破滅のロンド(4)
破滅のロンド(4)
カラン、と氷の溶ける音がした。
地下ビルのバーという場所でありながら、低音で流れるリストのピアノ曲の中では、その音は異質だ。それを証明するかのように、年季が入って艶を帯びたカウンターの内側でバーテンダーがこちらを振り返る。その視線から連れを隠すように、滝沢は細長い台の上に肘を付き、薪の方へと身を乗り出した。
「本当に変わらんな。あの頃のままだ」
「おまえはますます態度がでかくなった」
亜麻色の髪に伸ばした滝沢の手を、薪は耳の横でパシリと払った。冷ややかに言い放ち、ロックグラスを傾ける。6年前より酒も強くなったらしい。
「岡部は副室長だが、鈴木ほど穏やかな性格をしてない。彼の前であまり僕にべたべたすると、投げ飛ばされるぞ」
「それは残念だ。おれはおまえのことが大好きなのに」
「そういう冗談もNGだ。何て言うかその……色々あって。彼は少し、過敏になってるんだ」
薪の言う「色々」の具体的な意味は分からなかったが、彼が眉根を寄せた所を見ると、つまびらかにされるのは避けたいようだ。後で聞きだしてやる、と滝沢は心に決め、薪が嫌がると解っている猫撫で声で、
「冗談なんかじゃない。おまえのことは本当に好きだぞ」
―――― 殺したいくらい。
あからさまに眉を顰める旧友に、滝沢は含み笑いをこぼす。
「6年間、おまえのことばかり考えていた」
嘘ではない、本当のことだ。死んだ彼女を想うより、彼を身の上を想像する方が多かった。彼女には一筋の変化も見出せなかったが、彼には空想の余地があった。
あれから彼はどうしただろう? 最後に見たときには死人のようだったが、生き永らえているだろうか。自ら命を絶ったとしたら、どんな方法で?
あそこまでの絶望に叩き込んでやったのだ。浮き上がれるはずがない。彼女を失った自分が二度と昔の自分に戻れなくなったように、ましてや薪はその手で自分の半身を殺したのだ。まともな人生など歩めるはずがない。彼に比べたら自分はまだマシだ。
そう思っていたのに。
雇い主に渡された資料には、滝沢が予想もしなかったことが書かれていた。現在の第九メンバーと室長である薪との間には強い信頼関係が築かれ、見事な連携プレイによって幾つもの難事件を解決している。滝沢がいる頃はどちらかと言うと孤立気味だった警察内の立場も改善され、昨今では天敵だったはずの捜査一課や組対五課と協力し合って犯人を逮捕することも多くなってきた。長官賞、局長賞、警視総監賞など主だった賞はとっくに制覇し、第九の名声は室長の薪警視長の威光と共に日本中に轟くようになった。
警察機構トップの検挙率を武器に、第九は現在も躍進を続けている。その頂点に君臨するのが滝沢の隣に座った小男だ。滝沢が与えた絶望は何処へやら、いつの間にか階級も上がっているし、順風満帆の人生ではないか。
それを知って滝沢は、ひどく寂しい気分になった。
自分が彼に施したものを、6年の間に彼は忘れ去ってしまった。自分は一時たりとて、彼を忘れたことはなかったのに。
―――― 思い出させてやる。
「おれはおまえに会えて、本当にうれしいんだ。以前のように仲良くしてくれ、薪」
「以前のように?」
薪の顔が訝しげに歪んだ。おまえと馴れ合った覚えはない、と言いたげだ。
よかろう。思い出せないなら、新しく関係を築くまでだ。
「薪、おれはおまえを恨んじゃいない。おれが精神を病んだのは、自分を過信したせいだ」
相手の罪悪感を喚起するには、やさしい言葉が効果的だ。ストレートな非難を受けた人間が抱くのは反発だけ、反発心から人間が自発的行動を取ることはない。自分の首は自分で締めさせる、それが滝沢の戦術だ。
「おまえがあれほど無理をするなと言ったのに、限界を超えて貝沼の画を見続けた。おまえの言いつけを破って悪かった、でもおれは、少しでもおまえの役に立ちたかったんだ」
滝沢が誠実な言葉を重ねるほどに、薪の瞳は憂愁に包まれた。
薪は責任感の強い男だ。少々、過ぎる嫌いがあるくらいだ。鈴木のことはもちろん、上野や豊村のことも、室長としての自分の責任を強く感じていることを滝沢は知っていた。ならば当然、精神病院に収容された滝沢にも引け目を感じているはずだ。
「できるだけのことはする」
予想通りの言葉が薪の口から零れて、滝沢は心の中で快哉を叫ぶ。
「おまえが病院に入らなきゃならなくなったのは、室長である僕の責任だ。許されるとは思っていないが、僕にできるだけのことはする」
「うれしい言葉だ。おまえは相変わらずやさしいな」
お人好しめ、そんなことだから部下を全部殺されて、その上自分の手まで汚すことになったんだ。恨むなら自分の甘さを恨め。
そう嘲笑う側から、否、根源はそこではない、と打消しの声が上がる。そうだ、忌むべきは甘さではない。愚かしくはあるが、それは罪ではない。憎むべきは彼の罪。的を一点に絞って、滝沢は心中で薪を罵倒する。
上層部の言うがままに秘密を飲み込んだ、その汚い心根を恨め。
言葉にならない呪詛を繰り返し呟きながら、滝沢は尊大に笑う。俯き加減にグラスに口をつける、明日から自分の上司になる男に向かって昂然と言い放った。
「おまえの誠意に期待する」
カラン、と氷の溶ける音がした。
地下ビルのバーという場所でありながら、低音で流れるリストのピアノ曲の中では、その音は異質だ。それを証明するかのように、年季が入って艶を帯びたカウンターの内側でバーテンダーがこちらを振り返る。その視線から連れを隠すように、滝沢は細長い台の上に肘を付き、薪の方へと身を乗り出した。
「本当に変わらんな。あの頃のままだ」
「おまえはますます態度がでかくなった」
亜麻色の髪に伸ばした滝沢の手を、薪は耳の横でパシリと払った。冷ややかに言い放ち、ロックグラスを傾ける。6年前より酒も強くなったらしい。
「岡部は副室長だが、鈴木ほど穏やかな性格をしてない。彼の前であまり僕にべたべたすると、投げ飛ばされるぞ」
「それは残念だ。おれはおまえのことが大好きなのに」
「そういう冗談もNGだ。何て言うかその……色々あって。彼は少し、過敏になってるんだ」
薪の言う「色々」の具体的な意味は分からなかったが、彼が眉根を寄せた所を見ると、つまびらかにされるのは避けたいようだ。後で聞きだしてやる、と滝沢は心に決め、薪が嫌がると解っている猫撫で声で、
「冗談なんかじゃない。おまえのことは本当に好きだぞ」
―――― 殺したいくらい。
あからさまに眉を顰める旧友に、滝沢は含み笑いをこぼす。
「6年間、おまえのことばかり考えていた」
嘘ではない、本当のことだ。死んだ彼女を想うより、彼を身の上を想像する方が多かった。彼女には一筋の変化も見出せなかったが、彼には空想の余地があった。
あれから彼はどうしただろう? 最後に見たときには死人のようだったが、生き永らえているだろうか。自ら命を絶ったとしたら、どんな方法で?
あそこまでの絶望に叩き込んでやったのだ。浮き上がれるはずがない。彼女を失った自分が二度と昔の自分に戻れなくなったように、ましてや薪はその手で自分の半身を殺したのだ。まともな人生など歩めるはずがない。彼に比べたら自分はまだマシだ。
そう思っていたのに。
雇い主に渡された資料には、滝沢が予想もしなかったことが書かれていた。現在の第九メンバーと室長である薪との間には強い信頼関係が築かれ、見事な連携プレイによって幾つもの難事件を解決している。滝沢がいる頃はどちらかと言うと孤立気味だった警察内の立場も改善され、昨今では天敵だったはずの捜査一課や組対五課と協力し合って犯人を逮捕することも多くなってきた。長官賞、局長賞、警視総監賞など主だった賞はとっくに制覇し、第九の名声は室長の薪警視長の威光と共に日本中に轟くようになった。
警察機構トップの検挙率を武器に、第九は現在も躍進を続けている。その頂点に君臨するのが滝沢の隣に座った小男だ。滝沢が与えた絶望は何処へやら、いつの間にか階級も上がっているし、順風満帆の人生ではないか。
それを知って滝沢は、ひどく寂しい気分になった。
自分が彼に施したものを、6年の間に彼は忘れ去ってしまった。自分は一時たりとて、彼を忘れたことはなかったのに。
―――― 思い出させてやる。
「おれはおまえに会えて、本当にうれしいんだ。以前のように仲良くしてくれ、薪」
「以前のように?」
薪の顔が訝しげに歪んだ。おまえと馴れ合った覚えはない、と言いたげだ。
よかろう。思い出せないなら、新しく関係を築くまでだ。
「薪、おれはおまえを恨んじゃいない。おれが精神を病んだのは、自分を過信したせいだ」
相手の罪悪感を喚起するには、やさしい言葉が効果的だ。ストレートな非難を受けた人間が抱くのは反発だけ、反発心から人間が自発的行動を取ることはない。自分の首は自分で締めさせる、それが滝沢の戦術だ。
「おまえがあれほど無理をするなと言ったのに、限界を超えて貝沼の画を見続けた。おまえの言いつけを破って悪かった、でもおれは、少しでもおまえの役に立ちたかったんだ」
滝沢が誠実な言葉を重ねるほどに、薪の瞳は憂愁に包まれた。
薪は責任感の強い男だ。少々、過ぎる嫌いがあるくらいだ。鈴木のことはもちろん、上野や豊村のことも、室長としての自分の責任を強く感じていることを滝沢は知っていた。ならば当然、精神病院に収容された滝沢にも引け目を感じているはずだ。
「できるだけのことはする」
予想通りの言葉が薪の口から零れて、滝沢は心の中で快哉を叫ぶ。
「おまえが病院に入らなきゃならなくなったのは、室長である僕の責任だ。許されるとは思っていないが、僕にできるだけのことはする」
「うれしい言葉だ。おまえは相変わらずやさしいな」
お人好しめ、そんなことだから部下を全部殺されて、その上自分の手まで汚すことになったんだ。恨むなら自分の甘さを恨め。
そう嘲笑う側から、否、根源はそこではない、と打消しの声が上がる。そうだ、忌むべきは甘さではない。愚かしくはあるが、それは罪ではない。憎むべきは彼の罪。的を一点に絞って、滝沢は心中で薪を罵倒する。
上層部の言うがままに秘密を飲み込んだ、その汚い心根を恨め。
言葉にならない呪詛を繰り返し呟きながら、滝沢は尊大に笑う。俯き加減にグラスに口をつける、明日から自分の上司になる男に向かって昂然と言い放った。
「おまえの誠意に期待する」