秘密の森のアリス(10) 4人の非難を受けて分が悪くなった薪は、女妖怪の身体を起こし、目隠しを取ってやった。が、人質を解放する気はないらしく、彼女の傍に片膝を付いた体勢のまま、銃の先が彼女から離れることはなかった。
「心を覗かれるのは不愉快だ。もう1度やったら容赦なく撃つからな」
女妖怪は大人しくしていたが、ふと気付いたように「三郎は?」と訊いた。彼女の問いに、薪は手足を縛って転がしてある彼のことを思い出したが、
「死んだよ。僕が殺した」
『! なんてことを』
『よくも弟を!』
肉親を害されて憤慨する彼らを、薪は冷笑する。
その酷薄な笑みに勢いを削がれたように、彼らの憤慨は一時で収まり、慟哭がそれに取って代わった。妖怪にも肉親の死を悼む情はあると見える。しかし、彼らの嘆くさまを睥睨する亜麻色の瞳は、氷のように冷たかった。
「君たちが食べてきた人間にだって、親や兄弟がいるんだ。自分のしたことが自分に返って来たからって、憤るのは間違ってる」
薪の言うことは正論だが、その理屈は通らないだろうと青木は思った。
彼らが食料である人間に逆襲を受けて、それは自分の立場に置き換えてみれば、肉親が牛や豚に殺されて、しかし彼らの同胞を食べてきたのだから憤るのはおかしいと、そう言われているようなものだ。納得できるわけがない。
「三郎が話してくれた。君たちは、人間を食べなくても天寿を全うできるんだろう。もう充分生きたはずだ。これから先は人間を襲わずに、森の中で暮らす。そう約束できるなら、僕たちはこのまま帰る。どうだ?」
「薪さん!?」
薪には彼らの命を奪う気はないのだと分かって、青木は不安になる。
彼らを見逃していいはずがない。自分たちはこれで逃げ延びられるかもしれないが、彼らはきっとまた、人間を襲う。それは彼らの生存本能に基づく行為で、だから彼らには罪の意識もなく、その衝動を断つことは不可能に近い。
青木は薪の傍らに屈み、彼の意見を覆そうと、強くかぶりを振った。
「彼らに人間の理屈が通るとは、到底思えません。ここで片をつけるべきです」
「青木。僕たちは警官だ。犯罪者を捕まえるまでが僕たちの仕事だ」
「ちょっと待ってください。彼らは人間ではありませんし、ここに罪を裁く司法は存在しません。オレたちがここで彼らを見逃すってことは、彼らを野放しにするってことですよ? また直ぐに、次の犠牲者が出ます」
薪の気持ちは分からないでもない。青木だって、好き好んで他者の命を葬りたくはない。しかしこの場合、それを為さないことは正義ではない。ただの怯懦だ。
「オレたち以外の誰かが襲われるんですよ。見過ごせません。薪さんがやらないならオレがやります。銃を貸してください」
「青木。僕たちは捕まえるだけだ。生殺与奪の権利はない」
同じ言葉を繰り返す薪に、青木は説得を諦める。薪は頑固だ。こうやって自分の意見に固執しだしたら、何を言っても意志を変えない。
「もう1度言います。銃を貸してください」
「僕たちは警察官だ! これから犯罪を犯すかも知れないからといって、その者を殺害することは職務に反する!」
「だからそれは人間の場合でしょう!? 彼らは人間じゃ」
薪は青木の口を左手で塞ぎ、ヒートアップする論争に休符を挟んだ。男とは思えないやさしい手の感触に青木が言葉を止めると、薪は静かに言った。
「人間じゃなくても、彼らには感情がある」
弟を殺されたと聞いて憤る彼らを冷酷に嘲笑ったはずの薪は、自身の振る舞いとはまるで反対のことを言い出した。
「弟が死んだと聞かされて、彼らは悲しんだじゃないか。改心する可能性もある」
改心?
それは人間の心を持っているものにだけ可能な未来だ。彼らにその時が訪れるとは、青木には思えない。
冷静な薪らしくもない、彼は時に非情な判断をしてきたはずだ。それがここに来て、どうしてこんな状況に合わない真似を―――――。
『殺すがいい』
自分たちのやり取りを黙って聞いていた長兄は、重々しく口を開いた。
『小さい男の言うことは正しい。そして、大きな男の予想も間違っていない。おれたちはこれからもひとを食うだろう』
長兄らしい、正直な言葉だと思った。
彼が妖怪らしからぬフェア精神の持ち主であることや、他者に対する思いやりを持っていることを、青木は戦いを通して知っていた。彼が青木に手加減をしていたことも分かっていた。ピストルの弾を弾くような硬い拳が本気で入っていたら、肋骨の4,5本、軽くイッてるはずだ。
「その呼び方やめろ。僕には薪って名前がある。こっちは青木」
『では、小さいマキ』
「小さいはいらん!! てか、わざと言ってるだろ、おまえ!」
薪は青木の口から手を離すと、屈んだ両膝の上に細い肘を乗せ、頬杖を付いてうんざりしたように長兄を見た。
「だから。これから先、おまえらが人を襲わないと約束すれば、殺さないって」
『それは無理だ』
「なぜ」
『では聞くが、マキは死ぬのが怖くないのか』
至極当たり前のことを訊かれて、薪は黙る。長兄は、見た目に相応しくない理性的な声音で言葉を継いだ。
『おれたちは死ぬのが恐ろしい。だから人間を食った』
生きるために他生物を食べる、それが悪なのかと問われれば、自分たちにも同じ質問が返ってくる。この血肉に変わった命を偲べば、簡単に答えを出すことも躊躇われて、青木は自分の考えに自信が持てなくなった。
彼らの意識では、人を食べることは罪ではない。それは彼らが人ではないから。だったら、彼らを人の法で裁くのは正当か?
「誰だって死ぬのは怖い」
当たり前の問いに当たり前の答えを返して、薪は長兄と相対した。亜麻色の瞳が、真っ直ぐに彼を見ている。
「でも、僕たちは永遠に生きていたいとは思わない。天寿をまっとうできれば、それで充分だ」
彼は拳銃を下ろし、しかしそれを青木に返そうとはせず、自分の内ポケットにしまった。左胸に手を差し込んだまま、自分の動悸を確かめるように、
「ずっと昔に死んでしまったという君たちの仲間は、人を食べなかったと聞いた。ならば君たちも、彼らと同じ終焉を迎えられるはずだ」
『連中は弱虫だ。人間を食べる勇気がなかっただけだ』
「ちがう! 君たちの仲間は、人間を食べないことを選択して死んでいったんだ!」
激しい言葉と共に、さっと懐から出した右手に、彼は何も持たなかった。彼の手のひらは開かれており、青木はそこに何物をも認めることができなかった。
「限られた時間しか持たないからこそ、得られるものも気付けるものもある。できるだけ多くの思いを他の生き物と交わそうとする、伝え合いたいと思う。そうして自分以外の誰かと一緒に作り出したものは、限りなく尊いと僕は思う。
君らの仲間達は、神さまに与えられただけの時間を使いきって死んだ。でもそのとき、彼らはたくさんの尊いものを持って、ここから旅立ったはずだ」
見落としていた、と青木は思った。
何も持たないと思っていた薪は、多くのものを持っていた。その手のひらには、溢れんばかりの彼の想いが載っていた。それは彼らに対する思いやりであり、彼らによって葬られた人々に対する憐情であり、それでも彼らを赦したいと願う彼のこころだった。
「悠久の生命を得た代わりに、君たちは大事なものをみんな失った。命が潰えるときに、何も持っていくものがない。だから怖くて死ねないんだ」
彼らに、大昔の記憶がどれほど残っていたのかは不明だ。しかし彼らは、黙って薪の話を聞いていた。
青木にも経験があるが、薪の説教は不思議と耳に心地よい。言葉は決して優しいものではないのだが、何故か暖かいものを感じる。彼らにも、それが伝わっているのだろうか。
しばらくの間をおいて、長兄が悲しそうに言った。
『そんなもの、おれたちにはもう作りようがない』
「なにを寝ぼけたこと言ってんだ。3人で作ればいいじゃないか。兄弟なんだろ、おまえたち」
吐き捨てる口調で言ったその言葉も、熱い眼差しがそれを裏切る。懸命にエールを送る、声にならない彼の想いが洞窟内に木霊する。
「僕は1人っ子だったからな。ちょっと羨ましいぞ」
テーマ : 二次創作:小説
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