破壊のワルツ(24) 夜の第九に、ハードディスクの回る音が密やかに響いている。
広い研究室にたった一人、鈴木は徐々に近づいてくる少年の背中を見ていた。男の手が後ろから伸びて少年の口元を布のようなもので塞ぎ、20秒ほど押さえた。少年の身体から力が抜けて、腕の中に倒れこんでくる。
少年が気を失っているうちに、男は彼を自分の仕事場に運び込んだ。彼の仕事は、そのほとんどが此処で為されていた。
部屋の中にはベッドがあり、その四つ角には、上に横たわる人間を拘束するための鎖がついていた。シーツは白く清潔で、これは仕事のたびに新しいものと交換しているらしい。
ベッドの脇には平たいテーブルがあり、その上には彼の七つ道具がきちんと並べられている。
医療用のメス、幅広のナイフ、骨を切るための鋸。頭を断ち割るための鉄鎚。首を落すための鉈。それらを使うのは、宴も終盤に近付いたころだ。序盤のためには、鞭やライター、針や金串などが用意されている。
悪趣味だな、と鈴木は心の中で唾を吐く。
この少年で何人目だろう。ご丁寧に、ひとりひとり殺し方を変えて、殺す前には必ずいたぶってから辱めて。それも苦痛が長引くように、長い時間悲鳴が聞けるように、喉を割くのは最後の最後。
男は少年の身体を荷物のように無造作に床に放ると、今日の得物を物色し始めた。しばらく迷った末に、ライターと金串を手に取り、床にうつ伏せになっている少年を見下ろす。
床に降ろされたときに偶然そんな体勢になったのか、少年は正座をして額を床につけていた。短い後ろ髪から、白い首が覗いている。
華奢な後ろ首が、薪に似ていると思った。
『私の配慮が足りず……誠に申し訳ありませんでした』
記者会見の見事な答弁が嘘のように、薪はそれだけしか言えず、床にひれ伏した。豊村の両親を前に、床に着けた頭を上げることもできず、また、それ以外にできることがあろうはずもなかった。
それが今日の午後のこと。鈴木の脳裏には、豊村の亡骸に取り縋って嘆く両親の姿が生々しく焼きついている。
豊村の自殺によってもたらされた精神的打撃を慮り、残る2人の部下たちには帰宅するよう言い含め、鈴木は密かに特捜用の部屋に篭り、貝沼の捜査に当たっていた。
薪は所長の田城の所へ赴き、事情説明とマスコミの対応について話し合っている。終わったら、鈴木の携帯に連絡をくれることになっている。
もう2時間にもなるが、無理もない。こんな事態は第九始まって以来だ。捜査官が自殺、それも室長のネクタイを用いて首を吊っていたなんて。
不意に画面が明るくなって、鈴木はハッと目を見開く。
それは貝沼の手によって点火されたライターの炎だった。貝沼はライターで金串をあぶると、それを無造作に少年の腕につきたてた。二の腕の上部から差し込んで、脇下まで貫通させる気らしい。
鎖につながれた少年の腕の内側から、やがて金串の鋭い切っ先が現れる。突き抜けた串の先は脂に塗れた血でてらてらと光り、不気味なアクセサリのように少年の細い腕を飾っていた。
それを皮切りに、貝沼は少年の身体に何本もの金串を刺し始めた。痛みにのた打ち回る少年の姿を見るのは辛かった。指先や急所を串で貫かれたときには、顔は見えずとも彼の絶叫が聞こえてきたような気がした。
いっそ楽に殺してやりたいと思った。手足やわき腹を刺され、体中血を流しながらそれでも死ねない。心臓や大きな動脈は避けて、痛みの鋭い指先や敏感な内側の部分を重点的に責めている。貝沼は苦痛の長引かせ方を心得ていた。
気が狂いそうな痛覚の中で、少年は徐々に弱って行った。逃れようと鎖を引っ張る力が弱くなり、やがてだらりと彼の腕がベッドに投げ出された。
貝沼は少年の手足から鎖を外すと、彼の両足を広げて肩に担ぎ上げた。それから、そこだけは汚さずに残しておいた彼の後孔に自身を埋めると、激しく彼を揺すった。
少年はもう、何も感じていないように見えた。犯される苦痛は、金棒を刺されるより軽かったのかもしれない。
彼の何も映していないガラス玉のような茶色の瞳が、豊村家からの帰り道、助手席に座って呆然と前を見ていた薪の瞳に重なった。
無気力で、陰鬱で、一切の思考を停止した状態。あんな薪を見たのは初めてだった。
欲望を遂げて満足した貝沼は、少年の白い喉をナイフで切り裂いた。ようやく少年の苦痛に終わりが来たことに、鈴木は絶望すると共に安堵した。彼はもう、苦しまなくていいのだ。
喉を裂かれて息絶えている彼は、鈴木の眼から見ても美しかった。
真っ白になった顔と、涼やかに開かれた琥珀の瞳。長い睫毛がその周りを縁取り、薪に良く似た小さな鼻が、その下に奥ゆかしく収まっていた。細い顎もふっくらとした頬も、彼の純潔を証明するかのように真白く輝いている。なのに、喉元を飾る真っ赤な血とのコントラストに眩暈にも似た艶美を感じるのは何故だろう。
貝沼は医療用のメスを使い、少年の皮膚をはがし始めた。現れた血まみれの組織をじっくりと観察する様は、この中に何が詰まっているのだろう、と熱心に仕事をする研究者のようだった。
彼は、どうしてこんなに美しいのだろう?
どこかに潜んでいるに違いない、彼を輝かせる何かが。自分を惹きつける原因となる何かが。この細い肢体の中に、必ずあるはずだ。
それを見つけなければ、自分は――――― 俺は、彼に再び合間見えることはできない。
薪さん、見てくれよ。見て、俺を褒めてくれ。
俺はあんたに認めて欲しくて、こんなに頑張ったんだ。あんたがどうしてそんなに輝いて見えるのか、どうしてこんなに愛おしく感じられるのか、その理由を知りたくて、知ればあんたに近づけると思って、だから俺はあんたに似た男の子を探して、彼らの中までしっかり探して、たくさんたくさん探して―――――。
「――――― っ!!」
鈴木は寸でのところで、画面から眼を離した。肩で息をし、冷や汗で濡れた額を手で拭う。
これで何度目だ、聞いたこともない貝沼の声が聞こえてきたのは。
薪が貝沼と面識があったことを聞いていたせいか、聞こえてくる幻聴は、貝沼が薪に見せるために少年たちを殺し続けたという内容のものばかりだった。
いや、原因はそれだけではない。鈴木自身の願望が、貝沼の幻聴に現れているのだ。
12年前、薪と別れてから、何度彼を幻想の中で抱きしめただろう。この腕に確かに残る彼のぬくもりを思い出し、そのしなやかな身体を目蓋の裏に甦らせ、飽きることなくそのすべてを愛して―――――。
彼に近づきたい、誰よりも彼に愛されていたい、それは鈴木がずっと心の奥底に眠らせてきた薪への想い。彼の未来のために、自分は友として彼を支えていこうと決意しながらも、どうしても消しきれなかった彼への恋心。
どういうわけだろう。この残虐な画を見るたびに、彼に恋焦がれる気持ちが強く蘇ってくるのは。
貝沼の犯行に薪の存在が関わっていることを示唆するものは、どこにも出てこない。せいぜい、被害にあった少年たちが薪に似た部分を持っている、ということくらいだ。しかしこれは、さして重大なことではないと鈴木は考えている。見目麗しい人間同士、共通点があって当たり前だ。鈴木には最近のアイドル歌手は、みんな同じ顔に思える。
なのに、どうしてそんな幻聴が聞こえてくるのか。
俺が薪の無関与を信じないでどうする。薪が貝沼に会ったのは、今から2年4ヶ月前、たった一度きりのことで……。
思い当たって鈴木は、画像を過去に遡らせた。
2人が出会った2057年の4月、その時の様子を見れば、あるいは何か―――――。
その時期のデータを引き出すと、一転して画像は薄汚れたものばかりを映すようになった。
ポリバケツの中の残飯、ゴミ捨て場に捨てられた衣類。貝沼はそれらを懸命に探し、持ち帰ろうとして近所の主婦や飲食店の店主に見咎められ、何も持たずにその場を去った。とぼとぼと歩きながら時折空を見上げる様子に、彼が雨の心配をしているのだとわかった。
住むところがない彼が見上げるのは、灰色の空ばかりだった。晴れた日には、雨の心配はない。空を見ている暇があったら、下に落ちている食べ物を探したほうがいい。
そんな彼の眼に映る風景は、色素の薄い灰色の風景だった。樹木も花も動物たちも、薄いグレーのフィルターが掛かったように、ぼんやりとしていた。
特に、人の顔ははっきりしなかった。まともに他人の顔を見ることも少なかった貝沼は、自分を警察に突き出そうとしたスーパーの保安員の顔すらも鮮明に見えてはいなかった。もちろん、保安員が自分の身柄を預けた若き警官の顔も。
『あなた、お名前は?』
そう訊かれたとき、貝沼は初めて彼の顔を見た。
『貝沼清孝さん。僕は薪と言います』
律儀に自分の名前を名乗り、身分を明らかにし、それは多分、貝沼が長いこと他人から与えられなかった人としての関与。
誰も自分の名前を聞いてくれた人はいなかった、誰も自分の名前を教えてくれる人はいなかった、彼はずっと誰からも、人間として見てもらえなかった。ゴミを漁る薄汚い生き物としてしか、扱われてこなかった。
『さっきの店員さんが言ってたように、新しい研究室で、新しい捜査方法を確立させようと頑張っています。僕も頑張りますから、あなたも頑張りましょう』
にっこりとこちらに微笑みかけた彼を見た瞬間、視界を覆っていた薄灰色のヴェールはさっと払われ、代わりにまばゆい光の本流が貝沼の視界に注ぎ込んだ。
鮮やかに映し出された彼の姿、その鮮やかさは徐々に周囲に伝播し。貝沼の世界は、色とりどりの美しいもので満たされた。
春の空の朧月、妖艶に花開いた公園の夜桜。薄い雲を払う夜風にまで、美しい彩色がなされているかのように、ありとあらゆるものが彼の前で、新たに生まれ変わっていくようだった。
『お引取りいただいて結構です』
目の前にスーパーの袋が出され、さりげなく手に持たされた。背を向けて去っていく彼が、ふと立ち止まり、ゆっくりとこちらを向いた。
少し困ったような薪の笑みに、貝沼の視界は不意にぼやけた。手の甲に雫が落ちるのを見て、泣いているのだと解った。薪は慌てて駆け寄ってきた。
腕に細い手が置かれた。下から心配そうに眉根を寄せた顔が、自分を覗き込んでいた。
信じられないくらい、きれいな睫毛だった。透き通るように純粋な瞳だった。こじんまりした鼻と、小さなくちびるが愛くるしかった。白い頬は真珠のように奥ゆかしい光を放ち、亜麻色の髪は街灯の光を受けてきらきらと輝いていた。
つややかなくちびるが開きかけたとき、鈴木は思わず身を引いた。
心臓が高鳴っていた。息を整えようとしたが、耳鳴りがして、上手にできなかった。
この画だけでは、確証にならない。ならないが。
間違いない。
鈴木の捜査官としての本能、否、10年以上も彼を見つめてきた鈴木の中に培われた、彼を害するものに対する警戒本能が、それを告げていた。
それと同時に。
鈴木は強く思っていた。
薪、オレの薪。誰にも見せたくない、オレだけの薪。
それが、貝沼の想いが現れた画の影響に過ぎなかったとしても。
もしもこれ以上、薪がオレ以外の人間にその心を分け与えるなら。彼の擒になった人間の、激しい感情の発露を目の当たりにするようなことがあれば。そのときは。
俺はもう、薪への気持ちを抑えきれない。どんなことをしてでも彼を自分のものにしたくなる、そのとき、俺はひとではなくなる。
机の上の携帯が震えて、鈴木が心待ちにしていた人からのメールの着信を報せた。しかし、鈴木の耳も頭も、その静かな振動音を捉えることができるほど冷静ではなかった。
そしてこの些細な時間のずれが、更なる悲劇の引き金を引くことになる―――――。
テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学