緋色の月(6)
緋色の月(6)
「DNA鑑定の結果、被疑者青木一行のものと一致しました」
薪の脳細胞はその言葉の意味を正確に理解し、しかし次の瞬間、彼の全細胞は激しくそれを否定した。警視長の威厳も第九の名誉も忘れて、彼は叫んでいた。
「でたらめだ!!」
突き上げるような怒りが、彼を立ち上がらせた。腰掛けたままの一課長を見下ろし、声のトーンを抑えることもできないまま、薪は怒号した。
「青木は昨夜、一晩中僕と一緒だったんだ! 犯行現場へ行けるはずがない!」
自分の感情が、上手く制御できなかった。こんな情動的な言い方では相手を説得することはできない、と薪の理性が、感情に振り回される愚かな男をせせら笑った。
「僕が部下のために偽証するとでも? 冗談じゃない、僕は例え自分の肉親が犯した罪でも」
「あなたが嘘を吐いているとは言うとりません。しかし、DNAが一致した以上は、そちらを優先せざるを得ません」
落ち着いた声音で静かに返されて、薪の背中を冷たいものが駆け下りた。相対する一課長の濃灰色の瞳は、職務に人生を捧げてきた人間の自信と信念に満たされて、薪に己の未熟さを突きつけた。
そうだ、これは殺人事件なのだ。
「あなたの部下を釈放できない理由が、お分かりいただけましたかな」
一課の強気の理由が分かった。ここまで決定的な証拠があれば、文句なしに送検できる。薪が彼らの立場でも、徹底的に被疑者を取り調べるだろう。
「とは言え、同じ警察官。謂わば身内の不祥事だ。この件は緘口令を敷いとります。マスコミにも、被疑者の身元は一切明かしておりません。県警本部への連絡も、事件報告書が出来上がってからにしよう思っちょります」
青木が逮捕された情報がまだ何処にも洩れていないと知って、薪は胸を撫で下ろした。誤認逮捕とは言え、彼の経歴に瑕がつくことに違いはない。県警本部への報告の前に彼を救い出すことができれば、本庁の人間には知られずに済む。
「まあ、時間の問題と思うちょりますがな」
勝ち誇った表情で茶を啜る一課長を睨視して、薪はくちびるを噛んだ。
絶対に青木は犯人ではない。これには大きなからくりがあるはずだ。
DNAが合致したなら、それは鑑定の方が間違っているのだ。何者かが鑑定結果を改竄した可能性だってある。例えばこの町の有力者が犯罪を犯してしまい、それを隠蔽するために警察内部にいる誰かが、とそこまで考えて、薪は自分の仮説の欠陥に気付いた。
誰かに恨みを買っているならそれもありだが、青木はこの町は初めてだ。濡れ衣を纏うスケープゴードを選ぶとして、本庁の警視を選ぶだろうか? 警察官が殺人を犯したとなれば、これは全国区の大ニュースだ。薪が誰かに罪を着せようとするなら、もっと簡単に事が運ぶ一般人を選ぶ。
「DNA鑑定書と捜査資料を、見せていただくわけにはいきませんか」
断られることを承知で頼むと、意外なことに課長は「いいですよ」と二つ返事で応じてくれた。それを見れば薪が納得して引き下がると考えたのかもしれないが、薪にはありがたかった。
資料を持ってきたのは、宿に来た若い方の刑事だった。名前は、峰と言ったか。
「こいつは若いが、なかなか気働きのできるやつでしてね。今回の報道対策も、こいつが担当してます」
それは一課長の仕事ではないのかと思ったが、報道機関の少ない田舎の所轄では結構見られる光景だ。課長に直接話しかけられないプレスが、下っ端の刑事に取次ぎを頼む。いつの間にか彼が広報窓口になっている、という具合だ。
峰は薪を見て、蔑むような眼をした。汚いものでも見るような目つきに、男色野郎と思われているのだと感じた。それを自分に向けられる分には捨て置けるが、青木がこんな眼で見られたら傷つくだろうと思った。
「事件発生は、昨夜の11時ごろです」
手帳をめくりながら、峰刑事が説明を始めた。
「被害者は2人。うち一人は男性で、名前は倉田哲。I市在住の25歳。同市内の工務店に勤めています。もう一人は女性で、名前は水木しのぶ。同市在住、家事見習いの23歳。二人は1年ほど交際をしており、男女の関係でもありました。
倉田の同僚及び店員の証言から、昨夜二人は、倉田の仕事が終わる午後8時ごろに待ち合わせ、市内の居酒屋で食事と少々のアルコール、そのあと夜桜見物にとY地区の公園に赴き、被害にあったものと思われます」
要領を得た説明を聞きながら、薪は捜査資料を読み込む。現場写真、証拠品のリスト、司法解剖の結果は未だ届いていないが、昨夜の11時に起きた事件の資料を翌日の昼前にこれだけ揃えられれば、ここの鑑識は迅速な部類に入る。
問題のDNA鑑定書も、正式なものだった。
コピーではなく、鑑定機関の刻印が押された本物を持ってきたのは、薪に言いがかりを付けられないようにするためか。改竄の形跡は認められないし、青木のDNAデータにはIDナンバーが明記してあるから、警察のデータベースに保管されているものだ。万が一にも取り違えはない。
「双方、着衣の乱れがあったことから情交の最中に襲われたものと考えられますが、男性の方は下半身の露出はなく、女性の体内に残されていた精液は真犯人のものと推測されます。そのDNAが青木警視のものと一致したわけです」
犯行時刻、彼の精液は僕の体内に注がれていました。だから彼女の身体に残っているはずがありません、と薪が言ったところで、DNA鑑定は覆らない。言うだけ無駄だ。
「目撃証言があったと聞きましたが。その目撃者の氏名は?」
「それは明かせません」
それはそうだろう。被疑者の関係者に目撃者の素性を明かして、脅しでも掛けられたら厄介なことになる。これは捜査側として当然の配慮だ。
最初から指示してあったのだろう、資料からも目撃証言の頁だけは抜かれていた。自分が彼らに徹底的に信用されていないことに、薪は憤りを感じなかった。1課で過ごした4年間が、彼らへの理解を促した。
「では、宿の人間の証言は取りましたか? 彼がその時刻、宿にはいなかったという」
「それはまだこれからです。しかし、あの宿のフロントには9時までしか人が居ません。玄関の鍵は内側からは外すことができますし、誰にも見られずに外出して、また戻ってくることは可能だと思われます」
確かに。薪たちが宿に着いたときには9時を回っていて、玄関は開いていたがフロントに人は居なかった。青木がカウンターに置かれた呼び鈴を鳴らして、それでチェックインしたのだ。
目撃証言とDNA鑑定。しかも、彼のアリバイを証明するのは、彼の情人だけ。これだけ条件が揃ったのでは仕方ない。青木は真犯人としての取調べを受けることになるだろう。
薪は思い、自分が取調室で行ってきた非情な行為を脳裏に甦らせ、胸を潰されるような苦しさを味わう。
あの過酷な取調べに、青木は耐えられるだろうか。
犯罪者、特に重罪を犯したものは、自分の容疑を認めない。自白すれば刑務所暮らしが待っていることが分かっているからだ。だから彼らは、ありとあらゆる嘘を吐く。中には、どう考えても自分の首を絞めているとしか思えないような嘘まで、必死になって自分の未来を守ろうとするのだ。それを潔くないとか醜いとか言うのは、自分が犯罪者になったことのない人間のきれいごとだ、と昔、先輩刑事に教えてもらったことがある。
保身に走る彼らに、本当のことを言わせるのはとても骨が折れる。普通に話をしていたのでは、まず埒が明かない。耳元で怒鳴ったり机を蹴ったり、そんなのはまだ性質がいいほうだ。彼らから自白を取るときの基本は、眠らせない、食べさせない、漫然とさせない。聴覚が麻痺するまで我鳴り立てられ、意識が朦朧としたところでおまえがやったんだろう、とやさしく諭されれば、本当に自分がやった気になる人間も出てくる。すみませんでした、と無実の罪で涙を流す被疑者もいるのだから、人間の心理とは不思議なものだ。
まだそこまで差し迫ってはいないだろうが、このまま何日も拘留されたら。やってもいない殺人を認めてしまうかもしれない。
その段階で書類送検だ。そうなってしまったら、もう薪には手が出せない。警視長の権限をもってしても、検察に渡った案件を差し戻すことはできない。
「青木は容疑を認めましたか?」
「いいえ。今のところ否認しています」
今のところ、と余計な一言を加えて、峰刑事は手帳を閉じた。薪も捜査資料を置き、両手を軽く握って膝の上に置いた。背筋をぴしりと伸ばし、
「もう一度確認しますが、目撃証言の内容は、彼が犯行時刻に公園に居たことを証言するものであって、殺人を犯している現場を目撃したというものではないのですね?」
はい、と峰刑事がツンツン頭を上下に動かすのに、薪は微笑みかけた。彼は若いが、優秀な刑事だと思われた。この場に指名されてきたことから、課長の信頼も厚いと見た。
「資料を見る限りでは、彼を犯人だと断定するのは尚早かと思われます。女性の体内から男性の精液が見つかったからと言って、その持ち主が犯人とは限らない」
「エリート警視長さんのお言葉とも思えませんな。彼以外の誰を疑えと?」
往生際の悪い、と小声で添えられた挑発に、薪は乗らなかった。事件調書を見たことで、彼の頭脳は捜査官モードに切り替わっていた。この状態の彼を崩せる人間は、この世には存在しない。
「以前私が手がけた事件で、女性の体内から精液が発見されたものの、犯人は女性だったということがありました。彼女は産婦人科の看護師で、男性の精液を手に入れられる立場にあった。不妊治療のために冷凍保存されているものを使い、針のない注射器を用いて被害者の体内に注入したんです」
「は! バカバカしい。あなたはこの事件の犯人は女性だとでも言うつもりですか? 二人の被害者は、石のようなもので殴り殺されてるんですよ。男の方は一撃だ。男の犯行と考えるほうが自然でしょう」
田舎では、手の込んだトリックを用いた事件は珍しい。こなした数こそ多いが、実情は単純な事件しか扱ってこなかった劣等感を刺激されて、清川課長は必要以上に饒舌になった。
「私は可能性の話をしている」
薪の落ち着き払った声と物腰が、清川を激昂させた。
「あんたみたいに現場に出たこともないエリートに、何が分かる! 俺は30年間、事件と向き合ってきたんだ! 何十人もの犯罪者を捕まえてきた!」
自分も先刻は、こんな無様な姿を晒していたのか、と薪は冷静に振り返る。
愚かしい。こういう勝負は、感情に溺れたものが負けるのだ。
「捜査は数じゃない。一つの事件に何処まで深い考察を為したか、その深度が捜査官を成長させる。検挙した犯人の数で競い合うものではない」
薪は本庁の捜査一課で4年、研修先のロス市警で1年、現場を勤め上げている。その手で検挙した犯人の数も裕に二桁だ。警視総監賞も3度ほど、第九の室長を務めるようになってからは局長賞を3度、長官賞を2度も受賞している。清川と比べて、解決した事件の数でも決して引けを取らない。
が、薪はそれに関しては一言も口にせず、それは自らの言葉通り、事件に大小はなく優劣もないと考えているからだ。
「あなたたちにも、捜査官としての成長を期待する」
失礼、と立ち上がり、その場を辞そうとして、薪は足を止めた。黙ってしまった課長と、何故か不思議そうに薪を見ている若い刑事に向かって一礼する。
「捜査資料を見せていただき、ありがとうございました。ご配慮に感謝します」
管轄外の、しかも事件関係者である自分に資料の閲覧を許してもらったことに、礼は言うべきだと思った。現在、薪と彼らは敵対関係にあるが、受けた恩義には礼を返すのが薪の流儀だ。
背筋をぴんと伸ばして、薪は部屋から出て行った。
部屋に残されたうちの一人は、ちっ、と舌打ちし、面白くなさそうに腕を組んで、客人が手をつけなかったお茶を引き寄せ、がぶりと飲んだ。
もう一人は黙って捜査資料を片付け、それが済むと、恐る恐る上司の顔を見た。
「課長。あの人、本当に頭の病気なんですか?」
「あのくらいの演説で騙されんな、峰。誇大妄想狂っていうのはな、頭の良い人間が罹る病気なんだよ。奴さんには、前科もある。その上、毎日毎日犯罪者の脳みそなんか見てりゃ、おかしくもならぁな」
上司に諭されて、年若い刑事は捜査資料と湯飲みを載せた盆を持ち、署長室を出た。
給湯室に盆を置き、盥に水を張って茶碗を浸しながら、「奴の言うことは何一つ本気にするな」と課長に注意を受けた狂人の戯わ言を思い出す。
「……数じゃない、か」
低く呟き、彼はぼんやりと蛇口から盥へと落ちる水流を見つめた。
「DNA鑑定の結果、被疑者青木一行のものと一致しました」
薪の脳細胞はその言葉の意味を正確に理解し、しかし次の瞬間、彼の全細胞は激しくそれを否定した。警視長の威厳も第九の名誉も忘れて、彼は叫んでいた。
「でたらめだ!!」
突き上げるような怒りが、彼を立ち上がらせた。腰掛けたままの一課長を見下ろし、声のトーンを抑えることもできないまま、薪は怒号した。
「青木は昨夜、一晩中僕と一緒だったんだ! 犯行現場へ行けるはずがない!」
自分の感情が、上手く制御できなかった。こんな情動的な言い方では相手を説得することはできない、と薪の理性が、感情に振り回される愚かな男をせせら笑った。
「僕が部下のために偽証するとでも? 冗談じゃない、僕は例え自分の肉親が犯した罪でも」
「あなたが嘘を吐いているとは言うとりません。しかし、DNAが一致した以上は、そちらを優先せざるを得ません」
落ち着いた声音で静かに返されて、薪の背中を冷たいものが駆け下りた。相対する一課長の濃灰色の瞳は、職務に人生を捧げてきた人間の自信と信念に満たされて、薪に己の未熟さを突きつけた。
そうだ、これは殺人事件なのだ。
「あなたの部下を釈放できない理由が、お分かりいただけましたかな」
一課の強気の理由が分かった。ここまで決定的な証拠があれば、文句なしに送検できる。薪が彼らの立場でも、徹底的に被疑者を取り調べるだろう。
「とは言え、同じ警察官。謂わば身内の不祥事だ。この件は緘口令を敷いとります。マスコミにも、被疑者の身元は一切明かしておりません。県警本部への連絡も、事件報告書が出来上がってからにしよう思っちょります」
青木が逮捕された情報がまだ何処にも洩れていないと知って、薪は胸を撫で下ろした。誤認逮捕とは言え、彼の経歴に瑕がつくことに違いはない。県警本部への報告の前に彼を救い出すことができれば、本庁の人間には知られずに済む。
「まあ、時間の問題と思うちょりますがな」
勝ち誇った表情で茶を啜る一課長を睨視して、薪はくちびるを噛んだ。
絶対に青木は犯人ではない。これには大きなからくりがあるはずだ。
DNAが合致したなら、それは鑑定の方が間違っているのだ。何者かが鑑定結果を改竄した可能性だってある。例えばこの町の有力者が犯罪を犯してしまい、それを隠蔽するために警察内部にいる誰かが、とそこまで考えて、薪は自分の仮説の欠陥に気付いた。
誰かに恨みを買っているならそれもありだが、青木はこの町は初めてだ。濡れ衣を纏うスケープゴードを選ぶとして、本庁の警視を選ぶだろうか? 警察官が殺人を犯したとなれば、これは全国区の大ニュースだ。薪が誰かに罪を着せようとするなら、もっと簡単に事が運ぶ一般人を選ぶ。
「DNA鑑定書と捜査資料を、見せていただくわけにはいきませんか」
断られることを承知で頼むと、意外なことに課長は「いいですよ」と二つ返事で応じてくれた。それを見れば薪が納得して引き下がると考えたのかもしれないが、薪にはありがたかった。
資料を持ってきたのは、宿に来た若い方の刑事だった。名前は、峰と言ったか。
「こいつは若いが、なかなか気働きのできるやつでしてね。今回の報道対策も、こいつが担当してます」
それは一課長の仕事ではないのかと思ったが、報道機関の少ない田舎の所轄では結構見られる光景だ。課長に直接話しかけられないプレスが、下っ端の刑事に取次ぎを頼む。いつの間にか彼が広報窓口になっている、という具合だ。
峰は薪を見て、蔑むような眼をした。汚いものでも見るような目つきに、男色野郎と思われているのだと感じた。それを自分に向けられる分には捨て置けるが、青木がこんな眼で見られたら傷つくだろうと思った。
「事件発生は、昨夜の11時ごろです」
手帳をめくりながら、峰刑事が説明を始めた。
「被害者は2人。うち一人は男性で、名前は倉田哲。I市在住の25歳。同市内の工務店に勤めています。もう一人は女性で、名前は水木しのぶ。同市在住、家事見習いの23歳。二人は1年ほど交際をしており、男女の関係でもありました。
倉田の同僚及び店員の証言から、昨夜二人は、倉田の仕事が終わる午後8時ごろに待ち合わせ、市内の居酒屋で食事と少々のアルコール、そのあと夜桜見物にとY地区の公園に赴き、被害にあったものと思われます」
要領を得た説明を聞きながら、薪は捜査資料を読み込む。現場写真、証拠品のリスト、司法解剖の結果は未だ届いていないが、昨夜の11時に起きた事件の資料を翌日の昼前にこれだけ揃えられれば、ここの鑑識は迅速な部類に入る。
問題のDNA鑑定書も、正式なものだった。
コピーではなく、鑑定機関の刻印が押された本物を持ってきたのは、薪に言いがかりを付けられないようにするためか。改竄の形跡は認められないし、青木のDNAデータにはIDナンバーが明記してあるから、警察のデータベースに保管されているものだ。万が一にも取り違えはない。
「双方、着衣の乱れがあったことから情交の最中に襲われたものと考えられますが、男性の方は下半身の露出はなく、女性の体内に残されていた精液は真犯人のものと推測されます。そのDNAが青木警視のものと一致したわけです」
犯行時刻、彼の精液は僕の体内に注がれていました。だから彼女の身体に残っているはずがありません、と薪が言ったところで、DNA鑑定は覆らない。言うだけ無駄だ。
「目撃証言があったと聞きましたが。その目撃者の氏名は?」
「それは明かせません」
それはそうだろう。被疑者の関係者に目撃者の素性を明かして、脅しでも掛けられたら厄介なことになる。これは捜査側として当然の配慮だ。
最初から指示してあったのだろう、資料からも目撃証言の頁だけは抜かれていた。自分が彼らに徹底的に信用されていないことに、薪は憤りを感じなかった。1課で過ごした4年間が、彼らへの理解を促した。
「では、宿の人間の証言は取りましたか? 彼がその時刻、宿にはいなかったという」
「それはまだこれからです。しかし、あの宿のフロントには9時までしか人が居ません。玄関の鍵は内側からは外すことができますし、誰にも見られずに外出して、また戻ってくることは可能だと思われます」
確かに。薪たちが宿に着いたときには9時を回っていて、玄関は開いていたがフロントに人は居なかった。青木がカウンターに置かれた呼び鈴を鳴らして、それでチェックインしたのだ。
目撃証言とDNA鑑定。しかも、彼のアリバイを証明するのは、彼の情人だけ。これだけ条件が揃ったのでは仕方ない。青木は真犯人としての取調べを受けることになるだろう。
薪は思い、自分が取調室で行ってきた非情な行為を脳裏に甦らせ、胸を潰されるような苦しさを味わう。
あの過酷な取調べに、青木は耐えられるだろうか。
犯罪者、特に重罪を犯したものは、自分の容疑を認めない。自白すれば刑務所暮らしが待っていることが分かっているからだ。だから彼らは、ありとあらゆる嘘を吐く。中には、どう考えても自分の首を絞めているとしか思えないような嘘まで、必死になって自分の未来を守ろうとするのだ。それを潔くないとか醜いとか言うのは、自分が犯罪者になったことのない人間のきれいごとだ、と昔、先輩刑事に教えてもらったことがある。
保身に走る彼らに、本当のことを言わせるのはとても骨が折れる。普通に話をしていたのでは、まず埒が明かない。耳元で怒鳴ったり机を蹴ったり、そんなのはまだ性質がいいほうだ。彼らから自白を取るときの基本は、眠らせない、食べさせない、漫然とさせない。聴覚が麻痺するまで我鳴り立てられ、意識が朦朧としたところでおまえがやったんだろう、とやさしく諭されれば、本当に自分がやった気になる人間も出てくる。すみませんでした、と無実の罪で涙を流す被疑者もいるのだから、人間の心理とは不思議なものだ。
まだそこまで差し迫ってはいないだろうが、このまま何日も拘留されたら。やってもいない殺人を認めてしまうかもしれない。
その段階で書類送検だ。そうなってしまったら、もう薪には手が出せない。警視長の権限をもってしても、検察に渡った案件を差し戻すことはできない。
「青木は容疑を認めましたか?」
「いいえ。今のところ否認しています」
今のところ、と余計な一言を加えて、峰刑事は手帳を閉じた。薪も捜査資料を置き、両手を軽く握って膝の上に置いた。背筋をぴしりと伸ばし、
「もう一度確認しますが、目撃証言の内容は、彼が犯行時刻に公園に居たことを証言するものであって、殺人を犯している現場を目撃したというものではないのですね?」
はい、と峰刑事がツンツン頭を上下に動かすのに、薪は微笑みかけた。彼は若いが、優秀な刑事だと思われた。この場に指名されてきたことから、課長の信頼も厚いと見た。
「資料を見る限りでは、彼を犯人だと断定するのは尚早かと思われます。女性の体内から男性の精液が見つかったからと言って、その持ち主が犯人とは限らない」
「エリート警視長さんのお言葉とも思えませんな。彼以外の誰を疑えと?」
往生際の悪い、と小声で添えられた挑発に、薪は乗らなかった。事件調書を見たことで、彼の頭脳は捜査官モードに切り替わっていた。この状態の彼を崩せる人間は、この世には存在しない。
「以前私が手がけた事件で、女性の体内から精液が発見されたものの、犯人は女性だったということがありました。彼女は産婦人科の看護師で、男性の精液を手に入れられる立場にあった。不妊治療のために冷凍保存されているものを使い、針のない注射器を用いて被害者の体内に注入したんです」
「は! バカバカしい。あなたはこの事件の犯人は女性だとでも言うつもりですか? 二人の被害者は、石のようなもので殴り殺されてるんですよ。男の方は一撃だ。男の犯行と考えるほうが自然でしょう」
田舎では、手の込んだトリックを用いた事件は珍しい。こなした数こそ多いが、実情は単純な事件しか扱ってこなかった劣等感を刺激されて、清川課長は必要以上に饒舌になった。
「私は可能性の話をしている」
薪の落ち着き払った声と物腰が、清川を激昂させた。
「あんたみたいに現場に出たこともないエリートに、何が分かる! 俺は30年間、事件と向き合ってきたんだ! 何十人もの犯罪者を捕まえてきた!」
自分も先刻は、こんな無様な姿を晒していたのか、と薪は冷静に振り返る。
愚かしい。こういう勝負は、感情に溺れたものが負けるのだ。
「捜査は数じゃない。一つの事件に何処まで深い考察を為したか、その深度が捜査官を成長させる。検挙した犯人の数で競い合うものではない」
薪は本庁の捜査一課で4年、研修先のロス市警で1年、現場を勤め上げている。その手で検挙した犯人の数も裕に二桁だ。警視総監賞も3度ほど、第九の室長を務めるようになってからは局長賞を3度、長官賞を2度も受賞している。清川と比べて、解決した事件の数でも決して引けを取らない。
が、薪はそれに関しては一言も口にせず、それは自らの言葉通り、事件に大小はなく優劣もないと考えているからだ。
「あなたたちにも、捜査官としての成長を期待する」
失礼、と立ち上がり、その場を辞そうとして、薪は足を止めた。黙ってしまった課長と、何故か不思議そうに薪を見ている若い刑事に向かって一礼する。
「捜査資料を見せていただき、ありがとうございました。ご配慮に感謝します」
管轄外の、しかも事件関係者である自分に資料の閲覧を許してもらったことに、礼は言うべきだと思った。現在、薪と彼らは敵対関係にあるが、受けた恩義には礼を返すのが薪の流儀だ。
背筋をぴんと伸ばして、薪は部屋から出て行った。
部屋に残されたうちの一人は、ちっ、と舌打ちし、面白くなさそうに腕を組んで、客人が手をつけなかったお茶を引き寄せ、がぶりと飲んだ。
もう一人は黙って捜査資料を片付け、それが済むと、恐る恐る上司の顔を見た。
「課長。あの人、本当に頭の病気なんですか?」
「あのくらいの演説で騙されんな、峰。誇大妄想狂っていうのはな、頭の良い人間が罹る病気なんだよ。奴さんには、前科もある。その上、毎日毎日犯罪者の脳みそなんか見てりゃ、おかしくもならぁな」
上司に諭されて、年若い刑事は捜査資料と湯飲みを載せた盆を持ち、署長室を出た。
給湯室に盆を置き、盥に水を張って茶碗を浸しながら、「奴の言うことは何一つ本気にするな」と課長に注意を受けた狂人の戯わ言を思い出す。
「……数じゃない、か」
低く呟き、彼はぼんやりと蛇口から盥へと落ちる水流を見つめた。