水面の蝶(13)

水面の蝶(13)





「青木さん、おはようございます」
 ノックの音がして、病院の看護師が姿を現した。お熱測ってくださいね、と体温計を青木に差し出し、すぐに病室を出て行く。朝の交代前で、忙しいのだろう。部屋の引き戸は空けられたままになって、多分空気の入れ替えも兼ねているのだろうと勝手に判断し、青木は横になったままで体温計を脇下に挟んだ。

 昨夜はあの後、看護師が来て痛み止めの注射を打ってくれた。そのおかげで朝まで眠ることができた。浅く不快な眠りだったが、痛くて眠れないよりはずっといい。
 青木はぼんやりと天井を見つめて、何も考えずに体温計のアラームが鳴るのを待っていた。一晩経ったら、大分気持ちの整理もついた。
 美月はもう、自分の手の届かないところに行ってしまった。自分にはどうしようもない。祈ることしかできないのだ。
 空っぽの心を抱えた青木の耳に、廊下からかしましいお喋りが聞こえてきた。

「あら、ここの患者さんて、昨日運ばれてきた人?」
「そうそう。林檎剥いてたら自分のお腹にナイフを刺しちゃったって器用な人」
 ……オレってどんだけドジなんですか。
 薪が言ったに違いない。記憶はないが、自分を病院に連れてきてくれたのは、薪のはずだ。そう思った矢先。

「そういえば、ここの付き添いで来た男の人、見た?」
「見た見た。すっごい美形だったわよね」
 話題が薪のことに移って、青木は恋人のきれいな顔を思い出す。
 冷たく透き通った美貌を一筋も乱すことなく、流れるような動作で美月を床に引き倒していた。頬に一筋の血が流れているのが、場違いなほど凄艶だった。
 薪は終始、冷静だった。青木が怪我をしても、自分が傷ついても。職務となれば感情を殺した機械にもなれる。警察官はそういう精神を要求される職種だが、恋人がナイフで刺されたのに慌てもしないなんて。しかも、昨日の6時には既に姿が見えなかった。青木はずっと気を失ったままだったから定かではないが、処置が終わり、病室に落ち着いた時点でさっさと帰ってしまったのだろう。
 寂しい気もするが、昨日の夜に病室を訪れた医師の話では、刺されたショックと痛みで気を失ってしまっただけで、大した怪我ではなかったようだし。薪が大量に持ち帰ってきた仕事は、あの騒ぎで手付かずのままだ。今頃薪は、家で書類と格闘しているに違いない。
 若干の寂しさを、書類を捌いている薪の美しい横顔を思い出すことで埋めようとしていた青木の耳に、やや年配と思われる女性の険しい声が聞こえた。

「こら、あんたたち。お喋りしてるヒマがあったら、手を動かしなさい」
 すみません、と謝る複数の声が聞こえる。どうやら彼女たちの上司は、仕事に厳しい女性らしい。さもあらん、ここは病院でひとの命を預かっているのだ。真剣に挑んでもらわなくては困る。
「で、なんの話?」
「それがですね、婦長」
 って、こら!
 噂話の声がもうひとつ増えて、廊下はますます騒がしくなる。大丈夫か、この病院。

「403の患者さんの付き添いの方の話です。ほっぺに切り傷つけてた、すごくきれいな男のひと」
「あーあー、あのひと。『僕の血を全部』のひとね」
「そうです、そう!」
 いくつかの相槌が重なり、廊下の空気がいっぺんに華やぐ。彼女たちの話はいまひとつ見えてこないが、薪のことを言っているのは間違いない。
 一刻を争う命の現場で鍛え上げられたもの特有の小さくともよく通る声で、彼女たちは言った。

「真っ白な顔しちゃって、身体中震えちゃって。彼は大丈夫ですか、ってあなたが大丈夫? ってツッコミたくなっちゃいました」
「輸血が必要なほど深い傷じゃなかったのにねー、『僕の血を全部彼にあげてください!』って叫ばれて、須藤先生も面食らってたわよねー」
「しかも大丈夫だって分かった途端、安心して貧血起こして倒れたのよ。もう、どんだけ人騒がせな付き添いなのよ」
「でもちょっと感動しない? 全部よ、全部」
「あたしの彼、あたしが怪我したら同じこと言ってくれるかなあ?」
「無理無理。あんたの彼、注射が怖くて病院に来れないんでしょ」

 くすくすと抑えた笑い声が響く中、先刻病室を訪れた看護師が体温計を回収に来た。
「青木さん、お熱測れましたか? ……大丈夫ですか? 痛みます?」
 看護師が気遣わしげに青木の顔を覗き込み、優しい言葉を掛けてくれた。青木は大丈夫です、と返して、目の縁に浮かんでいた涙を人差し指で拭った。
 笑ったら、傷口が泣くほど痛かった。でも幸せで、青木はこの痛みを失くすのが惜しいような気さえした。

「37度5分。昨夜より大分下がりましたね」
「オレ、昨夜はぐっすり寝ちゃって」
「痛み止めと、眠れるようなお薬を入れましたから」
「お世話掛けました。体温測るの大変だったでしょう? 図体でかいから」
 青木が恐縮すると、看護師は首を振って、
「ずっと付き添いの方が起きてらして。お熱はその方に測ってもらったんですよ」
「あれ。彼は夕方帰ったんじゃ」
「いいえ。一晩中、ここにおられましたよ。青木さんの意識が戻ったときは、ちょっとその……あちらの意識がなかったというか、まあ……」
 そういうことか。貧血を起こした彼に、自分が付き添ってやりたかった。

 曖昧に語尾を濁した看護師に、青木は薪の行方を尋ねる。朝早くに病院を出たそうだが、朝食の時間までには戻るから、とナースステーションに青木のことを頼んでいったそうだ。
「きっと、食事のお世話をなさるおつもりなんだと思いますけど。ぜんぜん、必要ないんですけどね……夜間も完全看護だからって言ったのに、聞く耳持たないし……」
 少しだけ呆れた口振りで彼の空廻りっぷりを暴露する、だけど彼女の表情はやさしさに満ちて。多分に迷惑を掛けたであろう青木の付き添いのことを、彼女が心の底では微笑ましく思っていることを青木に知らせる。
 朝食は普通食が出ますからね、と言い置いて、看護師は病室を出て行った。青木は仰向けになったまま、朝食の時間を心待ちに目を閉じた。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

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Author:しづ
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2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
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