破滅のロンド(7)
破滅のロンド(7)
昼休み終了の10分前。室長室にコーヒーを運ぶ青木を、岡部は呼び止めた。
「室長なら留守だぞ。午後から警視庁で会議だ」
「え。食事先から直行で?」
午後からの会議のことは、青木も知っている。それでもこうしてコーヒーを運んできたのは、いつも薪は青木のコーヒーを飲んでから会議に赴くからだ。今日のように、昼食を摂った店から会議室へ直行というのは珍しい。ましてや。
「……また滝沢さんと一緒か」
お供の部下と一緒に食事をして、そのまま出掛けるなど。
ホワイトボードに書かれた各人の予定を見て、青木が低い声で呟く。表情には出さないが、面白くないのだろう。その気持ちは岡部も一緒で、多分、他の職員たちも同じだ。
薪はとても公正な室長だった。部下の中で特に誰かを疎んじることなく、可愛がることはもっとせず、平等に厳しく、公平に叱った。職員たちの不満は室長に集中し、仲間内でいざこざが起きることはなかった。
それが、滝沢にだけは違った。モニタールームに入って来るたび、彼に必ず声を掛けた。自分が外に出ることがあれば、常に彼を同伴した。まだ見習い期間中の滝沢は受け持ちの事件を持っていないから、と言うのがその理由だったが、青木が新人だった頃は一度も指名された覚えがない。
「よかったら」とカップを差し出され、岡部は隣に立った男を見上げた。椅子を回転させ、彼の真面目そうな顔を検分する。何処となく疲れて、元気がなさそうだ。
「薪さんも、どういうつもりなんだろうな」
岡部はそれを、カマを掛けたつもりで訊いた。青木は薪の恋人だ。薪が滝沢に気を使う理由を、本人から聞いて知っているはずだと思った。ところが。
「オレには分かりません」
力なく首を振る、そこまではあり得ることだった。薪は意地っ張りだ。自分の弱みを、例え相手が恋人といえども隠そうとすることは、充分に考えられた。しかし。
「もしかしたら昔、恋人同士だったのかも」
「ぶっ!」
後輩の口から予想もつかない答えが飛び出して、岡部はコーヒーにむせる。何を根拠にそんな疑いを持ったのか、さては恋人の勘違い癖が伝染したのかと、岡部が咳き込みながらも青木の疑惑を否定すると、青木は何とも情けない顔になって、
「じゃあどうしてオレ、薪さんに振られたんですかね」
「はあ?」
岡部はポカンと口を開け、間の抜けた声を出した。そんなわけは無い、自分は薪から何も聞いていない。薪が、青木の姉に会う直前の精神安定のために岡部を呼び出したのは4日前だ。この急転直下のラブストーリーをどう理解したらいいのか。
岡部が日曜日の薪の様子を話してやると、青木は悲しそうに眉根を寄せ、岡部の隣の席に腰を下ろした。
「そうですか、そんなに嫌がって……オレ、薪さんの気持ち、全然分かってなかったんですね」
「いや、薪さんは別に嫌がってたわけじゃ」
「オレ、実はすごく浮かれてて。姉に自分の彼女を紹介するような気分でいたんです」
それはそうだろう。薪は青木の恋人なのだから、どこも間違っていない。
「だけど、薪さんにはプレッシャーだったんですね。そうですよね。オレだって、もしも薪さんの両親がご存命でいらして、お会いする機会があったら、緊張で食事なんか喉を通らないかも」
「まあ、プレッシャーはあったみたいだが。薪さんは、おまえのためにそれを乗り越えようとしてだな」
懸命に、薪は自分を奮い立たせていた。悲惨な未来図を思い浮かべながら、それでも逃げ出さず、立ち向かおうとしていた。そんな薪が青木を疎んじる道理がない。
「だから、薪さんがおまえを嫌いになったなんてことはない。滝沢の方を優先したのは、薪さんにも理由があって」
「理由ってなんですか。滝沢さんが此処に赴任した途端、オレと距離を置かなきゃいけない理由ってなんですか。仕事中は仕事のこと以外話しちゃいけない、プライベートでは近付いてもいけない理由って?」
「それは、おまえたちの仲が発覚するのを怖れて」
苦しいこじ付けだった。それを危惧するなら、今までだって同じではないか。このタイミングで薪の警戒態勢がレッドゾーンに入った理由は他にある。
「岡部さん」
縋るような瞳で、青木が岡部の顔を見た。岡部は第九内でただ一人、彼らの関係を知っている人間だ。困り果てた青木が他に頼る者はいなかった。
迷ったが、話すべきだと思った。
他の職員はともかく、青木は薪にとって特別だ。他人の過去、それもかなりの割合で推測が入る話だが、青木の気持ちを落ち着かせるのは大切なことだ。青木は大人しそうな外見からは信じられないくらい無鉄砲な男で、思い詰めたら何をしでかすか分からない。滝沢に詰め寄って直接問い質す、なんてことを平気でしてくれるからコワイ。
「滝沢は、貝沼事件の生き残りだ」
えっ、と驚きの声を上げて、青木が背筋を伸ばした。貝沼の名前が出ただけで、ゴクリと唾を飲む。2065年の今でも、かの事件を上回る猟奇犯罪は起きていない。6年という歳月を経てなお、貝沼事件は日本犯罪史の頂点に君臨していた。
「当時の第九の職員は室長を除いて死亡したが、一人だけ、精神病院に入院した職員がいただろう。それが滝沢だ。6年間療養して、ようやく現場復帰することができたんだ」
「それで薪さん、あんなに気を使って」
薪が滝沢から目を離さない理由を知って、青木は深く頷いた。薪の性格を知っているものなら誰でも察しがつく、室長として部下の精神的疾病の責任を感じているのだ。
「この話は、他の連中には黙っててくれ。下手に気を回されると、余計うまくいかなくなる」
岡部が青木に秘匿を促すと、青木はもう一度頷いて、
「薪さんが滝沢さんのこと、気に掛ける理由は分かりました。薪さんらしいと思います。でも、だからってオレと別れなくても」
多分、違うと思った。薪はポーカーフェイスが得意だが、こういうことはすぐにバレる。背中に張りがなくなったり、話し方が淡々とし過ぎていたり。ボーっとしたり、ミスが増えたり、人の話を聞いていなかったり。そういった兆候が一切現れていないところを見ると、別れ話は青木の誤解の可能性が高い。
そう言って岡部が慰めても、青木は俯いたままだった。こと恋愛に関して、他人から告げられる恋人の好意は意味を持たない。希望を持たせようと耳に心地良いことを並べている、そんな風に受け取られがちだ。
直接薪に確かめるのが一番良いのだが、プライベートでは会ってもくれない。電話ですら、仕事以外のことを喋ろうとすると切られてしまうと言う。何を考えているのか知らないが、そこまで徹底しなくてもよさそうなものだ。青木が落ち込むのも当然だ。
「折りを見て、ちゃんと説明するように俺が薪さんに話してやるから」
最終的に、お人好しの岡部が介入を約束させられて、青木の悩み相談室は終わった。広い肩を落として自分の机に戻る後輩を、岡部は溜息混じりに見送ったのだった。
昼休み終了の10分前。室長室にコーヒーを運ぶ青木を、岡部は呼び止めた。
「室長なら留守だぞ。午後から警視庁で会議だ」
「え。食事先から直行で?」
午後からの会議のことは、青木も知っている。それでもこうしてコーヒーを運んできたのは、いつも薪は青木のコーヒーを飲んでから会議に赴くからだ。今日のように、昼食を摂った店から会議室へ直行というのは珍しい。ましてや。
「……また滝沢さんと一緒か」
お供の部下と一緒に食事をして、そのまま出掛けるなど。
ホワイトボードに書かれた各人の予定を見て、青木が低い声で呟く。表情には出さないが、面白くないのだろう。その気持ちは岡部も一緒で、多分、他の職員たちも同じだ。
薪はとても公正な室長だった。部下の中で特に誰かを疎んじることなく、可愛がることはもっとせず、平等に厳しく、公平に叱った。職員たちの不満は室長に集中し、仲間内でいざこざが起きることはなかった。
それが、滝沢にだけは違った。モニタールームに入って来るたび、彼に必ず声を掛けた。自分が外に出ることがあれば、常に彼を同伴した。まだ見習い期間中の滝沢は受け持ちの事件を持っていないから、と言うのがその理由だったが、青木が新人だった頃は一度も指名された覚えがない。
「よかったら」とカップを差し出され、岡部は隣に立った男を見上げた。椅子を回転させ、彼の真面目そうな顔を検分する。何処となく疲れて、元気がなさそうだ。
「薪さんも、どういうつもりなんだろうな」
岡部はそれを、カマを掛けたつもりで訊いた。青木は薪の恋人だ。薪が滝沢に気を使う理由を、本人から聞いて知っているはずだと思った。ところが。
「オレには分かりません」
力なく首を振る、そこまではあり得ることだった。薪は意地っ張りだ。自分の弱みを、例え相手が恋人といえども隠そうとすることは、充分に考えられた。しかし。
「もしかしたら昔、恋人同士だったのかも」
「ぶっ!」
後輩の口から予想もつかない答えが飛び出して、岡部はコーヒーにむせる。何を根拠にそんな疑いを持ったのか、さては恋人の勘違い癖が伝染したのかと、岡部が咳き込みながらも青木の疑惑を否定すると、青木は何とも情けない顔になって、
「じゃあどうしてオレ、薪さんに振られたんですかね」
「はあ?」
岡部はポカンと口を開け、間の抜けた声を出した。そんなわけは無い、自分は薪から何も聞いていない。薪が、青木の姉に会う直前の精神安定のために岡部を呼び出したのは4日前だ。この急転直下のラブストーリーをどう理解したらいいのか。
岡部が日曜日の薪の様子を話してやると、青木は悲しそうに眉根を寄せ、岡部の隣の席に腰を下ろした。
「そうですか、そんなに嫌がって……オレ、薪さんの気持ち、全然分かってなかったんですね」
「いや、薪さんは別に嫌がってたわけじゃ」
「オレ、実はすごく浮かれてて。姉に自分の彼女を紹介するような気分でいたんです」
それはそうだろう。薪は青木の恋人なのだから、どこも間違っていない。
「だけど、薪さんにはプレッシャーだったんですね。そうですよね。オレだって、もしも薪さんの両親がご存命でいらして、お会いする機会があったら、緊張で食事なんか喉を通らないかも」
「まあ、プレッシャーはあったみたいだが。薪さんは、おまえのためにそれを乗り越えようとしてだな」
懸命に、薪は自分を奮い立たせていた。悲惨な未来図を思い浮かべながら、それでも逃げ出さず、立ち向かおうとしていた。そんな薪が青木を疎んじる道理がない。
「だから、薪さんがおまえを嫌いになったなんてことはない。滝沢の方を優先したのは、薪さんにも理由があって」
「理由ってなんですか。滝沢さんが此処に赴任した途端、オレと距離を置かなきゃいけない理由ってなんですか。仕事中は仕事のこと以外話しちゃいけない、プライベートでは近付いてもいけない理由って?」
「それは、おまえたちの仲が発覚するのを怖れて」
苦しいこじ付けだった。それを危惧するなら、今までだって同じではないか。このタイミングで薪の警戒態勢がレッドゾーンに入った理由は他にある。
「岡部さん」
縋るような瞳で、青木が岡部の顔を見た。岡部は第九内でただ一人、彼らの関係を知っている人間だ。困り果てた青木が他に頼る者はいなかった。
迷ったが、話すべきだと思った。
他の職員はともかく、青木は薪にとって特別だ。他人の過去、それもかなりの割合で推測が入る話だが、青木の気持ちを落ち着かせるのは大切なことだ。青木は大人しそうな外見からは信じられないくらい無鉄砲な男で、思い詰めたら何をしでかすか分からない。滝沢に詰め寄って直接問い質す、なんてことを平気でしてくれるからコワイ。
「滝沢は、貝沼事件の生き残りだ」
えっ、と驚きの声を上げて、青木が背筋を伸ばした。貝沼の名前が出ただけで、ゴクリと唾を飲む。2065年の今でも、かの事件を上回る猟奇犯罪は起きていない。6年という歳月を経てなお、貝沼事件は日本犯罪史の頂点に君臨していた。
「当時の第九の職員は室長を除いて死亡したが、一人だけ、精神病院に入院した職員がいただろう。それが滝沢だ。6年間療養して、ようやく現場復帰することができたんだ」
「それで薪さん、あんなに気を使って」
薪が滝沢から目を離さない理由を知って、青木は深く頷いた。薪の性格を知っているものなら誰でも察しがつく、室長として部下の精神的疾病の責任を感じているのだ。
「この話は、他の連中には黙っててくれ。下手に気を回されると、余計うまくいかなくなる」
岡部が青木に秘匿を促すと、青木はもう一度頷いて、
「薪さんが滝沢さんのこと、気に掛ける理由は分かりました。薪さんらしいと思います。でも、だからってオレと別れなくても」
多分、違うと思った。薪はポーカーフェイスが得意だが、こういうことはすぐにバレる。背中に張りがなくなったり、話し方が淡々とし過ぎていたり。ボーっとしたり、ミスが増えたり、人の話を聞いていなかったり。そういった兆候が一切現れていないところを見ると、別れ話は青木の誤解の可能性が高い。
そう言って岡部が慰めても、青木は俯いたままだった。こと恋愛に関して、他人から告げられる恋人の好意は意味を持たない。希望を持たせようと耳に心地良いことを並べている、そんな風に受け取られがちだ。
直接薪に確かめるのが一番良いのだが、プライベートでは会ってもくれない。電話ですら、仕事以外のことを喋ろうとすると切られてしまうと言う。何を考えているのか知らないが、そこまで徹底しなくてもよさそうなものだ。青木が落ち込むのも当然だ。
「折りを見て、ちゃんと説明するように俺が薪さんに話してやるから」
最終的に、お人好しの岡部が介入を約束させられて、青木の悩み相談室は終わった。広い肩を落として自分の机に戻る後輩を、岡部は溜息混じりに見送ったのだった。