シングルズ(2)
シングルズ(2)
「帰りたくないのか?おまえらにだって、イブの予定くらいあるだろう」
そんなのありません、と一様に首を振る一部の部下たちに、薪は大きな瞳の虹彩を小さく引き絞って、
「ないのか?」と繰り返した。
「だって、俺たち恋人もいないし」
「年中、約束を違えてるものだから、誘ってくれる友人もいなくなっちゃったし」
「家に帰っても誰もいないし。かと言って街に出ればカップルばかりだし」
小池、曽我、宇野……なんて寂しいやつらだ。本気で可哀想になってきた。
「だったらみんなで仕事してた方がマシだよな。気も紛れるし」
「そうそう。淋しいのは自分だけって思わなくていいし」
「でも、俺たちだけで仕事するってのは、あまりにも不公平だと思う」
「「「みんな一緒に不幸になればいい」」」
…………この僻み根性さえなければ。
「ぷっ」
3人のあからさまな呪詛の言葉に、薪は失笑した。
右手の拳を口元に当て、いつもはきつく吊り上げられた眉をゆるりとたゆませ、亜麻色の眼をやさしく細める。すべらかな頬は丸みを強め、持ち上げられた口角には華やぎと愛くるしさが添えられる。
なるほど、宇野の言葉も納得できる。これを見た後に街へ出て女性を見ても、何も感じないかもしれない。
「おまえらはそれで良いかもしれないが、予定の有る者にはいい迷惑だろ。残りたい者だけで残れ。今日は僕も定時で帰るから、後は好きにしろ」
意外だった。
特に急ぎの仕事がなくても、書類や報告書の整理で一番遅くまで第九に居るのが当たり前になっている薪が、クリスマスイブとはいえ、定時で帰るなんて。この人に恋人がいるわけはないし、友人はもっといないだろう。残る可能性は部下に気を使ってくれている、ということになるが、それも何だか後が怖い。
「ではすみません、お言葉に甘えまして。私は先に帰らせていただきます」
室長の言に一番最初に乗ったのは、土下座までして定時退室を申し出た今井ではなく、第九に入って一年にもならない新人の山本だった。
意外な言葉に、執務室の全員の眼が彼に注がれた。
山本はある意味、薪の対極に位置する人間だ。それは、この世には必ず相反するものが存在する、という理の証明とも言えた。
山本は薪と正反対の外見を持っている。つまり、薪が年の割りに異常に若いのと反対に、異常に老けているのだ。年齢は薪と一つしか変わらないはずなのに、贔屓目に見ても50代後半。下手をしたら還暦を過ぎた今井の祖父より年上に見える。
そんな彼に、クリスマスイブを共に過ごす誰かがいる、という可能性は、限りなくゼロに近いように思えた。問い質すのも失礼かと思いつつ、今井は真実を追究するのが宿命の捜査官だ。確かめずにはいられない。
「山本。予定、あるの?」
「はい。家で妻と娘が待ってますから」
…………。
今井が自分を取り戻したときには、壁に掛かった時計の秒針はゆうに一回りしていた。
人間、あまりにも予想外の言葉を聞くと、思考を停止させてその衝撃に対抗しようとするのかもしれない。謂わば、自己防衛に基づく意識の喪失というわけだな、うん。
「ツマ……」
「ムスメ……」
今井と同じように自失していた同僚たちが我に返り、記憶の中からその言葉の持つ正確な意味を探し出そうと、二つの言葉を繰り返し発音している。ひとりだけ平気な顔をしているのは室長だが、これは驚くに当たらない。彼は職務上、部下の家族構成をすべて把握しているからだ。
「き、きっと尻に敷かれてるんだぜ。山本って気が弱そうだし」
「もちろんさっ」
引き攣った半笑いの表情でヒソヒソとやっかむ小池に、曽我が意気込んで相槌を打つ。が、その声もまた魂の抜けたような声音だった。
「休みの日には粗大ゴミ扱いされて、奥さんに邪険にされてさ」
「娘には疎ましがられて、お父さんの服とアタシの服一緒に洗濯しないで、とか言われてんだぜ。カワイソウに」
「俺はそうはなりたくないな!」
「まったくだ! 独身の方が自由でいいよな!」
「「はははは……はあ……」」
いかに不幸な夫、不憫な父親像を山本に重ねても、彼が聖なる夜を愛する家族と共に過ごすという事実は少しも揺らがず。哀れな彼を想像するほどに虚しさは募るばかり。
帰り支度を整えた山本が、寒そうな頭に中折れ帽を乗せ、内ポケットからおもむろに携帯電話を取り出した。画面を開き、それを無言で小池たちの方へ向ける。
大きめの液晶画面には、デコレーションケーキの後ろで微笑む中学生くらいの可愛らしい少女と、彼女に良く似た妙齢の美女。通信欄に打ち出された文章に、小池の眼が――――― 開いた。
『パパ、ケーキできたよ! 早く帰ってね♪』
度の強い角縁眼鏡の奥の暗い眼が光り、薄い唇が勝ち誇ったように笑った。
かちーん。
次の瞬間、山本に向かって繰り出された小池の右腕は、彼の数倍の筋力を持つ腕に阻まれた。
「押さえろっ、小池! 手を出したらこっちの負けだ!!」
「あいつが笑うと異様にむかつくんすよっ!!」
力自慢の岡部に後ろから羽交い絞めにされ、身動きの取れないまま、小池は尚も山本を罵ったが、山本本人は何処吹く風。自分の優位を自覚しているのだ。
「山本、おまえ早く帰れ」
「はい。失礼致します」
山本は慇懃無礼スレスレの深さに頭を下げて、出口に向かって歩き始めた。が、すぐ何かに気付いたように足を止め、
「ああ、岡部副室長。副室長が書かれた報告書の誤字を訂正しておきましたから、後で確認しておいてください」
「う……わ、分かった」
何もみんなの前で言うことはあるまいに、と山本にそんな気遣いを期待するだけ無駄だ。岡部もそれくらいのことで怒るほど、度量の狭い男では―――――。
「あの、副室長。もしよろしければ、娘の漢字検定の参考書のお下がりがありますから、それを差し上げましょうか。クリスマスプレゼントということで」
…………ぷっつん。
今井が危険を察知したときには、既に淋しんぼトリオの3人組が、理性を失った岡部を取り押さえている状態だった。
「抑えてっ! 抑えてください、岡部さん!」
さっきまでと逆の体勢になった岡部が、怒りのために青ざめた顔を般若のように歪め、振り絞るような声で叫んだ。
「このっ、ウスラハゲがっ!!」
「おや、ご自分の学力をお認めになられましたか」
「ああ!?」
「先ほど岡部副室長は、身体的特徴を攻撃対象にするのは小学生以下の発想だと仰られました」
ぶっつん、ばっつん、ぼっつん!!
「うおおお!!!」
「やばい、小池と違ってマジで死人が出るぞ!!」
「3人じゃ押さえきれん! 青木、手伝え!」
「はい! 岡部さん、落ち着い、いったあいっっ!!!」
青木が蹴られた。角縁眼鏡が山本と被ったらしい。
「室長、何とかしてください!」
今井は薪に向かって懇願する。暴走し始めた岡部を止められるのは薪だけだ。
薪は重々しく頷いて室長の威厳を見せ、余裕の表情で腕を組み、涼やかな視線を二人に向けると、
「そんなに楽しそうにジャレ合えるようになるなんて。山本と岡部は、すっかり仲良くなったな。組ませて良かった。次の案件も、その調子で頼むぞ」
「「「「「カンベンしてください――――っっ!!!」」」」」
恐慌状態の執務室でひとりだけズレまくった見解を発する上司に頭を下げ、今井は山本の腕を引いて、阿鼻叫喚のるつぼと化した部屋から飛び出した。
*****
法十名物、第九ギスギスフィーリング。
ホント、うちの連中ってみんな仲悪い。(笑)
「帰りたくないのか?おまえらにだって、イブの予定くらいあるだろう」
そんなのありません、と一様に首を振る一部の部下たちに、薪は大きな瞳の虹彩を小さく引き絞って、
「ないのか?」と繰り返した。
「だって、俺たち恋人もいないし」
「年中、約束を違えてるものだから、誘ってくれる友人もいなくなっちゃったし」
「家に帰っても誰もいないし。かと言って街に出ればカップルばかりだし」
小池、曽我、宇野……なんて寂しいやつらだ。本気で可哀想になってきた。
「だったらみんなで仕事してた方がマシだよな。気も紛れるし」
「そうそう。淋しいのは自分だけって思わなくていいし」
「でも、俺たちだけで仕事するってのは、あまりにも不公平だと思う」
「「「みんな一緒に不幸になればいい」」」
…………この僻み根性さえなければ。
「ぷっ」
3人のあからさまな呪詛の言葉に、薪は失笑した。
右手の拳を口元に当て、いつもはきつく吊り上げられた眉をゆるりとたゆませ、亜麻色の眼をやさしく細める。すべらかな頬は丸みを強め、持ち上げられた口角には華やぎと愛くるしさが添えられる。
なるほど、宇野の言葉も納得できる。これを見た後に街へ出て女性を見ても、何も感じないかもしれない。
「おまえらはそれで良いかもしれないが、予定の有る者にはいい迷惑だろ。残りたい者だけで残れ。今日は僕も定時で帰るから、後は好きにしろ」
意外だった。
特に急ぎの仕事がなくても、書類や報告書の整理で一番遅くまで第九に居るのが当たり前になっている薪が、クリスマスイブとはいえ、定時で帰るなんて。この人に恋人がいるわけはないし、友人はもっといないだろう。残る可能性は部下に気を使ってくれている、ということになるが、それも何だか後が怖い。
「ではすみません、お言葉に甘えまして。私は先に帰らせていただきます」
室長の言に一番最初に乗ったのは、土下座までして定時退室を申し出た今井ではなく、第九に入って一年にもならない新人の山本だった。
意外な言葉に、執務室の全員の眼が彼に注がれた。
山本はある意味、薪の対極に位置する人間だ。それは、この世には必ず相反するものが存在する、という理の証明とも言えた。
山本は薪と正反対の外見を持っている。つまり、薪が年の割りに異常に若いのと反対に、異常に老けているのだ。年齢は薪と一つしか変わらないはずなのに、贔屓目に見ても50代後半。下手をしたら還暦を過ぎた今井の祖父より年上に見える。
そんな彼に、クリスマスイブを共に過ごす誰かがいる、という可能性は、限りなくゼロに近いように思えた。問い質すのも失礼かと思いつつ、今井は真実を追究するのが宿命の捜査官だ。確かめずにはいられない。
「山本。予定、あるの?」
「はい。家で妻と娘が待ってますから」
…………。
今井が自分を取り戻したときには、壁に掛かった時計の秒針はゆうに一回りしていた。
人間、あまりにも予想外の言葉を聞くと、思考を停止させてその衝撃に対抗しようとするのかもしれない。謂わば、自己防衛に基づく意識の喪失というわけだな、うん。
「ツマ……」
「ムスメ……」
今井と同じように自失していた同僚たちが我に返り、記憶の中からその言葉の持つ正確な意味を探し出そうと、二つの言葉を繰り返し発音している。ひとりだけ平気な顔をしているのは室長だが、これは驚くに当たらない。彼は職務上、部下の家族構成をすべて把握しているからだ。
「き、きっと尻に敷かれてるんだぜ。山本って気が弱そうだし」
「もちろんさっ」
引き攣った半笑いの表情でヒソヒソとやっかむ小池に、曽我が意気込んで相槌を打つ。が、その声もまた魂の抜けたような声音だった。
「休みの日には粗大ゴミ扱いされて、奥さんに邪険にされてさ」
「娘には疎ましがられて、お父さんの服とアタシの服一緒に洗濯しないで、とか言われてんだぜ。カワイソウに」
「俺はそうはなりたくないな!」
「まったくだ! 独身の方が自由でいいよな!」
「「はははは……はあ……」」
いかに不幸な夫、不憫な父親像を山本に重ねても、彼が聖なる夜を愛する家族と共に過ごすという事実は少しも揺らがず。哀れな彼を想像するほどに虚しさは募るばかり。
帰り支度を整えた山本が、寒そうな頭に中折れ帽を乗せ、内ポケットからおもむろに携帯電話を取り出した。画面を開き、それを無言で小池たちの方へ向ける。
大きめの液晶画面には、デコレーションケーキの後ろで微笑む中学生くらいの可愛らしい少女と、彼女に良く似た妙齢の美女。通信欄に打ち出された文章に、小池の眼が――――― 開いた。
『パパ、ケーキできたよ! 早く帰ってね♪』
度の強い角縁眼鏡の奥の暗い眼が光り、薄い唇が勝ち誇ったように笑った。
かちーん。
次の瞬間、山本に向かって繰り出された小池の右腕は、彼の数倍の筋力を持つ腕に阻まれた。
「押さえろっ、小池! 手を出したらこっちの負けだ!!」
「あいつが笑うと異様にむかつくんすよっ!!」
力自慢の岡部に後ろから羽交い絞めにされ、身動きの取れないまま、小池は尚も山本を罵ったが、山本本人は何処吹く風。自分の優位を自覚しているのだ。
「山本、おまえ早く帰れ」
「はい。失礼致します」
山本は慇懃無礼スレスレの深さに頭を下げて、出口に向かって歩き始めた。が、すぐ何かに気付いたように足を止め、
「ああ、岡部副室長。副室長が書かれた報告書の誤字を訂正しておきましたから、後で確認しておいてください」
「う……わ、分かった」
何もみんなの前で言うことはあるまいに、と山本にそんな気遣いを期待するだけ無駄だ。岡部もそれくらいのことで怒るほど、度量の狭い男では―――――。
「あの、副室長。もしよろしければ、娘の漢字検定の参考書のお下がりがありますから、それを差し上げましょうか。クリスマスプレゼントということで」
…………ぷっつん。
今井が危険を察知したときには、既に淋しんぼトリオの3人組が、理性を失った岡部を取り押さえている状態だった。
「抑えてっ! 抑えてください、岡部さん!」
さっきまでと逆の体勢になった岡部が、怒りのために青ざめた顔を般若のように歪め、振り絞るような声で叫んだ。
「このっ、ウスラハゲがっ!!」
「おや、ご自分の学力をお認めになられましたか」
「ああ!?」
「先ほど岡部副室長は、身体的特徴を攻撃対象にするのは小学生以下の発想だと仰られました」
ぶっつん、ばっつん、ぼっつん!!
「うおおお!!!」
「やばい、小池と違ってマジで死人が出るぞ!!」
「3人じゃ押さえきれん! 青木、手伝え!」
「はい! 岡部さん、落ち着い、いったあいっっ!!!」
青木が蹴られた。角縁眼鏡が山本と被ったらしい。
「室長、何とかしてください!」
今井は薪に向かって懇願する。暴走し始めた岡部を止められるのは薪だけだ。
薪は重々しく頷いて室長の威厳を見せ、余裕の表情で腕を組み、涼やかな視線を二人に向けると、
「そんなに楽しそうにジャレ合えるようになるなんて。山本と岡部は、すっかり仲良くなったな。組ませて良かった。次の案件も、その調子で頼むぞ」
「「「「「カンベンしてください――――っっ!!!」」」」」
恐慌状態の執務室でひとりだけズレまくった見解を発する上司に頭を下げ、今井は山本の腕を引いて、阿鼻叫喚のるつぼと化した部屋から飛び出した。
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法十名物、第九ギスギスフィーリング。
ホント、うちの連中ってみんな仲悪い。(笑)