ニアリーイコール(2)
ニアリーイコール(2)
蛙の声が聞こえる。
内風呂はそうでもないが、露天風呂に来るとひどく耳につく。薪が言ったとおりだ。
その声は、青木に自分の罪を思い知れ、と弾劾するかのように強く激しく、飽くことなく繰り返された。
薪が彼らの秘め事について教えてくれたとき、青木の頭に浮かんだのは、過去の自分の行いだった。
自分は、薪の昔の恋人にそっくりなこの顔を利用して薪に近付いた。
偶然顔が似ていた、それだけじゃない。雪子から聞いた薪の過去や鈴木との様子を参考にして、彼が鈴木を思い出すであろうシチュエーションを用意してまで、彼の心を自分に向けさせようと画策したのだ。白百合の花束や食べ物の好み、鈴木の無邪気さ、遠慮のなさ、それらは雪子から得た情報で青木が意図的に作り出した偽りの青木の姿だった。
それは紛れもなく薪が憎む不正の一種で、そんな方法でしか彼にアプローチできなかった愚かしい自分を、青木は今こそ殴りつけたかった。
彼に近付きたくて、自分のことを見て欲しくて、それがどんなに欺瞞に満ちた行為だったか、あの時は気付かなかった。あの頃、いつも青木は鈴木のことを意識していた。薪の前で、鈴木ならこうしただろうと思われる行動をわざと取った。そうすれば薪は断れない、鈴木にそっくりの自分を拒否できない、そこまで計算していた。
自分は彼に関心を持ってもらうために、彼の大切な思い出を利用した。
薄汚れた詐謀で、薪の一番大事なひとを汚した。
鳴き上手な同胞を利用して自分の欲望を満たす狡猾な雄蛙のように。
自分も、彼らと同じことをしてきた。薪が対峙したときに平常心を失うこの世でただ一人の人物の虚像を使って彼に近付き、最終的に彼を手に入れた。浅ましさと欲にまみれた行為。自分と彼らと、どこが違うのだろう。
――――― 昔の話だ。
青木は自分にそう言い聞かせる。
今は違う。鈴木を意識したりしていない。それに、そのことではちゃんと報いも受けた。ベッドの中で鈴木に間違われて……よくよく考えたら、自分は怒れる立場ではなかったのだ。自分は「昔の恋人にそっくりな男」という触れ込みで薪の心に入る作戦を立てていたのだから、当然の帰結だったのだ。
あの時は青木だって辛かった。それでチャラでいいじゃないか。
だけど。
薪はそのことに気付いていない。薪は青木の謀に乗せられただけ、なのにあんなに自分を責めて、何ヶ月も責め続けて。
ベッドの中で、申し訳なさそうに瞳を伏せていた彼を思い出すと、今でも胸が痛む。
彼が悪いのではないのに、悪かったのは自分なのに。
やってしまったことは取り返せないし、現在はこうして上手く行っているのだから、蒸し返すことは得策ではない。薪だって、今更そんなことを言われても困惑するだけだろう。
分かっているのに、どうも気持ちが悪い。腹の底がムズムズして、落ち着かない。薪の顔が真っ直ぐに見られない。
「おまえにしては、長湯だったな」
風呂から上がって部屋に戻った青木に、読んでいた文庫本の頁から顔を上げて笑いかけてくれた薪に、ぎこちなく微笑み返して青木は備え付けのサニタリーに入った。青木が入ると一人で満員になってしまう狭い空間で、肘に当たる壁を気にしながら髪を乾かす。
「夜が更けたせいかな、蛙の声が低くなったみたいだ。空気も冷たくなってきたし」
薪は文庫本を閉じて、ソファから立ち上がった。テーブルの上に本を置くと、スタンドの灯りを消して、常夜灯に切り替えた。
「涼んだら、窓を閉めておけよ。僕はもう休むから」
そう言ってベッドに入った。
髪を乾かし終えると、青木はソファに座り、天井の常夜灯を見上げた。後頭部を背もたれに載せ、ぼんやりとオレンジ色の光を眺める。
しばらくそうしていても、薪の寝息は聞こえてこない。ベッドの中で自分を待ってくれているのだろうな、と思ったけれど、青木はソファから動く気になれなかった。
薪が寝返りを打つ音が聞こえた。後ろ頭に、視線を感じる。こちらをじっと見て、慎ましく青木を待っている。
「青木、まだ暑いのか?」
焦れたらしい。
「薪さん、ベッド使ってください。オレ、こっちで寝ますから」
「どうしたんだ?」
青木の返答にびっくりして、薪はベッドから青木のいるソファにすっ飛んできた。薪が驚くのも無理はなかった。土曜の夜に外泊して、そこで別々に休むなんて、初めてだ。何事かあったと思うのが普通だろう。
青木が返答に迷っていると、薪はちょこんと青木の隣に腰掛けて、青木の顔を覗き込んだ。思わず青木が眼を逸らすと、薪も視線を外し、青木と同じように背もたれにその身を預けた。青木がそっと彼の様子を盗み見ると、薪の澄ました横顔には亜麻色の瞳だけが不安げに揺れていて。きっと恋人が急にふさぎこんだ原因を探っているのだろう、でもさっぱり分からなくて困っている。
貴重な休日に薪を連れ出しておいて、その上彼に気を使わせるなんて申し訳ない、と青木は思う。
ごめんなさい、薪さん。こんなことで凹むなんてオレらしくない、明日になったら元気になりますから、すみません、今夜は放っておいてください。
心の中で謝るが、そんなものは自分への言い訳にしか過ぎなくて、だから彼に伝わるはずもない。青木の心中を知りようのない薪は、惑い、思案し、不安になって、彼にしてみれば精一杯の行動に出る。
細い指が、青木が着ているバスローブの紐にかかった。大抵のことなら青木はこれで機嫌を直す、と薪に思われているに違いない。たしかに、日常のちょっとした落ち込みなら喜んで誤魔化される青木だが、今日のは事情が違う。
結び目を解こうとした薪の手を、青木は自分の手で制した。拒まれたことに驚いた薪の瞳が丸くなる。
「青木?おなか痛いのか?」
…………オレが拒む原因て、薪さんの想像では腹痛しかないんですね……。
「いいえ、どこも痛くないです。でも、ペンションは壁が薄いから。声が隣に聞こえちゃいますよ」
ここは角部屋で、隣の部屋は空き部屋で、そんなことは最初からチェック済みだったけれど、青木は敢えて知らない振りをした。欺瞞の象徴とされる声を聞きながら、欺瞞で彼に近付いた自分が、彼に触れるのは許されない気がした。
「……抑えるから」
気が付いてみれば、薪はまだバスローブのままでいて、その下にはシャツも着ていない。薪もちゃんとその気でいてくれて、でも今の青木には、そんな彼の健気さが息苦しかった。
自分の気持ちを吐き出せば楽になる、きっと薪は許してくれるとも思った。だけどそれはあまりにも利己的な考えで、正直と言えば聞こえはいいが、薪のやさしさに頼り切った卑怯者の行動だ。聞かされた薪の気持ちを考えたら、絶対に口にすべきではない。
鈴木の存在は薪にとって、魂の奥深くに大切にしまった至宝だ。
薪がどれだけ彼を愛していたか、別れてから十年の上もその想いを捨てきれないでいた、その事実を知りながら、青木は薪の消すことのできない恋情を利用した。自分は、薪の一番大切なものを穢したのだ。
最も許しがたいのは、と青木は激しく胸を疼かせる。
今の今まで、己の罪を知ることもなく、のうのうと彼の傍で、彼に愛されていたことだ。気付かなかった、知らなかった、それは免罪符ではなく、最も深い罪だ。
「青木?!」
薪の驚いた声が聞こえて、青木は初めて自分の頬に涙が伝い落ちていたことを知る。慌てて手で隠すが、薪の心配は一気に加速して、
「そんなにお腹痛いのか?待ってろ、オーナーから薬もらってくるから。いや、医者に行ったほうがいいかな、よし、いま救急車を」
得意のカンチガイが始まった。
「違います! どこも痛くないですから!」
「じゃあ、どうして泣いてるんだ?誰かに苛められたのか。もしかしてあれか、3つ隣の部屋の若いカップルか。すれ違いざまにおまえのこと、ウドの大木とか言って笑ってたやつら」
思い込んだら即行動の薪の手から携帯電話を奪い取って、一安心と思いきや、数秒の間もおかず次のカンチガイループに走りこむ。頭の回転がよすぎるのも考えものだ。
「よし、僕が百倍にして返してきてやる!」
「え、オレ、そんなこと言われてたんですか? てか、違いますから!」
ドアノブに手をかけた薪を後ろから抱きしめるように留めて、青木は焦る。
「今、彼らの部屋に飛び込んだら大変なことになりますよっ!!」
多分訴えられると思う、絶対にそうなると思う、だってこのペンション、全室ダブルベットのカップル仕様になってるし、そういう時間だもん!
「じゃあ、なんなんだ」
青木の腕の中で、若魚が跳ねるようにくるりと身体を反転させて、薪は青木の両頬を両手で挟んだ。そうして自分から眼を逸らせないように青木の顔の向きを固定すると、容赦なく尋問用の厳しい視線をぶつけてきた。
「何をグダグダ考えてるのか知らないけど、考えすぎるとロクなことがないぞ?おまえはバカなんだから、仕事以外で無理に頭使うな。負荷を掛け過ぎるとニューロンがショートして、耳から煙が出てくるぞ」
薪の漫画みたいな喩えに、青木はつい頬を緩める。振動が彼の手のひらに伝わって、それでようやく薪は吊り上げた眉をなだらかにしてくれる。
平常に戻った形の良い眉の下に、叡智を宿す宝玉がふたつ。今それは、青木の沈痛と薪の不安を映して、かすかに震えている。
薪に、こんな瞳をさせてはいけない。
自分が楽になりたいだけかもしれないけれど、彼の憂いを増やすことはしたくない。それでまたひとつ自分の罪が増えることになっても、それはすべて自業自得だ。
「薪さん、ごめんなさい。オレ……あいつらと一緒です」
あいつらって?と薪は首を傾げ、鸚鵡返しに訊いた。
曖昧な表現だったな、と青木は反省し、薪に分かるように直接的な言葉を選んだ。
「騙したんです、あなたのこと」
*****
原作の青木さんて、けっこうこういうとこあると思うの。
彼は、薪さんの想いに気付かない。 雪子さんがあそこまで口にしているのに、気付こうともしない。
鈍いというわけではなくて、自分の中にないものは想像するのが難しいから、そういうことなんだとは思うけど、それもまた罪だなって。
そういう青木さんだから薪さんも惹かれたのでしょうけどね。
蛙の声が聞こえる。
内風呂はそうでもないが、露天風呂に来るとひどく耳につく。薪が言ったとおりだ。
その声は、青木に自分の罪を思い知れ、と弾劾するかのように強く激しく、飽くことなく繰り返された。
薪が彼らの秘め事について教えてくれたとき、青木の頭に浮かんだのは、過去の自分の行いだった。
自分は、薪の昔の恋人にそっくりなこの顔を利用して薪に近付いた。
偶然顔が似ていた、それだけじゃない。雪子から聞いた薪の過去や鈴木との様子を参考にして、彼が鈴木を思い出すであろうシチュエーションを用意してまで、彼の心を自分に向けさせようと画策したのだ。白百合の花束や食べ物の好み、鈴木の無邪気さ、遠慮のなさ、それらは雪子から得た情報で青木が意図的に作り出した偽りの青木の姿だった。
それは紛れもなく薪が憎む不正の一種で、そんな方法でしか彼にアプローチできなかった愚かしい自分を、青木は今こそ殴りつけたかった。
彼に近付きたくて、自分のことを見て欲しくて、それがどんなに欺瞞に満ちた行為だったか、あの時は気付かなかった。あの頃、いつも青木は鈴木のことを意識していた。薪の前で、鈴木ならこうしただろうと思われる行動をわざと取った。そうすれば薪は断れない、鈴木にそっくりの自分を拒否できない、そこまで計算していた。
自分は彼に関心を持ってもらうために、彼の大切な思い出を利用した。
薄汚れた詐謀で、薪の一番大事なひとを汚した。
鳴き上手な同胞を利用して自分の欲望を満たす狡猾な雄蛙のように。
自分も、彼らと同じことをしてきた。薪が対峙したときに平常心を失うこの世でただ一人の人物の虚像を使って彼に近付き、最終的に彼を手に入れた。浅ましさと欲にまみれた行為。自分と彼らと、どこが違うのだろう。
――――― 昔の話だ。
青木は自分にそう言い聞かせる。
今は違う。鈴木を意識したりしていない。それに、そのことではちゃんと報いも受けた。ベッドの中で鈴木に間違われて……よくよく考えたら、自分は怒れる立場ではなかったのだ。自分は「昔の恋人にそっくりな男」という触れ込みで薪の心に入る作戦を立てていたのだから、当然の帰結だったのだ。
あの時は青木だって辛かった。それでチャラでいいじゃないか。
だけど。
薪はそのことに気付いていない。薪は青木の謀に乗せられただけ、なのにあんなに自分を責めて、何ヶ月も責め続けて。
ベッドの中で、申し訳なさそうに瞳を伏せていた彼を思い出すと、今でも胸が痛む。
彼が悪いのではないのに、悪かったのは自分なのに。
やってしまったことは取り返せないし、現在はこうして上手く行っているのだから、蒸し返すことは得策ではない。薪だって、今更そんなことを言われても困惑するだけだろう。
分かっているのに、どうも気持ちが悪い。腹の底がムズムズして、落ち着かない。薪の顔が真っ直ぐに見られない。
「おまえにしては、長湯だったな」
風呂から上がって部屋に戻った青木に、読んでいた文庫本の頁から顔を上げて笑いかけてくれた薪に、ぎこちなく微笑み返して青木は備え付けのサニタリーに入った。青木が入ると一人で満員になってしまう狭い空間で、肘に当たる壁を気にしながら髪を乾かす。
「夜が更けたせいかな、蛙の声が低くなったみたいだ。空気も冷たくなってきたし」
薪は文庫本を閉じて、ソファから立ち上がった。テーブルの上に本を置くと、スタンドの灯りを消して、常夜灯に切り替えた。
「涼んだら、窓を閉めておけよ。僕はもう休むから」
そう言ってベッドに入った。
髪を乾かし終えると、青木はソファに座り、天井の常夜灯を見上げた。後頭部を背もたれに載せ、ぼんやりとオレンジ色の光を眺める。
しばらくそうしていても、薪の寝息は聞こえてこない。ベッドの中で自分を待ってくれているのだろうな、と思ったけれど、青木はソファから動く気になれなかった。
薪が寝返りを打つ音が聞こえた。後ろ頭に、視線を感じる。こちらをじっと見て、慎ましく青木を待っている。
「青木、まだ暑いのか?」
焦れたらしい。
「薪さん、ベッド使ってください。オレ、こっちで寝ますから」
「どうしたんだ?」
青木の返答にびっくりして、薪はベッドから青木のいるソファにすっ飛んできた。薪が驚くのも無理はなかった。土曜の夜に外泊して、そこで別々に休むなんて、初めてだ。何事かあったと思うのが普通だろう。
青木が返答に迷っていると、薪はちょこんと青木の隣に腰掛けて、青木の顔を覗き込んだ。思わず青木が眼を逸らすと、薪も視線を外し、青木と同じように背もたれにその身を預けた。青木がそっと彼の様子を盗み見ると、薪の澄ました横顔には亜麻色の瞳だけが不安げに揺れていて。きっと恋人が急にふさぎこんだ原因を探っているのだろう、でもさっぱり分からなくて困っている。
貴重な休日に薪を連れ出しておいて、その上彼に気を使わせるなんて申し訳ない、と青木は思う。
ごめんなさい、薪さん。こんなことで凹むなんてオレらしくない、明日になったら元気になりますから、すみません、今夜は放っておいてください。
心の中で謝るが、そんなものは自分への言い訳にしか過ぎなくて、だから彼に伝わるはずもない。青木の心中を知りようのない薪は、惑い、思案し、不安になって、彼にしてみれば精一杯の行動に出る。
細い指が、青木が着ているバスローブの紐にかかった。大抵のことなら青木はこれで機嫌を直す、と薪に思われているに違いない。たしかに、日常のちょっとした落ち込みなら喜んで誤魔化される青木だが、今日のは事情が違う。
結び目を解こうとした薪の手を、青木は自分の手で制した。拒まれたことに驚いた薪の瞳が丸くなる。
「青木?おなか痛いのか?」
…………オレが拒む原因て、薪さんの想像では腹痛しかないんですね……。
「いいえ、どこも痛くないです。でも、ペンションは壁が薄いから。声が隣に聞こえちゃいますよ」
ここは角部屋で、隣の部屋は空き部屋で、そんなことは最初からチェック済みだったけれど、青木は敢えて知らない振りをした。欺瞞の象徴とされる声を聞きながら、欺瞞で彼に近付いた自分が、彼に触れるのは許されない気がした。
「……抑えるから」
気が付いてみれば、薪はまだバスローブのままでいて、その下にはシャツも着ていない。薪もちゃんとその気でいてくれて、でも今の青木には、そんな彼の健気さが息苦しかった。
自分の気持ちを吐き出せば楽になる、きっと薪は許してくれるとも思った。だけどそれはあまりにも利己的な考えで、正直と言えば聞こえはいいが、薪のやさしさに頼り切った卑怯者の行動だ。聞かされた薪の気持ちを考えたら、絶対に口にすべきではない。
鈴木の存在は薪にとって、魂の奥深くに大切にしまった至宝だ。
薪がどれだけ彼を愛していたか、別れてから十年の上もその想いを捨てきれないでいた、その事実を知りながら、青木は薪の消すことのできない恋情を利用した。自分は、薪の一番大切なものを穢したのだ。
最も許しがたいのは、と青木は激しく胸を疼かせる。
今の今まで、己の罪を知ることもなく、のうのうと彼の傍で、彼に愛されていたことだ。気付かなかった、知らなかった、それは免罪符ではなく、最も深い罪だ。
「青木?!」
薪の驚いた声が聞こえて、青木は初めて自分の頬に涙が伝い落ちていたことを知る。慌てて手で隠すが、薪の心配は一気に加速して、
「そんなにお腹痛いのか?待ってろ、オーナーから薬もらってくるから。いや、医者に行ったほうがいいかな、よし、いま救急車を」
得意のカンチガイが始まった。
「違います! どこも痛くないですから!」
「じゃあ、どうして泣いてるんだ?誰かに苛められたのか。もしかしてあれか、3つ隣の部屋の若いカップルか。すれ違いざまにおまえのこと、ウドの大木とか言って笑ってたやつら」
思い込んだら即行動の薪の手から携帯電話を奪い取って、一安心と思いきや、数秒の間もおかず次のカンチガイループに走りこむ。頭の回転がよすぎるのも考えものだ。
「よし、僕が百倍にして返してきてやる!」
「え、オレ、そんなこと言われてたんですか? てか、違いますから!」
ドアノブに手をかけた薪を後ろから抱きしめるように留めて、青木は焦る。
「今、彼らの部屋に飛び込んだら大変なことになりますよっ!!」
多分訴えられると思う、絶対にそうなると思う、だってこのペンション、全室ダブルベットのカップル仕様になってるし、そういう時間だもん!
「じゃあ、なんなんだ」
青木の腕の中で、若魚が跳ねるようにくるりと身体を反転させて、薪は青木の両頬を両手で挟んだ。そうして自分から眼を逸らせないように青木の顔の向きを固定すると、容赦なく尋問用の厳しい視線をぶつけてきた。
「何をグダグダ考えてるのか知らないけど、考えすぎるとロクなことがないぞ?おまえはバカなんだから、仕事以外で無理に頭使うな。負荷を掛け過ぎるとニューロンがショートして、耳から煙が出てくるぞ」
薪の漫画みたいな喩えに、青木はつい頬を緩める。振動が彼の手のひらに伝わって、それでようやく薪は吊り上げた眉をなだらかにしてくれる。
平常に戻った形の良い眉の下に、叡智を宿す宝玉がふたつ。今それは、青木の沈痛と薪の不安を映して、かすかに震えている。
薪に、こんな瞳をさせてはいけない。
自分が楽になりたいだけかもしれないけれど、彼の憂いを増やすことはしたくない。それでまたひとつ自分の罪が増えることになっても、それはすべて自業自得だ。
「薪さん、ごめんなさい。オレ……あいつらと一緒です」
あいつらって?と薪は首を傾げ、鸚鵡返しに訊いた。
曖昧な表現だったな、と青木は反省し、薪に分かるように直接的な言葉を選んだ。
「騙したんです、あなたのこと」
*****
原作の青木さんて、けっこうこういうとこあると思うの。
彼は、薪さんの想いに気付かない。 雪子さんがあそこまで口にしているのに、気付こうともしない。
鈍いというわけではなくて、自分の中にないものは想像するのが難しいから、そういうことなんだとは思うけど、それもまた罪だなって。
そういう青木さんだから薪さんも惹かれたのでしょうけどね。