天国と地獄8 (3)

天国と地獄8 (3)





 小鉢の中で冷奴を割る箸を止めて、薪は大きく眼を瞬いた。
 亜麻色の瞳には、青木の困り果てた顔が映っている。きっと薪も、自分が困っていることは察してくれている。でも薪には怒りの方が大きいのだろう、大きな瞳を険しく伏せて、
「年のせいか、このごろ耳の調子が優れなくてな。よく聞き間違いをするんだ」

 薪は努めて冷静に、摩り下ろした生姜をたっぷりと豆腐に載せた。下ろし生姜の無い冷奴なんて、炭酸の抜けたビールみたいなものだ、と薪が言うので、自分は無くても平気だと青木が答えると、冷たい豆腐に醤油をかけただけなんてあり得ない食し方だと叱られた。豆腐に失礼だとまで言われた。意味は分からないが、なんだか薪らしくて笑えた。

「僕の悪口が聞こえたような気がして問い質すと、誰も言ってない、って言われるんだ。今聞こえたのは、それと同じ現象だよな?」
 口の中のものをきれいに飲み込んでから口を開く。薪は上品でも気取ってもいないが、とてもきれいに食事をする。

「『曽我の彼女になって欲しい』って聞こえたんだけど。ありえないよな?」
「すみません、お願いします! この通りですっ!!」

 一転、青木はキッチンの床に正座して頭を下げた。
 薪に怒られるのは覚悟の上。これも大事な先輩のため、ひいては室長である薪のためだ。

 曽我は彼女に振られて以来ミスを連発し、先日とうとう第九内だけでは収まらない大ポカをやってしまった。薪が捜一まで出向いて課長に頭を下げ、事態はそれ以上悪化しなかったが、第九の失点として累積されてしまった。
 起こってしまったことに対しては意外なくらい寛容な薪は、そのときも「これから気をつけろ」と曽我に言い渡しただけだったが、曽我の仕事のクオリティが下降傾向にあることは明らかだった。しかしそこには深く傷ついた心の問題が存在しているが故に、単なる励ましや一時の憂さ晴らしでは彼を元の優秀な捜査官に戻すことは困難で、事実青木のアフターと自腹を削っての激励会はあまり効を奏していなかった。

 曽我が彼女のことを吹っ切ることができたら職務も充実するに違いない。今のままでは薪の立場にまで悪影響を及ぼしかねない。曽我自身のためにも、第九のためにも、何とかしなくては。
 青木はそう考えて、この計画を立てたのだ。

「青木。そこまで……」
 青木の真剣さが伝わったらしく、薪はしばらく考え込んだ後、ガタリと音をさせて席を立った。それから青木の前に膝を付き、頭を上げろ、とやさしく言った。
「わかった。でも、一度だけだぞ」
「ありがとうございます!」
 自分の気持ちを理解してもらえたことが嬉しくて、青木は明るく笑みを返す。しかし薪は何故か悲しそうに眦を下げて、
「おまえの頼みだからやるんだからな。何があっても僕の意志じゃない。そこは分かってくれるな?」
「は?」
 思いつめたような表情をして、いっそ悲壮感さえ漂わせて薪は、きちんと折った細い膝の上に置いた両手をぎゅっと握り締めた。
「それと、ハグまでは我慢するけど、それ以上はちょっと」
「はい?」
 薪の言っていることがさっぱり分からなくて、青木の瞳は小さく引き絞られる。我慢するって、なにを?

 青木が訝しげに首を傾げると、薪はこれまたどうしてか頬を朱く染めて、
「おまえとだってまだキスとボディタッチくらいしかしてないのに、曽我とそれ以上の関係になるなんて。僕にはとても」
「はあ!?」
「僕は初めてはおまえって決めてるし、もしそこまで覚悟しなきゃいけないなら……こ、今夜、がんばってみようかな」
「ちょっと待ってくださいっ!! なんでそうなるんですか!?」
 突っ込んでしまってから気がついた、今夜頑張ってみるっていま薪の方から言ってくれたのに。千載一遇のチャンスを逃して、でもここは彼の勘違いを正すのが急務だ。
 
 自分の言を強く否定されて薪は、青木の顔を見てぱちりと瞬きをした。それから愛らしく小首を傾げて、
「先輩に強要されて、自分の恋人をレンタルするって話じゃ? この世界ではよくある話なんだろ?」
「ちがいますよ!!! 7.5といい今度といい、いったい何処から仕入れてくるんですか、その5流小説ネタは!!」
「ネットで『びーえる』って検索掛けると薪室長に役立つ知識がたくさん出てきますよ、って菅井さんが」

 腐女子の親切大きなお世話っっ!!!
 
 余計なことを吹き込まないで欲しい。それじゃなくても薪は捜査の役に立たないと思われる分野の常識には疎くて、それを自分も自覚しているから、尤もらしく書かれてあったり他人から教えられたりしたことを鵜呑みにする傾向があるのだ。男同士の恋愛事情なんてその最たるもので、彼は同じ性を持つものたちがどうやって愛し合うのかも漠然としか知らなかった。
「『801穴』の存在も、そこで知ったんだ」
 それでこないだの騒動が……あ、ダメだ、虚無の海に飲み込まれそうだ。
 
 遠ざかる意識を必死に引き戻し、青木はできるだけ平静な声で薪を諭した。
「そういうのは若い女の子が実情を知らずに妄想だけで書き散らしているものが殆どなので、信じちゃダメです」
 あの架空の器官には、美しき愛の象徴として描かれるべき性交渉に排泄器官を使うのが忍びない彼女たちの乙女心が生み出したファンタジーの産物、という見解もあるらしいが、どっちにせよ迷惑この上ない。そのせいで別れ話に発展しそうになったこっちの苦労も考えて欲し……いや、世界中探してもあんな幻想を信じるのは薪だけだ。彼女たちに罪は無い。

「え、そうなのか? でも、色とか形状とかすっごく詳しく書いてあったし、それさえあれば初めから気持ちよくって、しかも何回でもイケるみたいだぞ?」
 そんな便利なものがあれば、どこかの誰かさんも苦労しなかったでしょうね……。

 ズレた話を戻そうと、青木は薪の両肩に手を置いた。とんちんかんな誤解をしているとき特有のあどけない表情でぽかんと口を開けている薪の顔を覗きこんで、ありったけの好意を瞳と声に溢れさせる。
「薪さん。こんなに薪さんに夢中なオレが、薪さんと他の男が触れ合うことを望むと思いますか?」
「うん、分かってる。だから、止むに止まれぬ事情があるんだろうなって」
 それであんな思いつめた顔をしていたのか。このひとの思考回路って、いったいどこまで――。

「青木?」
 青木がものも言わずに薪の身体をぎゅっと抱きしめたから、薪は息を呑みながらも不思議そうに青木の名を呼ぶ。薪が説明を聞きたがっているのは分かったけれど、今はこちらを優先させて欲しい。青木が自分の気持ちを抑え切れなくなるのは、こんな風に不意を衝かれた瞬間だ。今青木は、薪のことが愛しくてたまらない。

 青木が頭を下げただけで、詳しい事情も聞かず、彼は自分の身を差し出そうとしてくれた。
 普段は青木のお願いなんか100個のうち1個くらいしか聞き届けてくれないくせに、青木が深刻な状況にあると思えば何も聞かずに協力してくれる。薪はとても意地悪だけど、本当に必要なときには迷いなく手を差し伸べてくれる。そういう人だと分かっていて、でも改めてそれを目の当たりにしたら、強く強く沸き起こる彼への愛しさを青木は止めることができない。

「薪さん、大好きです。オレ以外の男になんか触らないでください」
「じゃあ、何もしなくていいのか?」
「いや、して欲しいことはありますけど、そういうことじゃなくて」
 とりあえず薪を立たせて、途中だった夕食の膳に向かわせる。自分も向かいの席に腰を下ろして青木は、頭の中を整理した。誤解しやすい彼の性質を考慮に入れて、できるだけ明確な言葉を選ぶ。

「薪さんには女性に扮していただいて、曽我さんを騙した女の前で、曽我さんの新しい恋人のフリをしていただきたいんです」




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

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Aさまへ

Aさま、こんにちは。

おおっ、半陰陽の実話ですね~。
本人も気づいていないことがあるんですね。 この彼女が腐女子だったら、801穴が現実に!?って、いやさすがにそれはないな☆


>青木ってば最初からちゃんと、理由を説明すればいいのに・・この薪さん、可愛い過ぎですね(´▽`)今度はどんな女装するのでしょう(笑)

男爵シリーズはとにかくギャグを優先して書いているので、原作の薪さんのクールビューティなイメージは壊滅的かと・・・・・すみません。(^^;
今回の女装は、
『純粋培養された深窓のお嬢さま』です。
お楽しみにっ♪

プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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