タイムリミット(17) 7月の日差しに焼かれて、白いチャペルが眩しく輝いている。
黒塗りのレクサスが滑るように入ってきて、式場のエントランスに乗客を降ろした。車を運転していた亜麻色の髪の青年は、駐車場に車を停めると急ぎ足で式場に入った。素早く目を走らせて、花嫁の控え室に向かう。
彼は、両手に大きな薔薇の花束を抱いている。赤い薔薇は彼の美貌を引き立て、華やかさを添えていた。
たくさんの花に囲まれた今日の主役は、椅子に腰掛けて2,3人の友人と話をしていた。薪の姿に気付いて、驚いた顔をする。気遣いのできる友人たちは、自然に席を外してくれた。
「おめでとうございます、美和子さん」
「ありがとう。みんなあなたのおかげよ」
彼女の花嫁衣裳は、ウエストのゆったりとしたドレープタイプ。裾引きのスカートもヴェールもなく、靴はシンプルなローヒール。それでも充分優雅で美しかった。
「ていうか、あなたの残念な下半身のおかげよね」
……式場にバクダン仕掛けたってガセ電入れてやろうか、コラ。
「美和子さんが勇気を出して、小野田さんに本当のことを言ってくださったから。その気持ちに、小野田さんも応えてくださったんだと思います」
「娘のわたしが、一番にお父様を信じなきゃいけなかったのにね」
「いいえ、僕が脅しつけるようなことを言ったから。人との信頼においても、真実に勝るものはないんですね。捜査官の基本を忘れてました。恥ずかしいです」
「だけど、この子が無事に生まれてこれるのは、本当にあなたのおかげよ。あの時あなたに気付いてもらわなかったら、わたし、ひとりで先走ってたかもしれない。感謝してるわ」
きれいに化粧された美和子の表情は、今までと違った小野田家の父娘の関係を薪に伝えてきた。それは薪の心を温かくさせ、自分がやらかしたあれやこれやの失敗も、まったくの無駄ではなかったのかもしれないと思わせた。
「彼のお兄さん、執行猶予がついてよかったですね」
美和子の結婚相手の兄が起こした致死傷害事件は、実刑4年、執行猶予5年という判決が出た。もともと被害者側から仕掛けた暴力を伴う挑発に乗せられたものであり、被告人に殺意は無く、深い俊悔が見られ、相手が素行に問題のある人物だったことも考慮され、殺人という事実がありながらも寛大な裁きが降りた。
「お父様が、とびきりの弁護士をつけてくれたから」
「小野田家のお抱え弁護士ですか。検察の苦い顔が浮かびますねえ」
長年の経験から司法制度の裏側に詳しいふたりは、ふふ、と笑う。
ほんの一時、自分の婚約者だった女性と微笑み合いながら、薪は彼女の幸せを心から祝福していた。
「剛さん。本当に、ありがとう」
「こちらこそ。おかげさまで、大事なことがわかりましたから」
「真実に勝るものはないってこと?」
いいえ、と首を振り、薪は初めて美和子の前で満面の笑みを見せる。アイラインに縁取られた鳶色の瞳が、ひゅっと小さくなって彼女の驚きを表した。
ふたりの間にある薔薇の花束の、すべての蕾が一斉に開いたかのような麗しさと眩しいほどの美しさ。こんな彼を見たことはない、と彼女は思った。
「僕は、あいつがいないと生きていけないみたいです」
「……結婚式3時間前の花嫁にノロケかますって、どーゆーひと?」
「いや、ノロケじゃなくて事実って言うか、あれ?」
自分が言った台詞に照れて、薪は少し頬を赤くすると、美和子に花束を押し付けて控え室を出て行った。
ひとり残された花嫁は、だいぶせり出してきたお腹をさすりながら、低い声で呟く。
「この子の名前『ツヨシ』にしたら、祐二さんが妬くかしら」
*****
親族の挨拶ラッシュを済ませた後、小野田は喫茶室の窓際の席で紅茶を飲んでいた。
一般客の来訪までには、まだ時間がある。ここらで一息入れないと、途中でへばってしまいそうだ。
たった今会ってきた娘の夫となる人物に、小野田は心の中で舌打ちする。何の取り得もないつまらない男。薪の才覚の3割でもあれば、もう少し歓迎してやるのだが。
しかし、薪が彼に敵わない一面も確かにある。美和子のあんな笑顔を引き出せるのは、彼だけだ。
「めでたい日だっていうのに、そんな辛気臭い顔するなよ」
断りも無く向かいの席に腰を降ろした熟年の紳士が、気安い口調で小野田に話しかけてくる。洗練された動作で小野田と同じものをオーダーし、スマートに足を組む。
「花嫁の父親なんて、みんな複雑なものさ。おまえだけじゃない」
「まあね。娘はあと二人、残ってるしね」
美和子の籍は、相手の家に入ることになった。執行猶予がついたとはいえ、犯した罪が消えるわけではない。彼は、小野田家に相応しい人間ではないのだ。
「そうだよ、おまえはいいよ。僕なんか、加奈子が嫁に行くときのことを考えると。あー、ダメだ。やっぱり別れさせてやる、あのふたり」
「手を切らなきゃいけないのは、おまえの方だろ。こないだの男の子、しつこそうだったぞ」
「後腐れのない相手を選んでるつもりなんだけどさ。たまに失敗しちゃうんだよな」
「いい加減にしなさいよ。終いにはアラスカ支局へ飛んでもらうよ」
おどけた調子で小野田の気を引き立てようとしてくれる親友に心の中で感謝しつつも、口では辛辣な応えを返す。官房室付首席参事官の中園とは、幼馴染みの腐れ縁。ありがとう、なんて口が裂けても言いたくない。
寒いところは嫌だ、どうせならハワイにしてくれ、などと減らず口をたたき続ける親友の話を聞き流して、小野田は手入れの行き届いた庭園を駐車場に向かって歩いていく人影に目を留めた。
亜麻色の短髪をなびかせて颯爽と歩くその姿は、すれ違う人々を思わず立ち止まらせる。駐車場の方からやってきたカップルが、仲良く彼に見とれつつその傍らを過ぎたとき、彼はふと足を止め、ポケットから携帯電話を取り出した。着信画面を見て、ふわりと微笑む。
何を話しているのかは知らないが、彼の瞳はキラキラと輝いていて。その表情は、限りなく幸せそうで。ちょうど彼の後ろには、庭園の奥に設置されたチャペルがあり、折りしも鐘の音が流れて――― まるで、ブライダルサロンのCMを見ているようだ。
「あの10分の1でもいいから、幸せな顔をしてくれてたらなあ」
小野田の独り言を耳にして、中園がこちらに身を乗り出してくる。小野田の視線の先に薪の姿を見つけて、皮肉な口調で彼を揶揄した。
「まったく、顔に出やすい子だね。プリップリの頬っぺたしちゃって。ありゃあ昨夜、たっぷり若さを注ぎ込まれた顔だな」
「やめてよ。想像しちゃうじゃない。考えたくないよ、ぼくの薪くんがそんな」
「いっそ、アラスカに飛ばしちゃえば? 青木くんのこと」
「どこに飛ばしたって無駄だよ。離れていても心はひとつです、なんてクサイ台詞を真顔で言われるのがオチだよ。ごめんこうむるね、彼らのノロケ話を聞かされるなんて」
薫り高いダージリンティーを口に運び、小野田は気分を落ち着かせようとする。同時にカップを取り上げた中園が、右手を宙に浮かせたまま小野田の顔を見据えた。
「分かってたんだろ? 最初から」
「まあね」
カップをソーサーに戻し、正直に親友の質問に答える。昔から中園には、小野田の嘘が通用しなかった。
「ぼくは、それでもいいと思ってたんだよ。薪くんにあの嘘を貫いてほしいと願ってた。男女の仲なんて、どう転ぶかわからないしね。周りからできるだけフォローしてさ、時間さえかければあるいは、なんて淡い希望すら抱いてたんだよ。
でも、当人たちがそれを望まないなら。無理強いするわけにも行かないだろ」
「へえ。おまえって、そんなにヌルイ男だっけ」
目的のためには手段を選ばない。今の地位を守るために、小野田も一通りのことはしてきた。その中には、人には言えないこともある。古い付き合いの中園には、その辺のことも知られているのだ。
「仕方ないだろ。薪くんときたら、日に日にやつれていってさ。
口数は減る、ミスは増える。終いには死人みたいな目になって。それでもぼくに気を使って、必死で笑おうとするあの子を見てたら、まるで8年前に戻ったみたいでさ。見ていられなかったんだよ」
「式のひと月前になっても招待状が届かないから。おかしいとは思ってたよ」
「式の予定は変わらなかっただろ。花婿の質は、だいぶ落ちたけど」
あの男に引導を渡すつもりで薪に預けた第九の職員宛のものを除いて、招待状は小野田の手元に止めておいた。上層部や代議士に発送した後では、何があっても取り消せなくなる。
念には念を入れて、行動は慎重かつ大胆に。小野田の戦法は、今回も効を奏した。小野田自身にとっても、苦い戦果となったが。
「薪くんにはガッカリだよ。たかが男と切れたくらいで、あんなにダメダメになっちゃうなんて。どうもあの子は、色恋に左右されすぎるっていうか」
「それだけじゃないだろ。みんなに嘘を吐いていることも、おまえを騙してることも、心苦しくして辛かったんだろうよ」
おまえなんかに言われなくても分かってる、と小野田は心の中で舌打ちする。20年も前から見てきたのだ。薪の清廉な性格は、嫌というほど知っている。
5年も前の約束なんて、忘れてしまう人間が殆どだろう。それを覚えていたばかりか、履行できないことで自分を責め、万死に値すると覚悟を決めて正面から謝罪にくるなんて。
あの時は、本当に頭にきた。
バカにつける薬はないというか、バカは死んでも治らないというか。いっそ豆腐の角に頭をぶつけて、そのまま豆腐に埋もれてしまえ、と叫んでやろうかと思った。
「純粋すぎるんだよ。あの子は」
苦笑を洩らしつつ、中園が薪を庇う。きれいな男の子が大好きな彼は、何かと薪には甘いのだ。もちろん、薪の能力を高く評価した上での甘さだが。
「厄介な性質だね。その上頑固とくれば、もうお手上げだよ」
もっとしたたかになってくれないと、自分の跡を継がせられない。自分のために他人を利用する術を覚えないと、この先は上っていけない。警察というところは、そういうところなのだ。
「先が思いやられるよ。今のままじゃ、とてもぼくの後釜には据えられない」
「よく言うよ。薪くんがもっとスレた子だったら、手元に欲しいなんて思わなかったくせに」
小野田の言葉の裏側を、中園は見事に言い当てる。
悩みの種とぼやきつつも、小野田は薪の純粋さに惹かれている。彼のような人間が伸び伸びと仕事ができる職場こそ、小野田が理想とする警察機構だ。自分は、それを創るための礎になる。
「今回の試験、見送らせたんだって?」
一連の欺瞞の責任として薪に下した罰について、中園は早くも聞き及んでいるらしい。ああ、と軽く頷いて、小野田は厳しい口調を崩さずに言った。
「あの天然記念物指定が取れないうちはね。薪くんに警視監の試験は受けさせないよ」
薪にこの処分を言い渡したときも、小野田はとても不愉快な思いをした。
『そんなことでは、僕の気がおさまりません。どうか、もっと重い処分を』
そんなこと?
警視監の受験資格を取り消されることが、『そんなこと』か。いったい、何人のキャリアが警視監になれると思っているのだ。何千人にひとりというその価値を、彼は分かっていないのか。
血反吐を吐く思いをして、大事なものをたくさん切り捨てて、みんなここまでのし上がってくるのだ。無論、小野田もそのひとりだ。
それを、『そんなこと』とはなんだ。小野田にしてみれば、あの背が高いだけで碌な能力もない道端の石ころのような男との絆のほうが、よっぽど『そんなこと』だ。
小野田がそのことで薪を叱り付けると、薪はしゅんとうなだれて、すみません、と素直に謝った。充分に重い処罰と端からは見えるのに、本人はちっとも堪えてない。常識知らずの薪がきっとまた、「小野田さんが手心を加えてくれたんだ」などとあの男に説明するのだろうと思うと、はらわたが煮える思いだ。
「賢明だね。薪くんの性格じゃ、警察庁中引っ掻き回されちまうだろうな」
警視監の昇格試験は、超が5つほど付く難関で突破したものは数えるほどしかいない。
元来、昇格試験の目的は人員を篩いにかけることだから、ここまで階級が上がると受験の意味はなく、上層部の推挙によるものが殆どだ。今までの実績から鑑みて、薪には充分その資格があり、この上試験まで合格されると、彼を昇任させない理由がなくなってしまう。だから見送らせたのだ。
「おまえにはもう少し、ぼくの所にいてもらうことになりそうだよ」
「どうやら、先は長そうだな」
ふたりの紳士の視線の先で、薪は電話を終えて携帯をポケットにしまうと、弾んだ足取りで駐車場へ歩いていった。細い後姿はしゃっきりと伸び、人類の希望と未来を背負っているかのように生気に満ちていた。
薪の元気な様子は、小野田を微笑ませる。
あれほど彼の言動に腹を立てていたはずなのに、薪の幸せそうな様子を見ていると、やはり嬉しくなってしまう。これが『デキが悪い子ほど可愛い』という心理か、と小野田は自嘲した。
「あーあ。あの子に『お父さん』て呼ばれたかったなあ」
「女々しいね、おまえも。スッパリ諦めろよ」
「おまえにぼくの気持ちは分からないよ。ぼくはね、20年も前から薪くんのことを」
「はいはい。後でゆっくり聞いてやるから。ほら、出番だぞ」
喫茶室の入り口で、担当の係員が小野田に頭を下げる。集合写真の撮影準備が整ったのだろう。
「やれやれ。花嫁の父もけっこう忙しいね」
片手を上げてそれに応え、親友に小さく愚痴って、小野田は立ち上がった。
テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学