水面の蝶(16)

水面の蝶(16)




「彼女も、そういうことなんでしょうか」
 食事の膳を空にして、青木は紙パックの牛乳をストローで啜りながら呟いた。しんみりしたその口調は、大切な思い出の品を失くしてしまった子供のように、寂しさに満ちていた。
 青木にはもう、事件の真犯人が彼女だと分かっていた。
 薪がここにいること、なのに彼女のことを話そうとしないのが何よりの証拠だ。薪が今も彼女の無実を信じているなら、絶対に動いてくれているはずだ。昨日、あれから美月がどうなったのか、どんな取調べを受けているのか、青木に教えてくれたはずだ。

「変わってしまったのか。それとも、オレの眼が節穴だったってことなんですかね。美月は誰にでもやさしい天使なんかじゃなくて、もともと人を害するような類の人間だったってことで」
「青木。それは違う」
 いまさら美月を庇ってもらっても、慰めにはならない。事実は事実として、動かしようもなくそこにある。

「何が違うんですか。罪を犯して、そこから逃れたくて、彼女はオレを利用しようとしたんですよね? それがうまく行かなかったものだから、腹を立ててオレを刺した。そんな人間をオレはずっと、この世で一番やさしい女性だと信じて」
「そんな人間て、どんな人間だ」
 青木の恨みがましい言葉を、薪の冷静な声が遮った。
「殺人を犯した人間は、普通の人間じゃないとでも言うつもりか。犯罪者は悪人で、そうじゃない人は善人だと?」
「違うんですか」
 薪の言わんとすることが、青木にはよく分からない。例外が無いとは言わないが、一般的な認識はそうだと思う。普通の人間は人を殺さない。
 しかし、薪は即座に青木の言葉を否定した。

「ちがう。犯罪者もそうじゃないひとも、みんな普通の人間だ。特別な人間が犯罪者になるわけじゃない。過ちを犯してしまった人たちを犯罪者と言っているだけで、彼らは悪人じゃない」
 犯人側にも目を向けることを怠らない薪らしい考え方だが、青木には屁理屈に聞こえる。薪はあるいは、自分の理屈を押し付けようとしているのではなく、青木の中にある美しい思い出を守ろうとしてくれているのかもしれないが、その気遣いすら今の青木の耳には空々しく響くばかりだ。

「そんなきれいごと」
「青木!」
 叱責するように、薪は青木の名を呼んだ。ぞくりと青木の心臓が冷える。
 いつも職場でされるように威嚇されて、条件反射で身構えてしまう自分が悲しい。しかしそのときの薪は、職場では絶対にしないことをした。ベッドに無気力に放り出されていた青木の右手を両手で包み、やさしく握って持ち上げたのだ。

「別に僕は性善説を支持してるわけじゃない。でも、誰にだってその可能性はある。ほんのはずみで、道を一本間違えただけで、転がり落ちるように犯罪に手を染めてしまって、抜け出したくても抜け出せない。そんなひとが世の中にはたくさんいるんだ」
 自分の手で救いきれない彼らの苦悩を慮ってか、薪の秀麗な眉が辛そうに眇められる。伏せられた睫毛が微かに震える、それは常に自分に厳しく、職務に忠実な薪がほんの少し覗かせる彼の真実の片鱗。
「水面を飛ぶ蝶のように。降りたくても降りられない。彼らの視野はとても狭くなっていて、真下の水面しか見えない。両側にあるはずの風景が見えないんだ。羽根を休められる草も、蜜を吸える花も、何も見えない。そんな彼らにとって、飛ぶ方向を変えることはひどく難しい」

 目蓋を閉じて、長い睫毛を重ねて、そうして薪が青木に見せてくれるのは、どんなに著名な工芸家でも作り出せない麗しい造形。だけどこんなに薪がきれいなのは、見た目だけじゃない、形だけじゃない、彼の魂の中核を成す、それは彼が生まれ持ったもの、そして彼の人生の中でその純粋さと共に懸命に積み重ねてきたもの。
 おそらくは誰もが生まれたときその手に握っていて、でも何かをつかむために手放して、多くのひとがもう二度と手に入らないと嘆く秘石を薪は当然のように持っていて、それが彼をきらめかせるから。正義感や熱意や情熱や、時には眩暈がするような愛くるしさになって、彼の中から溢れ出すから。

「青木」
 大切過ぎて触れるもためらわれるようなものを慈しむときの慎重さをもって、薪が自分の名前を呼ぶ。彼の全身から発せられる、彼の輝きが青木を包む。
「僕たちの仕事は、市民を犯罪から守ることだろ。だったら犯罪に手を染めてしまった人たちをそこから救うことも、僕たちの仕事だと思わないか」
 再び眼を開けた薪の亜麻色の輝きを見れば、それは一番に彼の真実を表していて。いとも簡単に青木の反駁心は根こそぎ奪われる。はい、と頷くしか残されていない一者択一の選択肢を、青木は心からの喜びと共に選び取る。

「怪我が治ったら、彼女に会いに行きます」
 青木の言葉に、薪がこくりと頷く。亜麻色の髪がさらりと揺れて、つやめくリングが天上の美を宿す。
 青木は薪に包まれた右手をさらに高く持ち上げると、薪の手の甲に敬虔さの漂うキスを落とした。

「薪さん。オレ、薪さんの部下でよかっ……て、なんですか、そのいきなりの大欠伸は! 感動シーンが台無しですよっ!!」
 心から捧げた尊敬をスルーされて、しかも欠伸までされた日には、胸いっぱいに広がった感動も掻き消されようというもの。大声による腹筋の収縮に伴う痛みも手伝って、青木のテンションは錐もみ状態で落ちていく。
 それなのに薪は、青木の憤慨を何処吹く風と受け流し、彼の手を素っ気無く払って口元を手のひらで隠しながら二度目の欠伸をするという軽挙に出た。
「誰かさんのせいで昨夜寝てないから。眠くって、貧血起こしそうだ」

 かちーん。

 昨夜の睡眠不足は薪の空回りの自業自得で、青木は頼んでないし、看護師さんも要らないって言ってたし、だいたい怪我人に向かって「おまえのせいで寝不足」って普通言いませんよね?
 二回の大掛かりな酸素補給を行なったにも関わらず、まだ眠そうに目をこすっている薪の耳元で、青木はささやかな復讐を試みる。
「昨夜はありがとうございました。お礼に、今度薪さんが貧血起こしたら、オレの血を全部あなたに差し上げますから」
「何を大袈裟なことを言って…………ん?」
 どこかで聞いた、いや、口にした覚えのあるセリフをそっくり返されて、薪はたちまち顔を火照らせる。信じられないことを聞いた、という顔をして青木の顔をまじまじと見る、そんな薪の姿は、看護師たちの噂話が真実であったことを青木に教えてくれる。

「まさかおまえ、ずっと意識のない振りをしてたんじゃ」
「違います、看護師さんたちが話してるのを聞いただけで、ちょっ、薪さん? どうして花瓶を頭の上に振り上げてるんですか? あ、さすがにそれで叩いたりは、って冷たっ! てか、痛―――ったいっっ!!」
 顔にぶっ掛けられた水は植物特有の臭気がして、身体をよじったものだから痛みもひどくて、本気で泣きが入りそうだ。
「みそ汁の次は花瓶の水ですか。イタタ……」
 どうやら今日の青木には、水難の相が出ているらしかった。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

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Sさまへ

Sさま、こんにちは!
(こちら、6/27にいただいたコメントのお返事です)

> あのベンチで青木くんに触れられずに飛び立った薪さんを思うにつけ、青木くんの手を包み込めるこちらの薪さんは幸せだと…ううう(;_;)

本当に、切なかったですよね。(;;)
最後の最後まで、自分から手を伸ばすことはできないんだ、と思ったのと同時に、完全に青木さんを断ち切ろうとしている薪さんの決意が伺えて、それがいっそう辛かったです。(TT)
でも、あんなに泣いてもらえたら、きっと薪さんは嬉しかったと思います。 Sさまの仰るように、幸せだったのかもしれませんね。(^^

……エピローグを読んだ今だから、こんなに穏やかに返せますけど。
当時は、「何やってんのよ、最後なのにー!!!」と、悔しい気持ちで一杯でした。(^▽^;
今となってはいい思い出デス。

Aさまへ

Aさま、こんにちは。

> 「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がすぐ浮かびましたが・・薪さんも人を殺してしまったことがあるわけで・・(><)

これはうちの勝手な設定ですけど。
鈴木さん事件の前の薪さんは、犯罪者には容赦しないタイプの警察官でした。 遺族への配慮も通り一遍で、加害者家族に対する配慮もしませんでした。 
事件に関わったすべての人たちを、加害者までを救おうとするようになったのは、鈴木さんの事件を通して、事件に関わった人すべてが救済されるべき被害者なのだ、と身を持って学んだからです。 加害者となり、同時に(心情的には)被害者遺族となった薪さんには、そうせずにはいられなかった。 
そういう薪さんに、青木さんは惹かれた。 だからうちの場合、薪さんが鈴木さんを殺していなければ、青木さんは薪さんに恋をしなかったんです。


> 今は青木という花にとまって羽を休めることができたと勝手に解釈しました(^▽^)

薪さんもまた、水面の蝶だったのかもしれませんね。
鈴木さんを失い、がむしゃらに働いて、自分を苛めるように過ごした日々……周りの人々の気遣いにも気付けなかった、気付いても受け取ることはできなかった。 ひたすら飛び続けなければいけない可哀想な蝶。
薪さんにとっては、青木さんが花なんですね。
うん、あれだけ大きければ目に留まりやすかっただろうと思います。(笑)


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Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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