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モンスター(26)

モンスター(26)





「薪さん! モンスターはあんただ!」

 鍛錬に鍛錬を重ねた武道者の指が、真っ直ぐに薪を指差していた。
 岡部とて、本気で薪が全部悪いと思っているわけではない。10年前、どん底の薪を一番近くで見てきたのは岡部だ。その傷の深さも苦しむ様子も目の当たりにしてきた。だから今までは黙って見守ってきた。
 でも、彼は知らないといけない。狭窄された視野で生まれた罪悪感は悲劇を引き起こすこと。それが周囲に悪影響を及ぼし、負の連鎖を生むということを。

「そうやって、すべて自分のせいだと思い込んでしまう弱さ、それこそがモンスターの正体なんじゃないですか。そのせいで周りの人間は自分の間違いに気付けない、気付いていても後戻りできない。今回の事件は、全部あんたの加害者意識が引き起こし」
「やめてください!」
 岡部に糾弾される薪があまりにも可哀想で、青木はもう我慢ができない。
 岡部が、いつまでも薪が手放そうとしない十字架を、必要以外のものまで背負ってしまおうとするその破滅的な生き方を、何とかして直そうとしているのは解る。それは今でなくてはできない、薪の精神が回復し、その心が鉄の鎧を着けた後では何を言っても軽く流されてしまうことも解っている。だけど。
「なんで薪さんが責められるんですか?! 薪さんは被害者ですよ!」
 理屈ではない。そんなものは青木に通じない。こと、薪に関することで青木に理性的な判断などできないのだ。
「そんなの、やった方が悪いに決まってるじゃないですか!」

 理論的な岡部の告発に比べ、青木の弁護は子供のようだった。声の大きさこそ岡部に負けていなかったが、内容は小学校のホームルームの発言に限りなく近かった。
「どんなに挑発されたって例え殺してくれって頼まれたって、人を害すれば罪になるんです! 荒木は警察官です、それが分からないなんて言わせません!」
「青木。滝沢にも言われただろう。おまえがそうやって全部肯定してしまうから、薪さんはいつまで経っても」
「いいえいいえ! 薪さんは悪くないです!」
 世の中のあらゆるものから彼を守るように、青木は薪の頭を抱きしめて、それこそ濁流に流される羽虫が渾身の力で岩に張り付くように抱きしめて、頑是なく首を振った。世間を知らない子供が母親を庇うように、それは未熟極まりない援護射撃ではあったけれど。

「オレは誓ったんです。薪さんのことを悪く言う人がいたら、その口を塞いでしまおうって。憎む人があればその心を潰してしまおうって」
 薪の頭に、その亜麻色の髪にぽたぽたと垂れては吸い込まれていく、青木の涙はまごうことなき愛の証で、誰かのために無心に流される涙には、理屈や正論を打ち砕く圧倒的なまでの威力があった。
「誓ったんです」
 そう結んだ青木は薪の髪に顔を埋ずめて一時黙り込み、しかしすぐに顔を上げて岡部を非難した。
「こんなに傷ついてる人を責めるのは、人間のすることじゃありません!」
 大の男に泣きながら喚かれて、岡部はまるで小さな子供を苛めて泣かせたような気分になる。青木を連れてきたのは失敗だったかと、やるせなく溜息を吐いたその矢先。

「青木、泣くな」
 薪の指が、青木の涙を拭いた。顔を上げて青木と眼を合わせ、だから薪の頬には青木の涙が滴り落ちて、けれど薪は自分の頬には手を伸ばさず、ひたすらに青木の涙を止めようと彼の涙袋を拭い続けた。
「おまえが泣くと、僕は悲しい」
 妙に単純で素直な薪の言葉に、青木は彼に迫る限界を感じ取る。眠りに落ちるときのように、今の薪に理性はない。理性の鎧を着けていない薪がどんなに脆く傷つきやすいか、青木はよく知っている。
 これ以上薪を傷つける気なら例え岡部でも許さないと、青木が厳しい顔つきで上司を睨む。その後ろで、荒木がぽつりと呟いた。

「室長は、ちゃんと抵抗しましたよ」
 薪の窮地に青木が放り出した細紐の取っ手を、不自由を強いられた両手で器用に引き上げ、それを弄びながら、
「岡部さんたちが来る直前でしたけど。おれの手を掴んで、死にたくないって顔をしましたよ」
 岡部と青木があの霊園に辿り着いたのは、荒木がナイフを振りかざして薪の喉笛を掻き切ろうとした、正にその瞬間であった。
 岡部は咄嗟に、足元の玉砂利を投げた。それがナイフを握った手を直撃し、彼から凶器を奪った。走り寄った岡部が荒木を捕まえ、倒れた薪を青木が抱き上げた。

「だけど、殺された兄貴もきっとこんな気持ちだったんだと思ったら、動けなくなっちゃったんじゃないですか。おれがそう言ったら、眼が死んだから」
 生物にとって何よりも強くあるべき生存本能が、罪悪感に負ける。被害者遺族に死んで償えと言われれば、それを受け入れてしまう。10年経った今でも薪のスタンスは変わっていないのだと、思い知らされれば自分が彼にしてきたことは何だったのかと、煮えくり返って炭のようになったはらわたが体内で吐き出した黒煙を、岡部は八つ当たり気味に荒木に吹きつけた。
「荒木、勘違いするなよ。薪さんにはああ言ったが、おれはこの事件が全部薪さんのせいだったなんて思っちゃいない。青木の言う通り、どんな事情があったとしてもやった方が悪いんだ。自分を止められなかったおまえに罪はある」
「分かってます。室長のせいだなんて思ってませんよ」
 素直に頷く荒木には、愚鈍なふてぶてしさも捨て鉢な開き直りもなく。むしろ端然と、いっそ何かから解放されたかのような、浄化さえ漂わせていた。

「きっと母さんも同じだったんです。悪いのは貝沼という異常者で、それに眼を着けられた室長は被害者だと分かってた。でも」
 亡くなった母親のことを思い出したのか、荒木の黒い瞳に哀悼が浮かぶ。その物寂しげな様子は、いつも明るく振舞っていた彼の笑顔の奥に仕舞われた長きにわたる苦悩と涙を、見る者に慮らせる。
「貝沼が死んで、世間が事件を忘れ去って。憎しみの対象の一つもこの世になかったら、生きてられなかったんだと思います」
 荒木は自分を捕縛した紐の取っ手を岡部に差し出し、深く頭を下げた。
「すいませんでした」
 岡部は取っ手を受け取り、彼の身体を引いて病室の出口に向かった。荒木に与えられた時間には限りがあり、それは終わりに近付いていた。

「岡部さん。一つだけいいですか」
 ドアの前で立ち止まり、荒木はふと岡部を見上げた。
「もしも室長が、岡部さんが言ったみたいにおれに偉そうに説教してたら、ソッコー殺ってたと思いますよ」
「なに?」
 不穏な発言に岡部の顔色が変わる。三白眼をギラリと光らせた岡部に、荒木は怯む素振りも見せず、平然と言葉を継いだ。
「あの時、おれがナイフを振り下ろせなかったのは、岡部さんの投げた石が当たったからじゃないんですよ。二人が来るまでに充分時間はあった。て言うか、いくらでも殺す機会はあったんです。3日も一緒にいたんですから」
 青木も不思議に思っていた。荒木の生家は通りに面していて監禁場所としては危険だったし、薪を甚振ることが目的にしては彼の怪我は軽過ぎた。相手は無抵抗だったのだから、腕や脚を折ることも簡単にできただろうし、ナイフを持っていたのだから指を切り落とすこともできたはずだ。もちろん、その場で息の根を止めることも。
 しかし薪はただのひとつも、一生涯付き合って行かなければならないような傷を与えられてはいなかった。
「それがどうしてもできなくて。母さんの前なら勇気が出るかと思って、それでお墓に行くことにしたんです。それでもダメでしたけど」
 墓地は殺人を犯す場所としては最悪に近い。周りは他人の墓だらけ、いつ誰が来るか分からない。そんなリスキーな場所で犯行に及ぼうとしたのには、それなりの理由があったのだ。

「おれがこの人を殺せなかったのは、この人が全然抵抗しなかったから。おれに殺されることを、当然のように受け入れてしまったから」
 瞬きもせず自分を睨み据える恐ろしげな三白眼に向かって、荒木はハッキリと言った。
「だからおれは殺人者にならずに済んだ」
 ぐっと詰まって、岡部は薪を見る。薪は信じられないものを見る眼で、自分を弁護する荒木の背中を見ていた。

 岡部に否定された薪の行動を荒木は、それこそが薪の命を救ったのだと言った。
 ひいては、自分が最後の一線を超えずに済んだのは、彼の心からの悔恨をその無抵抗に見たからだと。彼の生に対する消極性が、自分を本物のモンスターになる運命から救ってくれたのだと断言した。

 意外過ぎる弁護者に薪と青木は眼を瞠り、すると荒木がこちらを振り返った。
「室長。こんなこと、おれが言えた義理じゃないんすけど」
 荒木はにこりと笑った。何日かぶりで見た、それはいつもの彼の笑顔だった。
「もういい加減、自分が幸せになることを許してあげてくださいよ」
 荒木の口から零れたその言葉は、荒木だけの言葉ではなかった。
 薪にぶつけられた岡部の激しい叱責の奥に、それから薪を匿った青木の涙の裏に、第九の仲間たちや友人たちの奔走の陰に、そのすべての根底にある願いだった。

「おれも、自分の罪を償ったらそうしますから」
 荒木の言葉を聞きながら、薪は黙って泣き続けた。
 ただただ涙を流す薪に、岡部はもう、何も言えなかった。



*****


 岡部母さんのお説教、強制終了です。
 ダメじゃんww



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

モンスター(27)

 ご無沙汰です。
 ブログもコメントも、放置しちゃってすみません。

 お義母さんが手術をすることになりまして。
 今週は、その事前検査でバタバタしておりました。
 家から1時間も掛かる病院に行くことになったので、朝の5時起きでオットの朝食とお弁当を作って置いていくと言う……ハードでした~。

 手術日は3月28日です。
 内視鏡でできる簡単な手術なので、心配はいりません。
 でも、その後しばらくは食べたり飲んだりしてはいけないそうで、点滴で栄養補給をせねばならず、1週間ほど入院になるそうです。じっとしてられない人なのに、お義母さん、可哀想。
 4月になって退院したら、一緒に温泉行こうね。





モンスター(27)





「もーホント勘弁して欲しいです!」
 だん、とジョッキの底をカウンターに打ち付け、はあ、と岡部は重い溜息を吐いた。隣でしきりに頷きながら焼酎のコップをスコッチグラスのように回していた中園が、奥の席にいた小野田に話を振る。
「僕もあの子のお守はたくさんだ。なんとかしてくれよ、小野田」
「まあまあ二人とも、そうぼやかないで。薪くんにはぼくからビシッと言っておくから」
「ビシッと、ねえ」
 砕けた口調で気安く話している、この二人は警察庁官房室室長とその首席参事官。本来ならば、警視の岡部が肩を並べて酒を飲めるような相手ではないのだが。

 中園からの電話は、青木と一緒に病院の自動ドアを抜けたときに掛かってきた。
『薪くんの見舞いはすんだかい? お疲れさま。一杯奢るよ』
 薪はまだ面会を制限されている。初日は1組だけ、つまり岡部たちが初めての見舞客だったのだ。薪の様子を聞きたいのだろうと思い、報告がてら出掛けてきた。
 店は任せると言われたので、自宅近所の居酒屋を選んだ。前に中園に誘われた時もこの程度の店だったし、薪の様子を聞いたら中園はすぐに引き上げて小野田に報告に行くのだと、そう思っていたからだ。ところが、縄のれんを潜って驚いた。店の粗末なカウンターに日本警察のトップに限りなく近い官僚が二人して雁首を揃えていたのだ。岡部としてはもう飲むしかない。官房長をこんな低級な店の手狭いカウンター席になんか座らせてしまって、アルコールの助けでも借りなかったら胃に穴が開く。

 駆けつけ3杯のビールと顔馴染みの店主お勧めのタコの唐揚げで、いい具合に緊張が解けてきた岡部に、中園が告げ口でもするようにこっそりと囁く。
「いつも口ばっかなんだよな、小野田は。薪くんの顔見ると、キツイこと言えなくなっちゃうんだ」
「官……小野田さんは薪さんを、息子同然に可愛がってますからね」
 その甘さを嘆くようでいて、でもどこかしら楽しそうな中園の口調に、釣られて岡部もノリよく返す。中園は小野田と同じ警視監なのだが、同じ補佐役と言う立場であることから、岡部は勝手に、彼に親近感を持っている。中園もこうして岡部に直接電話をしてくるくらいだ。似たような気持でいるのかもしれない。

「子供を強く叱れない親に育てられるとさ、子供ってダメになっちゃうんだよね」
「親バカここに極まれりですな」
「なにか言ったかい」
「「いいえ、なんにも」」
 二人で声を揃えて同時にグラスを傾ける。「なんだい、二人して組んじゃって」と拗ねたように小野田が言うから、あやうく岡部は吹き出しそうになった。昔薪から聞いたことがある、小野田が意外と子供っぽいと言うのは本当かもしれない。

「おまえもコロコロ変わるよね。こないだはあんなに怒ったくせに」
 こないだ、というのは夏に起きた監察官殺人事件のことだ。小野田や中園から絶対に動くなと命じられたにも関わらず、青木に冤罪を掛けられた上に宇野を傷つけられた薪は大暴走。その命令違反も含めて、薪は小野田にこってり絞られた。
 しかし結果だけを見れば、冤罪を意図的に画策した次長派閥の息の根を止めることができたわけで。個人的には中園は、暴走ではなく活躍と言った方が的確な表現だと思ったくらいなのだが、薪の身を案じる小野田には我慢ならないことだった。

「今回は事情が事情だからね。例の事件絡みじゃ仕方ない」
「仕方ないって、10年も経ってるんだぜ」
「そんなに経ってない。9年と2ヶ月だ」
「9年2ヶ月も10年も変わらないよ。この事件が来年起きたとしても、今回と違う結果になるとは思えないしね」
「それは認める」
 温んで汗をかいた吟醸酒の瓶を傾けて、小野田は手酌で甘露酒を注ぐ。美濃部焼のぐい飲みをくいと呷るさまは、彼が自分の後継者と心に決めた男とよく似ていた。

「きみたちは、鈴木くんを喪う前の薪くんを知らないだろ。一課にいた頃の薪くんは、あんな風じゃなかった」
 不意に、小野田は昔話を始めた。
「その頃から薪くんの捜査能力はずば抜けてた。迷宮事件を幾つも解決して、警視総監賞を何度も獲った。でも、今とは全然違うタイプの捜査官だったよ」
 昔の薪は、もっと仕事に貪欲だった。事件が起きると、彼は新しいオモチャを与えられた子供のように瞳を輝かせた。
 事件を解決することは正しいことだと信じて疑わなかった。犯罪者は悪であり、自分たち警察はそれを正す正義であると、その信念のもとに容赦なく他人の心に切り込んだ。事件被害者や遺族のことは眼中になかった、と言うのは言いすぎかもしれないが、彼の心を捉えていたのは事件の謎そのものであり、その謎を解き明かすことに快感を感じていた。

 あの事件を契機に、彼の捜査スタイルは様変わりした。
被害者は勿論、遺族、友人、加害者の肉親に到るまで、すべての事件関係者に心を配るようになった。時にその数は膨大で、普通の人間ならとてもそこまでは拾いきれない。しかし彼は天才的な頭脳でもって、それを可能にした。無駄とも思える仕事が増え、彼の負担は何倍にもなったはずだが、それでも彼はその姿勢を変えなかった。
 そして薪が未だにそのスタイルを貫いているのは、彼があの事件のトラウマから抜け出せていないことの証明でもある。そんな彼にとって今回のことは回避不能な出来事だったのだ、と小野田は言う。

 薪があの事件を乗り越えたとき、彼は初めて貝沼の呪縛から逃れることができる。「いい加減、前を見ろ」と薪を叱った自分の言葉は間違っていない、と岡部は確信する。
 ――でも。それを薪が実践していたら、荒木は殺人者になっていた。

「事件を解決することは、他人の秘密を暴露することに等しい。そこに迷いが生じれば当然、その快刀乱麻ぶりにも陰りが出る。それは捜査官にとっての停滞であり、退化であると言う者もいるだろう。ただねえ」
「世の中、進めばいいってもんじゃないんだよね」
 小野田の後を受けた中園の言は、この世の真理。
 そしてまたこの世の中は、正しければいいと言うものでもない。

 正しいことをしていても事件は起きる。それどころか、正しさに拘った分だけその悲劇は凄惨さを増していく。岡部はそういう事件を幾つも見てきた、だから知っている。
 一人一人の正しさには必ず幾ばくかのずれがあって、社会の正義は、そのわずかな共通点でかろうじて保たれているに過ぎない。各々の正しさと正しさがぶつかり合った時こそ、大きな悲劇が生まれるのだ。多くの無辜な人々を巻き込むような、災厄めいた惨劇が。

「がむしゃらに事件を解決するのではなく、個々の案件と丁寧に向き合って、事件関係者が一人でも多く救われるように尽力する。犯人を捕まえることを最終目的とするのではなく、関係者の心を、彼らのこれからの人生を大事にする。それを念頭に置いて捜査を進めていく」
 小野田は一旦口を結び、「岡部くん」と呼びかけた。
「きみがどこまでも薪くんに着いて行こうと思ったのは、彼のそう言った姿勢に惹かれたからじゃないのかい」
 岡部よりも何段階も上にいて、その分多くの人間を見てきた小野田には岡部の気持ちはとっくにお見通しで、岡部は先刻叩きつけたビールジョッキの底を今度はそっとカウンターに収め、ふう、とやわらかく息を吐いた。

「青木に怒られましたよ。『こんなに傷ついてる人を責めるのは人間のすることじゃない』って」
 苦笑しつつ、岡部は零した。
「子供みたいな言い分ですけど、間違っちゃいませんよね。やっぱり青木は、薪さんの深いところを理解してるんですねえ」
「いや、青木くんのはシタゴコロだから。薪くんに好かれたいだけだから」
「おまえってホント自分の気持ちに正直だよね」
 薪を庇った時とは別人のような冷たさで、小野田は青木の弁護を打ち捨てた。一応は二人の同居に認め印を押したものの、その胸中はなかなかに複雑らしい。

「でもさ、小野田。薪くんの暴走癖の根底にあの事件があることは認めるけど、だからって全部許すわけにはいかないよ?」
 実際に後始末をするのは僕なんだから、と中園の尤もな言い分に、小野田は岡部に注いでいた暖かい瞳をすうっと細くし、一瞬で冷徹な管理者の表情を作る。
「おまえに言われなくても。ぼくだって考えてるさ、具体的な策をね」
 ほう、と中園が空になったコップを前に置く。「親父さん、もう一杯ね」と慣れた様子で声を掛け、隣で小野田が真剣な顔でそら豆の皮を剥いているのを横目で見ながら、自分は豆皮の上部に入れた切り込みから器用に実を押し出して、ポイと口に入れた。
「それ、どうやるの?」
「ここを切るんだよ。ほら」
「なるほど。……あれ、つぶれちゃったよ?」
「相変わらず不器用だね、おまえは」
 貶しながらも豆の実だけを相手の皿に入れてやる、中園の世話女房ぶりを見て岡部は、どこのトップも似たようなものだと苦笑する。仕事はできるのに日常のことは不得手とか、仕事を取ったら只の性格破綻者とか、どうして警察の上層部にはそういう人間が多いのだろう。

「具体的な策って?」
 尋ねた中園に、小野田は彼に剥いてもらったそら豆をもぐもぐやりながら、
「来年、田城君の席が空くだろ。そこに薪くんを就任させる。科警研の所長になれば、いくら薪くんでも現場に出なくなるだろ」
 所長と言う役職を与えることで薪に自重を促す作戦らしいが、はてさて。
「そうかなあ。所長になったくらいであの子の現場主義が変わるとは思えないけど。だいたい、第九の室長が現場に出てること自体おかしいんだからね?」
「室長も所長も変わらないかもしれませんね」
「なんだい、二人して」
 またもや2対1の構図になって、小野田は憤慨する。「親父さん、お代りね」と中園を真似て空になったぐい飲みを前に置いたものの、小野田のそれは一瓶ずつ提供される冷酒で、中園の焼酎のようにグラスを取り替えるものではない。

「きっと来年も苦労するよ、岡部くん」
「中園さんも。また白髪が増えますね」
 なんとなく顔を見合わせて、かちんとグラスを触れ合わせた。同じ微苦笑を浮かべた顔で、同時にグラスに口を付ける。
「きみたち、いつの間にそんなに仲良くなったの」
 中園の透明なグラスの向こうで、小野田が不思議そうに首を傾げた。


テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

モンスター(28)

 最終章です。
 しんどくて痛いお話でしたのに、たくさんの方にお付き合いいただきました。
 どうもありがとうございました。




モンスター(28)





 薪が退院したのは、それから3日後。澄みきった空に白い雲がぽっかりと浮かぶ、爽やかな秋晴れの日であった。
 10月もあと3日を残すばかり。今月いっぱいは怪我を治すことに専念させなさい、と小野田にきつく言い渡され、送迎役を仰せつかった青木は病院からマンションへの直行を余儀なくされたのだが、当の薪から寄り道の指令が下った。青木は小野田の厳命を薪に伝えたが、哀願する亜麻色の瞳に負けた。後で叱られるのは自分だと分かっていても、薪のこの眼には逆らえない。

 途中、花屋に寄って白い百合の花束を買った。
 一度行ったきりの場所で、青木には曖昧な記憶しか残っていなかった。どんなに複雑な道順でも一発で覚える薪の頭脳は、今回ばかりは当てにならなかった。いかに優れた情報記憶能力も、トランクの中からでは発揮しようがなかったのだ。

 方向音痴の青木が脳みそを振り絞るようにしてやっと思い出した道程を辿り、行き着いたのは、森田家の墓地であった。
 まだ内出血の引かない脚を折りたたみ、薪は石畳みの上に膝を着く。花束は石碑の前に横にして置いた。花立には新しい花が立てられていたからだ。
 こういうことをするのは多分岡部だ。その証拠に、活けられた花はあの写真に写っていたピンク色のガーベラだった。

 墓前に手を合わせる薪の横で青木も黙とうを捧げたが、薪の祈りは青木のそれよりずっと長く、きっとそれは込められた思いの深さによるものなのだろう。まだ完治していない薪の身体を、早くも街を席巻し始めた今年の木枯らしに晒すのは忍びなかったけれど。青木は薪が合掌を解くのをじっと待った。
 だが、その時は一向に訪れない。次第に青木は焦り始めた。自分がどうにかしなかったら、この人は朝まででもこの場所に居続けるのではないか。

「彼女が……荒木のお母さんがどんな人だったのか、オレには分かりませんけど」
 薪の祈りを妨げることになるかもしれない、そんな不安を抱きながらも青木は声を掛けた。そうせずにはいられなかった。
 薪の硬い表情が。人形のように動かない頑なな美貌が。
 死んであげられなくてごめんなさい。
 まるで彼女に、そう謝っているようで。

「今は、安らぎを得ているんじゃないかと思うんです。生きてるうちは難しかったけど、きっと今は、安心して眠れるようになったんじゃないかって。でもってそれは、薪さんのおかげだとも思うんですよ」
 それはどういう意味だ、と聞き返してくれることを、青木はほんの少し期待した。しかしそれは叶えられなかった。薪の様子には、何の変化も現れなかった。
 自分の声なんか薪には届かない。言葉の無力さを青木は嫌と言うほど分かって、でも言わずにはいられなかった。
 どんなに小さな光でもいい、吹いたら消えてしまうようなか細い灯りでもいい。なにかしら暖かいものを薪に届けたくて。

「だって母親なら」
 誰にも受け取ってもらえず宙に浮いた言葉を、途中にすることはできなくて。青木は静かに言葉を結んだ。
「母親なら、自分の子供をモンスターにはしたくないはずです」

 薪はなにも言わない。
 青木の言葉が聞こえなかったかのように、ただ黙って頭を垂れ続けた。冷たい木枯らしの中で、静かに祈りを捧げていた。
 青木はそんな薪から、未来への期待や生きる希望、そう言った光のようなものを何一つ見つけることができなかった。彼の俯けた美しい横顔の、供えた百合の花びらより白く透き通る頬にも、その緑色の葉に瑞々しさを添える朝露のようなくちびるにも、静かな慟哭以外のものを見出すことはできなかった、けれど。

「帰るか」
 そう言って立ち上がった薪の背中は青木を拒絶することなく。彼の隣を歩くことを許してくれた。

 もうすぐ、冬が来る。


―了―


(2015.10)

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モンスター ~あとがき~

 あとがきです。
 あ、新しい方はご存じないかもですが、法十のあとがきと言ったらこれなんです。管理人がリアルの文章苦手なもんで。(文字書きとしてその言い訳はどうなの)
 いつにもまして、広いお心でお願いしますっ。





モンスター ~あとがき~




薪 「死ぬかと思った。今回、マジ死ぬかと思った」
青 「オレも生きた心地しませんでしたよ。おかげで昇任試験はさんざんで、痛っ」
薪 「人のせいにするな。試験に落ちたのはおまえの努力が足りないからだ」
青 「ほぼ100%薪さんのせいでしょ」
薪 「何を言う。僕がいなかったのはたったの3日だ」
青 「いなかったのは3日でも、その前からずっと荒木といちゃいちゃしてたでしょ。それでオレ、勉強に集中できなくて」

荒 「呼びました?」
薪 「おう、荒木。ここ座れ。ほら、好物のおでん」
荒 「わーい、やったー」
青 「……座談会が無礼講なのは分かってるけど、犯罪者のみなさんも平気で出て来ちゃうの、どうなのかなあ」
薪 「はんぺん、好きなんだよな? たくさん入れておいたから」
荒 「あざーっす! めっちゃ美味いっす!」
青 「しかも必ずオレより薪さんにやさしくしてもらえるの、なんでなのかなあ」

薪 「僕はみんなにやさしいぞ。ほら食え」
青 「そう言ってオレの嫌いなニンジン口に突っ込むの止めてもらえません?」
荒 「青木さん。おれのもどうぞ」
青 「だからニンジン嫌いなの! ていうか、なんでおでんにニンジン入ってんですか」
薪 「もちろん嫌がらせだ」
荒 「同じく」

青 「なんですか、二人して組んじゃって。そんなにオレが邪魔ですか」
薪・荒 「「うん」」
青 「えっ、えっ、本当に? なんでですか」
荒 「あー、やっぱり気付いてないんすね。青木さん、善い人すぎるんすよ」
青 「や、オレは別に――うん? なんで善いとダメ?」
薪 「ダメに決まってるだろ。おまえの性格が良すぎるせいで、僕はいっつも悪者扱い。迷惑な話だ」
荒 「室長もですか。おれも一部でエセ天使とか呼ばれて。青木さんのせいっすよ」
青 「そんなこと言われても。オレ、普通の人間だし」
荒 「自覚してない自然体ってあたりがまたムカつくんすよね」
薪 「青木は天然天使キャラだからな」
荒 「一番共演したくないタイプっすね」
薪 「まったくだ。僕が善い人になれる分、滝沢の方がまだマシ」

滝 「呼んだか」
青 「だからどうして出てきちゃうかな、もう」
薪 「おまえは呼んでない。さっさと小菅に帰――こ、これは幻の名酒、梅臥龍の『鳳雛』! 滝沢、ここ座れ。ちくわぶ好きだったよな?」
青 「薪さん。荒木はともかく、滝沢さんは過去に何人もの人を殺めて」
薪 「うるさい。おまえは黙ってニンジン食ってろ、てか旨っ! なんだこの酒、むちゃくちゃ旨い」
青 「ダメですよ、薪さん。口当たりいいからってガバガバ飲んじゃ。身体に障ります」
荒 「こういう時に良識派気取るの、普通の人間がやったらすっげーイヤミっすよ。なのに青木さんがやると、心から室長を心配してるんだなあって思える……人徳って言うんですかね、なんだか」
青 「いや、それほどでも」
荒 「めちゃくちゃハラ立ちます」
青 「……」

滝 「善人ぶってて嫌われるならともかく、根っからの善人でこれだけ嫌われるキャラも希少価値だな」
荒 「だいたい青木さんて狡いんすよ。30超えて可愛い後輩ポジとか、普通ありえないっしょ」
青 「40超えてお姫さまポジの薪さんはいったい」
荒 「いいんですよ、室長は。実際可愛いんだから」
薪 「荒木もかわいいぞ」
荒 「いやあ、それほどでも」
薪 「顔もプレーリードックそっくりだし」
荒 「……」
青 「いや、褒めてるの。この人、これで精一杯褒めてるの」
滝 「おれは昔薪に、踏み潰したカエルって呼ばれたことあるぞ」
荒 「それはひどいっすね」
滝 「まあ、そういうSっ気の強いところも好みなんだが」
荒 「なにも潰さなくても、普通にガマガエルでいいのに」
滝 「……おまえ、何気に失礼な男だな?」

薪 「それにしても美味いなー。この酒、ほんと美味い」
滝 「それはよかった。ムショ仲間にもらったんだが。もちろん強制的に」
薪 「さすが小菅の帝王。荒木のこともよろしく頼むぞ」
荒 「よろしくお願いします、先輩」
滝 「任せておけ。おれの下に付けば楽しく過ごせるぞ。三食昼寝付き、リストラの心配もない。酒やタバコ、ゲームの類は親切な仲間が持ってきてくれるし、言うこと無しだ」
青 「いいのかなー。問題発言じゃないのかなー」
荒 「最高じゃないですか。それで女の子がいたら天国っすね」
滝 「そのための薪の写真だ」
薪 「! おまえな!」
滝 「青木だって似たようなことしてるぞ、ぜったい」
青 「そ、そんなことしませんよ。オレ、天然天使キャラですから」
薪・滝・荒「「「堕天使」」」
青 「どうしてオレを責める時だけ一致団結するかなあ」

荒 「そう言えばおれ、室長のビデオ撮ったんだっけ」
薪 「!!! 荒木、あれ、フィルム入ってないって言っただろ」
荒 「えへへー。実は入ってたんですよ。じゃーん」
薪 「やめろバカ! ――ん? なんだ、例のシーンじゃないのか。ならいいや」
青 「? 例のシーンてなんですか?」
薪 「おまえは知らなくていい」
青 「荒木。薪さんに内緒で、こっそり教えて」
荒 「この腐れブログに書いてありますから。自分で読んでください」
青 「どれどれ? ……なるほど、オレの知らない所でこんなことが……小菅にも写真が出回って……カチッ」(←何らかのスイッチが入った音)

滝 「チェックが甘いな、青木。おれはとっくに確認済みだぞ。ところで、どんなビデオだ? ほう、寝顔か。これは高く売れるぞ」
荒 「本物の天使みたいですよね」
滝 「××××ぶっかけてやりたくなる顔だな」
薪 「おまえはとことんゲスだな」
荒 「あはは、先輩の気持ち分かるっすよ。おれもつい――、……」
滝 「うん? 荒木、どうした。――えっ、なんでいきなり気絶? がっ!」

薪 「あー、美味かった。滝沢、この酒また持ってきてくれ。あれっ? 二人とも、どうしたんだ?」
青 「二人とも疲れてるみたいで。特に荒木はハードな役回りでしたから」
薪 「そうか。じゃ、このまま眠らせてやって……なんか二人とも苦悶の表情に見えるけど。寝落ちと言うより強制的に落とされたみたいな顔なんだけど」
青 「よっぽど疲れてるんですねえ、可哀想に。毛布を掛けておいてあげましょうね。二人が風邪を引かないように」
薪 「毛布って言うか、ズタ袋じゃないのか、それ」
青 「最新型の寝袋なんですよ。見た目よりずっと温かいし、寝心地もいいんです」
薪 「へー。そうなんだ」
青 「毛布だと寝てるうちに肌蹴ちゃうでしょ。その点寝袋なら安心ですから」
薪 「なるほど」
青 「こうして頭まですっぽり被せるのがコツです。ロープ、いや、専用の止め具で頭部と足を縛っ、じゃない、固定して、これでよし。
 動いたらお腹空いたあ。おでん、食べようっと。いただきまーす」

薪 「どうして二人を床に? それもソファの後ろに隠すように」
青 「もぐもぐ。ソファに寝せておいて、落ちたら大変ですし。ここならソファがストッパーになりますから、転がって怪我をすることもないでしょう」
薪 「なるほどなるほど。一見、東京湾から上がってくるヤクザの袋詰め死体に見えるけど、この姿にはおまえの気遣いが散りばめられているわけだ」
青 「そんな。別に褒められるようなことじゃ。もぐもぐ」
薪 「しかも奥ゆかしい……ダメだ、キュンキュンしてきた」
青 「なにか言いました? もぐもぐもぐ」
薪 「なんでもない。そろそろお開きにして、僕たちは家に帰ろう」
青 「そうですね。行きましょうか。ごくごくごく」


*****



滝 「行ったな。もう大丈夫だ。起きていいぞ」
荒 「あー、怖かったー。にっこり笑いながら鳩尾一発っすよ。あり得ねえっす」
滝 「青木の体術は岡部直伝だからな。見た目に騙されると痛い目に遭う」
荒 「室長は完全に騙されてるし」
滝 「薪は身内の嘘には弱いからなー」
荒 「室長らしいっちゃらしいですけど、ああっ! おれのはんぺんがなくなってる!」
滝 「おまえ、本編でさんざん食ってたじゃ、あっ! ちくわぶが一本もない!!」
荒 「ていうか、ニンジン以外残ってませんけど。大鍋いっぱいあったのに」
滝 「つゆも殆ど飲み干してある。なんて非道な」

滝・荒 「「――あいつこそ本物のモンスターだっ!」」



(おしまい)

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ジャンル : 小説・文学

Revenge of the monster(1)

 こんにちは。

 こちら、モンスター事件の後日談その1でございます。
 題目はモンスターの逆襲。
 



Revenge of the monster(1)





 ポーンという軽い音が来訪者を報せた。

 青木が帰って来たな、と思うが早いか、クローゼットの入口に大男の影が差す。相変わらず鼻が利く男だ。
「おかえり」
「薪さん、ただ、ふごっ」
 手が伸びてきたから反射的に蹴ってしまった。謝ろうかと思ったが、やめた。学習しないこいつが悪いのだ。
「洗濯物がシワになるからよせって、昨日も注意しただろ」
 アイロンの掛かったシャツをクローゼットハンガーに引っ掛けながら、薪は冷たく言い放つ。甘い顔をしていたら相手を付け上がらせるだけだ。

「そんなのオレがやります。薪さんはゆっくり休んで――、ああ、こんな普段着ないシャツにまでアイロン掛けちゃって。あっ、またシーツ洗ったんですか? 3日前に洗ったばかりでしょ」
 口うるさい母親のようにクローゼットの中を点検し始めた青木を置いて、薪はリビングに戻った。居室を通り抜けてキッチンに入り、お腹を空かせているに違いない彼のために、好物のビーフシチューを温める。
 こうすればシチューの香りに釣られた青木がダイニングに来ると薪は予想して、しかしその計画は失敗に終わった。青木は昨日までと同じように寝室や浴室の点検を優先し、その悉くに文句をつけた。
「ベッドに寝た形跡がない……薪さん、寝てなくちゃダメですよ」
「寝てたさ。いま起きたところだ」
「なに言ってるんですか、帝国ホテルみたいなベッドメイクしておいて。あっ、風呂が沸いてる。風呂掃除はオレが帰ってからやるって言ったのに」
「掃除はしてない。湯を張っただけだ」
「嘘ばっかり。浴槽、つるつるだし、あ、蛇口やシャワーまで磨きましたね?」
 だって暇だったんだもん。

 上着を脱いだ青木はキッチンまでやって来ると、薪からお玉を奪い取った。それから薪をダイニングの椅子に座らせて、ビーフシチューの鍋をくるくるかき混ぜながら、書斎机にあった書類が片付いてるとか食器棚が整理してあるとか冬のコートが出してあるとか、昼間、薪が為した小さな仕事を薪の嘘を証明する状況証拠として論った。
「だから薪さん独りにするの、嫌なんですよね」
 これじゃちっとも養生になってないじゃないですか、と青木はまるで薪に意地悪でもされたみたいに唇を尖らせる。
「このシチューだって、何時間も煮込んだんでしょう?」
 仕方ないだろ。牛スネ肉はダシが出て最高に美味いけど、2時間以上煮込まないと柔らかくならないんだから。
「煮込んだのは鍋の仕事だ。僕は何もしてない」
「灰汁を取るのに、長いこと此処に立ってたでしょ」
 そうしないと味が濁るだろうが。

 否定系の言い訳が通らないことを悟り、薪は作戦を切り替えることにした。テーブルに頬杖をつき、軽く小首を傾げて、
「おまえの喜ぶ顔が見たくて」
 薪がそう返すと青木はお玉を持ったまま硬直し、じーん、と瞳を潤ませた後、何かを振り払うようにぶんぶんと頭を振った。
「ダメですよ。今週いっぱいは養生させなさい、って小野田さんに厳しく言われてるんですから」
 薪は謹慎中である。
 と言っても謹慎は形だけ。実際のところは休養だ。心と身体を労わってあげなさい、と小野田が1週間の休みをくれた。

「僕は元気だ。養生の必要なんかない」
「なに言ってるんですか。本来、入院は明日までの予定だったんですからね。それを自宅療養にしたいって薪さんが我儘言うから、お医者さまにお願いして」
 ひょいと椅子から下り立ち、薪は盛んに動く青木の唇を指先で止める。青木が黙ると指を下方へ滑らせ、つん、と彼の厚い胸を突っついた。
「おまえ以外の男に肌を見せたくなかったんだ」
「薪さんっ――、はっ!」
 ぱああっと笑顔になってから青木は、ばっと身を翻してぶんぶんぶんと頭を振った。「騙されない騙されない」と小声で唱えながらも、彼の足は勝手にタップダンスを踊っている。面白いからもう少し構ってみよう。

「養生――生活に留意して健康の増進を図ること。辞書にはそう書いてあるな」
「分かってるなら実践してください」
「知ってるか、青木」
 シチューを皿に盛りつけようとしている青木の大きな背中に、薪はそっと手を添えて、
「セックスって健康にいいんだって」
 青木の手から滑り落ちた皿を、予知能力でもあるかのように難なく受け止めて、薪はそれを青木に返す。皿を手渡しながらニヤッと笑うと、青木が困ったように眉を寄せた。
「どうしてそういう嘘を」
「嘘じゃない。ストレスを解消してホルモンバランスを整える。血行を良くして老廃物の排除を促す。結果、良質な睡眠を得ることができ、疲労回復にも役立つ。いいことずくめだ」
 試験勉強にかこつけて、夜の誘いを断り続けて2ヶ月。もともと淡白な薪は平気だが、青木はそうはいかない。我慢の限界はとうに越しているはず。
「今夜、試してみようか」
 こつん、と背中に額を付けると、薄いワイシャツを通して筋肉の震えが伝わってくる。彼の葛藤が手に取るように分かって、薪は笑いを抑えるのに苦労する。青木は本当に素直な男で、この手の意地悪はいくら繰り返しても飽きない。

 青木はシチュー皿を調理台に置き、おもむろに振り返った。フリーになった両手が薪の肩に置かれる、このタイミングで突き落す。
「さあて、メシにし、お?」
 サッと身体を離そうとする、薪の動きより青木の捕縛は僅かに早かった。膝の後ろをひょいと掬われ、有無を言わさず抱え上げられる。宙に浮いた薪の視線は自然に青木の顔に当てられ、そこに薪は自分の失敗を見つけて青くなる。
 しまった。目がマジだ。

 駆け込むように寝室に向かう青木の腕の中で、薪は儚い抵抗を試みる。
「青木、待て。メシは」
「後でいいです。薪さんの健康が優先です」
 空腹状態で激しい運動とか、全然健康的じゃないよね?
「ま、まずは風呂に」
「後でいいです。薪さんの健康が最優先です」
 感染症の危険があるよね?

「いや、いい! 僕はこれ以上健康にならなくていいから、わぷっ」
 糊の効いたシーツが一瞬でくしゃくしゃになるくらい、殆ど投げ込まれるみたいにベッドに押し倒された。手足を封じられて身動きできない。青木の体重をモロに掛けられたら、細身の薪には到底返せない。
 青木で遊ぶのは楽しいけど、遊び過ぎるとヤケドする。だからこの手の遊びを火遊びって言うんだな、て今はそんな悠長に語源を遡ってる場合じゃない。
「僕が悪かった、勘弁してくれ!」
 謝れば許してもらえる。だって僕は怪我人、明日まで入院予定だった患者なんだから青木もそんな人間に無体なことはしないはず、しないと思いたい、てかしないで、お願い!
「明日からちゃんと安静にする! おまえがいない間は寝室から一歩も出ないようにするから、だから助け、ぎゃ――!!」

 口は災いの元。
 洗濯したばかりのシーツを汚しつつ、その言葉の意味を嫌と言うほど思い知った薪だった。



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Revenge of the monster(2)

 こんにちはー!
 絶賛放置プレイもいい加減にしろですみませんっしたー!

 先週の月曜日、お義母さんの手術、そのまま入院、片道1時間の病院へ毎日通いまして。
 金曜日の昼に退院が決まったのですが、お義母さんが一刻も早く家に帰りたいってんでその日のうちに荷物まとめて退院手続きを済ませて夕方帰ってきて、土曜日はお見舞いに来てくれた人たちのところへ挨拶に行って、
 もー、日曜日はなんもしたくない(笑)

 そんなわけで、薪さんとは対照的に、この時間までパジャマ姿でおります、しづです。
 だらだらしながらお送りします、モンスターの逆襲、後編です。
 




Revenge of the monster(2)






「――はい。あ、ちょっと待ってください」
 電話の相手に断りを入れ、青木は寝室を出た。リビングの掛け時計は九時を指している。
「今日はちょっとバタバタしてて。連絡できなくてすみませんでした」
 電話の相手は岡部だった。

 事件の後、青木は岡部に伝言を頼まれた。
『自分の考えを押しつけて悪かったと、薪さんに伝えてくれ』
 青木はにっこり笑って、それを断った。薪は岡部の気持ちをちゃんと解っているし、それでも岡部の気が済まないと言うなら自分で伝えればいい。これは彼らの問題で、青木が間に入ることではないと思った。
 伝言を断られた岡部は、じゃあ代わりに、と青木にもう一つの頼みごとをした。薪に知られないように、薪の様子を毎日知らせて欲しい。岡部には薪のポーカーフェイスは通じないから、顔を合わせていれば彼の精神状態はほぼ分かる。しかし、今回は顔を見ることができない。だからおまえが視て教えてくれと、そう頼まれた。
 この時間は薪のバスタイム。いつもはその間に報告を済ませていたのだ。よんどころない事情で、いま彼は眠っているが。
 定時連絡が途絶えたから不安になって、自分から電話を掛けてきたのだろう。岡部の心配性には、つい失笑させられる。まったく顔に似合わない。

 青木はリビングのソファに腰を下ろし、ちらっと寝室のドアを見やった。そこに人の気配がないことを確かめる。それでも念のため、声は潜めることにした。
「薪さんはよく眠ってます。――や、体調は悪くないです。むしろ絶好調っていうか本気になった薪さんはやっぱりすごいっていうか、なんでもないですごめんなさい、これから道場はカンベンしてください」
 ハイスペックな捜査官相手の会話は時として命懸けだ。

「はい、残念ながら。すっかり元通りで」
 青木は帰宅してから薪と交わした会話のいくつかを思い出し、苦笑した。
「ああなっちゃったらもう、オレには見守ることしか」

 イタズラ心と可愛い意地悪。いつも通りの薪だった。あまりにも“いつも通り”すぎた。それを演技と気付かせないスキルまで、完璧な「いつもの薪さん」だった。
「もっと正直になってくれれば、こっちも対処のしようがあるんですけど……あ、いいんです。そういう人だって分かってますから」
 身体の傷は比較的早く癒える体質の薪は、その釣り合いを取るかのように心の傷は長引く。彼がいかに平静を装っても青木は知っている。小説のページをめくる彼の指先が、時折止まっていること。少食の彼が、青木の前では旺盛な食欲を見せようと無理をしていること。夜中、何度も何度も寝返りを打つ彼の眠りがひどく浅いこと。
 それらはすべて、薪の中に巧妙に匿われている。隠蔽工作に長けた彼の悲しいスキル。

「身体の方はすっかり治ってることを確認しましたので、来週には出勤できると思います。薪さんもその方が気が紛れると、え? いや、無体な真似なんかしてませんよ。そりゃ久しぶりだったからほんのちょっと飛ばしちゃいましたけど、決して薪さんが嫌がるようなことは、ていうかあの人、最初のうちはなんだかんだ言いますけど途中からエンジン掛かると逆にこっちが攻め立てられ、うごぉっ!!」
『どうした?』と尋ねる岡部の声が、青木の携帯電話から漏れ聞こえる。返答がないことに焦ったらしい彼は、繰り返し青木の名前を呼び続けた。

「壁に掛けておいた時計が落ちて、青木の頭を直撃したんだ。局地的な地震かな」
 突然、電話の相手が変わったことに岡部はひどく驚いたらしい。狼狽えた声で、
『まままま薪さんっ』
 岡部さん。ま、多過ぎです。
『青木はどうしたんですか』
 薪にジロリと睨まれて、青木はあり得ない放物線を描いて落ちてきた掛け時計を抱えたまま、ローテーブルの下に負傷した頭部を突っ込んだ。電話を返してください、なんて言ったら本震以上の余震が来る、ぜったい。

「青木は口を利けない状態だ。なにか伝言があれば僕が預かろう」
 何もありません、と岡部は震える声で言った。歯がカチカチ言うほど震えて、分かります、岡部さん。今夜は寒いですよね。オレも身体の震えが止まりません。
「そうか。じゃ、僕からひとつ」
 ひいーっ、と岡部が息を吸う音がした。悲鳴のようにも聞こえたが気のせいだろう。

「いつもおまえには感謝してる。これからもよろしく頼む」
 背中を向けた薪の表情は、青木には分からなかった。でもその肩はやさしく開かれて、声は穏やかな波のように響いていた。

「うん? ああ、分かった。青木に伝えておく」
 じゃあな、と電話を切った薪が、ゆっくりとこちらを振り向く。差し出されたスマートフォンを青木がおずおずと受け取ると、薪の口元が意地悪く吊り上がった。
「岡部からの伝言。明日の朝6時に道場だそうだ」
「ええー……」
 これはあれか、休日の早朝の予定を入れることで青木に夜更かしをさせない、つまりこれ以上薪の身体に負担を掛けまいとする岡部の作戦か。
 警戒しすぎです、と青木は心の中で岡部に弁解する。いくら青木だって、そこまでケダモノ君ではない。

「さて。メシだメシ」
「あ、はい」
 シチューを温め直して、少々遅くなった夕食を摂った。冷蔵庫の中には青木の好きなポテトサラダも作ってあって、適度な運動でお腹を空かせた青木の食欲をますます増進させた。夜の九時以降のハイカロリー食は身体に毒だと言うが、青木は薪の手料理が食べられるなら寿命の2、3年は気にしない。

 薪が2杯目のシチューを自分用に装うのを見て、青木はスプーンを止めた。また強がって、と思う気持ちが青木を口うるさい保護者にする。
「寝る前にそんなに食べたら胃もたれしますよ。1杯でやめておいた方が」
 薪は、表面張力を振り切りそうな青木のシチュー皿をじっと見た。とばっちりを恐れた青木が口を噤むと、涼しい顔でシチューを掬う。
「誰かさんのおかげで、ハラ減って眼が覚めたんだ。飢え死にしそうだ」
「はいはい」
 夜中にお腹痛くなっても知りませんよ、と心の中で呟きながら、青木は素直に返事をする。後で救急箱の消化薬を確認しておこう。
「食事がすごく美味しく感じる。セックスって本当に身体にいいんだな」
「はいはいは、えっ」
 きわどいセリフに、思わずスプーンを咥えた薪のくちびるを見てしまった。下唇に付いたシチューを赤い舌先がペロッと舐める、その動きに先刻の記憶が呼び覚まされる。あのくちびると舌がくれる刺激を、その極上の快楽を、擒と言ってもいいくらいに青木の身体は覚えてしまっている。
 亜麻色の瞳が悪戯っぽく輝いた。その抗い難い誘惑。

「食べ終わったら2回戦、しようか」
「だ、ダメですよ。明日はオレ、5時起きで」
「そうだったな。じゃ、風呂の中で」
 いい、それいい!
 浴室なら鏡もあるし掃除も簡単だし、いやいやちょっと待て。
「ダメですってば。時間に遅れたりしたら岡部さんにどんな目に遭わされるか、――っ!」
 意味なくシチュー皿を掻き混ぜる青木の耳に、一足先に食事を終えた薪が息を吹きかけた。浴室とかクローゼットとかキッチンとか、寝室以外の場所での行為にエロチズムを感じる青木の性癖を、薪は見抜いている。

「待ってるから。風呂で」
「……お風呂で?」
「カラダ、洗いっこしよ」
「……はい」


 翌日。道場で待ちぼうけを食らった岡部が10時過ぎにのこのこと現れた青木を、足腰が立たなくなるまで締め上げたことは言うまでもない。



(おしまい)


(2015.10)

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Promise of the monster(1)

 こんにちは。
 最近、放置プレイが日常化しております法十ですが、どちらさまもお見捨てなきよう、お願いいたします。

 そんな中で、7万拍手ありがとうございました(〃▽〃)
 みなさまの優しいお気持ちに支えられて、仕事も長男の嫁もがんばることができます。ありがとうございます。


 とか言いつつ、今日から公開しますこちらのお話、
 モンスター後日談 その2 (まだやってるのかとか言われそう)
 薪さんと滝沢さんのドキドキデートです。(やめろ)
 
 題名は、モンスターとの約束。
 
 さすがに後日談を拍手のお礼にはできないので(てか内容的に無理)、お礼SSは次の機会に。
 本日も広いお心でお願いします。




Promise of the monster(1)


 目前の壁はどこまでも続いている。
 遥か遠くに見える曲がり角までずっと、レンガを模したタイルが微妙に色を変えながら、連綿と連なっている。威圧的で不愛想なその壁は、来る者を拒むような閉塞感と、囚われた者を物理的に拘束する高さを持つ。

「なんで僕が」
 塀を見上げて眉間に皺を寄せ、薪は低い声で呟いた。
「こんな朝っぱらから」
 週末の時間割はウィークディの2時間遅れ、日曜の7時は早朝だ。おまけに薪は休暇中、それも1年に1度あるかないかの連続休暇の最終日ときた。襟元に巻いたマフラーに向かって、愚痴をこぼすのも無理はない。
「寒いし」
 白いカシミヤのコートの肩が竦められ、マフラーの隙間から白い息が吐き出される。やがて薪が立ち止まったのは、コンクリート製の大きな門柱の前。左右の柱には棒を携えた屈強な2名の番兵が、直立不動の姿勢で立っている。その物々しい警戒態勢と、彼の恋人曰く「白い服を着ると雪の妖精のよう」な彼の姿は、まるで釣り合いが取れていない。

 今朝、このコートを薪に用意したのも、何を隠そう同居中の恋人なのだが、彼は薪がコートを羽織ると同時に、感極まったように抱きついてきた。
「きれいです。まるで妖精みたい」
 そう言いながら着たばかりのコートを脱がせようとするから、思いっきり蹴り倒してやった。着せたいのか脱がせたいのかどっちなんだ、と訊いたら、「着せてから脱がせたいんです」と訳の分からない答えが返ってきたので、もう一度蹴り飛ばした。彼が床に転がると同時に玄関を閉めてザカザカ歩き、吉祥寺の駅に着いたところで気が付いた。「行ってきます」のキスをするのを忘れた。

 薪のそんな、休日ならではの浮ついた気分を、門柱の文字が一気に落ち込ませる。黒地に金の文字で記された、笑うことを許されない施設名。
『東京拘置所』である。

 細い手首を飾る銀色の腕時計が約束の時間を示すと、門を塞いでいた鉄柵がゆっくりとスライドした。中から出てきた制服姿の男たちに、薪は軽く頭を下げる。彼らも職務に勤しんでいるのだ。不満をぶつける相手は彼らではない。
 その相手は、彼らの後に続いて現れた。どこから調達したのか今年流行の型のスーツに身を包み、ピカピカの革靴を履いて、てかあの靴、ウェストンじゃないか。偏見を持ってるわけじゃないけど、真面目に働いてる自分が買えないような高級ブランド靴を、この建物から出てくる人間に履かれるのはなんか悔しい。

 休暇返上命令の電話は、昨夜遅くに掛かってきた。
『明日一日、滝沢くんとデートしてあげてよ』
 悪ふざけだと思ったから、物も言わずに切った。10秒もせずに2回目のベルが鳴る。
『僕の電話を無言で切るとは、いい度胸だね』
 不機嫌な上司の声に、薪はぬけぬけと、
「すみません、中園さん。電波障害のようです」
『その言い訳が使えないように家の電話に掛けたんだけど』
「子機を使ってるので」
『口の減らない子だね』
「減らないように気を付けてるんです。一つしかありませんから」
 脱力必至のオヤジギャグで返す。案の定、怒る気力を削がれた中園が、溜息交じりに言葉を継いだ。
『いいから聞きなさいよ。明日、滝沢くんが仮釈放になる』
「ええっ?」
 滝沢が殺人罪で投獄されたのは3年前。彼が奪った複数の人命は検察に死刑を求刑させるに十分な罪だったが、検察側の証人として法廷に立つことと引き換えに、無期懲役の実刑判決が下りた。仮釈放などと、そんな温情が受けられるような男ではないのだ。

『どんな手を使ったものか、僕にも分からないけど。仮釈放は本当だ』
「あの男は危険です。釈放なんて、羊の群れに狂犬を放つようなものですよ」
『僕もそう思う。そこで、条件を付けた』
 中園が付けた条件と言うのが、監視役の同行だ。不自然な仮釈放が通ったことから、刑務所内の職員は買収あるいは恐喝されている可能性がある。監視役は警察庁の職員から選ぶことに決めた。
 そこで白羽の矢を立てられたのが、薪だ。
 滝沢の元上司であり、3年前の事件でも共同戦線を張った仲だ。お世辞にも友好的な関係ではないが、ターゲットをよく知っていると言う点では、薪以上の人材は警察庁にはいない。
 滝沢の仮釈放が動かせないなら、これが最善の策だ。薪に選択肢はなかった。連休最後の日だろうと、2ヶ月ぶりのデートがキャンセルされようと文句は言えない。が、その元凶にまで物分かりの良い公僕の顔をすることはない。

 敵意剥き出しの薪の視線に、滝沢はにやりと笑って、
「ご苦労」
 えらっそーに! なにが『ご苦労』だっ!

 怒りのあまり目の前が真っ赤になる。脳の血管が切れるかと、いや、2、3本は切れたに違いない。
 たちまち膨れ上がった悪感情を声に出そうと薪の口が開きかけた時、職員の一人が警帽を脱いで、薪に向かって頭を下げた。
「ご協力ありがとうございます、薪警視長」
 舌の上から羽ばたこうとしていた極めつけの罵詈雑言を、薪は慌てて飲み込む。さっきも言ったように、この男以外の人間に罪はないのだ。

 咄嗟のことで切替えが間に合わず、ああ、いえ、などと曖昧な返事をした薪に、初老の男は握手を求めてきた。薪がポケットから右手を出すと、やや強引に両手で包まれた。コートのポケットよりも暖かい手だった。
「看守長の宮部と申します。お会いできて光栄です」
「えっ、看守長?」
 これは驚いた。看守長が見送りとは。
 囚人の釈放時には、現場の担当刑吏官が立ち会うのが通例だ。看守長が顔を出すのはよほどの大物か、ここに入ってもなんら社会的地位を脅かされないくらいの権力者に限られる。法曹界の首領を裏切った滝沢にそこまでの力があるはずはないのに、何故。

「薪。早くしろ」
「ああ、悪い」
 て、なんで僕が謝るんだ!
 殴ってやりたかったが、刑吏官たちの前だ。殴るなら人目に付かないところだ。

 職員たちの敬礼を背中に受けて、二人並んで歩き出す。後ろで門が閉まったのを確認してから薪は、冷静な監視役の仮面をかなぐり捨てて隣の男に食いついた。
「滝沢。仮釈放なんておまえ、いったいどんな手を使ったんだ」
 問われて滝沢は、焦るどころか鼻白みもせず。早朝の街を物珍しげに見回しながら、昔とちっとも変らない不敵な笑みを浮かべた。

「誠心誠意真面目に勤め上げた。その努力が認められたんだ」
「嘘を吐け。賄賂で看守を抱き込んでたくせに。おまけに看守長の見送りなんて、おまえ、小菅でどういう立場なんだ」
「いや、彼はおまえを見に来たんだ。おまえの写真がいたくお気に入りの様子だったから」
 写真と聞いて、薪の額に青筋が立つ。2ヶ月前、面会室で受けた屈辱は忘れられない。もちろん、見せられた写真のことも。
「まさかこないだのゴスロリ」
「あれよりもっと刺激的な写真だ。肌色の多いやつ」
 だからどこからそういう写真を手に入れてくるんだっ!

 思わず顔を歪めると、滝沢が嬉しそうに笑った。滝沢は薪が嫌な顔をすると喜ぶのだ。
「この場で撃ち殺してやろうか」
「好きにするといい」
 できもしないことを、と心の声が聞こえてくるような滝沢の口調にカッとなる。ポケットに忍ばせた拳銃を、コートごと相手の腹に押し付けた。
「今日はライターじゃない」
 ぎろりと下から睨み上げる。滝沢はニヤニヤ笑いを止めて、すうっと目を細くした。
「仮釈放中の囚人に不穏当な動きがあった場合、僕の判断で射殺してもよいとの許可を得ている。死にたくなかったら言動には気をつけろ」

 舐められてたまるか。馴れ合ってたまるか。
 こいつは殺人犯だ。それも、僕の仲間を殺したやつだ。一生許さない。

 滝沢は素直に両手を上げて、悪かった、と謝罪した。
「すまん。久しぶりのシャバで、ちょっと浮かれた」
 それはとても人間らしい感情だと思えた。3年も塀の中にいたのだ。外の空気を吸えるのは今日の一日だけ。籠の中の鳥に、たった一日許された自由。

「『ローマの休日』ならぬ『小菅の休日』か」
 薪がぼそりと呟くと、滝沢はなんとも言えない表情で両手を広げ、大仰に肩を竦めて見せた。
「おまえって男は。どうして見かけはティーンエイジャーなのに、言うことはオヤジなんだ?」
「やっぱコロス」
 ほんの少しでもほだされそうになった自分がバカだった。
 薪が苦々しく吐き捨てると、滝沢は声を立てて笑った。




*****




 この下、新装版のプロフ関連です。
 ネタバレいやんな方は読まないでくださいね☆




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Promise of the monster(2)

 こんにちは。

 メロディの発売まで、2週間を切りました。
 予告では岡部さんが主役とのことでしたが、5巻に収録されてるような感じになるんでしょうか。楽しみですねえ。岡部さん、好きー(*´v`) 
 個人的には、副題「手紙とやっちゃん」でぜひ。
 

 お話の続きです。
 これ、けっこう長くって。7章あります。(青薪さんの後日談が2章だったのに、滝薪が7章って……)
 本日もよろしくお願いします。 




Promise of the monster(2)






「まずは朝メシだ」
 小菅駅への道すがら、滝沢は空腹を訴えた。朝が早かったので、薪も朝食を摂っていない。駅の近くまで行けばモーニングを食べさせるカフェくらいあると思ったが、それらしき店は見当たらない。小菅がこんなに寂しい駅だとは、いつも車で来ていたから分からなかった。
 1キロほど歩くと北千住の駅がある。その周辺ならコーヒーショップがあったはずだ。

 連れの意向も聞かずに方向を変えた薪に、滝沢の声が掛かる。
「なんだ。電車じゃないのか」
「隣駅くらいなら歩いた方がいい。途中で店も見つかるだろう」
「店? 家に招いてくれないのか」
「なんでおまえに僕の自宅を開放せにゃならんのだ」
「大丈夫だ。寝室は見ないようにするから」
「殺すぞ」
 言って薪は、歩く速度を2倍にする。「そう急ぐな」と後ろから、さして苦労もせずに追い付いてくる滝沢を振り返り、薪は電柱の陰に見知った顔を見つけた。
「どうした」
「いや。なんでもない」

 北千住駅の近くに何軒かあった喫茶店のうち、たった一つ営業中の札が掛かっていた店に二人で入った。
 時間が早いせいか、店内には数人の客しかいなかった。窓際の席に向かい合って座り、生野菜のサラダを添えたモーニングセットを2つ注文する。卵料理は3種類あって、薪は茹で卵を、滝沢はポーチドエッグを選んだ。
 注文の品が届く間、滝沢は、店内のあちこちに目を走らせていた。壁の抽象画やら天井からぶら下がった照明やら出窓に並べられた陶器製の人形やら、大して珍しくもないものを興味深そうに観察している。ここは、朝コーヒーを頼むとトーストと卵料理がサービスで付いてくることで有名なコーヒーチェーン店で、薪にとっては見慣れた店構えだったが、長い間、灰色のコンクリート壁ばかり見てきた滝沢には、遊園地のような場所に感じられたのかもしれない。

 やがて運ばれてきた厚切りのトーストにバターを塗りながら、滝沢が言った。
「おまえの手料理が食べたかったな」
 途端、コーヒーに羽虫でも入っていたかのように、薪が厭な顔をする。こいつ、どこまで図々しいんだ。
「僕がおまえのために料理なんかするわけないだろ」
「2人分も3人分も、作る手間はそう変わらんだろう」
 遠回しに同居人の存在を指摘されて、薪は冷静な監視者の仮面を厚くする。青木との関係を、この男は知っているのだ。
 挑発になど乗るのものか。赤くなったり取り乱したりしたら、相手の思うツボだ。

「おまえが来ても玄関は開けんぞ」
「心配するな。夫婦茶碗とかお揃いのマグカップとか色違いの歯ブラシとかサイズ違いのペアパジャマとか、見てもおれは気にしないから」
 反射的にソファから尻が浮く。監査対策のため、CCDカメラや盗聴器の類は徹底的に調査しているのに、どうやって。
「一体、おまえはどこからそういう情報を」
「え。本当にあるのか」
 思わず右手を握りしめたら茹で卵が潰れた。細かく割れた卵の殻が、薪の細い指の間からパラパラと落ちる。
「ぶっ殺す……!」
「おいおい、薪。お年寄りを怖がらせるもんじゃない。すみませんね、こいつ、口が悪くて」
 隣でコーヒーを飲んでいた老夫婦が眉を寄せて顔を見合わせるのに、滝沢が愛想よく笑い掛ける。外面のいい奴め。

 作り笑いを浮かべたまま滝沢は、トーストを齧りコーヒーを飲むと、ほうと息を吐いた。
「やっぱりシャバのメシは美味いな。コーヒーも久しぶりだ」
 特段旨いとも、薪は思わなかった。パンはベーシックな食パンだし、コーヒーは青木が淹れた方が断然美味い。
 塀の中の生活には詳しくないが、常識で考えても嗜好品の多くは禁止のはず。こんな風に食事を摂りながら自由に会話することもできないに違いない。
 そういう食事が味気ないことを、薪は知っている。薪も、砂を噛むように食事をしていた時期があるから。

「まだ卵の殻を剥いてるのか? トーストが冷めるぞ」
「……誰のせいだ」
 粉々になった卵の殻が白身に埋まってしまって、取るのが一苦労なのだ。面倒になって齧ってみたら、口の中がジャリジャリ言った。
「くっ、殻が」
「カルシウムの補給だと思えばいい」
『自分で自分を納得させるためにそう思うのはいいけど他人に言われるのは腹が立つしかもその元凶に!』
 声を出さずにノンブレスで突っ込む。隣の老夫婦に配慮してのサイレントモーションだったが、滝沢にはコーヒーに噎せるほど笑われた。こいつ、窓から蹴りだしてやろうか。
「おまえは楽しい男だ」
 人に楽しいと評されたのは初めてだ。鬼の室長、氷の警視長と噂される薪に、そんな経験があろうはずもない。どこまでも人を食った男だ。

「店が開くまでには時間がある。ゆっくり食べるといい」
「店?」
「土産を頼まれてな」
「小菅の仲間にか」
「ああ。意外と気のいい連中でな」
「土産ってなにを、て言うか、あそこは基本的に持ち込み禁止だろ」
 滝沢は、スーツの内ポケットから紙片を取り出し、テーブルの上に置いた。土産を配る人間のリストらしい。その中には看守長の宮部の名前もあって、なるほど、土産を賄賂にお目零しを願うわけか。
 ……名前の横に生写真(隠し撮り)とか書いてあるけど僕のじゃないよね?

「けっこうな数だな。その服装といい、おまえ、どこから資金を調達してるんだ」
「金なんか持ってない。ここの払いも土産もおまえ持ちだ」
「なんで僕が」
「嫌ならいいが。おれが食い逃げで捕まったとして、困るのは監視役のおまえだぞ」
「な」
 どこから突っ込んでいいものか、混乱する薪の前で、滝沢は悠々とコーヒーのお代わりをオーダーした。


テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

Promise of the monster(3)

 昨日は雨でしたね。
 みなさんの苦痛がまた一つ増えたのではと、陰ながら心配しております。
 避難所生活を送っておられる方、余震に眠れない夜を過ごされている方。うちのバカ話で少しでも、気を紛らわせてもらえたら、いいなあ。




Promise of the monster(3)







 買い物客で賑わう休日のデパートは、和やかな喧騒に満たされている。
 大切な誰かへのプレゼントを品定めする女の子たちの姦しい声、目的のおもちゃの前で泣き喚く子供の声、それを叱る母親の声。騒がしいものの、平和である。

 それらを漫然と眺めていた薪の隣で、女の子の手を引いた若い母親が足を止めた。母親に「一つだけね」と条件を提示されて女の子は、母親に良く似た丸い眼をキラキラさせ、小さな手で一番上の棚を元気よく指さした。
「あれ!」
 釣られて見上げて、薪はプッと吹き出す。
 なんて賢い子供だろう。彼女が選んだのは巨大な金魚鉢のような容器に満たされた大量のチョコレート。多彩な銀紙に包まれたチョコは、千個近くもあるだろうか。しかし、残念ながらそれはディスプレイ用。チョコレートは本物らしいが、値札も付いていないし、売り物ではなさそうだ。
「あれはダメ!」と母親に怒られて子供が泣きべそをかく。大きくても一つは一つ、彼女にしてみれば、母親の言いつけ通りにセレクトしたのに叱られるなんて理不尽この上ない。涙も出ようと言うものだ。
 子供に同情しながらも視線を前に戻せば、さざ波のように通り過ぎる人々の笑顔。他愛もないお喋りと、BGMのように心地よいざわめき。隣で泣いている子供の泣き声すら微笑ましい。

 いつ頃からだろう。休日の、ゆったりと流れる平穏を享受できるようになったのは。
 彼らと同じ場所に自分が存在することを、許せるようになったのは。

「薪。その箱を取ってくれ」
 連れに呼びかけられて我に返った。ちょうど目の高さにあったマカダミアンナッツチョコの箱に手を伸ばす。「それを5個だ」て、なんでマカダミアンチョコなんだよ、ハワイじゃあるまいし。
「まだ買うのか」
 薪の冷たい視線の先で滝沢は、C国からの観光客よろしく買い物カートに商品を山と積んでいた。こういうのを爆買いとか言うのだろう。
「仲間の人数が多いんだ。仕方ないだろう」
「そんなこと言って、おまえ本当はパシリに使われてるんじゃないのか」
 憎まれ口を利きながら、カートの中身を確認する。突然強張った顔になって薪は、GODIVAと書かれたチョコレートの箱を棚に戻し、同じ数の板チョコを適当に選んでカゴに入れた。

「なにをしている」
「いや、ちょっと持ち合わせが」
 カートを掴んでレジへと向かわせる。それを片手で押し留めて、滝沢は左手のウィスキーボンボンを手に取った。
「問題ない。クレジットカードを使え」
「なんで僕がそこまで」
「恩返しだと思えばいい。おまえは今回のことで、おれに借りがあるだろう」
 自分で言うか、それ。
「そもそもの原因は、おまえが情報を外部に漏らしたことで」
「おいおい。10年も前の情報漏洩なんかとっくに時効だと言ったのはおまえだぞ」
 腹立つ! 確かに言ったけど、おまえに言われるとむっちゃ腹立つ!!

「まったく、おまえは忘れっぽくて困、おうっ?」
 怒りを起爆剤に、薪は力任せにカートを押した。そのカートに寄りかかるようにして立っていた滝沢は堪らない。バランスを崩し、たたらを踏んだが間に合わず、商品棚に突っ伏すように転倒した。いい気味だ。
「ザマアミロ、――った、痛っ?」
 薪の頭に、礫のようなものが幾つも当たった。何かと思って見上げれば、ディスプレイ用の金魚鉢が横倒しになって、そこからカラフルな色紙に包まれたチョコレートがパラパラと零れてきていた。
「やば」
 パラパラだった粒チョコの雨はすぐに本降りになり、次の瞬間。
「「うおっ!!」」
 ドドドッ、と降り注いだチョコの雪崩に思わず頭を抱える。恐る恐る目を開けてみれば、周囲に積もった大量のチョコレート。えらいことをしてしまった。

 慌ててチョコを拾い集める薪に、滝沢の鋭い声が飛ぶ。
「店員が来る。逃げるぞ、薪」
「バカなこと言ってないで、おまえも手伝え」
「このチョコ、全部弁償だぞ。いいのか」
「えっ」
 ほんの一瞬、固まっただけなのに。
 滝沢に手を引かれたら、反射的に足が動いた。滝沢は元傭兵部隊、砲弾の雨の中を駆け抜けてきた脚力はアスリート級。見事な逃げ足で、それに着いていく薪もすごいが、問題はそこじゃない。
 フロア端の階段を駆け上がるとき、ちらりと振り返った事故現場では、さっきの子供が楽しそうにチョコレートを拾っていた。





*****






 10秒もしない間に、薪と滝沢は階段の踊り場に立っていた。

「逃げちゃった」
 急に脚から力が抜け、薪は冷たい床の上に膝を着く。先刻まで滝沢に握られていた自分の小さな手をじっと見つめて、
「もしこれが新聞にでも載ったら、僕はおしまいだ」
「あほか。そんな暇な記者がいるか」
「目撃者……目撃者を始末しないと。フロア中の人間を、一人残らず。一警察官として!」
「警察官としてと言うより人としてどうなんだ、それ」
 危険思想に傾いて行く薪を滝沢が諭す。どちらが監視役だか分からない。

「少し頭を冷やせ」
 そう言って滝沢は階段を昇って行く。階段は暖房が届かないから涼しいし、利用する客も少ない。頭を冷やすにはもってこいの場所だった。
 カツンカツン、と二人分の革靴の音が冷えた通路に響く。階段を昇り続ける、単調な作業を繰り返しているうちに、気持ちが落ち着いてきた。
「滝沢。もう大丈夫だ」
 落ち着いて考えれば、あれは事故だ。戻って店主に謝れば済む話だ。
「さっきの店に戻って、買い物の続きをしよう」
 弁償は痛いが、踏み倒すわけにもいかない。職員共済のカードローンで賄おう。
「滝沢? 何処まで行くんだ」
 次の階からフロアに戻るのだとばかり思っていたが、滝沢は階段を上がり続けた。仕方なく、薪も後を追う。今日の自分の仕事は、こいつの監視なのだ。

 やがて二人は、最後の踊り場に出た。
 滝沢は屋上に出たかったらしいが、そのドアには当然のように鍵が掛かっていた。ドアノブを回してそれを確認すると、彼は無言でドアを蹴り破った。
「げ」
 外側に倒れたドアを架け橋のように歩いて屋外に出る。空は青く澄んでいたが、風はたいそう冷たく、寒い。そして、薪の懐はもっと寒い。
「ドアの修理代が……」
「ケチケチするな。おまえ、金持ちじゃないか。荻窪に豪邸あるんだろ」
「それは原作の設定だろ! 僕は貧乏なんだよっ」
「いいのか? 原作と設定違ってて」
「おまえが言うな!」
 取り戻したばかりの薪の冷静はいずこにか消え去り、目の前の男への怒りでこめかみのあたりが熱くなる。ぶち切れそうだ。

「良い眺めだ」
 胸の高さのフェンスから下方を見下ろし、滝沢は微笑んだ。倣って瞳を伏せれば、デパートに出入りする人の群れ。
「『人がゴミのようだ』とか言うなよ。蹴り落としたくなっちゃうから」
 訝しげに眉を顰める彼に、出典を説明したものかどうか迷う。勘の良い滝沢はすぐに察したらしい。「生憎、部屋にはテレビが無いんでな」と肩を竦めた。

「ああ。風が気持ちいいな」
 フェンスを両手で掴み、滝沢は背中を反らした。背中を丸めて縮こまる薪とは対照的だ。寒い、と薪が文句を言うと、滝沢は苦く笑って、
「戦地の寒さは、こんなもんじゃなかったさ」
 旧第九の事件の後、滝沢が過酷な環境を生きてきたことを薪は知っている。滝沢を利用した連中に仕組まれて、外国の傭兵部隊に入れられたのだ。滝沢自身、もはや日本にはいられない身であったし、恋人と親友を立て続けに喪ったショックも大きかったのだろう。開き直りにも近い境地で日本を出て、それから6年間、死と隣り合わせで生きてきた。
「朝、眼が覚めるたびに思った。どうしておれは生きているんだろう。他人を殺してまで、どうして生きなきゃいけないんだろう。守るものも、愛する者も、この世にはいないのに」

 少しだけ。彼の気持ちはほんの少しだけ、分かった。
 薪もかつて、すべてを喪った経験があるから。

「おまえも同じだろう」
「僕は」
 おまえとは違う。僕には一緒に住んでいる恋人も、信頼し合える仲間もいる。大切な友人も、尊敬する上司も。愛するひとも、守りたいひとも、たくさんいる。
 そう言おうとした。でも、言えなかった。
 薪は、彼らを手酷く裏切ったばかりだった。

 気が付くと、滝沢の両手がしっかりと薪の左右の手摺を掴んでいた。転落防護柵と滝沢の腕に閉じ込められる形になって、薪は身を固くする。嫌な予感がした。
「滝沢。なんのつもり」
「すまなかった」
「……時効だと言ったろう」
 答えつつ、情報漏洩のことを謝られたのではないと分かっていた。案の定、「そうじゃない」と滝沢は首を振った。
「鈴木と一緒に殺してやれなくて。本当に悪いことをした」

 ――そのせいで。
 おまえは長いこと苦しんだ。そしてこれからも。
 おまえの中に穿たれた巨大な喪失。それが埋まらない限り、恋人も仲間もかりそめ。本当の充実を得ることはできない。だから簡単に過去に舞い戻ってしまう。
 そんな悲しい人生を歩ませるくらいならいっそ――。

 薪の耳元で、滝沢が低く囁く。
「おれがここで、おまえを殺してやるよ」




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Promise of the monster(4)

 こんにちはー。
 やっと電柱が抜けまして、今日から現場再開です。行ってきます(^^
 

 お話の続きです。
 うーん、またメロディ発売までに終わらなかったー。



Promise of the monster(4)





「おれがおまえを殺してやるよ」

 薪は咄嗟に身体を翻した。手摺を背にして、滝沢の顔を正面から見る。「冗談だ」とおどける彼は、残念ながら拝めなかった。
 薪の細い首に巻かれたグレーのマフラーに、滝沢の手が掛かる。絞め技を予見して薪は、素早く彼の手を押さえた。しかしその手は簡単に払われた。傭兵部隊の訓練を耐え抜いた滝沢の腕と、官房室の膨大な書類に忙殺されて自主訓練もままならない日々を送る薪の手では、力の差があり過ぎた。

 マフラーの上から首を押さえられ、手摺に背中を押しつけられる。苦しさに仰け反ると、足が宙に浮いてしまう。
 このまま押されたら、下に落ちる。下手したら何人か巻き添えにしかねない。
「よせ、滝沢。通行人にぶつかる」
「この期に及んで他人の心配か」
「これ以上罪を重ねたら、おまえだって」
「……可哀想な男だな。おまえは」
 憐れまれて薪は、悲しげに眼を閉じる。

 この状況で、僕は。
 死にたくないと、どうして言えないのだろう。

「安心しろ。今更何人殺そうと、どうせおれは一生塀の中だ」
 途切れ途切れに息を吐く、薪の口に滝沢の人差し指が触れた。保湿クリームでも塗るかのように、そっと下唇をなぞられる。
「鈴木や豊村たちによろしくな」

 叫べばいいのに。僕は生きていたいと。
 追い詰められたネズミのように、彼の指に噛みつけばいいのに。
 なぜ。

「苦しいのは一瞬だ。楽に死なせてや、おうっ!」
 ガン! とものすごい音がして、薪は眼を開けた。するとそこには、さっき自分が蹴り倒したドアの下敷きになった滝沢の姿が。
 呆気に取られて視線を巡らせば、頬を紅潮させた青木が仁王のように立っていた。

「ちょ、滝沢! 大丈夫か!」
 慌ててドアを持ち上げようとするが、重くて動かない。よくこんな重量物を振り回せたものだ。
「お手伝いしましょうか」
「悪いな、助かる。て言うか、これやったのおまえ!!」
 薪が絡むと青木は無法者になる。これまでにも似たようなことは多々あって、そのたびに薪は青木を叱るが、一向に改善される気配はない。
「このバカ! 止めるにも方法があるだろ。そのドア、金属製だぞ」
「手元に手頃な武器が無かったので」
 死ぬだろ、そんなもんで殴ったら!
「すみません。柔道技で投げ飛ばせばよかったですね。……車道に」
 それは投げ飛ばすって言わないよね、投げ落とすって言うんだよね。

 どこまで本気か分からない青木の言い訳にツッコミを入れながら、薪は滝沢の介抱をする。滝沢は頭に大きなコブができていたが、意識はしっかりしていた。
「目の前がチカチカする」
「許してやってくれ。僕からもキツク叱っておく」
 二人とも、青木の尾行には最初から気づいていた。チョコレート売り場で撒いたつもりでいたが、甘かった。青木も警察官になって8年。彼なりに成長しているのだ。
 ちなみに、滝沢がカートに入れた山のような土産物と、二人が撒き散らかした大量のチョコレートは、丁寧な謝罪とともにすべて青木が買い上げていた。薪のボディガード兼世話役の青木は対象の不祥事の後始末も完璧だ。何故ならこんなことは珍しくもない。推理に夢中になった薪が歩きながら棚をひっくり返すなんてのは日常茶飯事。本人に記憶がないだけだ。

「バカ犬め。せっかくの計画が」
「計画?」
 鸚鵡返しに尋ねる青木に、滝沢は首を振った。後頭部を押さえて顔をしかめる。傷に響いたらしい。代わりに薪が答えた。
「いま僕を殺しても何のメリットもない。滝沢は、少しふざけただけだ」
「ふざけただけって、あんな」
 不満そうな青木を一睨みで黙らせて、薪は立ち上がる。滝沢の真意なんか、とっくにお見通しだ。
 滝沢はきっと、確かめたかったのだ。モンスター事件を生き延びた薪の心の変化を。岡部に託した、自分のメッセージが薪に届いたのかどうか。確認したかったのだと思う。
 しかし、その結果は。

「……すまん」
「弱気なおまえなんぞ、なんの魅力もない。襲う気にもならん。……襲う気にならないって言ってるだろう、ドアを構えるのやめろ!」
 滝沢が喚くと、青木はドアを下ろした。ゆるゆると出入口に向かう2人の後に続いて、重いドアを引き摺ってくる。
「買い物の続きだ。青木、計画を台無しにした罰だ。荷物持ちはおまえがやれよ」
「ええー。あのチョコレートの山、全部ですか」
「店員に届けさせるわけにもいかんだろう」
「あ、いいこと考えました。第九経由でメール便を使えば、――っ!」

 ギィン! と鋭い音がして、青木が持っていたドアに何かがぶつかった。衝撃で金属製のドアが凹み、3人はぎょっとして立ち竦む。
「伏せろ!」
 滝沢の号令で身を低くした、間髪入れずに2発目の衝撃音。青木の後ろのコンクリート壁に小さな穴が穿たれる。そこに突き刺さっていたのは、ライフルの弾丸だった。亜鉛金メッキの塗装にM118の文字が刻んである。
 狙撃されたのだ。

「狙いはおれか、薪か」
 滝沢は、裏社会を渡ってきた人間だ。買った恨みの数は膨大で、自分でも把握しきれていない。薪は長年第九の室長を務めてきて、その脳に重大な秘密を幾つも抱え込んでいる。彼を殺してでも秘密を守りたい人間がいてもおかしくない。
「ちょっと待ってください。じゃあ、どうして2発ともオレが照準なんですか」
「「でかいから」」
「そんなあ」
 情けない顔をする青木の鼻先に、3発目の弾丸が撃ち込まれた。その弾痕は、2発目の弾と殆ど重なっている。恐ろしい精度だった。
「いずれにせよ、逃がす気はなさそうだ」
 3発目の弾丸は、明らかな脅し。自分の腕前を示し、逃げても無駄だと言いたいのだ。

 弾痕から入射方向を算定し、薪は西側のビル群に目を走らせた。林立するビルの左端から4番目、自分たちのデパートよりやや高い雑居ビルらしき建物の屋上で、何かがキラッと光る。ライフルスコープのレンズだ。
 薪がそちらに向けて昂然と頭を上げると、相手もそれに気付いたらしい。すっくと立ち上がって、これ見よがしにライフル銃を構えた。
「あいつだ。滝沢、おまえの知り合いか」
「あれじゃ分からん」
 その男の身長は、170から180センチくらい。黒いニット帽らしきものを被っており、髪型や髪の色は不明。顔の半分が隠れるようなサングラスを掛け、鼻から下は長い髭に覆われ、よって顔立ちも不明。唯一の手がかりはスラッとしたモデル体型の身体つきだけだが、ダイエットブームの現代、痩せ形の男は掃いて捨てるほどいる。

「僕にも心当たりはない。少なくとも友人ではなさそうだ」
「おれの友人でもないさ」
「おまえに友人なんかいるのか」
「おまえよりずっと多いぞ。土産の数を見ただろう」
「見栄を張るな。西野以外の友だちなんかできなかったくせに」
「おまえだって鈴木以外に友だちいなかっただろ」
「おまえなんか、その唯一の友だちに騙されてたじゃないか!」
「おまえこそ、鈴木が女医先生といちゃいちゃできるように休日のシフト組んでたの、あれ、健気過ぎてイタイってみんな言ってたぞ!」
「余計なお世話、てか、みんなってだれ!?」
 怒鳴ると同時に、薪は青木の腕に囲い込まれた。そのまま床に倒される。青木の腕がクッションになって衝撃は緩和されたが、それでもコンクリートの床は、肉の薄い薪の身体には痛かった。

「古傷の抉り合いは後にしてくださ、うわっ」
 棒立ちになって怒鳴り合っていたら、格好の的だ。青木が薪を床に倒した直後、青木の頭があった場所に4発目の着弾。銃声は聞こえなかった。サプレッサーを使っているのだろう。
「だからなんでオレ!?」
「青木。おまえ、何かやったのか」
「何もしてません!」
「公安あたりじゃないのか。薪との関係がバレたとしたら、狙撃対象になり得るだろう」
 そう言った滝沢自身も冗談のつもりだったが、仮に、愛でる会の幹部連中に真実が露呈したならそれは現実になる。

 さておき。
 現在の敵は目の前にいる。それも一流のスナイパーだ。

「薪。銃をおれによこせ」
 弾かれたように、薪が滝沢を振り返る。無謀すぎる申し出に、一瞬言葉を失った。
「ばかな。仮釈放中の囚人に銃を渡せるか」
 分かりきった答えを返しながら、薪はポケットから銃を取り出した。薪の手には少し大きめの、S&Wの38口径。青木からの借り物だ。
 滝沢は一目でそれを見抜くと、薪の眼の前にぬっと手を差し出した。
「よこせ。撃てないやつが持っていても仕方ない」
「おまえがあの男を殺したら、中園さんが尽力した司法取引が無効になる。そうしたらおまえは死刑だ」
「ここで死ぬなら同じことだ」
 滝沢の言葉を無視して、薪は安全装置を外した。撃鉄を起こし、馴染みの薄い銃のグリップをしっかりと握る。

「薪さん。オレが」
「「おまえは引っ込んでろ!」」
「どうして仲悪いクセに呼吸はピッタリ合うかなあ。――わ!」
 ビクッと青木が身を竦ませる、5発目の着弾は青木の爪先20センチ。狙撃者までが、余計な手出しをするな、と青木に釘を刺すかのようだ。

 薪は銃を片手に、青木の前に走り出た。小さな身体で青木の巨体を匿うように左腕を広げ、胸の前で銃を握り直す。敵に向かって腕を伸ばす薪に、滝沢が言った。
「もしあの男が、貝沼事件被害者の父親だったらどうする」
 ガクン、と銃口が傾いた。振り返った薪の顔はさして驚いたようでもなかったが、銃身に伝わる手の震えに、彼の心情はより強く表れていた。
「そんな偶然が続くわけがないだろう」
「分からんさ。遺族同士が交流を持つことは珍しくない。『犯罪被害者遺族の会』なんてのもあるくらいだ。荒木の母親から情報を得た他の被害者遺族がいなかったと、どうして言い切れる」
 尤もらしい、しかし限りなく可能性は低い滝沢の理屈に、それでも薪は動けなくなる。いくら集中しようと神経を張り詰めても銃を持つ手は微かに震えて、それはいみじくも親友の命を奪ったあの日と同じように。

「そこまで考えていたら、何もできない」
「その通りだ。なにもできないさ、おまえには」
「前にも言っただろう。僕を見くびるな」
 強気に返すも手の震えは止まらない。正中を取った射撃の基本姿勢の、両膝の力が抜けそうで、やや内股になっているのを自覚する。このまま撃ったら反動で弾が逸れる。薪は意識して膝を伸ばし、グリップをもう一度握り直した。
 11月の冷たい風が吹き抜けるビルの屋上で、手に汗をかいている自分の未熟を嘲笑う。本当に、情けない男だ。

「おまえの言う通りかもしれない」
 弱くて臆病で口ばかり達者で。でも。
「だからって」
 そんな僕が生きる理由を、遺してくれた人がいる。生きることを望んでくれる人がいる。僕を守ろうと、心を砕いてくれる人たちがいる。その人々に対して。
「なにもしないのは男じゃない」

 せめてもの誠実を。僕に立ち上がる力をくれた大切な人たちに。
 彼らがくれた温かいもの、キラキラしたもの、僕を奮い立たせてくれるもの、僕を強くしてくれるもの。それらを僕が確かに受け取った、その証に。

 ガーン、と耳をつんざくような音が空に木魂した。薪が向けた銃口の40メートル先で、スナイパーがもんどりうって倒れる。
 地上では、銃声によって一瞬騒ぎになったものの、自分たちの周りに倒れる者もなく怪我をした者もいないことが分かると、すぐに元の流れに戻った。現場を目撃したのでなければ、その音が銃声であることを判断できる日本人は意外と少ない。多くの日本人にとって、銃撃戦と日常は簡単には結び付かないのだ。
 発射の反動でふらついた薪を、青木が待ち構えていたように後ろから支える。両肩を大きな手のひらで包むように、しっかりと受け止めた。

「薪さん、大丈夫で」
「また1人殺した」
 だらりと銃を下げ、薪はぼそりと呟く。俯く薪に、青木が悲しげに眉を寄せた。
「そうだな」と滝沢は敵が起き上ってこないのを見届け、薪の言葉を肯定した。それから薪を振り返り、はっきりと言った。
「でも、2人救った」
 それは事実の確認で、慰めではなかったのかもしれない。その証拠に、「ちがう」と首を振る薪に、滝沢はそれ以上の言葉を掛けなかった。

「違いません。薪さんのおかげで」
「3人だ」
 自責の波に沈む薪を救おうとした青木の助け船は、波間を漂っていたはずの遭難者の言葉で遠ざけられた。しかしそれは拒絶ではなく、この荒波を自身の腕で泳ぎきろうとする彼の決意表明。
「青木と、おまえと」
 薪の眼は、真っ直ぐに滝沢を見ていた。寒さからか射撃の余波か、その両膝は微かに震えて、青木に肩を支えてもらわなければ今にもその場に崩折れそうだったけれど。
「僕」
 その瞳は強く。眉はきりりと吊り上がって、彼の言葉に真を添える。

「3人だ」

 薪の肩を包む青木の両手にぐっと力が入り、「薪さん」と嬉しそうに名前を呼ばれた。滝沢はと言えばほんの少しだけ目を瞠り、「ふん」とバカにしたように嗤った。
「やっとまともに数が数えられるようになったか」
 皮肉に笑った滝沢の顔つきは腹が立つほど尊大で、だけど仕方ない。これがこの男の素の顔なのだ。

「青木。もう大丈夫だ」
「あ、すみません」
 自分の肩から離れようとした青木の手を、その右手だけを薪は銃を持っていない方の手で押し留め、「青木」ともう一度彼の名を繰り返した。
「僕は……これからもたくさん、躓くと思う」
 はい、と素直に返事をする青木を、薪は振り返りつつ見上げて、
「付き合ってくれるか」
「もちろんです」
 聞かずとも、青木の答えは分かっていた。分かりきった答えを彼の口から聞きたいと、駆け引きみたいな小細工を薪はしない。だから大事なのは青木の答えではなく、この質問そのものだ。
 大切なのは、薪の口からそれを青木に頼むこと。ちゃんと声に出して、言葉にして、相手に伝わるように受け取ってもらえるように、差し出すことが重要なのだ。

「転んで得られることもあるって分かったから、その前に手を出すことはしませんけど。起きるときにはちょっとだけ、オレの手に掴まってください」
「うん。頼りにしてる」
 しばし見つめ合った後、薪は捻った身体を元に戻し、青木は薪の肩から手を離した。事後処理のため、警視庁に連絡を入れようと携帯を取り出した薪に、滝沢はしゃあしゃあと、
「せっかく盛り上がったんだ、キスくらいしろ」
「なななななに言ってんだ、そんなことするわけないだろ!」
「遠慮するな。おれは後ろ向いててやるから」
「おまっ、コロス、ぜったいにコロスッ!!」
「だったら助けなきゃいいのに……」
 携帯電話を拳銃に持ち替え、頬を赤くして喚き散らす薪を背中に、滝沢は声を殺して笑った。




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Promise of the monster(5)

Promise of the monster(5)





 薪の通報で駆けつけてきたのは、捜査一課の大友班だった。
「お疲れさまです、薪室長。こないだから災難続きですね」
 捜査班に同行した5人の鑑識官が、現場の写真を撮ったりコンクリートにめり込んだ銃弾を取り出したり折れ曲がったドアの形状をスケールで計ったりしている間、3人は大友の事情聴取を受けることになった。
 犯人に心当たりがあるかとの質問に対して薪は、自分に恨みを持っている人間は大勢いるが、どこの誰かは分からない、と正直に答えた。青木はまったく身に覚えがないと言い、滝沢は、刑務所の中にいた方が安全だ、と警察への皮肉で返した。

「大友さん。現場検証に立ち会わせてもらえませんか」
「え。もう終わりましたけど」
「ここじゃなくて、あちらのビルですよ」
 薪が指差したのは、狙撃者が潜んでいたビルだ。現場に居合わせた者として、鑑識に的確な指示が出せる自信があった。しかし大友は困ったように首を振り、
「ああ、いや、あっちは別班が出向いてましてね。もう終わったんじゃないかな」
「そんなはずはないでしょう。僕はずっと見てましたけど、誰も出入りしてませんよ」
「そうですか。おかしいな……いやでも、俺たちはここの捜査権しか与えられてませんので。立ち入りの許可はちょっと」
 歯切れ悪く答える大友に、薪は厳しい口調で言い放つ。
「では結構です。勝手に入りますから」
 部外者が現場に入ることを捜査員は嫌う。それは知っているが、相手は青木を狙ってきたのだ。自分の部下に手を出されて黙って引き下がるなんて、薪のプライドが許さない。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、室長」
「僕は警視長ですよ。別にあなたの許可なんて無くても」
 強引に現場に向かおうとする薪を、携帯の着信音が止める。このメロディは中園だ。
『薪くん、狙撃されたって? 大丈夫なのかい』
「大丈夫です、中園さん。僕たちに怪我はありません」
『そうか。みんな無事でよかった』
 電話の向こうから伝わってくる、ほっと胸を撫で下ろす気配。亜麻色の瞳がすうっと細められる。

『もしもし? 薪くん、どうかした?』
「いえ。ご心配お掛けしました」
『まだ現場にいるのかい? 近くに犯人の仲間がいないとも限らないから、一刻も早くそこを離れて。滝沢くんの監視はもういい、早く家に帰りなさい。監視役の警官とSPを向かわせるから、場所を教えて』
「SPなんていりませんよ。滝沢の監視も、一旦受けた仕事です。最後まで僕がやります」
 この仕事を命じられた時と同じように上司の返事を待つことなく薪は電話を切り、ついでに電源も切った。

「滝沢。門限の6時まで、どこか行きたいところはあるか」
 唐突に、発砲事件にも現場検証にも見切りを付けてそんなことを言い出した薪に、周りの者たちが目を丸くする。話を振られた滝沢だけが無表情に、しばしの思案の後、薪に応えを返した。
「どこでもいいのか」
「……僕の家以外ならな」
「少し遠くなってもいいか」
「門限を守れる範囲なら。――大友さん、車のキィを」

 あまりにも当然のように差し出されたものだから、大友は自然に、その手のひらに鍵を置いてしまった。鍵が薪の右手にしまわれてから、自分のうっかりに気付く。
「あのお。おれはどうやって帰ったら」
「中園さんの部下が来ます。その人に送ってもらってください」
「え。それはさっき断ってたじゃないですか。場所だって伝えてないし」
「相手は中園さんですよ。僕と電話が繋がった時点で場所を特定してるはずです。断言してもいい、10分もしないうちに来ますよ。だから僕たちは急がなきゃ」
 キツネとタヌキの化かし合いのような薪の説明に、大友はぽかんと口を開けた。官房室や公安みたいに裏工作ばかりしていると、仲間同士の会話もこうなるのか。竹内が警察庁に行きたがらなかった訳が分かった。大友だって、日常会話で裏を読まきゃならないようなしんどい職場より、一課長の雷を選ぶ。

「当たり前ですけどこの事は内密に。行くぞ、青木」
 薪が無造作に放り投げたキィを待ち構えていたように受け取り、青木は二人の後に続いた。途中でチョコレート売り場に立ち寄り、預けていた商品を受け取る。
 大友に借りた車のトランクに土産を詰め込み、青木は車をスタートさせた。駐車場を出て間もなく、デパートの前の道路で黒塗りの公用車とすれ違う。薪の予言通り、大友と別れてから8分後のことであった。薪と滝沢は用心深く後部座席で頭を低くして、だから対向車には青木が一人で運転しているように見えただろう。

 滝沢の案内に従って、車は首都高から東関東自動車道に、やがては東京都を離れた。2時間弱の湾岸線ドライブの末、到着したのはN空港であった。
「どこでもいいとは言ったけど、国外は」
「安心しろ。パスポートを持っていない」
「じゃあ見学に? 飛行機、好きなんですか」
「別に。好きじゃない」
 その言葉通り滝沢は、見物客で混雑している展望デッキには近付こうともしなかった。待合室の椅子に座り、腕を組んで案内板を眺めていた。
 アナウンスに従って搭乗手続きを始める乗客たち。目まぐるしく変わる電光掲示板の文字。ベルトコンベアーに流れていく手荷物を追い掛けて、滝沢の視線が南ウィングの搭乗口へと移って行く、その先に。
 他人の眼には映らない、おそらくは滝沢の心の中にだけ存在する光景を想像して、薪はそっと目を伏せる。

 ――彼のいなくなった第九で。
 ずっとずっと、彼の姿を見ていた。
 モニタールームに、彼のデスクに、メインスクリーンの傍らに。現れては消え、消えては現れる彼の姿を追い続けた。室長室でひとり書類と格闘しながら、モニターに写り込む影にハッとして振り返れば、そこにはだれもいない。そんなことを何度も繰り返した。
 こいつもきっと。

 薪は黙って滝沢の隣に座り、彼に倣って案内板を見上げた。自宅のソファで寛ぐときのように、靴を脱いで膝を抱える。
 二人は会話もなく、たまたま隣に座った旅行客のように互いを見ることもしなかった。そんな二人を前に青木だけが熱心に、フロアガイドを片手に数えきれないほどある飲食店の中から薪が好みそうな店を探していた。




*****


 この下、メロディ6月号の一言感想です。
 ネタバレご無用の方は開かないでくださいね☆



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Promise of the monster(6)

 私信です。

 4月28日の午後8時ごろ、「アウトロー」という題名でコメントくださった方、いらっしゃいますか?
 メールボックスに届いているのですが、ブログの管理画面を確認したところ見当たらず、また、HNも初めての方のようなのですが。
 イニシャルはAさんです。

 何かの理由でご自分で削除されたならいいのですが、
 もしもエラーで消えてしまったのなら申し訳ないので~、
「コメントしたけど返事もらってないよ!」と言う方、いらしたら連絡ください。




 さてさて、お話の続きです。
 残り2回、よろしくお付き合いください。





Promise of the monster(6) 





 空港内の和風レストランで遅い昼食を摂り、東京に戻ると夕方になっていた。
 門限の6時までは1時間近くあった。帰り道、真っ直ぐ小菅に向かってくれと滝沢に頼まれて、青木は海ほたるでのおやつタイムを諦めたのに。時間が余るなら、せめてレインボーブリッジくらい薪に見せてやりたかった。

 荘厳にそびえ立つ東京拘置所の門前で、滝沢は車から降りた。青木がトランクから荷物を取り出すと、見て見ぬ振りをするにはあまりにも大量の土産物に、迎え出た看守長が苦い顔をした。いくら滝沢が特別な立場にあろうと、すべてを許してしまっては他の囚人に示しがつかないのだろう。ましてや彼は看守長。部下たちの見本になる立場にある。
「241番。飲食物の持ち込みには制限が」
「すみません、宮部さん。僕の監視が行き届きませんで」
 責任を感じた薪が口を挟む。そんな彼に、看守長の声は厳しかった。
「困りますよ、警視長。しっかりしていただかないと」

 常ならば、申し訳ありません、と固い声で返すはずの薪は、何を思ったか小さな右手を軽く握って口元に持って行き、声を震わせて、
「ごめんなさい、僕の責任です。処分はこちらでします」
 気弱に下げた眉の下の、大きな亜麻色の瞳を潤ませれば、途端に宮部は焦り出す。
「い、いや、別に、あなたを責めるつもりは」
 ゴメンナサイはともかく、手のひらを相手の胸に当てるとか、謝罪に必要なんですか、それ。あなたにそんな風に謝られてほだされない人間なんかこの世に存在しないって知っててやってますよね?
「でも、官房室に持って帰ったら中園さんに叱られちゃうし。困ったな、どうしよう」
 やりすぎです。「叱られちゃう」とか「どうしよう」とか、言葉選びがあざと過ぎます。相手は囚人の嘘に慣れた看守長、ミエミエのお芝居に騙されるわけが、
「私に任せてください! これは有志からの慰問品と言うことで、服役囚に配ります」
 それでいいのか、看守長。
「いいんですか?」
「大丈夫です! 私は看守長ですよ!」
 おまえでいいのか、看守長。

「大丈夫なんだろうな、この刑務所」
「おまえが言うか」
 真顔で呟く薪に、滝沢がシビアに突っ込む。薪の不信は尤もだが、今回だけは滝沢が正しい。
 何はともあれ、一日だけの仮釈放は無事に終わった。途中、とんでもない事件に巻き込まれた気もするが、滝沢のような男と一緒だったのだ。このくらいは想定内だ。そのために、青木が尾いて行ったのだし。

「滝沢」
 二人の警官の手によって正門が閉じられようとした時、建物に向かって歩き出した背中に、薪は呼びかけた。見張り役に付いた二人の看守の間で、滝沢がゆっくりとこちらを振り向く。
「次は僕がパンを焼いて、青木が淹れたコーヒーを飲ませてやる。だから」
 中途で薪は、言葉を飲んだ。きゅ、と下くちびるを噛む、彼の気持ちが青木には分かる。
 多分、その日は永遠に来ない。それが分かっているから薪は言い淀む。果たせない約束の残酷を、誰よりもよく知る彼ならではの躊躇い。そして、
「ああ。楽しみにしてる」
 尊大に笑った滝沢は、薪の葛藤を見抜いている。
 かつて敵だった男、仲間を殺した許せない男。仇とさえ感じていたはずの、彼に対するポーカーフェイスがどんどん薄くなっている。それを自覚して表情を引き締めた、薪の悲しいまでの頑なさも。

 二人で、滝沢の姿が見えなくなるまで見送った。つるべ落としの日暮れは早くて、滝沢が建物に入る前に、彼のダークスーツは夕焼け色に染め変えられた。
 ガシャン、と重い金属音が響き、彼の世界が再び閉じられたことを青木に教える。尚も佇む様子の薪に、青木がそっと声を掛けた。
「帰りましょうか」
「うん」
 促されて薪は助手席に乗り、シートベルトを締めた。車の窓から見上げた拘置所の壁は宵闇に薄黒く染まり、一層堅牢さを増すようだった。

「青木」
 車をスタートさせて間もなく、正門から眺めれば永遠に続くかと思われたレンガ塀の、瞬く間に流れ去る様子に目をやりながら、薪は言った。
「すまなかった。危険な目に遭わせて」
 なんだっけ、と思いかけて狙撃事件のことだと気付く。呑気なやつだと叱られそうだが、青木にとっては看守長と薪のニアミスの方がよっぽど心臓に悪い。
「標的は薪さんだった、てことですか?」
 だとしても、薪が謝る必要はない。青木は薪のボディガード。彼を守るのが青木の仕事、もとい存在理由だ。
「いや。狙いは僕じゃない」
 では滝沢狙いか。本人も察していたようだし、案外今頃、安全な場所に帰れてホッとしているかもしれない。外より刑務所の中の方が気が休まるなんて、笑い話みたいだ。

「ターゲットはおまえだ」
「やっぱり、――えっ、オレ?!」
 思いがけない薪の言葉に、青木は驚く。自分が誰かに命を狙われるなんて夢にも思わなかった。自分は薪のような重要人物でもないし、他人に恨みを買う憶えも、いや、もしかしたら薪に横恋慕している誰かが自分たちの関係に気付いて、て言うかそれ100パー返り討ちにするから。
「と言っても目的は僕だけどな。狙撃事件そのものが僕に対する教訓みたいなもので……」
 薪が何か言っているが、青木の耳には入ってこない。誰かが自分を害して薪を奪おうとしている、その妄想だけで青木は国際級のテロリストになれる。
「――さんも、誰も傷つけない自信はあったんだろうけど、あんな危ないやり方を選ぶなんて。関係者でもない大友さんたちまで巻き込んで、後で抗議しておかないと。て、聞いてるか、青木」

「薪さんに一目惚れした犯人がオレを事故死に見せかけるため今この瞬間にもタイヤを狙撃、いや、それじゃ薪さんも巻き添えになる。狙うならオレが一人の時か……」
「おーい、帰ってこーい、てか青木、信号赤!」
 何故か横から車が突っ込んできたから強くアクセルを踏んでハンドルを切った。不思議なことに、その先にも車がいたからサイドブレーキを引き後輪にスピンを掛けて回避した。タイヤがアスファルトを削る音が高らかに響き、そこにいくつものクラクションが重なる。みんな、なにを慌ててるんだろう。

 通常走行に戻って青木は呟く。
「そもそも薪さんに横恋慕なんて許せないし。襲われるのを待つよりこっちから潰しに、痛いっ」
「妄想のアサシンに襲われる前におまえに殺されるわ!」
 脳天をパトランプで殴られて我に返る。いつの間にか首都高を抜けていた。
 おまえの運転は危ないと、隣でため息を吐かれて青木はしょげる。車の運転は上手い方だと自分でも思う。下手に自信があるから余計なことを考える。大事な薪を乗せているのだ、集中しなければ。

 青木は神妙な顔になって、自動車学校の生徒のように十時十分の位置でハンドルを握り直した。真っ直ぐに前を見て、でも隣で薪が微笑んだのが雰囲気で分かる。リラックスしてシートにもたれかかった薪の右手が、ぽんと青木の左腿を叩いた。
「明日は仕事だけど、まだ6時前だし。ちょっとだけ寄り道しようか」
「食事ですか?」
「夕食はまだいい。昼が3時頃だったからな。それより」
 つい、と細い指が差した建物に気付いて、青木の肩が強張る。つい先日、今週は薪を休ませてあげなさいとの小野田の厳命を破ったことが岡部にバレて、こっぴどく締め上げられたばかり。普段は20回に1回くらいしかOKしてくれないくせに、どうしてこういうときに限って積極的になるかな、この人は。

「で、でも、この車、大友さんに借りた覆面パトだし」
「べつにいいだろ。パンダ(パトカーのこと)じゃないんだし」
「ですよねっ」
 気になるならコインパーキングを使え、とそこまで言われて応じなかったら男がすたる。てか、薪から誘ってくれるなんてハレー彗星並みに珍しいこと、勿体なくて断れない。
 期待に頬を紅潮させながらウィンカーレバーを上げる青木の横顔を横目で眺め、薪は小さく笑いを洩らした。




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Promise of the monster(7)

 先日からの続きもの、こちらでおしまいです。
 モンスター事件のお話はこれが最後です。
 お付き合いくださってありがとうございました。



Promise of the monster(7)




 彼らが二人だけの秘め事に没頭しているころ。滝沢は秘密の電話をしていた。

「やっぱりあんたか。万が一のことがあったらどうするつもりだったんだ」
 相手は、今日の仮釈放を企てた張本人。警察庁のお偉いさんで、死刑確定だった滝沢に司法取引を持ちかけ、永遠の刑務所生活を保証した人物でもある。
 今日の件は、もともとは中園の方から打診があったのだ。岡部が薪の性根を叩き直すべく舌鋒を振るったが、どうも結果が思わしくない。あれ以上は岡部には無理だし、青木に到っては甘やかすことしかできないだろう。「滝沢くんの方でなんとかならない?」との相談に、「任せておけ」と答えたのは単なる暇つぶし。薪をからかって遊べるなら、他の事はどうでもよかった。

 デパートの屋上で薪を追い詰めるまでは、滝沢のシナリオ通りだった。しかし、狙撃なんて物騒なことは計画にはなかった。滝沢はそこまで無謀ではない。
 人間のすることに完璧はない。いくら優秀な狙撃手でも的を外すことがあるように、当ててはいけない的に当たってしまうことだってある。鈴木を殺してしまった薪のように。

『こいつは驚きだ。傭兵上がりの殺し屋が、いつの間にそんな甘ちゃんになったんだ? さては薪くんに惚れたな?』
 からかう口調で言われ、滝沢は気分を害する。その手の冗談で薪を構うのは好きだが、自分が構われるのは嫌いだ。
「小野田に言い付けてやろうか」
 滝沢が脅しのつもりで返したセリフに、「どうぞ」と相手は余裕で答え、次いで可笑しそうに笑った。
『スナイパーは坂崎くんだ。もちろん、小野田も了承してる』
「なっ」
 坂崎と言うのは確か、小野田のお抱え運転手だ。ボディーガードも兼務していたから射撃もA級ライセンスなのだろうが、それにしたって。

「……そうか。だから的が青木に集中してたのか」
『君と薪くんがデートしてたら、嫉妬した青木くんが絶対にでしゃばってくる。そうしたら頭を狙えって小野田が言うのを、僕が必死に止めたんだよ』
 裏事情を聞いて、滝沢は青木が可哀想になる。
 アホだ腑抜けだとさんざんに罵ったが、なかなかどうして、青木は大した男だ。薪の父親代わりのような上司にそこまで疎まれて、それでも薪の傍を離れない。普通のアホにはできないことだ。青木は立派なアホだ。

『そこまでやるかと思ったけど、結果は上々だ。薪くんはちゃんと自分の意志で自分の命を守った。あばらを折られた坂崎くんは気の毒だったけどね』
 防弾チョッキを着ていても、着弾の衝撃は凄まじい。あばらの一本くらいで済んだなら軽い方だ。
『まさか当たるとは思ってなかったから、僕も小野田もびっくりしたよ。薪くんて本番に強いタイプだよね』
「銃は、素人のまぐれ当たりが一番怖いんだ」
 こんなことに用いるものではない。刑務所に入っている自分の方が、こいつらよりよほど常識人だ。

『まあ何にせよ、君のおかげで上手く行ったよ。これであの子も』
「薪は分かってるぞ。おまえらのこと」
 中園の上機嫌にわざと水を差すように、滝沢は彼の言葉を遮る。
「狙撃事件がおまえの差し金だって、薪は気付いてる」
 屋上で、滝沢の本心を見通していたように、中園の企みも。もしかすると、その背後にいた小野田の存在まで、あの天才はお見通しなのかもしれない。忌々しい脳みそだ。

『つい口が滑っちゃったんだよね。『二人とも』じゃなくて『みんな』って』
 あのとき、現場に青木が居たことを中園は知らないはずだった。知っていたのは狙われた滝沢たちと、狙撃手自身。自分たちが中園にそれを知らせなかったなら、狙撃手が中園と通じていたことになる。
 朝、小菅を出た時点で尾行者は2人いた。
 薪は青木に気付いた後、もう一人の尾行者の可能性を消してしまったが、滝沢は警戒を怠らなかった。自分のような危険な男と一緒なのだ。過保護な官房長が薪の警護を、あの頼りない小僧一人に任せるわけがない。事実、彼は青木よりよほど優秀な追尾者だった。
 薪を害すれば彼の銃口が火を噴く、それは解っていた。だから屋上での芝居は、滝沢にとっても命懸けだったのだ。

『薪くんて、重箱の隅を突っつく性格だろ。即行電話切られて、あー、バレたなって』
 薪の態度が一変したから滝沢にも分かったが、電話を切られた中園にはその様子は見えなかったはずだ。なのに、薪の考えを見抜いている。こんなタヌキ親父が上司とは、薪の性格が年々悪くなるはずだ。
「非番の刑事や鑑識まで引っ張り出して、官房室の横暴には呆れるな」
『それがさ、大友君にこの話を振ったら臨場班役を巡って鑑識内で争奪戦が起きたって』
 大丈夫なのか、桜田門。

「大事な坊やが危ない目に遭わされたんだ。薪は怒るぞ」
『だろうねえ。でも、薪くんはなにも言わないよ』
 自分さえしっかりしていれば、あの事件は起こらなかった。こんな茶番が仕組まれることもなかった。元はと言えばすべて自分のせいだ。
 そう思えば、薪は何も言えなくなる。彼は誰よりも自分の弱さを知り、それを恥じる人間だから。

『ところで滝沢くん。4月に、小野田の義父殿が法務大臣に就任することは知ってる?』
 小野田の妻の父親は内閣府にいる。警察庁に影響力を持つ代議士の血族になることで庁内に政権を得るやり方には反吐が出るが、彼の実力を認めるのはやぶさかではない。実際、なんの後ろ盾も持たない人間が警察庁のトップに立とうと思えば、こんな方法しかないのかもしれない。
『君が望むなら、恩赦のリストに君の名前を入れておこうか』
 中園の申し出は、誘惑。ここから出られる可能性を与えてやる代わりに、都合の悪いことには口を噤め、自分の協力者になれ、と誘いを掛けているのだ。
 冗談じゃない。誰がこんな男の手先になるか。
 滝沢は素っ気なく答えた。

「余計な気を回さなくてもいい。おれは薪で遊びたかっただけだ」
『あ、そう。じゃ』
「待て。恩赦を受けないとは言ってない」
 気の早い誘惑者を、滝沢は慌てて引き留める。1度断られたくらいで諦めるとは、なんて根性の無い男だ。青木の爪の垢でも飲ませてやりたい。

『そんなに警戒しなくても、恩に着せたりしないよ。多分、君の名前は小野田のところで弾かれるしね。君は人を殺し過ぎた』
「じゃあリストに載せても意味がないじゃないか」
『小野田に見せる前に、刑務所長に情報を流しておく。出所は無理でも、仮釈放は通り易くなる。それで手を打ってくれないかな』
 今日のような一日を、また持つことができる。鳥かごが中庭に変わった程度だが、それでもいくらかはマシな空気が吸える。
『薪くんが焼いたパンと青木くんが淹れたコーヒーを飲める機会は、僕が作ってあげるからさ』
 抜け抜けと言われて、滝沢は思わず舌打ちする。
 看守長の宮部から、もう報告が上がったのか。サッチョウ(警察庁)のイヌめ。

「要らん世話だ。連中と馴れ合うつもりはない」
『君と仲良くなると、薪くんが自分を責めるから?』
「ああ!?」
 声を荒げた後で息を飲む。しまった、つい。
 電話口の向こうで、声を殺して笑っている気配がする。どこまでも見透かしやがって。本当に嫌な男だ。

「もう切るぞ。おれもそう暇じゃないんだ」
『ちょっと待って、悪かったよ。今回のことは本当に感謝してる。君の忠告がなかったら、モンスター事件はもっと悲惨な結末になっていたかもしれない。ありがとう』
「礼を言われる筋合いはない。薪を甚振るのはおれの趣味だ」
『君も大概素直じゃないね』
 ま、いいか、と軽く流して、中園は会話を終了させた。「じゃあ元気でね」という挨拶の『元』あたりで滝沢は電話を切り、電話に向かって眉をしかめる相手の姿を想像して僅かに溜飲を下げた。

「ふん。あいつらとつるむなんて、冗談じゃない」
 滝沢は、MRI捜査には反対だ。死者を冒涜し、故人が死んでまでも守りたかった秘密を暴く。それは人殺しよりも重い罪だと思う。
 自分なら、他人には絶対に脳を見られたくない。この中に眠る記憶は、彼女の姿は、自分だけのものだ。それを他人の視線で侵されるくらいなら、滝沢は迷わずに頭を撃ち抜く。

 ――空港で、彼女を最後に見た場所で。
 彼女の姿を思い描いた。10年も前のことなのに、その姿は呆れるほど鮮明だった。
 自分の粘着気質にげんなりしていたら、隣に薪が座った。
 薪は膝を抱えて、子供のような眼をしていた。なにを思い出しているのか丸分かりで、手酷く傷つけてやりたくなったが、彼女が困ったような顔をしたから止めた。

 きっと、自分と薪はそういう関係なのだ。
 仲間ではなく、友だちでもない。交わすべき言葉もなく、情もない。ほんの短い時間、黙って隣に座っていることはできる、それだけの関係。
 そのくらいの距離感がちょうどいいと思った。深入りするには危険過ぎる相手だ。青木のように取り込まれでもしたら地獄を見る。
 こうして何年かに一度くらい、奴に嫌がらせをしてやれればそれで充分だ。幸い、次の約束も取り付けたことだし。
 何年先になるか分からないし、中園の口約束が守られるとも限らないが、それでも、未来に誰かと約束があると言うのはいいものだ。ほんの少しだが、朝が来るのが楽しみになる。

 電話室から雑居房への帰り道、見張り役の看守に、微かに笑っているのを見咎められて注意された。滝沢はいつものように黙礼し、その面に無表情を張り付かせた。




―了―


(2016.4)


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プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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