驚いた。もとより日本の美しい風景には魂を抜かれてしまう薪のこと、思わずふらふらと遊歩道の左に連なる力強い緑に惹かれて歩いていけば、右手には芝生の広場が広がり、そのまた向こうには夏の太陽を浴びた湖面がキラキラと光っている。
いないはずの観光客もそこここに散っていて、青木の言葉の一部がウソだったことを薪に教える。これは苛立った自分を落ち着かせるための作戦だったか、と理解したところで一旦抜けてしまった牙は戻らない。
庭園の中ほどに位置する汐入亭の方角に歩きながら、薪は穏やかな声で言った。
「どうしてこんなところにいるんだ。おまえ、まさか僕をつけてきたのか?」
だとしたら自分も衰えたものだ。青木の尾行は小学生レベルだ。その稚拙な尾行にも気付かないほど、精神的に不安定になっていたのか。
「恥ずかしいと思え、男のクセに未練たらしい。僕が終わりだと言ったら終わりなんだ」
恥ずかしいのは自分だ。未練を断ち切れないのも自分だ。
自分で切り捨てておきながら、こころの中ではぐずぐずと青木のことを考えている。今だって、何もかも忘れてこの男を抱きしめてしまいたい、と思っている自分がいる。
「あの、オレ、先週からここに詰めてたんですけど」
「プライベートではもう、一切会わな……え?」
「岡部さんから昨日電話があって。薪さんにオレの出張のことを伝えたって言ってたから、てっきり会いに来てくれたのかと思ってたんですけど。違うんですか?」
あまりにも厚かましい青木の勘違いに、薪は一度は落ち着いた怒りが再度沸騰するのを感じた。ここではマズイと思いつつも言わずにはいられなくて、薪はコースを外れて木々の間に青木を引き込んだ。
「なんで僕がおまえに会いに来なきゃいけないんだ!? 僕たち、お終いだって言っただろ!?」
「え? あれ、本気だったんですか?」
本気にしてなかったのか!? なんなんだ、この危機感のなさは!!
「冗談であんなことが言えるか!」
「いや、だって薪さんの言うこと全部鵜呑みにしてたら、とても付き合ってられないですよ。あなたがオレに、今まで何回『別れる』って言ったか、覚えてます? 100回はとうに超えてますけど、わかってます?」
……言われてみれば、確かに……『文句があるならいつでも別れてやる』は口癖のようなものだし。
だからって、今回は携帯まで繋がらないように着信拒否にしたのに。
「携帯に出てくれないことなんか、日常茶飯じゃないですか。忙しいときにはオレの番号だと解ると、無言で切って。それも面倒になったから拒否られちゃったんだとばかり」
なんてポジティブな理由付けだろう。そう言えば、昔から青木はこういうやつだった。薪の言葉を良い方へ良い方へ解釈して強引にこじつけて、鈴木のことでいっぱいだった薪の中に無理矢理入ってきたのだ。
「ばかばかしい。帰る」
こちらの気も知らないで、どこまで自分勝手なやつなんだ。僕がどれだけ―――――。
「あ、待ってください、これだけ!」
青木は慌てて薪の腕をつかむと、道に戻った。人目も憚らず薪の手を引き、庭園の中心にある東屋に連れ込む。
「やめろ、ひとが見るだろ!」
薪は小声で、しかし鋭く叱責する。あんな写真が送られてきて過敏になっている今、青木の行動は無神経で思慮の浅い行為に思えた。
なんて浅はかなんだ、こいつは。青木が考えることといったら、享楽的で単純で。
「ほら、見てください、これ」
こいつが考えることは、いつもいつも。
「獅子おどし。覚えてます? 3年前の春に、長野の温泉宿で一緒に見ましたよね。あのとき、薪さんすごく楽しそうに見てたから。だからここにお連れしようと思って」
――――― いつも。
僕のことばっかり。
「薪さん?」
細い手が伸びて、青木の腕をぎゅっとつかんだ。手のひらから伝わるのは、あたたかさと微かな震え。
「……帰ろう」
下を向いたまま小さな声で、薪は言った。
「一緒に帰ろう」
掠れたアルトの声に重なるように、獅子脅しの音が高らかに響いた。
薪たちがコーヒーを飲んでいたラウンジの斜め向かいにあるカフェテリアで、青木は数人の男女と話していた。
レセプションホールで見かけた人間も、何人か混じっている。ということは、先刻のイベントのスタッフたちか。
即興の仲間とは言え、共にひとつの仕事をやり終えた連帯感から、彼らは朗らかに笑い合っている。薪の元恋人も、不思議と人を信用させる暖かい笑みを見せている。
青木の呑気な顔を見ていたら、ものすごく腹が立ってきた。
あいつ、なんであんなに平気な顔をしてるんだ。僕と別れたってのに、落ち込んだ様子なんかこれっぽっちもないじゃないか。こっちは夜が明けるまで泣き倒し……いやいやいや、あれはそうじゃない。半年くらい前に見た犬の映画が急にフィードバックしてきて、哀しくて涙が止まらなくなったんだ、そうなんだ、ってだれに言い訳してるんだ、僕は。
深刻な我が身と引きかえ、平生と変わらぬ青木に軽いショックを受ける。岡部も青木に変わった様子は無いと言っていたが、本当に何も感じていないのか。なんて冷たいやつだ。たとえ何ともなくたって、少しくらい凹んでみせるのが思いやりというものだ。
青木の心無い態度に心底腹を立てていた薪は、それでも青木が用事を終えるのを待って、しかし当然のように徳川園のパンフには見向きもせず、真っ直ぐ出口に向かった。
「薪さん、待ってくださいよ。せっかく小野田さんが割引券くれたのに」
知るか!
なんで別れた恋人と一緒に日本庭園を散策せにゃならんのだ。イジメか? これは、一方的に別れを告げた身勝手な恋人に対する報復なのか?
「徳川園がイヤなら、別のところにします? 近くに白鳥庭園て所もありますけど。ここなら人が少ないから落ち着けるかも」
なに普通に誘ってんだ! 僕たちはもう、別れたんだぞ?! もとから図々しいやつだとは思っていたが、ここまで厚顔だとは。
電話で一言言っただけだから納得していないだろうと予想してはいたが、何もなかったように振舞えるこいつの神経が理解できない。こうなったら説教だ。諄々諭してやる。
それにはゆっくりと秘密の話ができる場所が必要だと考え、昼間は殆ど人がいないという小さな庭園に案内させた。が、行って見て、薪はその美しさに驚いた。もとより日本の美しい風景には魂を抜かれてしまう薪のこと、思わずふらふらと遊歩道の左に連なる力強い緑に惹かれて歩いていけば、右手には芝生の広場が広がり、そのまた向こうには夏の太陽を浴びた湖面がキラキラと光っている。
いないはずの観光客もそこここに散っていて、青木の言葉の一部がウソだったことを薪に教える。これは苛立った自分を落ち着かせるための作戦だったか、と理解したところで一旦抜けてしまった牙は戻らない。
庭園の中ほどに位置する汐入亭の方角に歩きながら、薪は穏やかな声で言った。
「どうしてこんなところにいるんだ。おまえ、まさか僕をつけてきたのか?」
だとしたら自分も衰えたものだ。青木の尾行は小学生レベルだ。その稚拙な尾行にも気付かないほど、精神的に不安定になっていたのか。
「恥ずかしいと思え、男のクセに未練たらしい。僕が終わりだと言ったら終わりなんだ」
恥ずかしいのは自分だ。未練を断ち切れないのも自分だ。
自分で切り捨てておきながら、こころの中ではぐずぐずと青木のことを考えている。今だって、何もかも忘れてこの男を抱きしめてしまいたい、と思っている自分がいる。
「あの、オレ、先週からここに詰めてたんですけど」
「プライベートではもう、一切会わな……え?」
「岡部さんから昨日電話があって。薪さんにオレの出張のことを伝えたって言ってたから、てっきり会いに来てくれたのかと思ってたんですけど。違うんですか?」
あまりにも厚かましい青木の勘違いに、薪は一度は落ち着いた怒りが再度沸騰するのを感じた。ここではマズイと思いつつも言わずにはいられなくて、薪はコースを外れて木々の間に青木を引き込んだ。
「なんで僕がおまえに会いに来なきゃいけないんだ!? 僕たち、お終いだって言っただろ!?」
「え? あれ、本気だったんですか?」
本気にしてなかったのか!? なんなんだ、この危機感のなさは!!
「冗談であんなことが言えるか!」
「いや、だって薪さんの言うこと全部鵜呑みにしてたら、とても付き合ってられないですよ。あなたがオレに、今まで何回『別れる』って言ったか、覚えてます? 100回はとうに超えてますけど、わかってます?」
……言われてみれば、確かに……『文句があるならいつでも別れてやる』は口癖のようなものだし。
だからって、今回は携帯まで繋がらないように着信拒否にしたのに。
「携帯に出てくれないことなんか、日常茶飯じゃないですか。忙しいときにはオレの番号だと解ると、無言で切って。それも面倒になったから拒否られちゃったんだとばかり」
なんてポジティブな理由付けだろう。そう言えば、昔から青木はこういうやつだった。薪の言葉を良い方へ良い方へ解釈して強引にこじつけて、鈴木のことでいっぱいだった薪の中に無理矢理入ってきたのだ。
「ばかばかしい。帰る」
こちらの気も知らないで、どこまで自分勝手なやつなんだ。僕がどれだけ―――――。
「あ、待ってください、これだけ!」
青木は慌てて薪の腕をつかむと、道に戻った。人目も憚らず薪の手を引き、庭園の中心にある東屋に連れ込む。
「やめろ、ひとが見るだろ!」
薪は小声で、しかし鋭く叱責する。あんな写真が送られてきて過敏になっている今、青木の行動は無神経で思慮の浅い行為に思えた。
なんて浅はかなんだ、こいつは。青木が考えることといったら、享楽的で単純で。
「ほら、見てください、これ」
こいつが考えることは、いつもいつも。
「獅子おどし。覚えてます? 3年前の春に、長野の温泉宿で一緒に見ましたよね。あのとき、薪さんすごく楽しそうに見てたから。だからここにお連れしようと思って」
――――― いつも。
僕のことばっかり。
「薪さん?」
細い手が伸びて、青木の腕をぎゅっとつかんだ。手のひらから伝わるのは、あたたかさと微かな震え。
「……帰ろう」
下を向いたまま小さな声で、薪は言った。
「一緒に帰ろう」
掠れたアルトの声に重なるように、獅子脅しの音が高らかに響いた。