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クッキング2 (1)

 こんにちは。

 先日はハイテンションの酔っ払い記事に温かい拍手とコメントをたくさん、ありがとうございました!
 ちょっと要らんことまで書いてしまって、何人かの方にご心配掛けちゃいました当ブログの今後につきましては、今はもう閉鎖なんてカケラも考えてませんので! これからも、どうかよろしくお願いします。
 最終回を読んだ直後はかなりマジで考えてたんですけど、その時、みなさんにいっぱい励ましていただいたので、このまま置いといてもいいかな、と6月初めの段階で考えていました。 不用意な発言でお気を煩わせてしまって、すみませんでした。

 ただ、新しい話は書けないだろうなー、と思ってました。 実際、この2ヶ月1作も書いてないし。
 妄想自体も、あおまきさんではできなかったんです。 絶対に青雪さん、結婚すると思ってたから。 だからずーっと、青雪さんの結婚式に笑顔で祝辞を述べる薪さんを想像してました。←しづが見た地獄の正体。

 でも、
 エピローグを読んだ今となっては!

 どうしてあんなことを考えてしまったんでしょう? 先生はちゃんと青薪さん成立フラグを立ててくれていたのに。 ページ数の比重から、青木さんのMRIの薪さん率から、諸々のエピソードから、何よりもこれまでの二人の軌跡から、いくらでも読み取れたはずなのに。
 
 のんびり「黒子のバ●ケ」観てる場合じゃないですね! 
 だって原作のふたり、これからじゃん!(何が?) 妄想し放題じゃん!(ヤメロ) これが書かずにいられましょうか!!(これ以上原作を愚弄するか)
(  )内はわたしの第一の脳(良識とも言う)の呟きですが、そんなものはキコエナイー。(そのうちクレームが来ると思うぞ)
 今までの話もこれからの話も、等しく薪さんには迷惑だと思うのですけど、多分、書かずにはいられないと思うので、もうこの人はそういう病気なんだと思って、生ぬるく見守ってやってください。


 感想は後ほど、じっくり考えて書くとして、(すみません、コメレスももうちょっと待ってください。(^^;))
 先にSSを公開します。



 青薪さん成就記念といたしまして、こちら、
『エピローグが無かったらお蔵入りになってたSS 第1弾』 でございます。


『クッキング2』という題名からお察しいただけるかと思いますが、竹内と結婚の決まった雪子さんが薪さんに料理を習うお話です。
 最終回を読む前は、雪子さんが青薪さん成就に一役買ってくれると期待していたので、こんな話も書けたんです。 で、最終回を読んだらデータごと抹消したくなりまして~~、早まらなくて良かったです。(笑)

 エピローグを読んで、雪子さんはやっぱりすごいな、って思いました。
 青木さんの所に結婚の報告写真を送ったってことは、青木さんとはいい友人になっていたってことでしょう? でなかったら送りませんよね? 
 でも、「やり直しましょう」と申し出て、結局男女関係に戻れなかったとしたら、その男性と友人でいることはひどく難しいことだと思います。 あの過去を背負った上で薪さんと友人でいるのがすごい、と初登場の時も思いましたが、今度もすごいと思いました。 
 もともとキライではなかったので、最後、彼女に恨みがましい気持ちを抱かずに済んでホッとしてます。 最終回でめっちゃ腹立ちましたけど、あの後はきっと、薪さんのことでウジウジ悩む青木さんのいい相談相手になってくれたのだと信じます。


 28日の夜は、嬉しくて嬉しくて、殆ど眠れませんでした。
 幸せすぎて眠れない、なんて、生まれて初めてです。
 清水先生、本当にありがとうございました……!!


 生まれて初めて、と言えば、この話の冒頭の薪さんの状況は、わたしがこの年になって初めて体験した恐怖がベースになってます。
 全体的には男爵カテゴリに入れようかと思ったくらいのドタバタ系ギャグなので、笑っていただけたら嬉しいです。 







クッキング2 (1)










 孤立無援という言葉が、今日ほど胸に突き刺さったことはない。
 第九のエントランスに並べられた自販機と観葉植物の大鉢の隙間に潜み、周囲を厳しい眼で睨み回しながら、薪は息を殺していた。
 警戒を怠ってはならない。既に、周りは敵だらけだ。

「くそっ、何処に隠れたんだ?」
 遠くから、苛立ちを孕んだ宇野の声が聞こえてくる。普段はあれ程ドライな彼も、すっかり人が変わってしまったようだ。
「おーい、薪さん捕まえたか?」
「ダメだ、撒かれた」
「ちっ、素早いな」
 宇野の声に呼応する2つの声、小池と曽我だ。

「こういうとき、コマイと見つけるの大変なんだよな」
「薪さんなら簡単にロッカーの中に入れるもんな」
「あの大きさならロッカーどころかゴミ箱にだって入れるぜ?」
「机の引き出しも捜索範囲に加えるか」
 ちょっと待て。ロッカーはともかく引き出しはないだろ。
「薪さん、超身体やわらかいし」
「5センチの隙間があれば抜けられるって聞いたことある」
 僕はミミズかナメクジかっ!

 思わず叫びそうになって、慌てて口を押さえる。危ない危ない、これは連中の作戦だ。薪が自ら姿を現すよう、わざと大声で、突っ込みたくなるようなことを喚き立てているのだ。
 両手で触れた頬は、熱を持っていた。怒りのせいだ。とりあえず落ち着こう、と薪は、隣で観葉植物が作り出している酸素をたっぷりと肺腑に吸い込んだ。

 どうしてこんなことになってしまったのか――――。

 朝は普通だった。それが夕方になって突然、それも一日の職務が終了した瞬間に、部下たちは一斉に蜂起した。昨日までの従順なしもべの仮面を脱ぎ捨て、薪に牙を剥いたのだ。
 彼らの襲撃は晴天の霹靂であった。自分は確かに厳しい上司だったかもしれない、でもそれは彼らの成長を思えばこそ、彼らの輝かしい未来の為に心を鬼にして行ったことだ。いつの世にも子供には理解されない親心、分かって欲しいとも思わないが、だからと言って武力で反撃してよい道理はない。自分は彼らの上司なのだから。
 しかし、現実はこうだ。3人がかりで追い詰められ、言葉にするのも恐ろしいことを強要された。薪は自分の耳を疑った。まさか彼らが、自分にそんな苦行を強いるなんて。
 薪が逃げ出すと、信じがたいことに彼らは追ってきた。部下たちに裏切られ、追われる身となった薪の心を絶望が襲う。

 そこまでして自分が苦痛にもがく姿を見たいのか? そこまで僕が憎いか?
 信じていたのに。自分は自分なりに、彼らを愛してきたのに。

 思わず、涙がこぼれた。滅多なことでは泣かない薪だが、今回の痛みには耐え切れなかった。しかし、悲しみに身を浸す時間は与えられなかった。3人の優秀な捜査官を相手取った地獄の鬼ごっこが始まり、薪は必死で逃げまわった。
 創立当初から第九にいる薪は、建物内の抜け道を完璧に覚えていた。隠れてやり過ごすのに最適な大型機器の陰や机の下、空のキャビネットなどの身を潜めやすい場所も。
 古参である事と小柄な体つきが役に立ち、何とか追っ手を出し抜いてエントランスまでやって来た薪は、息を吐き、精神を集中させた。

 3人の声はさっきよりも遠ざかった。机の引き出しとか戯けたことを言っていたが、薪が身を隠せそうな所を探しに戻ったのだろう。今がチャンスだ。
 このまま第九を出よう。鞄を室長室に置いてきてしまったのが心残りだが、それはまた後で取りに戻ればいい。とにかく、今は逃げなければ。もしも捕まって、3人がかりで押さえつけられたら……。
 先のことを想像して、薪は身を震わせる。無意識に自分の両肩を抱き、ふっくらと丸い頬を青白くする。

 恐ろしい。考えたくない。あれは、人間のすることじゃない。

 自分の想像に竦んでしまった足を奮い立たせて、薪は慎重に立ち上がった。靴音に注意して、玄関の自動ドアまで歩く。ドアが開くと、未だ沈み切らない太陽の朱色が薪を包んだ。火照った頬に心地良い夕暮れの風。自然が織り成す魔法のような美しさに、普段ならばゆっくりと歩を進め、昼と夜の交代劇を楽しむところだが。
 ドアが閉まるや否や、薪は駆け出していた。冷静になどなれなかった。一刻も早く、この場から離れたい。その衝動に押されるまま、彼は走った。
 しかし、薪の足は門を潜ったところで不意に止まる。そこには今井が待ち構えていたのだ。

「薪さん、大人しくしてくださ、うわっ!」
 問答無用で投げ飛ばす。今井の長身が空を舞って、地面に背中から叩きつけられた。デスクワーク主体の彼に、この一撃は効いたはず。しばらくは立てまい。
 今井は薪の進路を塞いだだけで、危害を加えようとはしなかった。通常ならこれは傷害罪だ。が、薪は胸を張って緊急避難を主張する。自身の生命が脅かされた場合に仕方なく取る他者を傷つける行動。今の自分の攻撃は、正にそれだ。

 薪は素早く身を翻し、研究所の中庭へと向かった。此処を突破しても、今井から他の仲間に連絡が行くだろう。別の逃げ道を探さなければ。
 第九には正門(南門)と西門、東門の3つの門があるが、先刻、彼は敢えて玄関から一番遠い西門を選んだ。敵の裏をかいたつもりだったが、そこに今井がいたということは、他の門にも誰かが待ち伏せているに違いない。薪はそれを即座に見抜いて、新たな活路を見つけ出した。
 中庭には警視庁への連絡通路に続く入り口がある。警視庁に入ってしまえば出口は30ヵ所くらいある。そこまでは手が回らないはず。捜一に居たこともある薪は、警視庁にも詳しいのだ。
 ところが。

「お待ちしてました、薪室長」
「竹内……」
 地下通路の入り口は何ヶ所かあるが、警視庁との連結口は1つ。そこで待ち伏せされたら避けようがない。
 携帯電話を片手に、長い足を見せびらかすようにクロスさせて、竹内は壁に寄りかかっていた。抵抗しても無駄ですよ、と嘯く彼を、薪は睨みつける。こいつは初めから敵だが、この局面にあってはさほどの脅威はない。薪は鼻先で笑い、余裕を見せ付けるように右の口角を吊り上げた。

「ふっ。接近戦で僕に勝てるとでも?」
 竹内は射撃こそ大会で優勝するほどの腕前だが、格闘技の有段者ではない。銃は上司の許可が無いと持ち出せないし、持っていたとしても発砲なんかできるわけがない。威嚇にせよ、こんなところで銃を撃ったら謹慎処分は免れない。
 銃さえ無ければ、竹内の戦力は一般市民とさほど変わらない。薪は柔道は二段だ、こんな優男に負けはしない。
「あら、大した自信だこと」
「ゆ、雪子さ……!」
 連絡口のドア陰から姿を現した女性に、薪の声が上ずる。彼女は膝丈のティアードスカートにブラウスと言う軽装で、トレードマークの白衣は着ていなかった。もしも着ていれば、染み込んだ消毒薬の匂いで気が付いたかもしれない。

「竹内、この卑怯者! 女の人に頼るなんて、それでも男か!」
 雪子はプレイボーイの竹内に騙されて、結婚の約束までさせられてしまった可哀想な女性だ。今回も、この最低男に言いくるめられたに違いない。
「雪子さん。僕たち、20年来の友だちじゃないですか。それなのに、どうして僕の味方になってくれないんですか」
「友だちだからでしょ。観念しなさい、薪くん」
 心から信頼していた友人にまで裏切られ、薪の絶望はますます深くなる。薪は眉間を険しくし、辛い現実から眼を背けるように長い睫毛を伏せた。

 ここに、鈴木がいたら。
 絶対に僕の味方になってくれた。世界中が、僕をこの世に産み落とした母親すら僕の敵に回ったとしても、彼だけは味方でいてくれたに違いない。
 鈴木、と心の中で彼の名前を呼ぶと、うっすらと身体の芯が温かくなった。今はいない親友が、自分を応援してくれているような気がした。

――――ありがとう、鈴木。がんばるよ。

「雪子さん、ごめんなさいっ!!」
「え? きゃ!」
 謝罪とともに、薪は突進した。身を低くして、両手を上向け、指先に触れた布地を思い切り引き上げる。瞬間、春らしいベージュ色のティアードスカートは、雪子の豊かな胸の辺りまで捲れ上がった。女性らしく安定感のある腰とそこから伸びる長い足が露わになり、捕獲者の二人が硬直する。その隙をついて、彼らの脇を脱兎のごとく駆け抜けていく小さな人影。
 戦わずして逃げるなど卑怯者の愚策、否々、三十六計どころか百計講じても逃げるしかない。雪子は柔道四段だ。勝ち目がない。

「し、室長が先生のスカートめくって逃げた……」
 あり得ない光景に愕然とする竹内の横で、雪子が赤い顔をしてスカートを押さえる。不愉快なことに、雪子は竹内の前では女らしくなるのだ。これが青木あたりだったらスカートの中身なんか気にしないで得意の一本背負いを仕掛けてきたに違いない。

「先生、その赤いフリルの下着、俺以外の男には見せないでくださ、痛った!!」
 いらんことを言ってどつかれたらしい。やっぱり雪子は最強だ。
「覚えてなさいよ、薪くんっ! 許さないからねっ!!」




*****

 
 法十名物、やんちゃ坊主薪さん。
 お、怒らないで……。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

クッキング2 (2)

 こんにちは!
 舞い上がったまま、まだ地面に降りてこれないしづです。 おかげで仕事が手に付きませんー。 ←落ちても廃人、浮かれても廃人。
 今日は研修会があって、明日は入札なんです。 だからちょっと引き締めないと。
 ああでも、妄想が止まらない……!
 仕事する脳が動かないので、お話の形にならないんですケド。 まあそのうち。 今は、妄想することが楽しいです♪




クッキング2 (2)






「覚えてなさいよ、薪くんっ! 許さないからねっ!!」

 雪子の怒号が響く頃には、薪は既に廊下の角を曲がっていた。後々の報復は恐ろしいが、彼らが薪に強要しようとしている苦痛に比べれば、何てことはない。20回連続で一本背負いを食らう方が、薪にとってはまだありがたかった。
 警視庁の廊下を幾度か曲がり、階段を昇り、東側の昇降口を目指した。ここから自分が出ることは、誰にも予想ができないはずだ。薪自身、成り行きで警視庁に入り、適当に走って此処に来たのだ。薪の携帯を誰かがGPSで追いかけてでもいない限りは。しかし。
 薪の脱出は、三度遮られた。

「薪さん。世話を掛けんでください」
「…………岡部……」
 そのまさかが起きたとき、彼の中で大切なものが崩れ落ちてしまったのかもしれない。出口で腹心の部下に腕を掴まれた時、薪は泣いていた。
「どうして」

 ここまでするのか。自分を捕まえるために、GPSまで使って。自分に地獄の苦痛を味あわせる、それだけの目的のために。そんなにも自分は彼らに疎まれていたのか。

 涙が溢れて、止まらなかった。子供の様に泣きじゃくり、薪は必死に訴えた。
「どうして岡部までそんなひどいことするんだ。僕が何をしたって言うんだ」
「そりゃあ逆です。普段からちゃんとしないから、こんなことになっちまったんですよ」
 岡部は静かに薪を諭した。決してあなたが憎いわけではないのだと、彼は泣き止もうとしない上司を慰めるように、そっと肩に手を置いた。

 チャンス。

 薪は掌を合わせ、右肘を上に向けて思い切り突き出した。岡部の顎先に見事にヒットしたそれは、頑強な彼に脳震盪を起こさせる。自分より武術も体力も優れた相手から逃れるには、この手しかない。
「がっ、薪さ……! こら、待ちなさい!!」
 必死に走る薪を、早くも回復した岡部が追いかけてくる。薪は生来スプリンターで、短距離走は得意だが長距離は苦手だ。さっきから逃げ続けて、もう大分走っている。足も思うように動かなくなってきた。このままでは捕まってしまう。
 誰か。誰か助けてくれ。神さま……!!

「薪さん! 乗ってください!!」
「青木っ!」
 キキィッ、と甲高いブレーキ音を響かせ、目前に急停車した車の助手席に、薪は飛び込んだ。シートベルトを装着する間もなく、車は急発進する。そっと後ろを振り向くと、岡部が鬼のような形相で仁王立ちになっていた。
「危ない所だった……」
 薪はポケットからハンカチを取り出して、とめどなく溢れてくる涙を拭いた。信じていた人々に裏切られた、その痛みを訴える胸が、また新たな涙を亜麻色の瞳に湧き上がらせる。

「青木、助かったよ。命拾いした」
 目元にハンカチを当てたまま、それでも心から安堵して、薪は運転席の若い男に話しかけた。彼は引き締まった顔を前方に向けており、薪の位置からは彼の真っ直ぐに通った鼻梁と顎のラインがとてもセクシーに見えた。いつも思う、車の運転をしているときの彼は、普段より3割増しでカッコイイ。
「ありがとう、青木。僕もおまえのことだけは信じてたよ。僕を地獄に突き落とすような真似、おまえだけはしないって」
 信号待ちの間、自然に下された彼の左手に、薪は自分の右手をそっと重ねる。付き合い始めてもうすぐ5年、この世の誰よりも薪は彼を愛しているし、彼は自分を愛してくれている。薪はそう信じていた。
「疲れたから、このままマンションに帰ろう。そうだ、おまえも泊まって行くといい。今日は特別だ」
 翌日の仕事への影響を勘案して、平日のデートは泊まり無しと定めている。でも今日だけは、許してもいい。
 夕飯は何にしようかな、と呑気に献立を考えていた薪は、ふと車窓に映る風景の違和感に気付いた。これは、マンションへの道ではない。

「青木、何処へ行くんだ? そっちじゃないだろ?」
 恐ろしい想像が頭を過ぎる。
 そんな訳はない、青木は自分の恋人だ。自分が傷つくことを、彼が望むはずがない。だって彼はいつも薪のことをガラス細工でも扱うように大事に大事にしてくれて、そんな彼が薪を苦痛に導くはずはない。まあ最初はかなりイタイ思いさせられたけど、この頃は超キモチイイ、って今そんなこと言ってる場合じゃないだろ、道だよ、道。

「なんでそこを右に曲がるんだ? まさかおまえ、……降ろせえええッ!!!」

 ドアロックを外そうと力を込めるが、走行中は安全のためロックされている。昔の映画のようにはいかないのだ。このドアが開くのは、車が止まったとき。そしてそれは、薪の死刑執行を意味する。

 車が右折し、駐車場に入った。白い壁と木目を基調とした洒落たレストランのような建物、しかしここは地獄の1丁目だ。悪鬼たちが横行する中、眼を覆いたくなるような蛮行が繰り返されている。部屋は怨嗟と被害者の悲鳴で満ち溢れ、それを嘲笑うかのような魔物たちの哄笑が響き渡り―――― この期に及んで、薪は信じられなかった。そんなところに、青木が自分を連れ込もうとするなんて。

「放せっ、放してくれ! イヤだ、ここはいやだ! あんな苦痛には耐えられないんだ、いっそのこと殺して、いや――――!!」
 この世のすべてに裏切られ、絶叫する薪の声が、虚空に吸い込まれた。薪は花婿に抱かれる花嫁の格好で車から引きずり出され、建物へと運ばれた。
 ひと思いに殺せ、と薪が暴れるのも何処吹く風。青木は躊躇なく建物の中に入り、薪を抱えたまま器用にスリッパに履き替えて、スタスタと歩いた。タッチ式の自動ドアが開き、彼らを白く清潔な部屋が迎える。3人掛けのソファが5つ、奥には本棚に入った漫画や雑誌類、その左側には子供用のプレイコーナー。居室にいたのは優雅に雑誌をめくる若い女性、壁を兼ねた窓から夕陽を眺めるお年寄り。そこには安穏たる空気が流れていたが。
 平和な光景に騙されてはいけない。右の部屋の扉を開ければ、そこは地獄に直結しているのだ。

 恐怖に身を竦ませる薪を抱いたまま、青木は勇ましくそのドアに近付いた。賢明な彼は解っているのだ。ファッション雑誌の向こうから若い女性が送ってくる興味津々の視線に負けて手を放したら、薪はモルモットのように走り去ることを。

 ドア脇のカウンターに、水色のワンピースを着てマスクを掛けた女性が二人、にこやかに微笑んでいた。
 この優しげな微笑に惑わされるな青木。彼女たちは悪魔に魂を売ってしまったんだ、でなかったらこんな場所で正気を保てるわけがない。気付いてくれ、引き返すんだ、青木。
 恐ろしさに声も出ない薪が夢中で瞳で訴えるのを、青木は無視した。平然とカウンターの前に進み、笑いを堪える様子の彼女たちに声を掛ける。

「すみません、6時半に予約した薪です」
「はい、薪剛さん。痛むのは左の奥歯でしたね~。2番診察室へお入りください」
 薪の前で、地獄への扉が軽やかに開いた。





テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

クッキング2 (3)

 と言うことで、しづがこの年になって初めて味わった恐怖体験=歯医者でした。
 40超えて、生まれて初めて虫歯の治療をしたんです。 もうどんだけ病気に縁がないんだか。


 たかが虫歯なんですけど、これがけっこう大変だったんですよー。
 虫歯になった親不知が横向きに生えてやがりまして、
 メスで歯肉を切開して歯を3つに割って抜いたんです。
 口の中、5針も縫ったんですよー。 時間も1時間くらい掛かったし。

 歯医者さんに事前に、
「抜歯後、3日くらいは腫れと痛みがひどいと思いますので、痛み止めで凌いでください。
 1回1錠とありますが、効かないようでしたら2錠飲んでも大丈夫です。 時間も6時間あけるようにとの指示がありますが、我慢できない様だったら4時間くらいでも大丈夫ですから。
 完全に痛みがなくなるまでには1週間程度かかると思います。
 人によっては首から胸にかけて痣が浮いたりもしますが、2週間程で消えますので心配しないでください」
 と物々しい説明を受けて、ビビりましたー。
 みーちゃんが励ましてくれなかったら、勇気が出なかったかもー。 みーちゃん、ありがとう。(^^

 そんなわけで、相応の痛みは覚悟してたんです。
 そしたらね、不思議なことに夜になっても痛くならないの。
 ほっぺと喉は腫れて、だから患部に触れたり食べ物を飲み込んだりすると痛かったのですけど、風邪引いて扁桃腺腫れた時に比べたら何てことなくて。
 麻酔、いつになったら切れるんだろう、と思いながらその夜は眠って、そしたら、
 翌日になっても痛くならないの。

 消毒の為に歯医者に行って、
「痛み止めは何錠飲みました? まだ、残ってますか?」と訊かれて、
「すみません、一錠も飲んでません。 痛くならないんです」
「……ラッキーな方ですねえ!」
 医者にラッキーって言われちゃいましたよ。(@@)

 痛みには個人差があるとはいえ、5針も縫ったんですよー。 不思議ですよねえ?
 

 ひきかえ、薪さんは痛かったみたいですねえ。
 個人差がありますからねえ。(笑)

 ちなみに、
 わたしが掛かった歯医者さんはすごく上手で、治療中、まったく痛みを感じませんでした。 説明も丁寧でやさしくて。 近所にあんなに腕の良い歯医者さんがあってよかったです。
 薪さんも、ここに来ればいいのに。







クッキング2 (3)






「裏切り者」
 幽鬼もかくやの恨みがましい声に、青木は何度目かの溜息をそっと吐き出した。コーヒーの馨しい湯気が、それを受け止めてくれる。
「僕は世界一不幸な男だ。信頼していた部下に裏切られ、愛する恋人には陥れられ」
 未だ麻酔の醒め切らない左頬の不自由さが薪のネガティブに拍車を掛ける。大好きなコーヒーを飲むのも一苦労だし、何だか味もよく分からないようだ。

 虫歯の治療を済ませた薪は、疲れ切った様子で青木の隣に腰を下ろした。会計と次回の予約を済ませ、「家に帰りましょう」と青木が声を掛けると、こっくりと頷いた。差し出した青木の手を握り、駐車場まで手をつないだまま歩いた。俯き加減に眼を伏せて、青木は基本、元気な薪が好きだが、こんな大人しい彼も可愛いと思った。
 しかし、診察室から出てきた時のしおらしい態度は時間と共に薄れ、代わりに彼を支配したのは自分を此処に追いやった人間たちへの復讐心、というか、完全なサカウラミだ。思うに、異様に素直だったのは一種の虚脱状態だったのだろう。

「こんな過酷な運命がこの世にあっていいのか。神も仏もないのか」
「大げさな。たかが虫歯じゃないですか」
 歯医者くらいで運命を嘆かれても。

「薪さん、酔っぱらうと寝ちゃうクセがあるでしょ。あれがいけないんですよ。寝る前にはきちんと歯磨きしないと」
「虫歯になったことを嘆いてるんじゃない。僕はおまえたちの裏切り行為に傷ついてるんだ。この僕に向かって、歯医者に行けとは何事だ」
「いい大人が虫歯でほっぺた腫らしてりゃ、誰だって歯医者に行くことを勧めますよ」
「それが嫌だから薬を飲んでたんだろ。どうしておまえらはそれで納得しないんだ」
「いや、虫歯って薬じゃ治らないし」
「だからって歯医者に行けなんて。よくそんな残酷なことが言えるな」
「痛み止めで痛みが抑え切れなくて、ボロボロ泣いてたのは何処の誰ですか」

 虫歯になったら誰だって歯医者に行くだろう。青木が当たり前のことを口にすると、薪は亜麻色の瞳を怒りに燃え上がらせ、
「おまえ、あいつらが診療室という拷問部屋で患者という名の生贄にどんな非道を行うか知ってるのか!?」(全国の歯医者さん、すみません)
 ローテーブルの上に乱暴に置かれたカップが、ガチャンと音を立てる。中のコーヒーが揺れて、薪の心中を映すかのように黒く波打った。
「ドリルだぞ!? ドリル口の中に突っ込むんだぞ! あれが人間のすることか?!」(全国の歯医者さん、本当にすみません)

 ぷるんと艶めく口唇を指差し、ここに入ったんだ、顎が外れるかと思った、口の中ズタズタに切られて死ぬかと思った、と喚きたてる彼の口の中は綺麗なもので、麻酔針の出血痕すら残っていない。

「悪魔だ、悪魔の所業だ。人間らしさの欠片でもあれば、同じ人間に対してあんなことができるはずがない」(全国の歯医者さん、本当に本当にすみません)
 飛び入りの患者を快く診てくれた歯医者の方が、仕事中の薪より遥かにやさしいと思うが。
「あいつら、みんな悪魔の手先だ。人に苦痛を与えるために地獄からやって来た魔物たちなんだ。なんて恐ろしい……」(全国の、ああもうなんか謝るのもめんどくさい)
「薪さん」
 大仰なとは思いつつ、この世の地獄を見てきたと言わんばかりに青ざめる薪を見ていると、人の好い青木には同情心が湧いてくる。やさしく名前を呼んで、小刻みに震える彼の手を自分の手の中に大切にしまい、青木はありったけの愛を込めて言った。

「次の予約、来週の月曜に入れておきましたから」
「ヒトデナシッ!!」

 青木の手を払いのけて薪が鋭く叫ぶのと、チャイムの音が重なる。激した薪はその音に気付かないらしく、クッションで青木の肩を殴り続けた。
「薪さん、誰か来たみたいですけど」
「ごまかそうったって、お?」
 2度目のチャイムは薪の耳にも届いて、仕方なく彼はクッションを青木の顔に投げつける。誰だ、こんなときに、と苛立った口調でモニターを確かめに行った彼は、何故だか凄まじい勢いで戻ってきて、青木が座っていたソファの後ろに身を潜めた。

「青木、僕は留守だ。チベットに修行の旅に出たって言ってくれ」
「はあ?」
 薪がこんなに怖れるなんて、一体誰が訪ねて来たのかとカメラを見れば、彼の古くからの友人と捜一のエースが仲良く並んで立っている。薪が雪子を避けるわけがないから、薪の居留守の理由は彼女の隣にいる男のせいだろう、と青木は察しを付けた。

「いらっしゃい、三好先生。竹内さんも」
「ごめんね、急に。これ、薪くんの虫歯が完治したら飲んで」
「ありがとうございます。どうぞ上がってください。薪さん、先生と竹内さんが薪さんの好きなお酒を……薪さん?」
 見ると薪は床に四つん這いになって、何から防護しているのか頭にクッションを巻くようにして両手で押さえている。いわゆる頭隠して何とやらの格好で、どうしてこの人ってパニックになると果てしなくギャグキャラになっていくんだろう。
 しかし、パニックの理由が青木には分からない。雪子から白衣を連想して、歯医者の記憶がフラッシュバックしたとか?

「薪さん、三好先生ですよ」
 勧められたスリッパをパタパタ言わせて、雪子は足早に薪に近付いてきた。ソファの裏側に潜む薪の前に膝を着き、薪の顔を覗くように背中を丸める。逃げ切れないと観念したのか、或いは彼女が自分の友人であることに気付いたのか、薪はそっと顔を上げ、雪子の黒い瞳を自分の色素の薄い瞳で見つめた。

 次の瞬間、
「雪子さん、勘弁してください、命だけはっ!」
「薪くん、一生のお願いっ!」
 二つの音声は完全にラップして、当人たちにも相手が何と言ったのかハッキリとは聞き取れない。それでも、雪子に自分を害する意思がないことは、薪に伝わったようだった。おずおずと顔を上げ、そろそろと上半身を伸ばす。無意識にクッションを抱きしめる薪の様子はすごくかわいくて、青木は彼の姿が竹内の視界に入らないように、さりげなく己が身体の位置をずらした。

「雪子さん、僕を懲らしめに来たんじゃ」
「それどころじゃないのよ。大変なことになっちゃって」
 雪子はバリバリのキャリアウーマン、一人で生きていける女の代名詞みたいな女性だ。美人で仕事もできて、上司の信頼も厚く部下からも慕われている。その上、警視庁一のハンサムと名高い竹内と婚約したばかり。仕事も日常生活も恋愛も、今の彼女に死角はないと思えるのに、この困惑顔はどうしたことか。

「お願い、助けて。薪くんしか頼る人がいないの」
「はい。僕にできることでしたら何なりと」
“お願い”の内容も確かめず、薪は協力を約束する。答えには微塵の迷いもない。
 薪は雪子から多大な恩義を受けていて、だからいつも彼女の役に立ちたいと思っている。『恩義』の具体的な内容を青木は聞かされていないが、薪が彼女を特別扱いすることの一番の要因が、彼女の婚約者を殺めてしまったことであろうことは想像に難くない。驚くべきことに、その上で彼らは友人関係を続けている。それが上辺だけのものになっていないのは、雪子の人間性によるものが大きい。そういう彼女を青木もまた尊敬しているし、青木自身、彼女には薪に片思いをしていた頃さんざん世話になっている。彼女が困っているなら、これは恩返しのチャンスだ。

「先生。オレも協力しますよ」
「助かるわ、青木くん。ありがとう。あたし一人じゃ薪くんを説得できるかどうか、不安だったの」
 安堵の微笑を浮かべる雪子に、でも薪は少しだけお冠のようだ。秀麗な眉を不服そうに寄せて、
「僕が雪子さんの頼みを断るわけないじゃないですか」
 床で話をしていても何だからと皆にソファを勧め、自分も座り直した薪は、向かいに座った男に不快そうな視線を注いだ。竹内は、古くからの薪の天敵。その上大事な雪子のハートまで盗られて、薪の恨みは募るばかりだ。
 そこから僅か50センチ、左にずらされた薪の視線は、途端に柔らかく和む。第九の職員たちには決して与えられることのない特別仕様の笑顔を惜しみなく雪子に向けて、薪はにこやかに促した。

「どうぞ、何でも仰ってください」
「じゃあ遠慮なく」
 応じたのは何故か、隣に座った竹内の方だ。当然、薪の機嫌は急転直下で悪くなる。
「僕は雪子さんに言ったんですよ。どうしてあなたが?」
「薪くん、とにかく聞いて。あたしたち、二人からのお願いなの」
 雪子に諌められて、薪は軽くくちびるを尖らせた。そうすると、左頬が未だ少し腫れて赤いのが幼さを強調して、冗談みたいに可愛いのだ。自分以外の誰からも見えないように薪をパーティションで囲ってしまいたい衝動を、青木は必死で抑えた。
 青木が薪を一番見せたくない相手、それは竹内だ。彼は雪子と婚約する前、薪のことが好きだったのだ。その気持ちには整理が付いたから雪子と婚約したのだろうが、完全には信用できない。今だって不自然に眼を逸らしたりして、薪を意識しているのが伝わってくる。

「実は」
「お断りします」
「……あの、まだ何も」
「薪くん、聞いて」
「雪子さんには申し訳ありませんけど、この男の口から出ることなら、それがどんなに安易で且つ人道的なことでも同意しかねます」
 竹内の手からは赤い羽根も買いたくない。そういうことらしい。

「薪さん、それは人としてどうかと」
 さすがに竹内が可哀想になって、青木は助け船を出す。刹那、薪はものすごい眼で青木を睨んだが、「話も聞かないのは男としての度量が疑われる」と再度青木に説得され、渋々ながら聴取の体勢を整えた。
 薪に言うことを聞かせたかったら、男らしさを説くのが一番だ。薪は「男らしい」という文言が入っていれば多少の難事には眼をつぶる。歯医者もこの手で行けばよかったか、と今更思い当たって青木は、次回の歯科医大作戦には「デンタルクリニックは男修行に最適」との法螺話を組み込むことに決めた。

「今度の日曜日、俺の」
「その日は用事がありまして」
 ―――― 呪文、発動せず。男のプライドよりも感情が勝ったらしい。どうやら「男は歯医者を恐れない」作戦も試す前から失敗の可能性大だ。
「母が京都から」
「海外出張の予定が入ってまして、僕は日本にはいませんので、ふががっ」
「どうぞ、押さえときますから」
 結局は実力行使に頼るしかない。青木は薪の口を手でふさぎ、話の続きを促した。

「結納の日取りも決めたいし、先生とゆっくり話がしたいと母が言い出しまして」
「さっそく嫁イビリか! 雪子さん、辛い思いしてまでこんな男と一緒になることは、むががっ」
「ちょっと、青木くん。よく押さえておいてよ」
「すみません」
 再び物理的に薪を黙らせたものの、青木は少し不安になる。嫁姑問題は人類永遠の課題と言っても過言ではない。薪の言葉もあながち的外れではないのかも。

「反対されてるんですか? それで薪さんに相談を?」








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クッキング2 (4)

 毎日、過去記事にたくさんの拍手をありがとうございます。
 ご新規の方、読み直してくださってる方、少しずつ楽しみながら読んでくださってる方、
 ありがとうございます、うれしいです。(*^^*)


 おかげさまで、そろそろ右脳が疼いてきたので、みなさまへの感謝を込めまして、新しいお話を書こうと思います。 2万5千拍手御礼SSということで、
 青木さんが誘拐されて殺されちゃう話と、薪さんが銃撃戦に巻き込まれて死んじゃう話、どっちがいいですか?(いつも物騒な話ですみません)
 あ、どっちもイラネーですか? でもきっと書いちゃう。


 お話の方は、やっと料理の話題が出ました。
 ここからが本筋なので、よろしくお願いします。





クッキング2 (4)






「反対されてるんですか? それで薪さんに相談を?」

 青木は心配したが、「まさか」と雪子は呆れた顔で首を振り、
「お義母さまは賛成してくださってるわ。正直言うと年齢のことも気になってたんだけど、安心して任せられるって言ってくださって」
「甘いですよ、雪子さん! 一人息子を嫁に奪われた姑の嫉妬ってのは凄まじいんですから。ごはんに小石はお約束、ケーキにはマチ針、紅茶にはガラスの破片、お気に入りの白衣は鋏でズタズタにされ、ふごごっ」
「青木くん。薪くんには愛憎ドロドロタイプの昼ドラと韓ドラは見せないでって言ったじゃない。影響されやすいんだから」
「すみません。オレの目を盗んで見てたみたいで」
 岡部にも言われたから注意していた心算だったが、青木も24時間薪を見張っていられるわけではない。できることなら一緒に住んで、プライベートでは片時も離れずに過ごしたいと思うが、その申し出に薪が応じてくれる確率はゼロだ。自分たちの関係を誰にも気付かれないようにと、外で一緒に食事をすることさえ二の足を踏む薪が、同居なんて。うんと言ってくれるわけがない。

「ところで、何が問題なんです? お母さんが結婚に賛成なら、何も悩むことはないんじゃ」
「それが……母に先生の手料理をふるまう約束をしてしまって」
「ええっ!!」
 あまりにも驚いたので、青木の手は薪の口から離れてしまったが、彼もまた言葉を失っていた。さもあらん、薪は雪子の20年来の友人。雪子の料理に対する畏怖は、青木よりもずっと大きいのだ。

「なんでそんな恐ろしい約束を」
「知らなかったんですよ。先生とはいつも外食ばかりだったし、たまに差し入れてもらう弁当はめちゃめちゃ美味いし」
「お弁当?」
「さっき、初めて聞いたんです。室長が作ってるって」
 怪訝な表情を薪に向けられて、雪子が気まずそうに眼を逸らす。竹内に差し入れると判っていたら薪が手を貸すわけがないから、これは多分。
「いえその……、薪くんがお裾分けしてくれるおかずをね、ちょちょっと詰めて、竹内が残業のときとかに」
「ひどいですよ、雪子さん」
 雪子にはいつも寛容な薪が、今回ばかりは不機嫌に眉根を寄せる。薪が怒るのも無理はない。薪の心づくしをさも自分の手柄みたいに、他人の褌で相撲を取るとはこのことだ。
「僕は雪子さんの為に作ってたのに。こんな男に食べさせるくらいなら、ゴミ箱に捨ててくださいよ」
 あ、そっちですか。

「……俺、ゴミ箱以下っすか」
 薪に冷たくされて落ち込む竹内の姿は青木の優越感を高めてくれるが、同時に昔の自分の姿を思い出したりもして、青木は我が身の振り方に迷う。満悦と安堵と同情と、人の心はいつだって一つの感情にはまとまらない。
 とりあえずは「元気出してください」と竹内を慰めると、竹内は青木の友情に勇気付けられたように微笑み、丸めていた背中をしゃっきりと伸ばした。

「室長、そういう訳なんです。手伝っていただけませんか」
「イヤです」
 事情を聞いても態度は変わらない。薪は頑固だ。一旦決めたらテコでも動かない。薪の性格は十分に心得て、しかし雪子は食い下がる。彼女も必死だ。もしかしたら竹内との結婚話が白紙に戻るかもしれないのだ。

「薪くん。さっき、あたしのパンツ見たでしょ?」
「……それをここで出しますか」
「ちょ、何の話ですか?」
「うるさい、おまえは黙ってろ」
 青木には与り知らぬことで、恋人の立場からは聞き流せるはずもないことなのに、薪から一喝されて青木は黙るしかない。パクパクと口を動かして声にならない抗議を繰り返す青木の肩を、竹内が宥めるように叩いた。

「謝ったくらいじゃ許しません。精神的苦痛を味あわされた、その代償を求めます」
「もちろん責任は取ります。雪子さん、僕と結婚しましょう」
「「何をおっしゃいますか、男爵サマっ!!」」
 恋人と婚約者の同時ツッコミにも怯まず、薪は気取った仕草で肩をそびやかし、
「竹内さんには気の毒ですけど。しかし、これは男としての責任ですから」
「いやあの……竹内には下着どころかその中身まで見られちゃってるし」
「うわああああんっ!!」
 雪子と竹内の関係は知らない訳じゃない、でも本人から聞かされてショックだったのだろう。何も見たくない聞きたくないとばかりに、薪はソファに突っ伏して泣き始めてしまった。

「室長、この世の終りみたいに泣いてますけど。放っておいていいんですか?」
「いると話が進まないから。泣かせておきましょ」
「そうですね」
 号泣する薪をよそに、3人は日曜日の対策を練ることにした。3人寄れば文殊の知恵、何かいい案が出るかもしれない。

「竹内さんのお母さんに、先生は仕事が忙しくて料理を習う暇がなかった、って正直に言ったらどうですか? 実際料理なんて、結婚して毎日やるようになれば嫌でも上手くなるんだし」
「それが、ちょっとマズイんだ」
 竹内は困惑に眉を顰め、そうすると同性の青木が惚れ惚れするくらい、彼は憂愁を帯びた二枚目になる。竹内の顔は見慣れているはずの雪子が、束の間見惚れるくらいだ。
「おふくろは料亭の雇われ女将をやっててさ。だから職業柄、舌は肥えてる方だと思う。で、以前うちに泊まった時、ちょうど先生に差し入れてもらった弁当があったんで、それを」
「彼女が作ったって言って食べさせちゃった?」
 当たり、と竹内は白旗のごとく両手を挙げ、
「こんなに料理が上手い女性を逃しちゃダメよ、ってハッパ掛けられてさ。結婚に賛成してるのも、そこが大きいんだと思う」
 竹内にその心算はなくとも、結果的には母親を騙したことになってしまった。婚約したとは言っても当人同士が指輪のやり取りをしただけ、正式な結納はこれからだ。そんな微妙な時期に、嘘が露呈するのを避けたい気持ちも分からなくはない。
 しかし。

「お二人の不安も分かりますけど、嘘はどうかと。ステキ奥様のポイントは、料理だけじゃないですよ。掃除とかも重要な」
 いや、ダメだ。雪子は掃除も苦手だった。億劫がっているわけではなく、やればやるほど散らかってしまうのだ。
「家事も大事ですけど、妻としてもっと重要なのは、夫を癒してくれるやさしさとか可愛らしさとか細やかな気配りだと」
 雪子の性質はバリバリのキャリアウーマン。男には負けないわと対抗意識を燃やす前に、男の方が恐れをなして逃げていく。やさしくて面倒見は良いが、それ以上に厳しさも持ち合わせていて、結婚したら間違いなくスパルタ方式で夫を引き摺って行く姉さんタイプ。性格は竹を割ったようにカラッとしているが、その分大雑把で気配りは望めない。

「三好先生には先生の良さがあると思います」
「なんでオンリーワン的な言葉でまとめようとしてるのよ?」
「いえその、先生たちの場合、破れ鍋に閉じ蓋と言うよりは竹内さんの忍耐がキーポイントかと……」
「どういう意味!?」
 青木の言葉を証明するように、言葉と同時に雪子の手は青木の手首を捉えた。
「オレの関節を壊したところで竹内さんの苦労は変わらな、いたたた!!」
 素早くキメた手首を関節の可動域を超えて曲げると、青木は悲鳴を上げた。青木の場合、口を滑らせたと言うよりは嘘が吐けない性格だと分かっているからいっそう腹が立つのだ。

「青木、俺は家政婦が欲しいわけじゃない。先生には、『一生俺の傍で俺の話を聞いてほしい』ってプロポーズしたんだ。勿論、先生の話も聞かせてほしいよ」
 自分でも情けなかったと自覚しているプロポーズの言葉を、それでも竹内は心の底から満ちてくる幸福感を噛み締めるように、青木に話した。竹内の照れ臭そうな様子に当てられたのか、雪子もまた気恥ずかしそうに青木から離れ、ソファの上で居住まいを正した。

「掃除なんか俺がやればいい。料理も俺がする」
 竹内は本当に雪子のことを愛しているのだ、と青木は思う。共働きの場合、結婚前に家事を分担制にしようと言ってくれる男は少なくないと思うが、全面的に自分がやることを約束してくれる男は中々いない。
「俺なら椅子の脚を折らずに掃除機が掛けられるし、窓ガラスを拭いてもガラスにヒビは入らない。料理もそこそこのものは作れるし、てか、先生には二度とキッチンに立たないで欲しい、あの物体をもう一度食べて生き残れる自信はない……」
 愛も深いけど、それ以上に竹内を家事に駆り立てる何かがあるらしい。この辺は追及しない方がよさそうだ。

「先生、よかったですね。ここまで献身的な人は滅多にいませんよ。愛されてますね」
「どうしてかしら、素直に感動できないんだけど」
 婚約者の深い愛情をストレートに受け取ることができないのは、彼女の聡い頭脳のせいか、40歳と言う年齢のせいか。確かに、愛情だけではこの世の荒波は超えていけない。

「そういう事情なら、当日はレストランでの会食にした方が無難かもしれないですね」
「実は、おふくろに言ってみたんだ。先生が立ち働いてたら話もできないから、レストランにしようって。そうしたら」
「ら?」
「おふくろの得意料理の京野菜の炊き合わせを先生に伝授したいから、家がいいんだって」
 なるほど、それはレストランでは不可能だ。

「じゃあ、デパ地下でお惣菜を買ってきて並べておくとか」
「却下。言ったろ、おふくろは舌が肥えてるんだ。出来合いの総菜なんかすぐにバレる。そんなもの食べさせたら、この話はなかったことに、って言い始めるかもしれない」
「でも、先生が作ったものを食べさせたら結果は同じですよね」
「そうなんだ」
「ちょっとあんたたち」
 酷い言い草だが、雪子にはそれ以上彼らを責めることができない。自分が作った料理を食べる機会が一番多かったのは当然雪子自身、よって彼女は自分の料理の破壊力を誰よりも理解しているのだ。

「そこで是非、室長のお力を」
「なるほど。元はと言えば薪さんの料理が美味しすぎるのが原因ですからね。責任があると言えなくもないですね。薪さん、協力してあげたらどうですか?」
 炬燵の中の猫よろしくソファの上に丸まっている薪に、青木は話を振ってみる。泣いても誰も相手にしてくれないのですっかりいじけていたらしい彼は、青木の言葉にすっと顔を上げ、きちんとソファに座り直した。

「そんなのおかしい。僕が料理を作ったら、お母さんを騙すことになる。義理とは言え親になる、そんな大事なひとを騙すなんて。してはいけないことだ」



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クッキング2 (5)

 明日から3連休ですねっ。
 みなさん、連休はいかが過ごされますか?

 しづは、オットとお義母さんと3人で河口湖に行きます。 ので、次の更新は来週になります。 よろしくお願いします。


 ふふふー。 富士山見ながら温泉入るんだー。 楽しみですー。 

「富士山、いいでしょー。 一緒に行きたかったらお義母さんに頼んであげるよー」と義弟の子供らに言ったら、甥っ子のやつ、
「近いうち修学旅行で沖縄行くからいい」
 沖縄!? 修学旅行で!? 修学旅行は京都奈良って日本の法律で決まってるのに!!!<ないない。
 姪っ子は姪っ子で、
「富士山? キスマイのコンサートの方がいいー」
 わたしだってオフ会の方がっ……!!!←嫁として言ってはいけない一言。

 最近の若いもんは、生意気ですよねえ?






クッキング2 (5)






「そんなのおかしい。僕が料理を作ったら、お母さんを騙すことになる。義理とは言え親になる、そんな大事なひとを騙すなんて。してはいけないことだ」

 曲がったことが大嫌い、青木はそういう薪が大好きなのだが、竹内たちの事情も分かる。薪の言うことが正しいのは認めるが今回だけ、と頼む雪子に、薪は彼女には滅多と見せない厳しい顔つきで、
「それであちらのお母さんが雪子さんを受け入れてくれないなら、それは縁がなかったと言うことです。結婚は考え直したほうがいい」
 薪の意見が極論に走って、青木は彼の道徳が我欲を押し通したいが為のカモフラージュだったことを知る。二人の結婚を止めさせたくて仕方ない薪は、結局ここに持ってきたいのだ。

「薪さん。いい加減諦めてくださいよ。お二人は愛し合って」
「青木。結婚というのは家と家とのつながりだ。二人が愛し合っていればそれでいいなんて、世間を知らない子供の言うことだ。百歩譲って、感情に任せて駆け落ちなんかしでかしたバカどもが、たゆまざる努力と愛情をもって立派に家庭を築き、やがては親御さんの承認と祝福を得るケースがあることは認めるが、雪子さんはこの男に騙されてるだけだから。その事例は適用できない」
 雪子の婚約といい歯医者といい、どうしてこう現実逃避が激しいかな……。

「仕方ないですね。先生、帰りましょう」
 雪子への真摯な愛情を結婚詐欺みたいに言われて、さすがに腹に据えかねたのか、竹内は席を立った。婚約者の潔い引き際に雪子は戸惑う様子を見せたが、黙って後に付き従った。雪子は男勝りで実際に竹内よりも強いが、相手を立てるところは立てる。絶対にいい奥さんになると思った。

 玄関先で青木は、「役に立てなくて申し訳ない」と恋人の非協力的な態度を詫びたが、竹内は片方の眉をひょいと吊り上げ、意味ありげに笑って見せた。それから、見送りもしないでソファに座ったままの薪に向かって、
「室長。最後に一つだけお願いが」
「なんです」
 雑誌に眼を落したまま、無愛想に応えを返す。青木が持ち込んだカー雑誌などに興味はないくせに、でも死んでも二人の仲を認めたくない薪は、こうして寄り添えばけっこうな美男美女、客観的にもお似合いの彼らの様子を見たくないのだ。

「万が一のときには、弁護側の証人として法廷に立っていただけますか。婚約者の俺では、証言の信憑性を疑われますので」
「法廷?」
 いきなり飛んだ話に着いて行けず、青木は首を傾げた。どうして急に竹内が裁判の話を始めたのかも分からなかったが、それに呼応する薪の行動はもっと分からなかった。

「竹内さん、待ってください」
 持っていた雑誌を放り投げるようにして、薪は玄関に走ってきた。と思うと、竹内の上着の裾を握り、「協力します」とあっさり意志を翻した。
「無理なさらなくていいですよ」
「……させてください。お願いします」
 哀願調まで飛び出した薪に、青木はぽかんと口を開けた。逆転劇のキーワードは『裁判』だと察せられるが、青木には二人の間でどんな思惑が飛び交っているのか、全く解らない。

「ありがとうございます。引き受けてくださると信じてました」
「雪子さんを犯罪者にするわけにはいきませんから」
「……ああ、なるほど」
 雪子の料理を一度でも口にしたことのある人間なら誰もが予想する、少しでも心臓の弱い人間がこれを食べたら確実に死ぬ。もちろん、料理からも遺体からも毒物は発見されない。被害者の死因は瞬時に味覚を破壊されたことによるショック死だからだ。
 事情が分かって、青木は薪の優しさに心を震わせる。あんなに嫌がっていたのに、友人の身に危機が迫れば潔く自分の感情を打ち捨てる。やっぱり薪さんはやさしい、やさしくて強い人だと、それが自分の愛した人なのだと、誇らしささえ湧いてくる。

「先生、いつでも完全犯罪できますね」
 雪子に対するフォローと言うよりはトドメだが、浮かれた青木はそれに気付かない。当然、雪子は額に血管を浮き上がらせるほどに激昂し、
「あんたたち、あたしの料理を何だと思ってんのよ!?」
「「「劇薬」」」
「即答!? しかも何なの、そのハモリ具合は! 仲悪いんじゃなかったの?!」
 薪は竹内が大嫌いだが、仕事で何度か組んでいる。だからお互い相手の呼吸は理解していて、それがつい出てしまったらしい。

「では日曜日に。よろしくお願いします」
 本気で怒りだした雪子を竹内が引き摺るようにして帰って行き、部屋には静寂が訪れた。茶器を片付けようとして青木は、再びソファに座った薪がうっすらと笑っていることに気付く。
 おかしい。薪は雪子を人質に取られる形で竹内の要請を呑んだのだ。竹内にしてやられたと、悔しがるのが自然ではないのか。
 さては、と青木は思う。先刻の竹内の言葉を聞いて、彼の愛情が本物だと認めたのか。
 薪が彼らを祝福してくれるなら、それは青木にとっても嬉しいことだ。雪子も竹内も大事な友だち、だから青木は彼らに幸せになって欲しい。でも薪は二人の仲には大反対で、青木はずっと板挟みだった。あちらを立てればこちらが立たず、どちらの味方をしても誰かに泣かれる。
 それを薪がようやく認める気になってくれたなら。青木は堂々と彼らを祝福できるのだ。

「日曜日は頑張りましょうね。オレもお手伝いしますから」
 青木がサポートを申し出ると、薪は何故かものすごく意地の悪い顔つきになった。瞬時に立ち込める暗雲。付き合いの長い青木には分かる、薪は何か企んでいる。
「青木。僕が本気であの二人の後押しをすると思うのか?」
「まさか、ドタキャンとか考えてるんですか? それはあんまりじゃ」
「料理はするさ。心を込めてな」
 では、超絶に不味い料理を作るとか? それとも期限切れの食材を使うとか下剤を仕込むとか大腸菌を混ぜ込むとか、いや、最後のは犯罪だな、でも薪ならやりかねない。

「絶対に別れさせてやる。あんなマダオに大事な雪子さんを渡してたまるか」
 薪は目的のためには手段を選ばない。犯人逮捕に懸ける彼の情熱が、しばしば彼の身体と立場を危うくする様子を青木は嫌と言うほど見てきた。危険だ。雪子に報せなければ。
「青木、分かってると思うけど」
 スラックスのポケットの中で携帯電話を探る手に、薪の視線が突き刺さる。針で縫いとめられたように、青木は手が動かせなくなった。
「今の話、雪子さんにチクったら」
「……たら?」
 カラカラに乾いた口で訊き返した青木に、薪はにっこりと笑った。
 神に選ばれし者だけに許された完璧な笑顔。青木の背中がぞっと寒くなる。何故なら青木は知っている、薪がこの顔をした時には、地獄の閻魔よりも恐ろしいことを考えているのだ。

 青木は引きつった笑いを浮かべ、手をポケットから出した。全面降伏の証に、携帯電話はローテーブルに置き、茶器の片付けに掛かる。キッチンで4人分のコーヒーカップを洗い始めた青木の耳に、やがて聞こえてくるテレビドラマの音声。
『お義母さま、お許しください』
『まあ、図々しい。家宝の壺を壊しておいて、許してなんてよく言えたものね。この役立たず、外れ嫁!』(ビシッ、バシッ)
『堪忍してください、わたしのお腹の中には子供が』
『その子だって、本当に息子の子だかどうだか解りゃしない』
『そんな、お義母さま!』
『ええい、あんたの顔なんか見たくもない、出てお行き!』
 ―――― ああ、また韓国ドラマのビデオ見てる。見ないでくださいって言ったのに。
「なるほどなるほど、母親の神経を逆撫でするにはこういう方法も」
 ―――― しかもなんか学習してる……!!

 すみません、三好先生、竹内さん。無力なオレを許してください。

 心の中で二人に手を合わせ、青木は食洗機の乾燥ボタンを押した。





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クッキング2 (6)

クッキング2 (6)






 翌日、青木は雪子と一緒に薪のマンションを訪れた。

「当日の予定だけど。昼間は竹内がお義母さんを観光に連れて行ってくれるから、夕方の6時までにおもてなしの準備を整えたいの」
 昼間の内に、自宅の掃除は済ませておく。それには青木が手を貸すと約束した。
「それから、お義母さんが得意料理を伝授してくださるって話だけど。味付けはお義母さんにやってもらうとして、野菜を洗ったり切ったりするくらいは手伝わなきゃいけないと思うの」
 その練習をしたいのだ、と雪子はエコバックいっぱいの野菜を持ってきた。薪くんたちの夕食もこれで作ればいいと、まあ気前の良いことだ。

「どうやったら野菜を潰さずに一口大に切れるのかしら?」
「どうやったらミキサーも使わずにカボチャをペースト状にできるのかお尋きしたいです」
 婚約者のいる女性が男性の部屋を一人で訪れるわけにはいかないから、と声を掛けられ、雪子の特訓に協力することになった青木は、まな板の上に無残な姿を晒している緑黄色野菜に同情するように呟いた。あり得ない。生のカボチャって、人の手で磨り潰せるのか。

「大丈夫ですよ、雪子さん。それはカボチャのスープに、あ、いや、せっかくですから雪子さんの好きなパンプキンパイにしましょう」
 雪子が単独で訪ねてきたものだから、薪はえらくご機嫌だ。もともと薪は料理が好きで、青木と一緒にキッチンに立つときも鼻歌交じりだが、今日はまた飛び切り楽しそうだ。冷蔵庫に向かうのもフィギュアスケーターみたいな足取りで、その途中で一回転したのは何か意味があるんですか?
 三好先生のこと、どんだけ好きなんですか、と皮肉の一つも言いたくなる。浮かれちゃって、まるで新婚さん、それも薪の方が新妻みたいだ。

「野菜を洗うときは丁寧に。流水で、雪子さんならそうっと指で撫でるだけで汚れは落ちますから」
 青木の複雑な気持ちなど完全スルーで、薪の料理教室は続いている。青木はずい分前から料理の手伝いはしているが、薪にあんなにやさしく教えてもらったことなど一度もない。
「そうなの? 二度洗いとか、しなくていいの?」
「はい、クレンザーは使わなくて大丈夫です」
「もしかして、漂白剤もいらない?」
 なんだ、この会話! 今までどうやって野菜洗ってたんだ、このひと!
「水だけで大丈夫なんですよ」
「へえ、そうなんだ」
 二度とキッチンに立たないで欲しい、と竹内に言われるはずだ。口には出さなかったが、竹内は生死の境をさまよったに違いない。

「やったわ、薪くん。人参を折らずに洗えたわ」
「お見事です、雪子さん。じゃあ、次は包丁を」
 言いかけて絶句する。雪子の包丁の持ち方は明らかにおかしい。
「ちょ、三好先生。剣道の構えじゃないんですから、どうして包丁を頭の上まで持ち上げ……あ、危ないですっ、てか、まな板割れる!!」
 ドガッ、ドゴッ、って、それが包丁の音!?
「おかしいわ、上手く切れない」
 いや、人参は切れている、というか折れている、むしろ潰れている。その惨たらしさは、人参嫌いの青木が哀れに思うほどだ。
「気合が足りないのかしら? 精神を集中して…… せいっ! やあっ!」
「ゆ、雪子さん、落ち着いて」
 素早く壁際まで後退した薪が、盾のように鍋の蓋を構えている。青木よりも避難が早いのは、彼女のクラッシャー能力をより高く評価しているのだろう。

「そんなに叩かなくても人参は切れっ、ひいぃっ!」
 ガンッ、と派手な音がしたかと思うと、銀色の刃が回転しながら宙に舞った。見事な円運動を披露したその物体は重力の法則に従って下方に落下し、青木の足から30センチほど離れた床に突き刺さった。
「オレを殺す気ですか!?」
「まさか。今のはたまたま包丁の柄が折れちゃって」
「どうして人参切って包丁が壊れるんですか!? 怪力にもほどが」
「青木、うるさい。雪子さん、包丁はもう1本ありますから。こちらを使いましょう」
 全く薪は雪子には甘い、てか、オレいま死にかけたんですけど!!

「狡いですよ、薪さん。オレが鯛の骨切って刃こぼれさせたときには、夢中で怒ったクセに」
「当たり前だろ。関節の部分を切ればいいのに、おまえったら堅い部分を無理矢理切ろうとして」
 人参切るのに包丁壊した先生は悪くないんですか!?
「反動で指でも切ったらどうするんだ。危ないじゃないか」
 どっちが危ないんですか! 指切ったくらいじゃ人間死にませんけど、天井から落ちてきた包丁が頚動脈に刺さったらカクジツに死にますよ?!

 反論しようとして青木は、尖らせた小さなくちびるに滲む焦燥に気付く。あの時、薪はめちゃめちゃ怒ったけど、それは使い物にならなくなった包丁のせいじゃなくて。

「本当に不器用なんだから。見てるこっちは気が気じゃ」
「心配してくれたんですか? オレのこと」
「ゔ」
 愛らしさとは無縁の呻き声を発して、固まった薪はとても可愛い。薪のやさしさはちょっと分かり難くて、だからこんな風に後で気付くことの方が多い。けど、時間を置いた分だけ感動も熟成されるみたいで、やさしくされたこともそれに気付けたことも嬉しくて嬉しくて、青木は彼のことをもっと好きになる。

「薪さん」
「ど、ドレイがいなくなると不便だし! 掃除とか、電球の交換、も……」
 下手くそな言い訳をする間にも桜色に染まっていく頬とか、不自然に下方へと逸らされる視線とか、困ったように垂れ下がる眉とか微かに震える長い睫毛とか、もう表現のしようがないくらい可愛くて。でも。

「ちょっと。メモり合うのは後にして。この鯵、どうしたらいいか教えてよ」
 雪子の前で見つめ合ってしまったことに気付いて、薪は軽いパニックに襲われる。薪は自分の気持ちを誰かに悟られることに恐怖にも近い感情を抱いていて、つまり今の状況は耐え難い。結果、薪は風呂の用意をすると言ってキッチンを出て行ってしまった。顔の火照りが取れるまで帰ってこないだろう。
 雪子がいなかったら抱きしめてたのに。そんな思いから青木は、今日約束も無しに薪の家に来ることができたのは雪子のおかげだということも忘れて、彼女を恨めしく思う。
 だいたい、どうしてこんな普通のことが出来ないのだ。遺体を切らせたら誰よりも速く綺麗に解剖するくせに、野菜や魚は切れないなんて。人間の死体も動物の死体も同じじゃないのか。

「あの、素朴な疑問なんですけど」
「なに?」
「先生、洗ったり切ったりするだけで食材をペースト化できるスペックをお持ちのようですが」
「青木くん、皮肉上手になったわね。上司の影響かしらね」
 ありがとうございます、と軽く応じて、青木は核心に切り込む。
「それでどうして解剖ができるんですか? 取り出した臓器とか、持っただけで潰れちゃうんじゃ?」
 青木の疑問を、雪子は笑い飛ばした。これだからシロウトは、と言いたげな目つきで、
「臓器と食材じゃ、全然違うわ」
「だったら、臓器だと思えばいいんじゃないですか?」
「えっ?」
「ヒトか動物か植物かの違いはあっても、すべての命は尊く、すなわちこれらはご遺体です。その気構えで扱ってみたらどうですか?」
「で、でも、包丁とメスとじゃ持ち方から違うし」
「いっそメスで切れば?」
「メスで野菜や魚を? 何をバカなことを言って」
「あはは、冗談ですよ。で、どこから出したんですか、そのメス」
 監察医はいつ何時でもポケットにメスを忍ばせておくもの、これは監察医の心得第一条だ、と雪子は言うが、本当だろうか。てか職務目的以外の帯刀は銃刀法違反じゃないのかな。


 10分後。
 窓際で風にでも当たってきたのか少し髪を乱した薪が、亜麻色の瞳をキラキラと輝かせて歓声を上げた。
「すごい! 雪子さん、たった一日でものすごい上達ぶりじゃないですか。この三枚卸し、プロみたいですよ」
「……ありがと」






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クッキング2 (7)

クッキング2 (7)





「うっ」
 低く呻いて青木は洗面所に走った。口の中に広がった信じがたい臭気と食感を一刻も早く洗い流せと本能が喚く。作り手に対する気遣いなんかしていたら、人生が終わる。ガラガラと音を立てて、遠慮なくうがいをする。それを三回繰り返して、やっと人心地ついた。

「ごめんね、青木くん。大丈夫?」
 雪子が申し訳なさそうに謝罪する。青木は懸命に笑顔を作った。口内を漱いでもなお、青木が悪心に駆られている原因は彼女の手料理にあるが、味見を強制しているのは彼女ではない。青木の上司の命によるものだ。よって、辞職願は彼に提出すべきだ。
 あと二回くらいこれを食べたら本気で死ぬと思う、だから青木は眼に涙まで浮かべて「もう限界です」と薪にメッセージを送ったのに、薪はそれを無視したばかりか、パンと軽く手を叩き、
「雪子さん、腕を上げましたね。青木のうがいの回数が三回に減りました。美味しくなってきてる証拠ですよ」

 ……勘弁してください……。

 息も絶え絶えでうがいするのも辛いんです、と正直に言えないのが青木の優しさ、もとい命取り。薪の非情がエスカレートする要因にもなっている。
「さ、雪子さん。もう一度チャレンジしてみましょう。牛肉を炒めるところから」
 雪子に注ぐ優しさの千分の一も青木には与えてくれない、薄情な恋人の、自分には決して向けられない慈愛に満ちた微笑みを見て、青木は喉元を押さえる。まったく、薪は雪子にはとことん甘い。

『料理の助手だったら、充分こなせると思いますよ』
 メスを扱う要領で包丁を使ってみれば、びっくりするくらいスムーズに食材が刻めることを発見した雪子に、薪が太鼓判を押したのは一昨日。が、今日になって雪子は、「煮物が作れるようになりたい」などと、無謀なことを言い出したらしい。
 板前修業になぞらえれば、煮物を担当する煮方は、板前、脇板に次ぐ要職だ。薪が板前だとすれば、雪子はやっと洗い方と言ったところ。揚げ場、焼き方をすっ飛ばして煮方なんて、それも三日で何とかしようなんて、無理に決まってる。
 が、雪子の願いなら三千世界の鵺も捕まえてくる薪のこと、一品に限定するなら不可能ではないと、条件付ながらも引き受けた。お題は「肉じゃが」。竹内の好物らしい。

「そうそう、焦がさないように手早くかき混ぜて……どうして生のじゃが芋が木べらで簡単に潰れちゃうんでしょうね……えっ、人参が茶色に? こんな部分的な焦げ方って、あ、玉ねぎの皮は剥かないと……鍋に頑張ってもらいましょう。
 だし汁を張って、はい、最初に砂糖、あ、それは片栗粉ですね……うん、とにかく先に進みましょう。次に味醂、あっ、塩じゃなくて醤油、えっと、じゃあ塩肉じゃがってことで、いやあの、それに醤油入れちゃうと塩辛くなり過ぎ、だから瓶から直接注ぎ込むのはよくないってさっきも……いや、カレー粉じゃ中和されないと思……」
 薪はクッキングヒーターの加熱を止めて、小皿に闇色の物体を盛り付けた。ゆっくり青木を振り向くと、この上なくきれいに微笑んで、
「青木、ほら。味見」
 それは味見じゃなくて、毒見ですよね?

 促されて、青木は黒くてどろりとした物体を口に運ぶ。塩分濃度が高すぎて口が痛いけど仕方ない。今日、自分はこの為に呼ばれたのだ。
 昨日は水曜日で、青木は昨夜も此処に来ていた。だから薪から電話があった時、連日でデートに誘ってくれるなんておかしいとは思ったのだ。「美味しい煮物を作ってるから食べに来い」と言われた時点で、煮物を作っているのは彼ではないと気付くべきだった。薪は自分の料理に“美味しい”なんて形容詞は付けない。

「どう? 青木くん」
 このダークマターにどんな評価を下せと?
 生存本能に負けて口中の異物を吐き出したくなるのを、青木はぐっと堪えた。薪が怖い眼で睨んでいる。雪子さんを傷つけるようなことを言ったら承知しない、という明確な意思、いっそ脅迫と言ってもいい。青木は言葉を選んだ。
「ちょっと塩辛いです」
「そう。薪くん、砂糖、足してみる?」
 足すって言わないですよね。これに入ってるの、砂糖じゃなくて片栗粉ですからね。
「それも一手だとは思いますけど、最初から作り直した方がより美味しくなるかと」
「だけど、食材を無駄にするのも勿体ないし」
 手遅れです。
「えっと、砂糖の分子は塩よりも大きいので、後からでは食材に染み込み難いんです。かなり多量に入れないと」
 この塩味を打ち消そうと思ったら、袋ごと投入しても足りないと思います。
「そうなの。じゃあ、砂糖の無駄遣いね」
 てか、オレの味覚が無駄遣いされてますよね、今カクジツに。

 二人の会話にいちいちツッコミを入れながらも青木がこの場から逃げ出そうとしないのは、自分がいなくなったら薪が味見をすることになるという危惧からだ。超絶美味の自作料理に慣れている薪がこんなものを食べたら、ショックで本当に死んでしまうかもしれない。

「どうしてまともな味にならないのかしら。ちゃんと計量スプーンを使ってるのに」
 基本的に、雪子の計量スプーンの使い方は間違っている。例えば醤油。瓶を傾けて中身を鍋に注ぐ、計量器具はその中間地点に据えられているが、完全に表面張力を振り切っている。あれは計っているのではない。醤油が鍋にダイレクトに落ちる衝撃を緩和しているに過ぎない。
「そうですね、おかしいですね……ほんのちょっと溢れてるだけなんですけどね……そうだ、今度は瓶じゃなく、食卓の醤油差しを使ってみたら」
「あの、薪さん」
 堪りかねて、青木は口を挟んだ。
「一度、お手本を見せてあげたらどうでしょう?」
「料理番組をいくら見てもプロにはなれない。料理は習うより慣れろだ」
 無理です、慣れる前にオレの味覚が壊れます。
「頭よりも体で覚えるんだ。何度も繰り返し作っているうちに自然に上手くなる」
「お願い、薪くん。やってみせて」
「はい、雪子さん」
 青木の懇願には耳を貸さなくとも、雪子の一言で薪は豹変する。いつも思うが、この二人の関係は不可思議だ。

 事故とはいえ、薪は雪子の婚約者を殺している。だから彼女に気を使っているのだと、他人は考えるだろう。だが、それだけではない。薪は本当に雪子のことが好きなのだ。男と女でありながら決して恋愛には発展しないけれど、もっと大切な想いがこの二人の間には絶対的に存在している。彼らを見ていると、青木はいつもそれを感じて、雪子のことがひどく羨ましくなる。二人の仲は一生ものだと思えるからだ。付き合いの長さや共有してきた思い出の数も関係しているのだろうが、何よりも彼らは、鈴木と言う人物で繋がっている。鈴木が薪の心中の永遠の住人である以上、雪子との縁も切れることはない。
 手際よく肉じゃがを作る薪の後ろで、盛り付け用の中鉢を用意しながら、青木は軽い疎外感を味わっていた。
 彼らは鈴木の思い出を共有している。鈴木が亡くなる前、3人で過ごした日々は薪にとって一番の宝物なのだろう。そこに自分はいない。それが少しだけ、悔しい。

「んー、美味しい!」
 やがて見事に出来上がった肉じゃがに、雪子は舌鼓を打つ。青木もご相伴に預かる、と、今宵初めての人間らしい食べ物に嬉し涙が込み上げてきた。料理って素晴らしい。
「本当は1時間くらい冷まして、味を染み込ませるといいんですけど」
「充分美味しいです。新じゃがだから、これくらいの味付けの方が風味があっていいかも」
「そうか? うん、芋の味がよく分かる。雪子さんの選び方が良かったんですね」
 何でも雪子の手柄か。奥ゆかしいんだか卑屈なんだかよく分からない、否、ただ単に雪子のことが好きなのか。
「旬の食材を使うって、大事なことですよね。さすが先生」
 薪に合わせて、青木は雪子をヨイショする。失敗の連続に一番凹んでいるのは彼女なのだから励ましてやろうと、そんな気持ちが起きるのも薪の名作のおかげだ。美味しい料理は世界を平和にする。

「それもあるけど、竹内、肉じゃが好きなのよね。だからこれだけはマスターしたくて」
 ぽそっと呟く雪子は、ちゃんと女の顔をしている。幸せなのだと分かった。

「先生、意外と健気ですね」
 こっそり薪に囁くと、薪は不機嫌に眉を吊り上げ、
「なんだ、今頃分かったのか? 雪子さんは昔から健気だぞ。鈴木にも手料理を食べさせようと頑張ってたし、プレゼント選びも時間かけてた。やさしくて一途で、強気に見えるけれど引き際は弁えている。最高の女性だ。雪子さんに愛される男は幸せ者……ちくしょー、竹内のやつ……絶対に許せない……」
 意地っ張りで天邪鬼でへそ曲がりだけど、薪は自分の味方だと認識している相手にはどこまでも寛容だ。逆に、敵対者には果てしなく厳しい。それは派閥争いの激しい警察機構で生き抜いていく中で自然に身に付けざるを得なかった性質だったと思われるが、薪の場合は少し問題があって、肝心の敵味方の判別が必ずしも正しくないどころか間違っている時の方が多いのだ。ぶっちゃけ薪は、「男らしい」と自分を褒めてくれる人間は無条件に味方だと信じてしまう。そうやって信じた相手に何回襲われかけたことか。危なっかしくて目が離せない。しかも何度同じ目に遭っても学習しないあたり、彼の危険センサーの性能は甚だ残念だと言わざるを得ない。
 この反対の事例が雪子の婚約者、竹内だ。彼は薪のことを尊敬しているし、好意すら抱いていると思われるのに、自分に女装を強要したと言う理由から敵と見做されている。もう何年も前のことなのに、薪は執念深い。

「ありがとう薪くん。勉強になったわ。次は、油とお醤油の量を減らしてみる」
「そうですね。がんばりましょう」
 士気を高める二人を横目に、青木は冷蔵庫を開けた。中から牛乳のパックを取り出し、開け口から直飲みする。雪子が作り出すバイオハザードに牛乳のバリア効果がどれくらい対抗できるか、それは神のみぞ知る。






テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

クッキング2 (8)

 目的の方と連絡が取れたので、限定記事は下しました。 
 お眼汚し、すみませんでした。

 ああー、恥ずかしかったよー、やっぱり恥ずかしかったよー、嫌な汗、いっぱいかいちゃったよー。 
 2年位前にも同じようなことがあって、死ぬほど恥ずかしかったんですけど~、わたしもいつまでも子供じゃないわ、と思ったらやっぱりダメでした。(><) 成長しないやつですみません。
 意味の分からない人はスルーしてくださいねっ。


 あの腐れた記事にコメントくださった勇気ある方、
 記事を下すとコメントも表示されなくなってしまうので、後ほど、この記事のコメント欄にお返しします。 分かり難かったらすみません。



 先週の土曜日から今日まで続けて、たくさん拍手くださった方、ありがとうございました~。
(もっと早くお礼を言いたかったんですけど、この前の記事が期間限定だったので、遅くなっちゃいました。 すみません。 ←言い訳。 さっさと(8)をアップすれば済んだ話)
『土曜の夜に花束を』からずーっと続けて読んでくださって、あの辺はまだ薪さんの気持ちが不安定な時期だったので、痛い薪さんが多かった気がするのですけど(Rも痛かった(^^;)、我慢して読んでくださって、ありがとうございました。

 それからまた最初に戻って読み直してくれてるのかな? それとも、別の方かしら?
 最初の頃はこれまた、薪さんが鈴木さん好きすぎて☆ やっぱりイタイ展開になってます、すみませんです。
 甘い青薪さんが少なくて恐縮ですが、基本はギャグ小説なので!<おい。 
 笑ってくださると嬉しいです。
 






クッキング2 (8)







 当日、青木は薪と一緒に雪子のマンションを訪れ、彼らの手伝いをした。
 年長者へのもてなしらしく、春野菜の胡麻和えに海老真薯のすまし汁、客人の好物だと聞いた筍は炙って木の芽醤油をなじませ、ご飯は桜鯛の鯛めしにした。メインは和風のローストビーフ。どれもこれも美味しそうで、青木は何度も出そうになるつまみ食いの手を止める為に自分で自分の手を叩かなければならなかった。

「薪くん、あたしにも何か仕事を」
「じゃ、ローストビーフを切って盛り付けてください」
「任せて」
 頷いて雪子は包丁を握る。少々特殊な持ち方だが、切り出される肉片は均等の厚さで形も整っている。
「お見事です。特訓した甲斐がありましたね」
「まあね」
 特訓の成果と言うよりこれは青木の手柄だが、薪はその事実を知らない。

 リビングのテーブルに出来上がった料理を並べて、薪と青木は雪子の自宅を後にした。友人とは言え自分たちは異性、竹内の母親に鉢合わせるのはマズイ。

「竹内さんのお母さんも、これなら大満足でしょうね」
 帰り道、タッパーに詰めてもらった料理に鼻をひくつかせながら、青木は機嫌よく言った。嫌と言うほど薪の本音を聞かされていた青木は、彼がどんな妨害工作に出るか不安だったのだが、薪はいつも通り丁寧に料理を作った。
 やっぱり薪は、雪子が幸せになることに協力を惜しんだりしない。それが分かって、青木は温かい心持ちになる。春の陽だまりに包まれたような気分に満たされた青木を、しかし薪は冷然と振り返り、
「ふっ」
 と鼻先で嗤った。嫌な予感がする。
「まさか、料理に何か仕掛けを?」
 慌てて青木はタッパーの蓋を開け、ローストビーフを一切れ、胡麻和えを一つまみ、筍を一欠けら、口に入れてはその度に感嘆の声を洩らした。文句なしに美味しい。

「もう、薪さんたら。オレを騙して楽しいですか?」
「嘘なんか吐いてない。その料理には魔法が掛けてある。竹内のお母さんは、それを食べても決して喜ばない」
「……何故ですか?」
 訊いても薪は教えてくれないだろうと、ほぼ確信に近い予想を立てながらも青木が疑問を口にしてしまったのは、薪の言う魔法に見当もつかなかったからだ。ハッタリだと思いたい、でも薪の底意地の悪そうな顔つきが青木の希望を打ち砕く。絶対に何か仕掛けてる、しかもその成功を確信している。

「いったい何を」
「もしも」
 青木の言を遮って、薪は声を張った。前を歩く小さな背中が振り返り、見上げる眼差しが青木の声を奪う。
「おまえがその料理を僕の家で食べたいと思うなら、この話は終わりだ」
 仮定法で黙らされて、青木は眉根を寄せる。心配だが、自分には手の出しようがないと思った。あの二人には無事結婚して欲しいが、薪には逆らえない。友情よりも恋人のご機嫌取りを優先するのか、それでも男かと問われれば青木は、薪と一緒にいられるなら親の死に目に会えなくても後悔しない、と胸を張って言い返す。良識なんかとっくに捨てた。

「あの。今夜、泊まってもいいですか?」
「明日は月曜だからダメだ」
「じゃあですね、夕食の時間をちょっと早めて、お風呂も明るいうちに入って、でもってその」
 青木の意図を察したらしい薪は、にやりと意地悪な笑いを浮かべ、
「いいな。久しぶりに歌舞伎町に繰り出すか」
「ええ~……」
 情けない青木の呻き声を聞いて、あははと笑った。




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クッキング2 (9)

クッキング2 (9)







 日曜日の顛末を、青木は竹内から聞いた。昨日の礼にと竹内が銀洋亭で夕食をご馳走してくれて、自然にその話になったのだ。青木は彼の話をびくびくしながら聞いた。緊張して、ハンバーグの味がよく分からなかったくらいだ。
 結論から言うと、薪の魔法は発動しなかったらしい。竹内の母親は終始笑顔で、婚約式のために着物を新調すると意気込んでいたとか。
 なんだ、上手く行ったのか。それならハンバーグセットじゃなくてステーキをごちそうになればよかった、とセコイ後悔をしながら、青木は食後のコーヒーに口を付けた。

「よかった、心配してたんですよ。薪さんが、絶対に竹内さんのお母さんは喜ばない、なんて言うから」
 昨日の帰り道のあれは、妨害工作を為せなかった薪が悔し紛れに発した虚言だったのだと青木は苦笑し、でも違った。薪は本当に『魔法』を仕込んでいたのだ。
「いや、それがさ。室長、ちゃんと俺たちのこと考えてくれてたんだなって」
「は?」
「うん。ちょっと感動した」
 竹内は何かを誤解している、と青木は瞬時に悟る。雪子を盗られた嫉妬心で家も焼こうかという勢いの薪が、竹内の為になるようなことをするはずがない。

 どういうことですか、と青木が尋ねると、竹内は母親とのやり取りを詳しく話してくれた。
 用意された料理は、どれも素晴らしく美味しかった。が、ひとつだけ、明らかに失敗作と思われるものがあった。水色の中鉢に入った、所々焦げてしかも妙に甘い肉じゃが。我慢すれば食べられないことはないが、他にこんなに美味しい料理があるのだ。箸をつける必要性はないと思われた。なのに何故か、その鉢は一番先に空になった。

「えらいご馳走になりました」
 美味しい食事のおかげで会話も弾み、新しく家族になる予定の3人は、楽しいひと時を過ごせた。これもみんな室長のおかげだと竹内が薪に心の中で手を合わせていると、母親が食後の緑茶を啜りながら、
「みんな美味しゅうおましたけど、敢えて一番を挙げるなら……誠、あんたはどれを選ぶ?」
「肉じゃが」
「そ、それは失敗作で」
 困惑する雪子に、にっこり笑って竹内は言った。
「一番美味しかったです」
 先々週食べさせられた物体に比べたら、びっくりするくらい上達していた。少なくとも命の危険は感じなかった。

「奇遇やな。うちもおんなしや。いっとう心がこもっとった」
 えっ、と同時に声を上げて、竹内と雪子は顔を見合わせた。恐る恐る母親を見ると、彼女はケラケラと笑い出した。敏い二人のこと、母親の笑い声の理由にはすぐに思い当たって、つまりそれはこの猿芝居の裏側を彼女はとうに見抜いていたという事実。
 ああおもろい、と笑いを収めると、彼女は両手を膝に置き、竹内によく似た茶色の瞳で子供たちをじっと見据えた。
「誠、雪子はんも。嘘はいけまへん」
「ごめんなさい」
 雪子は素直に謝ったが、竹内は気まずい顔をしただけだった。分かってて今まで黙ってたなんて、我が母親ながらいい性格をしている。雪子に陰湿な姑だと思われなければいいが。

「わたしが料理ヘタだって、いつからご存知で?」
「先週の水曜どしたか、室長はんからお電話いただきましてなあ」
「薪くんが?」
「ちょっと待った。どうして室長がお袋の連絡先を知ってるんだよ?」
 竹内の疑問に母親は自分の口元を手で隠した。反射的に眼を泳がせたところを見ると、薪からは口止めされていたに違いない。
「お母さん」
 改まって呼びかけると、母親はしぶしぶ口を開いた。捜査一課の息子相手に隠し事ができるなんて、思わないで欲しい。

 火事に遭って怪我をした竹内の見舞いに、薪は何度も訪れていた。主に夜間だったため、竹内と話をしたのはほんの数回だったが、付き添っていた母親とは幾度となく顔を合わせたらしい。付き添いの必要がなくなると母親は自宅へ帰ったが、竹内が全快した後、薪は改めて京都まで詫びに来たそうだ。
 ご丁寧に、と茶菓を勧める母親に、薪は言った。
 もし後遺症が出ても、息子さんは自分には何も言わないに違いない。だからお母さんの方で気になることがあったら、私に教えてください。
 連絡先はこちらです、とメモをくれたので、ほならわたしも、と電話番号を教えた。それで番号が分かったのだと母は笑った。

「そんな……」
 母親の種明かしは、竹内には少なからずショックだった。自分の知らないところで交わされた密約もショックだったが、それよりも、薪が母親に言い付けるなんて卑怯な真似をするとは思わなかった。
「俺たちの結婚に反対してるのは知ってたけど、密告なんて」
「竹内、ちがう」
 小さく呟くと、雪子に即座に否定された。母親の前では「誠さん」と呼ぶことにしたのも忘れて、普段通りの口調で、だから竹内には雪子が本心から薪の告げ口を否認していることが分かる。
「薪くんはそんなことしない。あの人は、そういう人じゃないの」
「でも」

 竹内にとっては母親の言葉だ。本人に確かめれば一発で分かってしまう嘘を吐くほど、竹内の母親は愚かではない。
 説明を求める息子の眼差しを受けて、彼女は口を開いた。
「雪子はんの言うとおりどすえ。誤解の原因は自分やと、さかいに腹を立てるなら自分にと言われましてなあ。やて、雪子はんは一生懸命やっとるさかい、それやけは認めてくれと」
「室長がそんなことを?」
 薪が自分たちの援護をしてくれるとは思わなかった。いや、正確には雪子個人の援護だが、それでもプラスの要因であることには違いない。
「ほんで延々、あないに素晴らしい女の人は他におへん、ぼんはんがけなるい(息子さんが羨ましい)、機会があれば自分が成り代わりたいなんて、てんご(冗談)までおっしゃって」
「いや、最後のは結構本気入ってるかも」
「あないに別嬪さんやのに。おもろい方やなあ、室長はんは」
「薪くんたら」
 褒められて、雪子は頬を赤らめる。過大評価されると恥ずかしくなる。嬉しい気持ちよりも羞恥心が先に立って、雪子は俯いた。

「お友だちを見れば、そのひとが分かると申しますわな。ええお友だちどすな」
 雪子は顔を上げ、「はい」と返事をした。頬は未だ赤かったが、彼女はしっかりと頷いた。黒い瞳がとてもきれいだった。
 竹内の母親は目を細めて彼女を見つめ、婚約式の為に着物を新調する、と言い出した。それからは着物の話になって、雪子が自分で着物を着ることができないと知ると、「炊き合わせの前に着付けを覚えてもらわな」と着物教室が始まってしまった。

「女は謎だ」
 話を終えて竹内は首を振ったが、それは青木も同じだった。
「薪さんたら何てことを……すみませんでした」
 薪は絶対に謝らないから、謝罪は自分がしないといけない。むやみに敵を増やすのは得策ではない。最終的に困るのは薪だ。
「お母さんが寛大な方だったからよかったものの」
「いや、多分室長が言わなくてもバレてた。先生、本当のことを話すつもりだったんだと思う。でなかったら、自分の肉じゃが出す必要ないだろ」
 そうかもしれない、と青木は思った。雪子も嘘は苦手な方だ。心苦しかったに違いない。もしかすると薪の告げ口は、彼女の心の重みを除いてやりたかったのかも。

「三好先生らしいですね」
「室長と先生、同じこと考えてたんだな。あの二人、似てるよな」
「本人たちは似てないって言い張るんですけどね。どっちも自分が見えないタイプですからねえ」
「お互い、苦労するな」
「竹内さんは、惚れた弱みですね」
 甘い苦笑いを頬に浮かべる竹内を見て、青木はもう大丈夫だと思った。
 大丈夫。すべてうまく行く。
 竹内は雪子を大切にするだろう。彼女を愛し、彼女を守り続けるに違いない。彼の中で薪のことは、もうすっかり思い出になって……。

「それにしても、室長は誠実な人だな。やっぱり俺が思った通りの」
 食後のコーヒーに口中の言葉を紛らす竹内に、青木の瞳がぎらっと光る。口元に笑みを張り付かせたまま、黒い瞳を凍りつかせる。それを竹内には気取られないよう、腕時計に視線を落として席を立った。
「ごちそうさまでした。薪さんを研究室で待たせてるので、失礼します」
 青木は店を出た。何気なく視線を落とすと、出入り口の陰に、空になった缶コーヒーが捨ててあった。青木はそれに別れ際の竹内の嬉しそうな顔を重ね合わせ、缶を勢いよく踏みつぶした。



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クッキング2 (10)

 毎日暑いですねー。
 溶けそうです、てか、実際に脳が溶けてる気がする。 新しいお話を書いてるんですけどね、なんか文章が上手く書けない……あ、いつも?


 公開中のお話は、これが最終章です。
 読んでくださってありがとうございました。





クッキング2 (10)





 青木が竹内と別れて第九へ戻ると、薪がモニタールームで待っていた。竹内と食事に行くと言って出たから、青木から情報を引き出すつもりなのだろう。口元がうずうずしている。

「薪さんのおかげでうまく行ったって、喜んでましたよ」
「なんだって?」
 青木のアクションを待ち切れなくて、給湯室で片付けものをする青木に着いてきた薪は、報告業務のセオリー通り結論から始まった青木の言葉に驚きの声を洩らした。
「あの料理を作ったのは雪子さんじゃないって、お母さんにバラしてやったのに。どうして」
「全部自分のせいだから、先生を責めないでくださいっておっしゃんたんでしょう?」
「そうしなかったら僕が悪者になるだろ」
 密告した時点で立派なヒールだと思う。

「先生の長所を並べて、先生がお母さんに気に入られるようにフォローをして差し上げたんでしょう? そのお気持ちがお母さんに通じたものと」
「おかしいだろ! 僕は雪子さんと結婚したいって言ったんだぞ? 自分の息子の嫁になる女性にそんな男がいたんだ、考え直せと息子を説得するのが母親の役目だろう」
「冗談だと思われたみたいですね」
「なんで?!」
 青木にも、薪と同じ疑問は浮かんでいた。もし姉が結婚する前、夫になる男の女友達から電話が掛かってきて彼と結婚したいと言われたら、青木だって疑心暗鬼になる。それが普通ではないか。

「あの、思うにですね」
 考えられる可能性は一つ。薪が怒りだすこと決定だからあまり言いたくはないが、これが正解だと思う。つまり。
「竹内さんのお母さんて、薪さんのことを女の子だと思ってたんじゃ」
「あぁ!?」

 脊髄反射の速度で薪は凄んで見せたが、青木には効かない。こういうことで怒ってる薪は、とてもかわいいのだ。
 青木は京都弁には詳しくないが、彼女が薪に使った「別嬪さん」という言葉は、女性向けだと思う。雪子よりも身体が小さくて美人で料理上手とくれば、彼女の誤解も頷ける。
「彼女とは何度も話してるんだ。そんなはずは」
 薪の地声は低めのアルトで、女性の声に聞こえないこともない。あまり親しくない他人と話すときは丁寧語を使うし、一人称は「私」になる。その辺りにも原因があったと思われるが、きっと一番の理由は。

「竹内さんのお見舞いに行くとき、薪さん、必ず花篭を持って行ったでしょう?」
 それがどうした、と薪は尖った顎をしゃくる。全くこの人は、自分が分かっていない。
「そのせいだと思います。薪さんが花を持つと女優さんみたいですから。オレでさえ何度も見間違って、痛ったぁい! もう、どうしてオレに八つ当たりするんですか」
「うるさい!」
 唐突にふくらはぎを襲った痛みに青木が抗議するも、返って来たのは理不尽な一喝。慣れているとはいえ、やっぱり痛い。

「なんて不愉快な親子だ、息子が息子なら親も親だ。あんな非常識な連中に大事な雪子さんを任せるわけにはいかない。僕が何とかしないとっ……!」
「そっとしておいてあげるのが一番だと思いますけど」
 ううむと薪は腕を組んで、誰にも必要とされていない思案を重ねる。方向性は明らかに間違っているが、薪にあんなに案じてもらえるなんて、青木は雪子が羨ましい。

「薪くん。此処にいたのね」
「雪子さん」
 その身を案じていた女性がひょっこりと顔を出し、薪は途端に笑顔になる。彼女は幸せそうに笑っていて、それは薪にとって最高に好ましいことなのだ。
「昨日はありがとう。おかげさまで、お義母さんにとっても喜んでもらえたわ」
「……………………よかったですね」
 不自然なくらい長い間を空けて、薪は諦めたように頷いた。彼の天才的な頭脳の中では既に次の作戦が練られているのかもしれないが、今日のところは自分の負けを認めたようだ。

「薪くんのおかげよ。心からお礼をさせてもらうわ」
 雪子は快活に礼を言うと、いきなり薪に抱きついた。雪子の方が身体が大きいので完全に男女が逆転した構図だが、雪子の豊かなバストに顔が密着する体勢になって、薪は嬉しそうだ。……今週末は覚悟してもらおう。
「あ、あの、雪子さん? 嬉しいですけど此処ではちょっと、いえ別に雪子さんに恥をかかせるつもりじゃ、あ、だけど、僕にはその、青木、が……」
 感謝のハグだと思っているあたり、やっぱり薪の危険センサーは鈍い。先週の月曜日、職場仲間全員に裏切られたばかりなのに。本当に学習しない人だ。

「青木くん。今夜はあたしが薪くんを連れて行くから」
 雪子に呼びかけられた青木が「はい」と返事をするのに、薪は何を思ったか顔を赤くして、
「雪子さん、ごめんなさい。僕、青木が好きなんです。だから雪子さんのお気持ちは」
「歯医者の予約、7時だったわよね?」
「ごめんなさい」から後の薪の言葉は、雪子の声に消されて青木の耳には届かなかった。でも、察しはついた。ちらりと青木を見た亜麻色の瞳が、なんとも言えない甘さを含んでいたから。
「B町のNクリニックよね」
 雪子の長い腕にしっかりとホールドされた薪の顔色が、赤から青に変わる。夢中で押しのけようと両手を突っ張るが、柔道四段の彼女の腕力に敵うわけがない。雪子に絞め技を掛けられたら、岡部でさえ抜け出せないのだ。

「よろしくお願いします」
 青木がポケットから出した診察券を雪子に手渡すと、薪の顔は恐怖に歪んだ。たぶん彼の頭の中では、白衣を着た悪魔がドリルを構えているのだろう。
「7時半ごろ迎えに行きますから」
「OK。それまではあたしが見張っておくわ」
 逃れられないと知りつつも、薪はジタバタと手足を動かす。往生際の悪いことだ。扱い難しと踏んだのか、雪子は薪を小脇に抱え、軽々と持ち上げて彼を運び去った。
「誰か助けてっ、いやああああ!!!」

 廊下に木霊する薪の悲鳴を聞きながら、青木は彼のご機嫌を取る方法をあれこれ考える。それはとても困難なことの筈なのに何故か嬉しさが込み上げてくる、そんな自分が可笑しくて。誰もいなくなった研究室の薄闇の中、彼はくすくすと笑った。



 ―了―



(2012.4)


テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

夢のあとさき(1)

 おはようございます!
 今日は銀魂観に行くんだー、と楽しみにしてたら5時半に目が覚めました。(子供か) 時間ができたので更新しますー。


 お約束の日光東照宮SSです。 て、そこがメインじゃないんですケド。
 いつものように「薪さんと青木さんのらぶらぶデート♪」と思いながら書き始めていつものように違うものになりました。毎度毎度すみませんです。
 鈴薪さんなら計画通りに書けるんですけど、青薪さんだとズレる傾向が強いです。青薪脳がぎゃーぎゃー騒いで第一の脳の邪魔をするからだと思います。ほんと迷惑。
 
 





夢のあとさき(1)






 薪がぽつりと呟いた。

「42」

 それが何の数字か最初は分からなかったけれど、すぐに理解した。だから青木はグラフィックボードの強化について解説されているページに付箋を貼り、本をテーブルの上に置いて、薪に提案したのだ。
「次の休みに神社へ行きましょう」
「神社?」
 ソファを背もたれ代わりに床に胡坐をかいた薪は、大きな眼を無垢に開いて青木を見上げた。いきなり何だ、と彼が首を傾げるのは予測済みだった。

「薪さん、厄年でしょう。お祓いに行かないと」
 青木が大真面目に言うのに、薪はひらひらと手を振って、
「迷信だろ、あんなの」
 薪は信心深い人間ではない。それも承知の上だ。説得方法は考えてある。
「オレも若い頃はそう思ってたんですけど身近な実例があってですね。オレの叔父さん、まだ50になったばかりなのに帽子以外の被り物が手放せない人なんですけど、なんと42歳から急速に風化が進んだそうなんです」
 と、青木は実家の近くに住んでいる叔父の話を持ち出し、
「聞いたら、厄落としに行かなかったって」
「おまえの叔父さんの話だろ。厄祓いが必要なのは僕じゃなくておまえじゃないのか」

「落とすのにお金を使うよりも植えるのに使った方が賢明だと思うけど」とシビアに切返す薪の冷たい視線をものともせず、青木はリビングのサイドボードから菓子折りサイズの箱を取り出した。蓋を開ければそこに広がるのは、その9割が計画倒れになった青木の夢。なんてことはない、観光地のパンフレットだ。

 青木はその一つを取り出し、薪に向けて開いた。A4サイズの限られたスペースに、美しさを競い合うように並べられた数枚の写真のうちの一枚を指差して、
「厄落としの後は滝を観に行きましょう。水と一緒に厄も流そうってことで」
「おい」
「この時季だと高原もいいですね。ニッコウキスゲ満開ですって」
 スマートフォンのWEB画面を薪に見せると、険しかった薪の眉間がすうっと開かれた。若草色の絨毯の上に広がるゼンテイカ(ニッコウキスゲ)のやや赤みがかった黄色。広々とした草原は、薪が好む勝景のひとつだ。

「このホテルのビーフシチュー、一度でいいから食べてみたかったんですよねえ」
「僕の厄落としにかこつけて、自分が遊びたいだけだろ」
 近郊グルメのページを眺める青木に薪は苦笑し、ソファに寄りかかった。面倒そうに青木が持ち出したパンフレットに手を伸ばし、だが彼の口角はわずかに持ち上がっている。ここで切り札。
「立ち寄りの露天風呂は野趣。源泉かけ流しだそうです」

 青木の言葉を聞き流している風を装っても、亜麻色の瞳の輝きがそれを裏切る。青木は余裕で彼の応えを待った。やがて薪は青木のスマートフォンを我が物顔で操りながら、
「東照宮は文化財としての価値も高く、国宝8棟、重要文化財34棟。世界遺産にも登録されている。日本人なら一度は見ておくべきかもしれないな」
 文化人を気取って見せるけど、薪が熱心に見ているのは温泉情報と地酒の特集ページだ。時間さえ取れれば泊まりたいと言い出すに違いない。
 新緑に囲まれた温泉の湯気が漂ってきそうな画面に、無意識に身を乗り出す薪の横で、青木は箱の中から温泉宿の情報誌を取り出した。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

夢のあとさき(2)

夢のあとさき(2)






 日光東照宮の駐車場から入口までは緩やかな登り坂が続く。その両脇には見事な日光杉が列をなしている。
 歩きながら、青木は空を見上げた。抜けるような皐月の空を背景に新緑が萌えるようだった。昨日の夕方から雨が降り出したので心配していたのだが、今朝はきれいに晴れ上がってよかった。
 ゆっくりと坂道を登っていく、多くの観光客が正面の石鳥居より先に眼を奪われるのは、右手前にある巨大な石柱だ。時代劇でおなじみの金色の葵紋の下に、いささか品性を欠くのではと危惧される程でかでかと神社の名称が書いてある。

 もう少し慎ましくすればいいのに、とは青木の恋人の意見だ。彼は仰々しいことは嫌いで、形骸的なことはもっと嫌いだ。拝観料を取ることからも分かるように、神のおわす場所と言うよりは観光名所に分類されるのが相応しいその趣に、彼はいささか不満げであった。
 それでも彼は作法通り、左の鳥居柱の前で立ち止まって一礼した。彼の隣を他の観光客がぞろぞろと追い越して行く。参道の真ん中を歩く彼らに薪はチッと舌打ちし、「神社に来るなら作法の一つも勉強してきたらどうなんだ」と小声で吐き捨てた。「家康公に祟られるぞ」なんて憎まれ口まで叩いて、普段はここまでうるさ型のオヤジではないのだが、今日の彼はあまり機嫌がよくない。

 彼に顰め面を作らせる大きな原因は、このごった返した人混みだ。うじゃうじゃと言う表現がぴったりだ。それもそのはず、世は大型連休の真っ只中。此処に辿り着く間にも交通渋滞に巻き込まれて、高速道路ならぬ超低速道路をのろのろと走って来たのだ。
「これで金を取るのは詐欺じゃないのか」
 渋滞によるイライラをETCバーにぶつける助手席の声を聞こえない振りでやり過ごしたら、目的地の名物を当てこすられてか「サル」と罵られた。薪の眉間の皺に怯えながら、だけど青木はちょっと嬉しい。サイドブレーキが必要になる程の渋滞なら薪の顔を見て話ができる。ぷんぷん怒っていても、休日の薪はやっぱりかわいい。
 薪の今日の服装は定番のカジュアルな少年ルックではなく、キレイ系だ。白いボタンダウンシャツにシルバーのナノータイを合わせ、ズボンもライトグレイのスラックスで上品にまとめている。祈祷を受けるのだから神さまに失礼な服装ではいけないと、同伴者の青木にまでジャケットの着用命令が出た。この格好ではウォーキングは無理だと思い、霧降高原のニッコウキスゲは諦めた。

 生理前の女性のように取るに足らないことが勘に障って仕方ないらしい薪の様子が落ち着いたのは、石鳥居を潜って左手に五重塔を観て(これについても彼は「せっかくの歴史的建造物を現代の塗料で塗り直してしまうなんて」と文句を言っていた)、表門に入ってからだ。目前に現れた三神庫と名付けられた建造物は、五重塔と一緒に何回目かの補修工事を終えて美しく塗り直されたばかり。赤と金を主体にした派手な色合いが青空によく映えた。
「きれーい」と、青木の隣で立ち止まった中年男女の女の方が声を上げた。「華やかねえ」と彼女ははしゃいだ声を上げ、夫らしき男に「派手な墓地だねえ」と失笑された。
「え、墓地って?」
「知らないの? ここ、家康公のお墓」
「そうなの」
「あの葵の御紋はなんで付いてるんだと思う?」
「単なるデザインかと」
「どんだけ勇敢な建築デザイナーだよ。徳川家の紋章を勝手に使ったら打ち首だって」

 無知な女性もいたものだ、と青木の懸念はそんなことではない。この会話を耳にしたら、薪の機嫌は直滑降だ。慌てて隣を見ると、薪はきょとんとした顔で歩き去って行く二人を見ていた。怒りを通り越して虚脱したらしい。
 彼は茫然とその場に立っていたが、彼らが歩き去ってからくすりと笑い、
「うん。綺麗だな」と呟いて歩き出した。
 青木もそう思った。歴史とか時代背景とか、何も解らなくてもきれいだと思えた。ここが家康公の墓地であることさえ知らなくても、その美しさに感じ入ることは許される。それを咎める権利を自分は持たない。よって彼女の無知に憤ることは自分の仕事じゃない。薪はそう考えたのかもしれない。

 表門から順路に従って進むと、最初の人だかりはやはり有名な三猿の彫刻がある建物だ。この建物は神馬の馬小屋だとパンフレットに書かれていたことを思い出しながら、青木は素朴な疑問を薪に投げかけた。
「馬と猿って相性がいいんですか?」
「どうしてだかは僕も知らないけど。昔、猿は馬の病気を治すって思われてたらしい」
「へえ。でも『見ざる言わざる聞かざる』じゃあ、病気の馬がいても気が付かない振りをされちゃうんじゃ」
「ぷっ。どっちにせよ、子供の猿じゃ役に立たないかもしれないな」
「え?」
 青木が不思議そうな顔をすると、「なんだ、本当に知らないのか」と薪は軽く眉を顰め、「そうか。おまえ福岡だっけ」と青木の出身地を口にした。関東の人間なら小中学校あたりで必ず訪れる見学地だが、北九州生まれの青木には馴染みが薄いのだ。

「恥ずかしながら大学のとき友人と一度来ただけで。三猿は覚えてましたけど、他の彫刻は忘れてました。全部で、えっと、8枚あるんですね」
 最前列に彫刻についての説明書きがあるらしいのだが、この人混みでは近づくことも困難だ。人の隙間から何とかして読もうとしている青木に、薪は8枚の彫刻の概要をざっと説明してくれた。
「この彫刻は人の成長を模していて、1枚目が母子、2枚目の三猿は幼少期で、悪いことを『見ざる言わざる聞かざる』で素直に育ちなさいって意味なんだとさ。それから少年期、青年期と移り、あの青い雲は青雲の志を表わしていて」
 さすが薪。何でも詳しい。
 人に問われて返答に窮する薪を、青木は見たことがない。信じがたい量の知識をその小さな頭脳に納めていて、それを淀みなく引き出すことができる。天才の頭脳は周囲の尊敬と畏怖を集め、だがそこで終わらないのがこの人の欠点だ。例えば、電気炊飯器はどういう仕組みでご飯を炊くのかを尋ねたとする。すると彼はとても分かりやすく説明してくれるのだが、その後、「仕組みも知らないでよく使えるな? 爆発するかもしれないとか思わないのか」などと嫌味なことを言うから誰も感謝してくれない。

 だけど青木はそのおかげで彼に近づくことができる。これで性格までよかったら高嶺の花すぎて、声をかけることもできない。その時も薪は一通りの説明を終えた後、三猿の彫刻に視線を戻して、
「インターネットが幼稚園児まで浸透したこの時代に、どうしろって?」と皮肉な笑みを浮かべた。意地の悪いツッコミは彼の上機嫌の証拠。嬉しくなって青木はそれに応じる。
「それは子供たちを隔離するしかないのでは」
「ふむ。となると、あの三猿の前には鉄格子とインターネットは1日1時間までの貼り紙が」
「……祟られますよ」
 青木が苦笑すると、薪はニヤニヤ笑って、
「そのための厄落としだろ。同じ料金ならたくさん祓ってもらった方が得だと思わないか」と罰当たりなジョークを返した。

 祈祷を行うのは祈祷殿という建物で、宮の中枢である本殿のすぐ横にある。厄落としに訪れた者たちは、約2時間おきに行われる祈祷の時間を待つ間、坂下門の手前にある眠り猫を様々な角度から見上げたり、その先に続く長い長い石段を登って家康公が眠っている奥宮に参拝したりする。
 その中枢エリアの外門となっているのが、有名な陽明門である。別名『日暮しの門』と呼ばれる、時が経つのを忘れて見惚れるうちに日が暮れる、それほどまでに美しい門。が、これは薪の好みではないだろうと青木は思っていた。
 陽明門は、門と呼ぶにはあまりにも豪華絢爛な建造物だ。実用性を重視する薪に、この門は装飾が多すぎる。

「薪さんは、もっとシンプルなものの方がお好きでしょう」
 薪の好みに詳しいところを見せたくて青木は先走る。相手が言葉を発する前にその意見を決めつけるのは失礼な行為だと思う、でも実際は、無口な父親の言葉を母親が代弁するように親しい関係にはありがちな言動だ。
 天邪鬼の本領を発揮するでもなく、薪は軽く頷き、まあな、と青木の予想を肯定した。
「薪さんが絶賛するのって、大抵は自然ですよね。オレはこういった建築物を観るのも好きですけど」
「自然が生み出す美しさに比べたら人間が作るものなんて大したことない。でも」
 それから顎を上げて、じいっと門の彫刻を見つめた。508体の彫刻の上を亜麻色の瞳が撫でていく。青木も釣られて、門を見上げた。
「此処でそんなことを言うやつは想像力がないんだ。どれだけの苦労を重ねて彼らがこれを造ったのか。考えたら、とてもそんなことは言えない」
 薪らしいと思った。薪は我儘だけど、常識人でちゃんとTPOを考える。根は真面目なのだ。

 混み合っているおかげで、彫刻を堪能する時間は充分にあった。流れに乗って門を潜り、そこで皆がするように振り返る。目的は、もちろん逆さ柱だ。
「『建物は完成した瞬間から崩壊が始まる』て言われてて、それで逆につけたんですよね」
「そうだけど、門にそれを施すのは珍しい。門にはもともと魔を通さない役目があって、ほら、この門にも正面に鬼神が彫られてただろ?」
 確かに、ものすごく怖い顔をした鬼がこちらを親の仇みたいに睨んでいた。眼がギョロッとして、青木は五課の脇田課長を思い出したくらいだ。
「あの鬼神で払いきれない大きな魔が訪れた時には、門は自ら壊れてそれを滅するんだ。逆さ柱に縛られて、この門は肝心な時に役目を果たせない。本末転倒だ。つまり、この逆さ柱は建造物の永続性を願ったわけじゃなくて、この門が美しすぎて災厄を引き寄せると人々に思われてしまったから付けられたんだ」
「美しすぎて……災いを……」
「魔よけのために作られたのに、逆に魔を呼ぶと懸念されて逆さに柱を付けられたとき。この門はどんな気持ちだったんだろう」
 門に同情するように、薪は呟いた。

 本人の好みとは関係のないところで、この門は薪に似ている。見る者の魂を奪う絶対的な美しさ。彼自身は何も思う所はないのに、その美しさが魔を呼ぶと人に言われる。事実、薪の美に魅入られた者たちは次々と道を誤って行く。多分最初の頃は、青木もそう思われていた。彼の殺人鬼と同じように、自分が青木を惑わしてしまったのかと悩んだに違いない。きっと薪は自分とこの門の境遇に共通点を見つけて、やるせない思いでその絢爛さを見つめていたのだ。

 掛ける言葉が見つからなくて、青木は口ごもる。そのまま俯いてしまった青木に、薪は笑って、
「信じたのか?」と意地悪そうに言った。
「ウソに決まってるだろ、バカ」
 ぽかんと口を開ける青木を尻目に、薪はくるりと踵を返した。
「おまえの言うとおり、逆さ柱の意味は建造物の崩壊を避けるおまじないだ。門が魔物と心中するわけないだろ。門が壊れたら小物の妖怪まで入り放題じゃないか」
 肩を揺らしながら嘲笑う、細い背中を追いかける。自分の取り越し苦労に気付いて、本当は全然そんなことは思わなかったのだけれど、青木は薪を非難した。
「ヒドイですよ。どうしてそんな嘘つくんですか」
「バカをからかうのは楽しい」
「もう。薪さんの話が本当だったら、この門、今の瞬間に崩れてますね」
「あ? なんだ、僕がアクマだとか言いたいのか」
「よく言われてますよね。太夫さんに」
 太夫とは被疑者のことだ。周りに一般人がたくさんいる場合、彼らのことをこう呼んだりする。
「大した根性も信念も持たずに法を犯すことの愚かさを、頭の悪い連中にも解るように噛み砕いて説明してやってるだけだ」

 何年か前、捜二からの協力要請で取調べを手伝ったことがある。詐欺師の学校なるものを摘発したときだ。信じがたい事に、犯人グループは詐欺の仕方を授業形式で教えていたのだ。主犯格たる経営陣の取り調べは二課の人間が行うとして、問題は生徒として登録されていた300名を超える詐欺師の卵たちだ。とても課だけでは捌き切れず他の課に応援を頼んだのだが、元二課の小池を通して第九にもお鉢が回ってきた。
 薪は犯罪者には容赦しない。そのことを青木が知ったのはその時だ。
「でも言葉には気を付けないと。身体に危害を加えなくても、威圧的な言葉で怒鳴ったりしたら強制的に歌わせたことになっちゃうんですから。それを理由に法廷で自白を覆されたりしたら」
「そんなことをしたら死ぬより怖い目に遭わせてやると言い聞かせてあるから大丈夫だ」
「だから脅しちゃダメなんですってば」
 犯罪者に人権なんかないと言い切る、そんなだから彼はいつまでも自分を赦せないのだと青木は思う。

「脅すなんて人聞きの悪い。丁重にお願いしてるんだ」
「じゃあどうして皆さん、オレの顔を見た途端『助けてください』って飛びついてきたんですか?」
 いったい何をされたらああなるのか、取調室に青木が赴くと、それまで薪と向き合っていた犯罪者の多くは青木の後ろに隠れてしまう。そのことを指摘すると、薪は肩を竦めて、
「さあ。悪い夢でも見たんじゃないか」
 と他人事のように言ってのけた。まったく、薪のツラの皮は鋼鉄でできている。

 青木には薪のような取調べの仕方はできない。というか、取調べそのものが苦手だ。犯罪者には犯罪を起こすに至った彼らなりの理由があって、それは時として涙を禁じ得ないほど悲しい物語だったりする。同情心の強い青木のこと、ついつい可哀想になって調書が甘くなる。問題は、その8割が作り話である、という事実だ。「交代だ」と言われて薪と席を替わった5分後には、彼らは何かに取りつかれたように本当のことを話し出す。その際、幼少期に死んだはずの父親は生き返り、男を作って出て行ったはずの母親と慎ましく暮らしていたりするのだ。
 鬼神の代わりに取調室仕様の薪の顔を置いておけば如何なる魔物も寄り付かないのではないかと青木は思い、その代わり、自分にとっては日暮しどころか人生そのものが暮れ落ちるまで門の前から動けなくなるかもしれないと、洒落にならない冗談を考えた。

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

夢のあとさき(3)

 説明書き入れるの忘れちゃったんですけど~、
 このお話は2066年の5月、「2066.4 緋色の月」の直後です。そちらを読んでない方にはちょっと分かりづらいかと、て、肝心の陽明門を過ぎてから言われても(^^;
 東条というド変態のことが詳しく書いてありますので、未読の方はよろしかったらどうぞ。



 ところで。

 東照宮は実際に見てきたのですけど、一番驚いたのは、陽明門の左にある神輿舎です。
 そこには3つの神輿が保管されてるんですけど、それぞれに宿ってる魂が源頼朝、徳川家康、豊臣秀吉の3人なんですって。説明書きを読んでびっくりしました。 
 ケンカしないの? これ。
 わたしの記憶違いかもしれませんけど、徳川家康って大坂の陣で豊臣一族滅ぼしたんだよね? それもわりと阿漕なやり方で。
 それを並べちゃうなんて、さすが天下の東照宮。度胸いいですよねえ。祟りとか怖くないんでかすねえ。

 神輿舎の中で、
『家康、てめーよくもワシの子孫を騙してくれたな!』
『戦は勝ったもん勝ちじゃもーん。騙される方が悪いんじゃもーん』
 みたいな会話してるんだろうか。 頼朝、困ってるだろーなーww。






夢のあとさき(3)








 厄落としの祈祷は十時から約1時間、終えて授与品を受け取ると、青木は激しい空腹を覚えた。朝が早かったせいもあって我慢できそうもない。ぐうぐう鳴る腹を押さえて薪を見やれば、「僕もだ」と薪の腹から相槌が返ってきた。つまらない偶然が可笑しくて一緒に笑い出す。些細なことに笑えるひと時に幸せを感じた。

「薪さん、何が食べたいですか」
「Kホテルのビーフシチューが食べたかったんじゃないのか」
 言われて青木は、薪を誘う時に老舗ホテルの名物料理を挙げたことを思い出した。しかしこの時季、ガイドブックに載るような人気店は何処も行列ができている。短気な薪が2時間も並んで食べるビーフシチューを有難がるとは思えないし、二人の腹具合にも余裕はない。混雑を避けるため朝は早目に家を出て、朝食はコンビニのおにぎりを車の中で食べたのだ。それでもあれだけの交通渋滞に巻き込まれた、恐るべし黄金週間。

「まだ奥宮にお参りしてないですよね。食事に出たとして、再入場できるのかな」
「戻らなくていい。風呂の時間がなくなる」
 世界遺産よりも風呂、そして今必要なのは食べ物だ。それでも一応、表門の所で拝観券のもぎりをしている係員に再入場の是非を尋ねると、理由を話して半券を提示すれば可能だと言われた。「戻らない」と断言したが、休日の薪は気紛れでコロコロ意見が変わる。保険を掛けておくに越したことはない。

 昼食は、混雑を避けるために東照宮から少し距離を取り、日光市の街中の店を選んだ。インターネットで目星をつけておいた幾つかの店の一つだ。HPにアップされた写真より実物は大分風雪に晒された感があったが、木立に囲まれた瓦屋根に木造りの佇まいはなかなかに風情があって、薪の気に入りそうな店構えだった。店の入り口には地元名物の「湯葉料理」と書かれたのぼりが立っている。
 店内は明るく、古めかしい外観を裏切るようなモダンな造りになっていた。8つほどあった天然杉らしいテーブルに着くと、薪は壁の張り紙を一瞥しただけで、そこに書かれた湯葉刺しと冷たい蕎麦のセットを注文した。メニューを端から端まで見ないと決められない青木とは対照的だ。
 蕎麦と植物性タンパク質だけでは2時間もしたら腹が空くと判断した青木は、薪が頼んだセットの他にカツ丼を注文し、それを食べ終わった後、更にもり蕎麦を一枚追加した。

「お兄さん、身体大きいだけあってよく食べるねえ」と店の主に感心される中、薪は青木が追加の蕎麦を食べる様子をソワソワしながら見ていた。早く行かないと風呂が逃げると思っているのかもしれないが、予約の時間までにはまだ間がある。
「二時に予約を入れてあります」
 青木はボディバックからパンフレットを取り出し、薪に差し出した。受け取ろうとして薪は、「いや」と首を振り、
「写真に騙されたことが何度もあったからな。今回は見ないでおく」
「あはは。パンフレットの写真て、本当に上手く撮ってありますよね。実物の3倍くらい広く見えますものね」
「なんでもそうだろ。おまえの履歴書の写真も、頭良さそうに写ってたぞ」
 皮肉られて苦笑する。薪さんの口の悪さも写真には写りませんしね、と心の中で言い返した。

 そんなやり取りをしておいて、結局薪はパンフレットの誘惑に耐えられなかった。2分もしない内にテーブルに置かれた冊子を取り上げ、
「話半分てことで、片目で見れば大丈夫だよな?」
 こういうときの薪の理屈には、笑い出さずにいられない。クスクス笑いが止められないでいると、
「この温泉、切り傷や打ち身によく効くって書いてある。試してみるか」と薪に指を鳴らされた。慌てて蕎麦に意識を集中する。何事もなかった顔をして再びパンフレットを眺める、きれいな顔を見ればたった今脅されたことも忘れてしまう。青木にはボケ防止に効果のある薬湯が必要かもしれない。
「へえ。森の中に風呂があるのか」
「近くに川も流れてるから、せせらぎも聞こえるそうですよ」
「今時期だと、小鳥の声も楽しめそうだな」
「露天ですからね。鳥やら虫やら飛んできちゃうみたいですけど。薪さん、虫、大丈夫ですよね?」
 パンフレットを見ながら「ああ」と頷いた薪は、期待に眼を輝かせていた。質問形式だけれど、これは確認だ。薪は自然の生き物は分け隔てなく好きなのだ。青木が苦手な蛇や爬虫類にさえ、彼はやさしい目を向ける。

 食事を終え、二人は、予約時間までの空隙を散策で埋めることにした。車があるのだから中禅寺湖辺りに足を延ばせれば良いのだが、途中のいろは坂の混雑は想像するだけでげんなりする。近隣でオススメの散歩コースはないかと店の主人に尋ねると、店から車で10分ほどだという滝を勧められた。
 この県には日本三代名瀑に数えられる有名な滝もあるが、あちらはすっかり観光客用に整備されて、昔の、滝壺に飲み込まれるような臨場感はなくなってしまったそうだ。規模は小さいがこちらの方が見て楽しめる、と主は太鼓判を押した。

 彼の言のとおり、そこは一つの穴場というやつだった。無料の駐車場は20台ほどのスペースだったが、埋まっているのは半分くらい。観光客が少ないおかげで待ち時間なしで停めることができた。
 駐車場の出口には掲示板があり、滝の謂われなどが書いてあった。江戸時代の頃からの景勝地で、由緒ある滝らしい。滝までの簡単な経路図も描かれており、それによると観瀑台までは約五百メートル。山の中をてくてく歩く。
「薪さん、大丈夫ですか?」
「平気、っと、や、大丈夫、うわっ」
 地面に積もった落ち葉に昨夜の雨が悪戯して、その滑りやすいことと言ったらなかった。青木はスニーカーだが薪は革靴だ。いくら慎重に歩いても、ぬかるんだ土に足を取られる。それでなくてもアップダウンの激しい山道、古びた木製の階段と遊歩道はあったがそれは断続的で、快適な散歩道には程遠い。
 でも薪は楽しそうだった。不安定な足元を絶妙のバランス感覚で補う、その軽快さは運動靴の青木に比べても遜色なく、途中、何人かの観光客を追い越したくらいだ。

 森の中、渓流を遡っていく小道は実に爽快だった。ザアザアと流れる水の音と小鳥の鳴き声と枝葉の擦れ合う音が、自然のハーモニーを奏でる。天気はいいし、風は心地良いし、新緑は美しい。下方を流れる川の透明度は溜息が出るほどで、流水が岩にぶつかって白く弾ける様を見れば心が弾む。
「あ。滝の音がしますね」
 土に丸太を埋めて作った階段を上がりきった時、唐突にその音が聞こえてきた。不思議なもので、一定の距離まで近付くといきなり大きな音になる。音の減衰理論には合致しないが、自然界は様々な音で満たされているため、重なり合う音がフィルターの役目を果たすことからこんな現象が生まれるらしい。
 そこから観瀑台までは木製の橋が架かっていて、足元が確かになった薪は駆け出さんばかりに目的の場所へと急いだ。吹き上げてくる風に水の粒子が混じる。川を横断する形に架けられた橋の中ほどまで行くと、視界を塞いでいた木立が切れて、前方に流れ落ちる水の風景が広がっていた。観瀑台まではさらに30段ほどの階段を昇る必要があったが、目前に迫った滝に気を取られて殆ど無意識のうちに登り切っていた。

「ああ、本当に。小さいけど綺麗ですね」
 観瀑台に立った薪は、青木の言葉に頷くこともしなかったけれど。その瞳は落下する水と岩が生み出す刹那の光景に熱っぽく輝き、白い頬には柔らかな笑みが浮かんでいた。
 心から感動したとき、薪は寡黙になる。それは、どんな言葉を持ってしてもこの美しさを表しきれないと思う言語そのものの限界によるものかもしれないし、胸中を口に出す必要を感じない彼のマイペース精神ゆえの怠慢かもしれない。そのときも薪は黙って長い時間、同じ場所に立っていた。

 青木たちの前に観瀑台にいた数人の客が去り、新たな客が訪れ、その客がまた去っていく。それを何回か繰り返し、青木はこの名所が混み合わない本当の理由を知った。
 寂れているのではなく、長居をする客がいないのだ。だって、滝しかない。こんなところに10分もいたら欠伸が出る。5分ほど眺めて写真を撮ったら次のスポットへ向かう、彼らが普通なのだ。それを薪ときたら足に根が生えたように動かない。そのまま20分が経過して、さすがに青木も飽きてきた。
「あの。薪さん、そろそろ」
「え。まだちょっとしか観てないだろ」
 一枚のMRI画像の分析に20分も掛けていたら雷が落ちるが。仕事のときとは時間の流れ方が違うらしい。

「隣のお客さんは5回ほど入れ替わってますけど」
 青木が客の回転効率について説明すると、薪はすっと滝の右下を指して、
「太陽の位置が変わると水の色合いが変化するんだ。太陽は15分に1度西に移動するから、ほら見ろ、最初よりも明るい緑色になってるだろ? 光の進入角が変わった証拠だ。それから、滝の右上にある枝にさっきシジュウカラが止まって、それを先刻から子狐が狙ってて」
「それ多分、薪さんにしか見えないと思います」
 目を凝らしたが、青木には木しか見えない。
 頭脳だけでなく眼も耳も。薪のパーツはとびきり優秀だ。そんな彼には見える世界も、普通の人間とは違うのかもしれない。

「もう行きましょうよ。A温泉の予約時間に間に合わなくなっちゃいますよ」
 焦れた青木は薪が楽しみにしている風呂を餌に彼を釣ろうとしたが、その企ては薪に見透かされた。予約は1時間も先、ここからA温泉までは30分程度だ。
「じゃあ予約時間を変更しろ」
 白々しい嘘と分かって旋毛を曲げた薪が、実現不可能な命令を下した。特別日に時間変更なんて出来るわけがない。そんなことは薪も承知の上、要は「黙ってろ」と言いたいのだ。

 結局、観瀑台には小一時間もいた。退屈で仕方なかった青木は、滝ではなく薪を見ていた。それなら青木は半日でも眺めていられる自信がある。他の見物客から見たら奇妙な二人連れだったと思うが、旅の恥はかき捨てだ。
 放っておいたら夕方まで居座りそうな薪に、ゴールデンウィークならではの交通事情の因果を絡めて、やっと引き剥がすことに成功した時には午後1時を回っていた。




*****

 滝のモデルは「裏見の滝」です。
 けっこう歩きますが、お勧めです。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

夢のあとさき(4)

 日曜日の夜と月曜の夜、たくさん拍手くださった方、ありがとうございました。 とっても嬉しかったです(^^)

 本誌連載が一旦終了したせいか、最近秘密を語る機会が減ったように感じます。原作についてのコメント、いただけると狂喜しますです。語りたい。
 ツイッターにもっと積極的に参加すればいいんですけどね、あれ、字数制限がメンドクサくて。わたしみたいにだらだら喋る人間にはブログの方が合ってるみたいです。

 まあ、ツイッターに参加できない一番の原因はオットの妨害なんですけど。
 こないだなんか就寝時間超えてツイッタしてたらコンセント抜くって言われて、「PC壊れるよ」って言い返したら「どうせ直すのはオレだからいい」
 ……参りました。




夢のあとさき(4)







 車に戻って目的地をナビにセットする。目指すは薪の大好きな露天風呂。もちろん、湯上りの地酒セットも予約してある。
 街中の道路は青木の懸念通り混んでいて、ナビに30分と表示された予定時間が50分掛かった。おかげで予約時間に十分ほど遅れてしまったが、薪からの文句は出なかった。自分が滝に長居したせいだなどと殊勝な気持ちからではない、温泉施設を取り囲む深い林に気を取られたからだ。木々が太陽の光を遮るせいか周辺の空気はヒヤッとして、入浴には最適な涼しさだった。
「本当に森の中にあるんだな」
 一年の内で一番生命力に溢れた新緑の森を眺めながら、風呂に入って地酒で一杯。嬉しそうな薪の様子に、青木は心の中でガッツポーズを取る。待合室を兼ねた受付所も木造りの大きな建物で雰囲気がいいし、遠くに見える貸切風呂の棟々も贅沢にスペースを取ってある。これは期待できそうだ。

「受付でタオルとか浴衣とか貸してくれるみたいですよ」
「浴衣か。まさか女物じゃないだろうな?」
 薪の冗談に二人は楽しそうに笑いながら建物の中に入り、しかし。
 その後の出来事は、正に悪夢だった。

「え!」と驚きの声を発し、青木は軽いパニックに襲われた。何の因果か、混み合う休日には稀に起きてしまう事故が我が身に降りかかったらしい。青木たちが入るはずだった離れの露天風呂は、2人が時間に遅れた十分の間に別の客を受け入れてしまったと受付係の女性は言った。
「申し訳ありません。ちゃんと確認したんですが、さっきは空室になっていて……いえ、すみません。こちらの不手際で、誠に申し訳ありません」
 弁解がましい言葉が出るのは、ネットの予約係と現地の受付係で分担が分かれているせいだろう。ダブルブッキングはこの女性のミスではなく、予約係のミスであると推察された。
「謝られても」
 青木の深刻な様子に気付いたのか、待合室の掲示物を眺めていた薪が振り返る。ちらりと彼を見れば、先ほどまで新緑の美しさに輝いていた亜麻色の瞳は不興に曇り、だから青木は必死になって受付係の中年女性に言い募る。
「困ります。なんとかしてください」
「それが、本日はどの部屋も予約でいっぱいで」
「オレだって予約はちゃんと」
 言い掛けて青木は口を噤んだ。予約係のミスを被って平謝りに謝る受付係に同情したからだ。でも、相手の望む「じゃあまた今度」という言葉はなかなか出てこなかった。自分一人のことなら譲ることに抵抗はないが、薪がいる。彼が一番楽しみにしていたスポットなのに、それがキャンセルなんて、後で薪にどんな目に遭わされるか。今の青木の未来予想を見せることができたら受付係の対応も変わるだろうに。

「やっぱり先約があったんですね。こんな日に空きがあるのはおかしいと思いました」
 振り返ると、そこには三人の親子連れが立っていた。3人とも吊り目の痩身で、よく似ている。手に着替えの浴衣とタオルを持った若い母親が、五歳くらいの男の子の手を引いていた。父親の方は足に怪我をしているらしく踝から下に包帯を巻き、歩く時にはびっこを引いていた。
 どこかしら神経質そうで線の細い彼は、細い目をさらに細めて青木に微笑みかけた。
「私たちは飛び入りみたいなものですから。辞退しますよ」
 申し出に感謝する。相手方からそう言ってもらえて青木が安堵したのも束の間、
「やだっ!」
 反発したのは子供だ。両親と一緒の露天風呂を楽しみにしていたのだろう。それが取り上げられて、我儘を爆発させたのだ。
「おじさんたちが遅れてきたのが悪いんだ」
「こらっ」
 母親が叱ってくれたが、青木は自分が「おじさん」と呼ばれたことに少しだけショックを受けた。
「ワガママ言うんじゃありません。もともとこの方たちのものなのよ」
「やだやだ、ぜったいに嫌だ! だって、お父さんが」
 子供はちらりと父親の足を見た。この温泉は、切り傷や打ち身によく効くとパンフレットに書いてあった。子供がそれを読んだわけでもなかろうが、母親にでも教えてもらったのかもしれない。
 父親の怪我を案じる彼のやさしい気持ちを知って、青木は自分たちの権利を主張することを躊躇う。譲ってあげたい気持ちが押し寄せるが、薪のがっかりした顔を思い浮かべると青木の口は重くなる。板挟みだ。

 母親と子供が言い合うのに、事情を察した薪が寄ってきて、親子連れに見えないように青木の脚をスリッパの爪先で蹴りとばした。
「子供みたいに駄々をこねるな。空きが無いものは仕方ないだろ」
 駄々を捏ねさせたら5歳の子供にも負けない人に言われても。
「僕のことなら気にしなくていい」
 すみません、足を踏まれながら微笑まれても首肯できません。
「こういう場合は多数決でしょう。3対2で僕たちの負けです。どうぞ」
 物分かりの良い大人の態度で3人に微笑みかける。薪は外面がいい。母親が若くて美人なのも関係しているに違いない。

 子供は薪の言葉にぱっと眼を輝かせ、満面の笑みを浮かべると、
「お兄ちゃん、ありがとう。後でお礼するね」と子供らしい率直さで礼を言った。
 照れ臭かったのか、「いや」と薪は横を向いた。前に、薪は子供が苦手だと聞いたことがある。理由を聞くと、善人と悪人を本能で見分けるから怖いんだ、と訳の分からない答えが返ってきた。どうやら子供にはある種のシックスセンスがあると信じているらしい。薪の思考は常人には理解し難いことだらけだ。
「おじさんも。どうもありがとう」
「いいえどういたしまして、てちょっと待って、どうしてオレがおじさんで薪さんがお兄さんなのか説明してくれないかな、ねえちょっときみ!」
 青木の叫びを無視して3人は深く頭を下げ、貸切風呂への渡り廊下を渡って行った。さりげに失礼な親子だと思った。

「お客様、誠に申し訳ありませんでした。お詫びと言っては何ですが、こちらはご予約いただいた地酒のセットです。どうぞお持ち帰りください」
 低いお辞儀と共に、受付係の女性は小型の手提げ袋を2つ差し出した。薪はそれを受け取り、「また機会があったら利用させていただきます」とよそ行きの笑みを返した。その間、青木の足はずっと薪の足の下敷きになっていた。

 車に戻って袋を開けてみると、中には1合瓶の3本セットの他に小型のポーチに詰め込まれたアメニティグッズと、貸切風呂の優待券が入っていた。心遣いは嬉しいが、期限は3ヵ月。再訪できる確率は低いと思われた。
「すみません。予約時間に遅れると分かった時点で電話を入れておくべきでした」
 箱から取り出した地酒の瓶を陽光に透かして見ている薪に、青木は謝った。忙しい薪に時間を割いてもらったのに。一番大事なプランで空振りなんて申し訳なさ過ぎる。
「別に、おまえのせいじゃないだろ」
 声に怒りはなかったけれど、薪の怒りは2種類あって、直情爆発型の時はその場で済んでしまうが、沈着進行型の時は後が怖い。今回は後者だと悟って、青木はこれから何週間かはこのネタで苛められるに違いないと覚悟を決めた。

「あの神社、ご利益ないな。墓所に参らなかったのが拙かったかな」
 クスッと笑って薪は瓶を箱に戻した。後部座席の床に置いて、シートベルトに手を掛ける。
「すみません」ともう一度青木は謝った。ハンドルに置いた手に額を付けるようにして、顔を隠した。その深刻な様子に、シートベルトを付けようとしていた薪の手が止まる。露天風呂がポシャったのは確かに残念だけど、そこまで落ち込むことじゃない。もともと今日は厄落としに来たのであって、こちらはメインではないのだ。
「なんでそんなに落ち込んでんだ。目的は果たしただろ」
「すみません」
「だから謝るなって。おまえのせいじゃ」
 手首とハンドルの隙間から見えた青木の眉が苦しげに歪んでいるのに気付いて、薪は口を噤んだ。

 唐突に知る。あのとき薪が呟いた数字の意味を、青木は理解していたのだ。

「おまえのせいじゃない」と薪は繰り返した。それから強い口調で、
「もちろん僕が悪いんでもない」と当たり前のことを言った。
 何かを察して顔を上げる青木の眼を、薪は真っ直ぐに見つめた。そして自分の推測に確信を得た。やっぱり、青木は気付いている。
 厄年なんて勝手に誤解して、青木はそれを二人で出掛ける口実にしたがった。春先の事件は自分の隙から起きたのだという自覚もあったし、そのことで青木がひどく傷ついたであろうことも推察できたから彼の我が儘に付き合うことにした。と、今回の小旅行を薪はそんな風に考えていたけれど。
 青木はちゃんと分かっていたのだ。

『42』
 それは薪のせいで死んだひとの数だ。東条の事件でまた二人、犠牲者が増えた。

 言葉にすれば青木は必ず言ってくれる、「人が死ぬのはあなたのせいじゃない」。だから言えない。自戒の言葉が慰めを期待する言葉にすり替わる、そんな甘えを薪は許せない。
 青木は薪のそういった性格を知り尽くしていて、その言葉を口にすることができないならせめて薪の無聊を慰めたいと。思ってこの旅行を企画したのだろう。神社はむしろフェイクで、メインはこちらだったのだ。

「再入場できるんだろ? 時間もできたことだし、家康公の墓所、参って行こう」
 突然の話題転換にぽかんと口を開ける青木に、薪は楽しそうに言った。
「そう言えば、鳴竜見てないよな」
「見たいんですか? 鳴竜」
「興味はあるさ。音の多重反響現象を利用した建築方法を江戸時代の大工が確立していたんだぞ。すごいことだと思わないか」
「えっ。すいません、多重反響って?」
「……おまえ、本当に東大出てるのか」
 呆れた口調で呟かれて自分の愚を悟ったのか、青木は慌ててシートベルトを締めた。スイッチを押してエンジンをかける。

「いいか? 音は波動現象だから反射・屈折・回折・干渉・重ね合わせ等の特徴を持っている。鳴竜はその中の反射と重ね合せの効果が重なったものだ。平行する2枚の板の間で音を発すればそれは天上と床にぶつかり、跳ね返って重ね合わされ、増幅される」
 わかったか、と薪が理解度を確認すると、青木は、
「ベッドの中の薪さんみたいですね」と薪の顎が落ちるようなことを言い出した。
「オレが薪さん大好きって思うと、薪さんもオレにそれを返してくれるでしょ。繰り返すうちに増幅されて」
 何となくオチが予想できて、薪は後部座席に置いたばかりの紙袋を取り上げる。中の物を取り出して、逆手に構えた。
「その結果薪さんが大きな声で鳴くことに、――すみません、酒瓶は割れたら臭いんで勘弁してください」
 青木が頭を下げると、薪はチッと舌打ちして酒瓶を箱に戻した。赤い顔をして黙り込んだ薪がシートベルトを装着するのを確認して、青木は車をスタートさせた。
 楽しい旅行はまだ続くのだ。




*****


 ここから先はプロットにはなかった話です。薪さんの気持ちを理解して、そうとは言わずに彼を気遣う青木さん。それだけの話だったんですね。
 ……ここで終わっときゃいいのにねえ。
 なんで蛇足を書いちゃうかねえ。

 

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夢のあとさき(5)

夢のあとさき(5)





 それから3時間。車内の空気は激変していた。

「青木のせいだ」
 低く唸るような声で薪は呟いた。恨みがましい声だった。
「さっきは違うって言ってくれたじゃないですか」
「やかましい! おまえのせいだろ、これ!」
 これ、と薪が指差したのはフロントガラスで、目前には見渡す限り続く森の風景。道なき道に迷い込んではや3時間、まだ日暮れには早いはずだが、生い茂った木々の枝で日光が遮られているのか辺りは夜のように暗く、ライトなしでは進むことも困難だった。

「おかしいですねえ。来るときは一本道だったのに」
「一本道に見えても枝道がたくさんあって、その一つに入ってしまったんだろう。自分を過信してナビ入力を省いたりするからだ」
 森の奥を見透かすように、薪は強い目で前方を睨み、さっと右手を上げて、
「いいからさっさと公道に戻れ。僕の勘ではあっちだ」
「さっきそれで崖から落ちそうになりましたよね」
 事件の勘は外したことがないのにそれ以外の勘はまるで当たらないのがこの人の特徴で、商店街の福引きですらポケットティッシュ以外もらったことがない。以前科警研の忘年会でやったビンゴゲームでは、なんと25マス中の未開マス4つでビリッケツというあり得ない記録を打ち立てていた。12リーチの確率は約1/2700。逆にスゴイとみんなに感心されて、無言でカードを破り捨てていた。

「森が深いせいか、ナビも動かないんですよ。困りましたね。このまま日が暮れてしまったら……そうだ、薪さんの救難バッジを使えば」
 青木は薪の襟を見た。その裏側には、小さなバッジが取り付けられている。スイッチを押すと救難信号が発信され、信号を受信した官房室の警備担当者からすぐさま当該県警本部に救助命令が下る仕組みになっている。小野田が薪の安全の為に用意してくれた有難いシステムだが、県警から消防署から、何十人もの人員が駆り出されることになる。ちょっと道に迷ったくらいで気軽に使えるものではない。それに。
「簡単に言うなよ。プライベートでバッジなんか使ったら、中園さんになんてイヤミ言われるか」
 薪の直属の上司である官房室付首席参事官の中園は、薪の若い恋人のことを当てこするような皮肉が得意だ。しかもそれを小野田の前でぬけぬけと言うから性質が悪い。
 隠し撮り写真を突きつけられて「別れなさい」と命令されたくらいだから、中園が自分たちの関係を壊したがっていることは明白だ。が、最近の彼の嫌味には冷やかしのニュアンスが混じっているような気がする。二人の仲はある程度認めていて、その上で揶揄しているような。小野田が中園の戯言にいちいち目くじらを立てるようになったのも、そのせいかもしれない。

「でも薪さん。この暗さは少し、えっ?」
 青木が急ブレーキを掛け、薪は前方に頭を振られる形でつんのめった。シートベルトにロックが掛かり、強く胸を押されて息が止まる。
「なんだいきなり。――あれ?」
 乱暴な運転に文句を言おうと横を向き、青木の視線を追って上方へと顔を上げる。そこにはぽっかりと浮かんだ満月。
「まだそんな時間じゃないよな」
 薪の声に、青木は無言で頷いた。腕時計は5時5分前を指している。5月の日没は午後7時ごろ。どう考えてもおかしい。

「昨夜は三日月だった気がするけど。違ったか」
「さあ」と青木は首を振り、ドアを開けて車外に出た。公道へのルートを見つけ出そうと耳を澄ます。
「あっちの方から何か聞こえます。人の声みたい」
 ちょっと見て来ますね、と青木はそのまま右手前方の藪に入って行った。
 一人車中に残って、薪は腕の時計を見る。5時2分前。見間違えたわけではない。車のフロントパネルに埋め込まれたデジタル時計も、同じ時刻を指している。なのに上空には月が輝いている。
 辺りが暗かったのは木々が日光を遮っていたからではなく、日が沈んでいたから? では時刻はどう説明する? 2人の腕時計と車の時計、合わせて3台の時計が同時に狂って?
「ありえない」と薪は呟いた。
 薪はこれまでに何度か不可思議な体験をしてきた。その経験で鍛えられた勘が告げていた。薪の勘は仕事以外は当たらない、しかしそれには例外がある。悲しいことに、悪い勘は仕事以上に良く当たるのだ。

「青木、ちょっとおかしい。あまり離れない方が―― 青木?」
 ついさっきまでは下生えを掻き分けて進んで行く青木のジャケットが見えていたのだが、ちょっと眼を離した隙に見えなくなった。森の中で光源が乏しいため、少しでも車のライトから外れると視認できなくなってしまうのだ。
 探しに行って逆に迷ってしまう危険性を考え、薪は携帯で青木に連絡を取ろうと思った。ポケットから取り出して電源を入れる。だが。
「ちっ。やっぱりか」
 圏外の表示が出ていて通話ができない。現代の日本にこんな場所があっていいのか。
「青木! 戻ってこい!」
 窓を開けて怒鳴る。返事がないので、派手にクラクションを鳴らした。それでも青木は戻ってこなかった。

「ったく、役に立たないボディガードだな。僕が野犬にでも襲われたらどうするんだ」
 薪は諦めて車から降りた。青木が向かった方向へ茂みを分けて進む。
「おい、青木! どこまで行っ、――!」
 すぽんと床が抜けた。
 のではなく、穴に落ちたのだと理解した時には急斜面の草の上を滑り台のように滑っていた。何とかその場に留まろうと足でブレーキを掛けたが、つるつる滑る座面の草に無効化された。いったい何という草なのか、まるで蝋でも塗ってあるように滑るのだ。
 心の中では絶叫ものの速度だったが、人間、落ちるときには上手く声が出せないものだ。加速度とGで舌が上顎に張り付き、口を開けるのが困難になる。暗闇の中、どこまでも落ちていく恐怖はかなりのもので、薪は身体が竦み上がるのを感じた。

 まずい。このままいくと最終的には何処かに衝突する、そうしたら怪我をするかもしれない。青木ともはぐれてしまったし、動けなくなったら救難バッジで助けを呼ぶしかないが、こんなに森の奥まで来てしまって果たして救助が間に合うだろうか。
 そんな不安に駆られて、薪は奥歯を噛み締める。
 いつの間にこんなに臆病になったのだろう。いつ死んでもいいと思っているなら、恐怖なんか感じないはずなのに。今の自分は、この世に未練が多過ぎる。

 滑り台の終わりはやや唐突で、柔らかい壁のようなものに思い切り打ちつけられた。衝撃に脳震盪を起こしたらしい。くらくらと回る世界は闇一色で、何も見えないのに回っていると感じるのは不思議だと、そんなどうでもいいことを最後に薪の思考は途切れた。




*****


 蛇足というか楽しいデートが台無しというか。
 でも書いてて楽しかったのはこっちだなー。人生、無駄なことの方がなんでも楽しいんだよね。

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夢のあとさき(6)

 こんにちはー。
 
 ここ2ヶ月ばかり、鈴薪妄想しかしていないことに気付きました、あおまきすとのしづです。おかげで切実な青薪不足です。
 こういうのも自業自得っていうのかな。




夢のあとさき(6)






「薪さん、起きてください」
 揺り起こされて気が付くと、そこは車の中だった。

「着きましたよ。早く行きましょ」
「着いたって、どこに」
「東照宮ですよ。家康公の墓所、お参りするんでしょう?」
 青木の言葉に周りを見回せば、相も変わらずごった返す人混みと神社を抱く広大な森。
 思いついて薪は、眼前の男の滑らかな額を手のひらでパシッと叩いた。「痛い!」と大袈裟な悲鳴を上げる男に冷ややかに言い放つ。
「ダメだろ。ボディガードが対象から離れちゃ」
「すみません。……え?」
 身に覚えがなくても、青木は薪に怒られたら条件反射で謝るクセが付いている。夢の中の出来事を持ち出して八つ当たりされるのなんかしょっちゅうで、でもその理不尽を飲み込めないようではこの人とは付き合えない。

「絶対に僕から離れるなよ」
 そう言って、薪はシートに置かれていた青木の手を握った。温もりを感じて安堵する。夢で良かった。
 何となく放し難くて、人混みを幸いに手をつないだまま歩いた。他人の眼は、その時は気にならなかった。知り合いにさえ会わなければいいのだ。青木はとても嬉しそうで、それだけでも危険を冒す甲斐があると薪は思った。

 入口に近いこともあって、先に鳴竜を観ることにした。過剰な見学者数に薬師堂は入場制限がされており、薪たちは2回の入れ替えの後ようやく天井の竜と対面となった。

 お堂の中ほどに柵で仕切られた一画があり、そこに男性の係員がいた。修行僧のような恰好をして、拍子木を持っている。彼はその拍子木を部屋の隅と竜の頭の位置で交互に叩き、響きの違いを観光客に聞かせていた。部屋の隅で打ち鳴らされた拍子木がカンと乾いた音を立てるのに、竜の頭の下で発せられた音は、くわんくわんと長く響く。
「今日は鳴竜も大忙しですね」
 青木は面白そうにその様子を見ていたが、構造に興味があった薪は、天井の板の形状や材質などを観察していた。天井一面に描かれた竜、あれは只の画だ。今にも動き出しそうな迫力のある絵だが、このアトラクションの中枢は天井板が形成する緩やかなアーチなのだ。両端を僅かに曲げることに因って、跳ね返った音を部屋の中心に集めるような造りになっている。重なった音は増大し、人の耳に竜の鳴き声になって届く、という仕組みだ。

 こけおどしの竜に関心はない。そんな薪の態度が癇に障ったのか、一度も天井の竜を観ようとしない彼の耳に非難がましい声が響いた。
『何故おれを見ない?』
「おまえは只の画だろ。本当にすごいのはこれを造った、――あ?」
 竜に話しかけられた気がして上を見上げると、竜がこちらを睨んでいた。
「……いかん。寝ぼけているらしい」
 眼を覚まそうと首を振る。肩をぽんと叩かれて振り向くと、そこに竜が立っていた。

「なんだ。寝ぼけてるんじゃなくて夢を見ているのか」
『見かけによらず肝が据わっているな』
「この世に怖いものなど何もない」
 それは嘘だったけれど、竜自体は本当に怖くなかった。彼の見かけが、何とか言う漫画に出てくる願いを叶えてくれるドラゴンにそっくりだったせいもある。あれは人に危害は加えなかったはず。だいたい、神社を守っているのだから悪い竜のはずが無い。墓荒らしでもしに来たなら良心の呵責もあろうが、宮を維持するためのお布施まで払ったのだ。感謝されこそすれ、恨まれる理由はない。

「見る価値も無いようなことを言って悪かった。立派なものだ」
『素直でよろしい。その心掛けに褒美をやろう』
「じゃあひとつ、深田○子ちゃんを僕のお嫁さんに」
『たやすいこと』
 夢だと思って言いたい放題、言ってみたのが拙かった。
 竜は頷くと、口から息を吐いて薪に吹きかけた。もくもくと黒い雲のようなものが周りを取り囲み、あっという間に薪は周囲から隔絶される。本格的に夢だなと瞑目し、今までの経験から、これで何も見えなくなるか気を失うかすると夢から覚めるものと予想を立てた。

 黒雲の中で意識が途切れる瞬間、ああ、また家康公の墓所を参り損ねた、と薪は思い、次に目覚める場所があの森奥の穴の底でないことを祈った。





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夢のあとさき(7)

 鈴木さんの命日に合わせて鈴薪話を公開しようと思ってたんですけどね。8月号のメロディで東照宮のやつが(^^;)
 そんなわけで今年のお盆はどっぷり青薪さんです。
 
 このお話が終わったら鈴薪さんに移行します。3話で120Pくらいあるので、しばらくは鈴薪さん一色ですね。Eさん、待っててね~。





夢のあとさき(7)





「薪さん、起きてください」
 気が付くと、そこは見慣れた自宅マンションの地下駐車場だった。

「竜は?」
「竜? どんな夢見てたんですか?」
 なんでもない、と薪は左右に頭を振った。遠出したせいか、強い疲労を感じた。
 薪が車から降りてエレベーターに向かうと、二人分の荷物を持って後ろから着いてくるはずの青木がいつまで待ってもやって来ない。おかしいと思って振り向けば、青木はようやく車から降りたところだった。
 遅い、と文句を言おうとした薪に、青木は薪のショルダーバックを差し出した。
「カバンをお忘れですよ」
「……今日は寄って行かないのか?」
「遠慮しておきます」
 平日のアフターだってシンデレラタイムの22時までは部屋に居座る青木が、しかも今日は休みなのに。一体どうしたことか。

 珍しいこともあるものだ、と薪はその時、深くは考えなかった。ひどく疲れていて、青木が部屋に来ても何もしてやれないと思ったせいもある。だから一人でエレベーターに乗り込んだ。ドアの前まで送ってくれないことも荷物を薪に持たせることも、普段の青木ならやらないことだと気付いたのは、網膜認証のスキャンが亜麻色の瞳をなぞり終えたときだった。
「どうしたんだろう、あいつ」
 口の中で呟きながらドアを開けると、驚いたことに部屋には明かりが灯っていた。朝が早かったから照明を点けて支度をし、そのまま消すのを忘れてしまったらしい。
 自分の失敗に舌打ちし、次の瞬間、薪はその場に棒立ちになった。

 深田○子がいる。

 呆然と立ち尽くす薪に、彼女はスリッパの音を響かせて走り寄ってきた。
「お帰りなさい」
「すみません、部屋を間違えました」
 慌てて外に出てドアを閉める。プレート番号を確かめる、間違いなく自分の部屋だ。てか、網膜認証システムを導入しているマンションでどうやって部屋を間違えるって言うんだ。薪はもう一度ドアを開け、厳しい口調で彼女を問い詰めた。
「君はだれだ」
「やだ。何を言ってるの?」
 グラビアそっくりの笑顔で彼女は笑い、白いエプロンに包まれた豊かな胸の前で両手の指を組み合わせた。
「恭子よ。あなたの妻です」

 薪は無言で部屋を出た。廊下を猛ダッシュして階段を駆け下りる。地下駐車場に走り込み、外に出ようとしていた車のフロントに両手を付いた。キキィッ、と鋭いブレーキ音がコンクリート製の地下室に木霊する。
「危ないですよ、薪さん」
 運転席の窓から顔を出した青木の顔は困惑していた。が、薪の困惑は青木の比ではない。乱れまくった心のままに、薪は大声で叫んだ。
「僕の家にフカキョンがいる!!」

 驚愕するものとばかり思っていた恋人の反応は、いささか微妙だった。さほど驚く様子もなく、薪のように顔色を変えることもなかった。それどころか彼は小さく首を傾げ、不思議そうな顔つきで、
「当たり前でしょ。奥さんなんですから」と、薪が飛び上がるようなことを平然と言ってのけたのだ。
「なんだそれ?! てか、なんで納得しちゃうんだ。おまえ、僕の恋人だろ」
「えっ。いやあの、確かにオレは薪さんが好きで何度もアタックしましたけど、薪さんは元々ノーマルだし、オレのことを好きになってくれなくて」
「そんな時期もあったけど今は」
 おまえを愛してる、と言おうとして薪は、その衝動を抑える。マンションの駐車場は住人共有のスペース、しかも出口に程近いこの位置で車のエンジン音に負けない声量でそれを叫べば、通りまで聞こえてしまう。
 それに、この状況はどう考えてもヘンだ。自分の奥さんを忘れるなんて。

 詳しい事情が知りたくて、薪は青木に尋ねた。
「僕と恭子ちゃんは、どうやって知り合ったんだ?」
「去年、ストーカー被害に遭って警視庁にいらした恭子さんに、前々からファンだったと薪さんがサインをお願いしたのがきっかけで交際が始まり、3ヶ月前に彼女と結婚式を」
「結婚式?」
「テレビまで入って、すごい騒ぎでしたよね」
 すっと薪は眼を細めた。右の拳を口元に当て、この喜劇の舞台裏を見抜こうと精神を集中させる。
 どうしてこんな美味しい展開、いやいや、バカげたことに? 問うまでもない、先刻のドラゴンの仕業だ。
「冗談の利かないやつだな」
 今更、あの願いは取り下げだと言っても通じないだろう。竜の力がどの程度のものなのか分からないが、薪が取る行動は一つだ。すなわち。

「薪さん?」
 駐車場内の徐行運転中で自動ドアロックが未だだったのを幸いに、薪は助手席のドアを開けた。シートベルトを締め、「出せ」と短く命令する。
 家に帰らなくていいんですか、と訊いてくるのに腕を組んでそっぽを向いてやったら、青木は軽い溜息を吐いて車をスタートさせた。力関係は変わってない。これならイケる。

 曲がり角に来るたびに、右、左、と指示を出し、そこに停めろ、と薪が最後に命じたのは所謂ラブホテルの駐車場だった。
 青木は戸惑っていたが、薪が迷いない足取りでホテルの入り口を潜ると、おずおずと着いてきた。フロントに並んだ3台の受付機の右端に立ち、勝手に部屋を決めて現金を入れる。確認ボタンを押すとカードキーが出てくる。昔は受付に人がいたそうだが、今はこの形のホテルが主流だ。
「あの、どうしてこんな所に?」
「初めてか? 僕もこういうとこ、あんまり使ったことないけど」
 部屋はシンプルで、余計なものは一切なかった。空室リストには遊び心満載の部屋もあったが、今日はそういう気分じゃない。

 ドアが閉まるが早いか、薪は服を脱いだ。青木は「ひっ」と引き攣った声を上げて後退り、口に右手の甲を当てて赤くなった顔を隠した。でも、薪から眼が離せない。このまま押せると判断し、薪は脱いだシャツをソファに放り投げた。
「何やってんだ。おまえも早く脱げ」
 青木はそれには答えず、ロボットみたいにカクカクした動きで薪の裸体から目を逸らした。が、彼が誘惑に耐えられないことを薪は知っている。横目でちらっと薪を見る、瞳は若い情熱に潤んでいる。

「なんだ、脱がして欲しいのか」
 下着姿でスタスタ歩き、壁にへばりついている大男に手を伸ばす。上から順番にワイシャツのボタンを外して、中に手を差し入れた。顕わになった裸の胸に頬を押し付ける。
「ま、薪さ……」
「動くな」
 睨み上げると、青木は口を噤んで身体を硬直させた。ゴクリと唾を飲む音が聞こえて、男らしい喉仏が震える。そうとう緊張しているらしい。
「よし。いい子だ」
 猫なで声で言って、薪は喉の奥でククッと笑った。

 たまにはこういうのも楽しい。本当に楽しい。焦った青木の顔とか、抵抗している風に見えて本当は脱がされるのを期待してる息遣いとか、身体が密着すると自然に揺れてしまう彼の腰とか。
「クセになりそうだな」
 ベルトを抜いてズボンを落す。下着の前が内部から押し上げられているのを認めて、薪は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「ほら見ろ。おまえのスカスカの脳みそが僕のことを忘れても、おまえの身体は僕を忘れてない」

 薪が下着に手を掛けると、青木は初めて薪の手を拒んだ。細い手首を遠慮がちに握り、自分から遠ざける。
「できません。奥さんに申し訳ないです」
 きれいさっぱり忘れやがって、今のおまえの方が僕に申し訳ないわ、どあほー。
「そのセリフ、5分後に言えたら作戦の変更を検討してやる」
「作戦?」
「いいから来い。思い出させてやるから」




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夢のあとさき(8)

 こんにちは。
 日曜日、過去記事にたくさんの拍手をありがとうございました(〃▽〃) ご新規さんも常連さんも、いつも励ましていただいてありがとうございます。
 お礼のRです。(←え)
 追記からお願いします。







夢のあとさき(8)








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夢のあとさき(9)

 お盆休みくらい頑張って更新してみよう。
 1日目。




夢のあとさき(9)






「青木」と呼ばれて振り返った、途端にくちびるを押し付けられた。ニコッと笑ってコーヒーカップを手渡してくれる、パジャマ姿の可愛い恋人。
 厄祓いに行った日から、薪は毎日機嫌が良い。ご利益覿面だ。旅行帰りにラブホテルなんて初めてだったし、東照宮って本当は縁結びの神社なんじゃ、などと心の中で思ってはニヤニヤしっぱなしという青木にとっては夢のような日々が続いていた。

「週末は休みが取れそうだ。大型連休が終わったばかりだから、東照宮も空いてるんじゃないか」
「また神社に行くんですか?」
「鳴竜に火をつけてやるんだ」
 先週ホテルのベッドで青木が嫉妬に狂うようなことを薪が言うから、他の人間のことなんか考えられなくなるように徹底的に責め、いや、可愛がってやった。「僕は悪くない、鳴竜が悪いんだ」と意味不明のことを叫んでいたが、どうして東照宮の鳴竜に責任転嫁がされたのか、薪の思考経路は相変わらず謎だ。
「いいですね。リベンジと行きますか」
 あの悪夢のような渋滞さえなければ、いろは坂をドライブがてら中禅寺湖まで足を延ばしてもいいし、高原を訪れてもいい。ニッコウキスゲの盛りも過ぎていないだろう。

「こないだもらった優待券、まだ使えるかな」
「ええ。期限は3ヶ月くらいあったと、あ、でも」
 頷きかけて青木は気付く。次の日曜日は9日。鈴木の月命日だ。
 毎月この日は、薪は絶対に青木を拒む。あからさまに彼の名前を出されたことはないし、薪も義理立てしているつもりではないのだろうが、要は気分になれないのだろう。「悪いけど」と言う断り文句に、彼のそんな気持ちが現れている。薪が青木の誘いを断るとき、しおらしい態度を取るのは自分に引け目があるときだけだ。仕事なら仕事、休養に充てたいなら休みたいとハッキリ言う。誘いを断られた青木の落胆なんて、この人は基本的に考えない。
 察しの良い薪のこと、青木が具体的な言葉を用いずとも言いたいことは分かるはず。が、その日の薪は「なんだ?」と無邪気に首を傾げた。

「いえ、何でもないです。えっと、優待券使うと半額ですって。よかったですね」
「浮いた金で地酒を頼もう。こないだのあれ、美味かったよな」
「非常に残念ですが賛同を求められましても一滴残らず薪さんの口に入ってしまいましたのでお答えできません」
 仕事の報告をする口調で青木が丁寧に反論すると、薪はふいっと上方に眼を逸らし、「だっておまえ運転だし」と口の中で言い訳した。
「今度はオレにも飲ませてくださいね」
「わかった。じゃあ、今回は泊まりだな。昼間の風呂が森の中だから、夜の風呂は渓流沿いとかいいんじゃないか」
「そうですね。この宿なんかどうです?」
 山ほど集めたパンフレットと旅行雑誌を広げて、掲載された一枚の写真から二人で想像を膨らませる。薪は心の底から楽しそうで、彼の人のことは胸の片隅にも留めていないように見えた。
 彼が言い出さないものを青木から言及することはない。後で気付いて取り消されるかもしれないけれど、こうやって薪と一緒に旅行のプランを立てるのは青木の一番の楽しみなのだ。

 その週の青木は、薪からキャンセルの通知がいつ来るかと気に掛けながら過ごした。約束を反故にされても落胆を表に出さないよう、薪に話しかけられるたびに身構えたが、金曜日の夕方に「明日な」と手を振られて、これは明朝ドタキャンか、当日キャンセルは宿泊代100%返ってこないんだよな、と少々セコイことを考えた。
 翌朝、薪からの電話がないので約束の時間に彼のマンションを訪れると、薪はボストンバックを片手にマンションの車止めで待っていた。「晴れてよかったな」と上機嫌で車に乗り込む。自分が言うべきではないと思ったけれどどうにも我慢がならなくて、青木はとうとう彼の名前を出してしまった。
「少し回り道になりますけど、鈴木さんのお墓に寄って行きましょうか」
「鈴木の? どうして?」

 不思議そうに尋ねる薪に、だけど訳が分からないのは青木のほうだ。鈴木の名前を出すとき、未だ薪はその瞳に苦渋を浮かべる。自分の手で殺めてしまった親友の命を、奪ってしまった彼の未来と幸福を偲んで、身を切り裂くような罪悪感に打ちのめされる。鈴木がどんなに薪の幸せを願って死んでいったか、その事実が分かっても薪の痛みは変らない。鈴木のためにも頑張って生きようという決意と、自責の念はまったく別物だ。己が内から発せられる人殺しという罵倒が、薪の中から消えることはない。
 ところが、その時の薪からは一欠けらの後悔も痛みも感じられず。薪が彼の死を乗り越えてくれることを望む青木にとってそれは喜ぶべきことなのに、何故かひどく不安になった。

「どうしてって。明日は鈴木さんの月命日でしょう」
 遺族に気を使って当日の墓参りは避ける、青木はそのことも知っている。明日は帰りが遅くなるかもしれないから、行くとしたら今しかない。青木がそこまで口にしたのに、薪は助手席の窓に肘を載せた姿勢で細い眉根を寄せ、不満そうに唇を尖らせた。
「鈴木の墓は横浜だぞ。回り道なんてもんじゃないだろ」
「でも」
「それに、命日じゃなくて月命日だろ。命日にはちゃんとお参りするけど、月命日まではなあ。いくら親友だったからって、もう7年も経ってるし」
 青木もそれが普通だと思う。一生を共にすると誓った伴侶でさえ、3回忌を過ぎた辺りからは月命日は自宅の仏壇を飾るくらいで済ませ、墓所を参るのは彼岸と盆くらいになっていくものだ。
 だが、薪の場合は普通ではない。鈴木は薪に殺されたのだ。

「それじゃ鈴木さんが……ちょっと気の毒って言うか」
「ああ、不幸な事故だった。鈴木は運がなかったんだな」
 今度こそ、青木は驚きで声も出せなかった。
 不幸な事故? 運がなかった?
 薪の口から鈴木の事件が、そんな軽い言葉で語られたことは一度もない。いや、あってはならない。

「あの時は僕も辛かった。鈴木は一番の親友だったから、ずい分泣いたよ。でもさ」
 薪は澄んだアルトの声にほんの少しだけ悲しみを滲ませ、しかしすぐにその色を明るく変えた。ハンドルに置いた青木の左手をぎゅっと握る。
「いつまでも過去に拘ってちゃダメだろ。人生楽しまなきゃ」
 それは青木が薪に、何度も何度も繰り返し訴えたことだったけれど。いざこうしてそれを薪の口から聞くと、えらい違和感だった。
 薪は鈴木を殺した、だからいつまでも自戒の煉獄に囚われていろと、そんなことは思っていない、断じて。でも――でも。

「青木。どうした?」
 狭い車中で仰のくようにして、薪は自分の頭をハンドルと青木の顔の間に潜り込ませた。楽しそうな彼の様子に青木は戸惑ったが、考えてみたら全然おかしくない。これから恋人と二人で旅行に出掛けるのだ。はしゃいで当たり前だ。
「いえ、何でもないです。行きましょうか」
 青木はにっこり笑って薪にシートベルトを締めさせ、慎重に車をスタートさせた。

 何を考えていたのだろう。憂いの無い薪の笑顔、自分はそれが見たくて彼の恋人になりたいと思ったのではないか。屈託なく笑える薪に喜びこそすれ、違和感を覚えるなんて。
 過去を乗り越えるときは、唐突に訪れるのかもしれない。あの日聞こえてきた滝の音のように、次第に薄れていくのではなく、ある日を境に吹っ切れるものなのかも。
 交通量の少ない早朝の道路を快適に走りながら、青木は自分の中に生まれた違和感に折り合いをつけようと、そんなことを考えていた。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

夢のあとさき(10)

 お盆休みくらい頑張って更新してみようとか口ばっかですみませんー(^^;
 15日はオットの誕生日で、家族で温泉行ってお祝いして、昨日の夕方帰ってきました。13日の夜にも義弟家族とさんざん飲んだんですけどね、また飲みすぎちゃいましたよ★




夢のあとさき(10)





 森林の露天風呂は期待通りの解放感だった。オープンして2年目で設備も新しく、浴槽に身を沈めると檜の良い香りがした。
 長時間の運転で凝り固まった背中を反らし、青木は大きく息を吐いた。隣には柔らかな表情で景色を眺める薪の横顔がある。その美しさを横目で見ながら青木が肩を回していると、視線に気づいた彼は青木に微笑みかけた。

「おまえも肩が凝る年になったか」
 笑いながら、青木の肩を揉みほぐしてくれる。背骨と肩甲骨の間をぐいぐい押されると、温泉効果で身体が温まっているからか、たちまち肩が軽くなっていく気がした。
「ありがとうございます。もう充分です」
「遠慮するなって」
「薪さんの手が疲れちゃいますよ」
「それはおまえの方だろ。運転、お疲れさま」
 薪にやさしい言葉を掛けてもらえたのは何年ぶりだろう。いやまさか年単位ってことはないか、と苦笑して記憶を辿るがとんと思い出せない。罵られた記憶ばかり甦ってきて悲しくなった青木はその作業を中断し、目前に広がる新緑の風景に心を移した。
 来てよかった、と青木は幸福感に浸りきる。眺めはいいし空気は爽やかだし薪はやさしいしで、最高の気分だ。

「ありがとうございました。お返しします」
 振り返って薪の肩をつかみ、後ろを向かせる。揉もうとすると、肩に掛けた手を握られた。
「肩よりも、こっちを」
 そう言って薪は、青木の手を自分の胸に宛がった。もう一方の手は脇下を通して腰の位置に、薪のそこはすでに硬くなっていた。
「おまえの裸見てたら何だかそんな気分になっちゃって。いいだろ」
 嬉しいけれど、ここではマズイと思う。男同士で貸切風呂の時点で限りなく黒に近いグレーなのに、喘ぎ声なんか聞こえてきたら追い出される。

「此処からは見えませんけど、隣も同じ造りになってて人がいるんですよ。ちょっと大きな声を出したら聞こえちゃいます」
「いいじゃないか。聞かせてやれば」
「えっ?」
「隣は若いカップルだ。声を聞いたら自分たちだってしたくなる。そうなればお互い様だ。文句なんか出ないさ」
 薪は自分たちの関係を他人に悟られることを極端に恐れていた。その彼が、こんなことを言うなんて。

「青木。早く」
 さばっと湯から上がって板張りの床に座り、薪は大胆に青木を誘った。湯の中ではのぼせてしまうのと、理由はもう一つ。
「ここにキスして」
 淫蕩に腰を揺らして湯中ではできないことをねだる。薪の顔つきは妖しかった。
 蛇に睨まれたカエルというかローレライに魅入られた舟人というか、とにかく逆らえるはずがない。これは青木の意志が弱いのではなく、薪が妖艶すぎるせいだ。そう思いかけて青木は、何でも人のせいにする恋人の癖が伝染ったかと恥じ入るような気持ちになった。
「ああ、青木、ああ、いい」
 口に含むとすぐに、薪は派手に善がり出した。腰を浮かせて青木の手を取り、後方を探らせる。青木の指を掴んで内部に導き、気持ちよさげに腰を捩った。
 先に進むことを躊躇う青木の腰に、薪の脚が絡んだ。脚で抱き寄せられる。そこに宛がわれたら、さすがに我慢が効かなくなった。薪は恍惚とした表情で青木を迎え入れ、結局は二人して溺れた。

 放った液体を洗い流した後、もう一度湯に浸かった。時計を確認すると10分も経っていなかった。長い時が過ぎたように感じたが、錯覚だったらしい。何だか得した気分だ。
 湯船の壁に背中を預け、自分の膝に座った薪の柔らかい太ももを撫でながら、青木は彼の後ろ首にキスをした。背後からかぶさるように緩く抱きしめて、耳の穴に舌を入れる。薪はくすぐったそうに笑った。
「なんか最近、積極的じゃないですか。こないだの旅行の帰りだって」
 強引にホテルに連れ込まれた。あんなにがっついた薪は初めてだった。
「あれは違うんだ。鳴竜が」
「あの時もそんなことを言ってましたよね。深田○子ちゃんが奥さんになった夢を見たって」
「夢じゃない、本当なんだ。願いを叶えてやるって言われて冗談で『恭子ちゃんを僕のお嫁さんに』って言ったら本気にされて。でも僕はおまえが好きだから、おまえの記憶を戻そうと必死で」
「……長い上に凝った夢ですね」
 東照宮で見た鳴竜が印象に残って、それでそんな夢を見たのだろう。竜が願いを叶えてくれるなんて、まるで漫画だ。夢以外の何物でも―― 夢?

「あれ?」と思わず声を上げたら、膝の上の薪に「どうした」と尋ねられた。
「いやあの、オレも最近、そんな夢見たなあって」
「夢? おまえも恭子ちゃんと? ていうか、したのか?!」
 そこに突っ込むか。
「ちがいます、竜の方です。――いや、違うな。薬師寺じゃなかった。もっと暗くてじめじめした所で、『何か一つ願いを叶えてやる』って言われたような」
「暗くてジメジメした所? 不思議だな、僕もその夢を見たぞ。森の中で迷って、おまえを探しに行ったら深い穴に落ちたんだ。草の上をどこまでも滑っていって」
 眼が覚めたら東照宮の駐車場だった、と薪は言った。
 それは青木も覚えている。薪を起こしたら出し抜けに額を叩かれて、「対象から離れるな」と叱られた。その時に見ていた夢のことだろう。
 ふと、青木は首を傾げた。
 では自分は、いつ夢を見たのだろう? 運転中に居眠りなどしていない。ならばもっと以前の記憶か。いや待て、暗い場所に落ちる前に森の中を彷徨ったような、自分を呼ぶ薪の声が遠くから聞こえてきたような――。

「青木。そろそろ時間だぞ」
 薪に声を掛けられて、青木は我に返った。薪はいつの間にか湯から上がって、ドライヤーで髪を乾かしていた。時計を見れば残り時間は10分ほど。せっかく薪と二人きりで露天風呂にいたのに、考え事に時間を割くなんてもったいないことをした。それも、どうでもいい夢の話に。


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夢のあとさき(11)

夢のあとさき(11)






 貸切風呂を出て、共有の休憩スペースでまずは冷たいビール、次に頼んでおいた地酒を飲んだ。車は駐車場に停めてあるが、今宵の宿はこの施設の系列ホテルだ。フロントに頼めば係員がホテルの駐車場まで車を移動してくれるし、宿泊客はホテルと此処を往復するシャトルバスに乗せてもらえる。運転手の青木には嬉しいサービスだ。
 古民家風のラウンジは広々として、木のぬくもりに満たされていた。桟の無い大きな窓の向こうに広がる風景は、風呂から見えたのと同じ新緑の森。風に揺れる枝葉に木漏れ日がキラキラと輝いて、実に美しい。
 屋外に張り出した小縁に足湯のスペースが取ってあって、そこに座ると直に森の空気を味わうことができた。酒瓶を一本空けるころには身体の火照りも治まったので、そちらに席を移すことにした。
 二人お揃いの浴衣姿で差しつ差されつ、幸せを絵に描いたような休日だった。傍らに薪がいればそれだけで青木は天国だが、旅先の薪は特にかわいい。職場から離れるせいか、ガードも甘くなるし、先刻のような大胆な真似もしてくれる。

 休憩スペースには何人かの客がいたが、次の予定が詰まっているのだろう。青木たちのように長居をする客はいなかった。薪にも気になる観光地があるかもしれないと考え、二本目の酒の封を切る前に、青木は彼に聞いてみた。
「チェックインの時間にはまだ早いですね。薪さん、どこか行きたい所ありますか? と言ってもオレ、飲んじゃったんで車は無理ですけど」
 湯上りの酒が利いているのか、薪はとろんとした瞳を青木に向けた。それから青木の肩に自分の身体を持たせるようにして、
「いい。おまえとこうしていたい」と眼を閉じた。
 青木も同じ気持ちだった。独りで街を彷徨う人間が孤独を感じるように、知人のいない人混みは風景と一緒だ。ここに自分たちを知っている者はいない。こうして彼を抱き締めても誰にも咎められないし、恥ずかしいとも思わない。

「薪さん。楽しいですか?」
「うん。すごく楽しい」
 素直な答えが返ってきて、青木はますます彼が愛しくなる。本当に旅先の薪はかわいい。
「夜も楽しみだ」
「渓流沿いの露天風呂ですからね。気持ちいいですよ、きっと」
 違う違う、と薪は眼を伏せたまま笑って、もっといいこと、と悪戯っぽく青木を見上げた。
「また飲む気ですか? お酒はほどほどに」
「違うって。こっちの方」
 細い指がそっと青木の股間を撫でていく。ベッドの誘いだと分かってびっくりした。あの薄い薪がこんな、さっき風呂の中でしたばかりなのに。
「まさか、さっきので打ち止めとか言わないよな?」
「そういうわけじゃありませんけど。あの……失礼ですが、薪さんは1日に複数回のエッチはできないってご自分で」
「失礼な。僕はまだ40になったばかりだぞ。一晩に5回はいける」
「男は30を過ぎたら簡単に僧侶になれるんじゃなかったんですか?」
「なんだそれ。どこの世界のED患者だよ」
 あははと笑い出した、薪は真に楽しそうで。朝から続いていた違和感を、またも青木は遠くへ押しやる。薪がこんなに無邪気に笑ってくれるのに、余計なことは考えたくない。

 薪は青木の手を取って自分の後方に導き、その大きな手のひらの上にふざけて自分の尻を乗せた。みっしりと詰まった肉の感触。薪の腰は細いけれど、その触感はすこぶる官能的だ。
「こっちはおまえが僕に教えたんだぞ。ちゃんと責任取れよ」
「それはもう。一生面倒見させていただきますから、浮気なんかしないでくださいね」
「するわけないだろ。おまえが僕には最初で最後の男だ」
 ムードに流されたのか、薪はウソを吐いた。女性のことは知らないが、薪の最初の男は鈴木だ。鈴木以外に、彼が自分を全部差し出した相手はいなかった。
 青木にとって薪の過去の情事は嫉妬せずにはいられない事実だが、薪には大事な思い出だろう。青木だって、昔の恋人のことを何一つ覚えていないわけではないし、忘れたいとも思わない。

「気を使ってくださるのは嬉しいですけど。薪さんの最初の人になれなくても、最後の人になれたらオレは最高に幸せです」
「ちょっと待った。聞き捨てならないな。いつ僕がおまえ以外の男と寝たって言うんだ」
「すみません。20年以上前のことなんて時効ですよね」
 青木はぺこりと頭を下げた。薪が本気で怒っているように見えたからだ。これは青木が悪かった。恋人同士の睦言の最中に、過去の男のことなど口にすべきではなかった。しかし薪の怒りは、青木の無神経さに対してのものではなく、認識の相違によるものだった。

「20年前? 何言ってんだ、僕はおまえと会うまで男性とは経験なかったぞ」
「え。だって、薪さんは鈴木さんと」
「鈴木? おまえ、僕と鈴木のことをそんな風に見てたのか?」
 心外だ、と薪は眉根を寄せ、不愉快そうに青木の手の上から尻を退けた。
「鈴木とは親友だったけど、そんな気持ちになったことは一度もない。鈴木には雪子さんがいたじゃないか」
 頑固に薪が言い張るので、青木も少々意地になる。薪にとって鈴木の思い出は謂わば聖域で、それを簡単に否定する薪が理不尽に思えた。
「どうして知らないふりをするんですか。オレは鈴木さんの脳を見てるんですよ。薪さんも一緒だったじゃないですか」
 普通なら、過去の恋人のことを共有する必要はない。でも鈴木の場合は特別だ。薪がどんなに彼を愛していたことか。その彼を殺めてしまった薪の苦悩を、痛みを、理解して慰撫するためにはその事実を避けては通れない。嫉妬で心が焼き切れようと、枯れるほどに泣いた瞳が腫れ上がった瞼に塞がれようと、青木は薪と鈴木が愛し合う姿を見続けた。薪に、鈴木の本当の願いを知って欲しかったから。
 ところが。

「鈴木の脳を見た? 何の話だ」
 薪が心底不思議そうに尋ねるので、青木は自分の頭がおかしくなったのかと思った。何があっても、薪は鈴木のことを忘れない。それは薪が友人を忘れるような薄情な人間ではないという人間性以前の問題で、言ってしまえば、薪が彼を殺したからだ。なのに薪は罪悪感の欠片もない口調で、
「鈴木は貝沼の画を見て発狂して自殺した。それだけだ」
「自殺……」
 青木は戸惑った。なんだか話がおかしい。
 それでも、薪が鈴木を射殺した事実をそのまま口にすることはできない。青木は言葉を選び、さらに慎重に濁らせた。

「ええ、あれは自殺に近かったと思います。あの時も言ったように、オレは薪さんとの心中説を推しますが」
「心中? なんで僕なんだ。心中するなら相手は僕じゃなくて雪子さんだろ」
 自分は関係ないと言わんばかりの口ぶりに、青木は薪に真実を告げる決意をした。苛立ったのではない、薪の中で何かが起きていると確信したのだ。
 薪から、鈴木の事件の記憶が抜け落ちている。自分に罪のないように改竄までされている。これは異常事態だ。

「鈴木さんは薪さんに、自分を撃ってくれって言ったんですよね? それで薪さんは鈴木さんを……もちろん正当防衛で薪さんに罪はありませんけど、薪さんはそのことをずっと悔やんで、辛い日々を過ごして来られた」
 青木の言葉に薪は眼を瞠り、ぽかんと口を開けた。ゆるゆると首を振り、不安そうに青木を見上げた。
「どうしちゃったんだ、青木」
「どうかしてるのは薪さんの方ですよ。自分が鈴木さんにしたことを忘れちゃうなんて」
 青木は薪の両腕を掴み、彼と眼を合わせた。亜麻色の瞳はいつもと変わらず澄み切っており、そこに狂気はなかった。しかし薪は言った。
「さっきから何を言ってるのか、さっぱり分からない。鈴木は貝沼の脳データを破壊し、自分の頭を拳銃で撃ち抜いて自殺した。それがあの事件のすべてだ。貝沼の捜査の指揮を執ったのは僕だから責任を感じてはいるけれど、防ぎようのないことだった」
 事件に関する自分の認識をひとつ残らず否定されて、青木はどうしたらいいのか分からなくなる。東京に戻れば事件調書も新聞記事も保管してあるが、ここでは証明は不可能だ。

「誰から何を聞いてきたのか知らないけど、この話はもう終わりにしよう。せっかくの旅行なんだ。もっと楽しい話をしよう」
 青木を見上げてにっこりと微笑む。この上なく美しい薪の顔が、虚ろに見えた。





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夢のあとさき(12)

夢のあとさき(12)






「薪くんじゃない?」

 2本目の酒瓶が空こうとした時、名前を呼ばれて薪は振り返った。
「雪子さん」と驚いた顔で薪が応じるのに、青木もそちらを見やる。自分たちと同じ浴衣を着て、髪を濡らした雪子が立っていた。
 青木は彼女に会釈しながら、見なかった振りで通り過ぎてくれればいいのに、と思った。青木たちと同じように忙しい日々を送っている人間は科警研にも沢山いて、たまの休みに羽を伸ばしに来た彼らとばったり顔を合わせてしまうのも不思議ではない。が、こんな話の最中に選りにも選って雪子とは。不幸な偶然としか思えなかった。

「青木くんとデート?」
「ええ、まあ。雪子さんは竹内さんと?」
「そ。たまにはね」
「婚前旅行ですか? いいですねえ」
 なんだ、このありえない会話は。
「デート?」と聞かれて薪が頷いたのにも驚いたが、薪が竹内の名前を出したのにはもっと驚いた。竹内と雪子は今年の1月に婚約したばかりだが、そのことを薪は快く思っていない。否、思うなどと言う消極的なものではない。薪は二人を別れさせるべく果敢に行動しているのだ。具体的には、雪子にあることないこと竹内の悪口を吹き込んだり、竹内の女関係を躍起になって調べたりしている。そんな薪が二人の婚前旅行を容認など信じられない。

「竹内さんはどちらへ?」
「実は替えの下着を車に忘れちゃって。取りに行ってくれてる」
「え。じゃあ雪子さん、この下って」
「ストップ。それ以上想像したら投げるわよ」
 笑いながら雪子は言って、薪の隣に座った。薪と二人きりのところを邪魔するなんて、ガサツに見えて気遣い上手な雪子らしくないと思ったが、そのうち竹内も来るだろうし、それまでの間だと思い直した。
 ところが、竹内はなかなか戻ってこなかった。雪子に勧めた冷酒の瓶が空になり、追加注文をして半時間が過ぎても姿を見せない。この日帰り入浴施設は自然の中の露天風呂をコンセプトにしているため、エンジン音が聞こえないように駐車場までは多少の距離を取ってあるが、それにしたって時間が掛かり過ぎだ。雪子は心配にならないのだろうか。
「先生。竹内さん、遅くないですか」
 堪りかねて青木が尋ねると、雪子はパタパタと手を振って、「大丈夫大丈夫」と繰り返した。すでに酔っぱらいの口調になっている。

 薪もそうだが、雪子も鈴木の月命日のことは頭にないようだった。そこで青木は朝から感じていた違和感の正体に気付いた。
 鈴木の存在が希薄なのだ。
 7年も前に亡くなった人の存在を濃厚に感じることの方が異常なのかもしれない。でも、青木はずっとその思いを味わってきた。薪に雪子に、現実には会ったこともない彼の姿を見てきた。
 青木の恋人になってくれる前、薪の心は鈴木のものだった。付き合いだしてからも長いこと、それは変らなかった。最初の頃は完全に鈴木の面影を重ねられていて、酷いことにベッドの中で間違われたこともある。それでも少しずつ少しずつ、薪は青木自身を見てくれるようになった。
 薪と二人、辿ってきた道筋は決して楽なものではなかった。喧嘩もすれ違いも嫌になるほどあった。だけどそのたびに、青木はますます薪のことが欲しくなった。薪もまた、青木を必要としてくれた。
 鈴木の存在を否定されると、自分たちが重ねてきた大事なものまで否定されたような気分になる。青木の苛立ちはそれが原因だったのだ。

「三好先生。竹内さんとのこと、鈴木さんのお墓には報告に行ったんですか」
「行ったけど。なに、急に」
 雪子は面食らっているようだった。婚約者を亡くして7年、新しい伴侶を得た報告を彼の墓前に供えたのかと、どうしてそれを赤の他人の青木に質されなければいけないのか。理由が分からなかったに違いない。
「雪子さん、気にしないでください。青木は朝からヘンなんです。ここに来る前も、鈴木の墓参りに行かなくていいのかって僕に訊いたんですよ」
「え。ああ、明日が月命日だから? なんで薪くんが。いくら親友だったからって、月命日まで参る義理はないわよね」
「それがなんか、何処かからおかしな話を聞いてきたみたいで。言うに事欠いて僕が鈴木を殺したって言うんですよ。ひどいデマですよね」
「えー、なにそれ。ていうか、なんで青木くん、そんな話を信じるのよ?」
「なんでって……どうしちゃったんですか、お二人とも! 鈴木さんのことを忘れちゃうなんて」
 思わず大きな声が出た。びっくり眼で自分を見返す、二人が見知らぬ他人に思えた。
 これはどういうことなのだろう。薪だけではなく雪子の中でも、あの事件は鈴木の自殺になっているのか。
 まさか、自分の記憶が間違っている? 自分は何か、とんでもない思い違いをしていたのだろうか。

「忘れてなんかいない。鈴木のことを忘れるはずがないだろ。鈴木よりいい友だちなんて、僕にはいなかったんだから」
「そうそう、仲良くてねー。克洋くんが薪くんばっかりチヤホヤするもんだから、あたし時々、ヤキモチ妬いてたのよ」
「嫌だなあ、雪子さんたら。ヘンなこと言わないでください。こいつ、僕と鈴木の仲を疑ってるみたいなんですよ」
 あら楽しそう、と雪子は彼女らしいノリの良さで薪の懇願を受け止め、でもちゃんと親友の立場を守ってくれた。
「大丈夫よ、青木くん。二人は健全な親友でした。あたしが保証するわ」
 薪が鈴木を好きだったこと、それを教えてくれたのは雪子だった。自分の記憶と異なる会話が次々と展開し、青木は目眩を感じた。車酔いした時のように気分が悪くなってくる。気持ちが悪い、薪も雪子も。これは本物じゃない。
 黙ってしまった青木に、何となく白けた空気が流れた。手洗いに行ってくる、と薪は席を立ち、気まずさが漂う空間には青木と雪子が残された。

「オレが間違ってるんですか?」
 青木が躓くたびに、雪子は青木を助けてくれた。傷ついた青木を慰め、勇気付けて、再び薪の元へ送り出してくれた。薪に関することで何か困ったことがあれば青木は雪子にすぐに相談する。目の前の彼女に違和感を感じてはいても、その習性は変えられなかった。
 果たして、雪子は青木の問いに答えた。
「間違ってないわよ。薪くんが忘れちゃってるだけ」
 あっさりと肯定されて、青木はまた分からなくなる。雪子はやさしい女性だが、真実を追求する研究者でもある。その彼女がこんな姑息な嘘に追従するだろうか。

「ご存知だったんですか。なぜそれを薪さんに教えてあげないんです」
「いいじゃないの。あんな辛いこと、忘れちゃったほうがいいのよ」
「そんな。それじゃ鈴木さんがあまりにも可哀想で」
「可哀想? 克洋くんと直に会ったこともないあなたが?」
 偽善者ぶらないで、と暗に糾されて青木は黙った。鈴木の婚約者だった雪子に、青木の立場で言えたことではなかった。彼女の方が青木より遥かに傷ついている。当たり前のことだ。
 それでも雪子は澄んだ眼をして、強く言い切った。
「これまで薪くんがどんなに苦しんできたか、傍にいたあなたが一番よく解ってるでしょ。それに、薪くんの記憶が戻ったところで克洋くんは帰ってこないのよ」
「それは違います」
 雪子のやさしさは痛いくらい分かって、でもやっぱり青木にはそれを認めることはできなかった。青木は警察官だ。真実を捻じ曲げて前に進めば、その先にはもっと大きな悲劇が待っている。そう教えてくれたのは他でもない薪だ。見過ごすことはできない。
「雪子先生のおっしゃるそれは、被害者は生きて戻らないのだから殺人犯を捕まえる必要はないと言うのと同じで」
「薪くんを犯罪者と一緒にしないで!」
「す、すみません、そんなつもりじゃ……」
 一喝されて青木は怯んだ。相変わらず雪子は怒らせると怖い。
 青木が俯くと、雪子は軽く肩を竦め、足の先で低く張られた湯をぱちゃぱちゃと叩いた。

「忘れて欲しかったんじゃないの。克洋くんのこと」
 問われて、青木は自分の心を湯面に映し出す。最初に薪の顔が浮かび、次に鈴木の顔が浮んだ。再び水面に現れた薪の顔は、涙で濡れていた。
 出会ったばかりの頃、薪はずっと下を向いていたような気がする。いつもしゃんと背中を伸ばして胸を張っているのに、何故かそう感じた。青木はそれを、彼が鈴木に囚われているせいだと思い、彼の中から鈴木を追い出してやろうと決意した。自分が鈴木に成り代わって、薪の心を愛で満たしてやろうと思った。
 ――だけど。

「たしかに、オレは薪さんに鈴木さんのことを忘れて欲しいと思ってました。オレが忘れさせてみせるって。でも、こういうのは違う気がします」
「何が違うの。あなたが望んだことよ」
「違います。上手く言えないけどこれは違う。忘れちゃダメなんです」
 薪と過ごしてきた年月、重ねてきた数多の出来事。それらが青木に教えてくれた。
 辛いことも悲しいことも、廻り回って糧になる。人生には無駄なことなどない、忘れていいことなど何もないのだ。
「未来に進むためには過去を忘れちゃ駄目なんです。傷も痛みも、抱えたまま進まなきゃ。真の意味で乗り越えたことにならない」




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夢のあとさき(13)

夢のあとさき(13)







 青木は結論を出し、顔を上げた。真っ直ぐに雪子の眼を見る、その瞳に迷いはなかった。
 雪子なら分かってくれる、青木はそう信じた。が、雪子は醜悪な虫でも見たように、眼を逸らして顔をしかめた。

「あんたさ。ご大層なこと言ってるけど、それ自分の都合でしょ」
 憎々しげに吐き捨てる。蔑みの籠った瞳に、青木の腹の底が急速に冷えた。雪子に厳しいことを言われたことはある、でもそれは青木のため、再び薪に向かっていく勇気を与えるため。こんな風に、切り捨てる口調で言われたことは一度もなかった。
 呆然とする青木の前で、雪子はすっくと立ち上がった。今まで座っていた床面に上がり、座ったままの青木を冷酷な瞳で見下した。
「あなたは薪くんに、克洋くんを殺したことを忘れて欲しくないの。だって、そうなってしまったら」
 赤い唇が薄笑いする。思わず青木は息を詰めた。
「薪くんはあなたを必要としなくなるものね」

 床が抜けたような気がした。

 気付くと、青木は足湯の中に尻をついていた。温かい温泉水が何故だかとても冷たかった。石張りだったはずの浴槽はぬるぬるして、驚いて手元を見ると、青木が浸かっているのは泥水に満たされた大きな水溜りだった。
「なんで」
 思わず口を衝いて出た、だが青木は思い出した。この冷たい泥水、ここはあそこだ、あの不思議な声が聞こえてきたところだ。
 薪も言っていた、同じ夢を見たと。
 同じ夢? あり得ない、双子でもない自分たちに、ゼロではないがその確率はとてつもなく低い。では、あちらが現実でこちらが夢? あの声の主は、本当に願いを叶えてくれた?

 ああ、では、もしかしたら。
 これは薪が望んだ世界なのか。

 辛い記憶を消し去りたいと、薪は願っていたはずだ。アイドルとの結婚なんかより、ずっとずっと切実な魂の叫び。
 あの時、この右手が引き金を引かなければ。
 その後悔を持たずに済む世界。鈴木のことを、純粋な悲しみと愛情を持って思い出せる世界。それが薪にとっての幸せな世界。

「あー、イライラする! あんたって本当にバカね」
 雪子のヒステリックな声が、青木の思考を破った。見上げると、雪子が腕を組んで仁王立ちになっていた。赤い唇を大きく開けて、彼女は鋭く青木を糾弾した。
「まだ気付かないの? これは薪くんが見てる夢じゃない、あなたが見てる夢なのよ」
「オレの?」
 そんなわけはない、と青木は思った。自分はこんな世界を望んではいない。第一自分が望んだ世界なら、薪が女性と結婚する夢を見たりするはずがない。
「そうよ。証拠もあるわ」
「証拠?」
「薪くんの夢だったら、フカキョンほっぽってあんたの方に来るわけないでしょ」
 うわあああんっ!!

「わ、分からないじゃないですか! 彼女よりオレを選んでくれる可能性だって」
「じゃあ一晩にエッチ5回とか、信じられるわけ?」
「だからそれは薪さんの夢だから」
「なんでそこで夢決定なんだ!?」
 いきなり薪が出てきた。「ちょっと引っ込んでて」と雪子に言われて頬を膨らませている。何だかメチャメチャになってきた。

「青木くん」
 乱れた場を雪子が仕切り直し、青木の名を呼んだ。その声は、いつもの雪子の声だった。青木を正しい方向に導こうとする女神の声だ。
「あなたは薪くんの幸せを願いながら、その実、彼が罪から解放されることは望んでない。あなたは自分が彼の人生に関わっていたいがために、彼の救済を妨げている」
「そんな」
 その望みが表れたが故のこの世界なのか。解放を切望する心と否定する心、両方が組み合わさった故の矛盾と混沌。

「違います。オレは本気で薪さんに鈴木さんのことを乗り越えて欲しいと」
「結果、薪くんがあなたから離れて行ったとしても?」
 薪が本当に立ち直った時が終わりの日だと。そう自分に言い聞かせて、でも抑えきれなかった青木の心が見せた夢。それがこの世界。きりきりと胸は痛むけど、事実なら認めるしかない。
「仕方ありません」
「だったら早めに身を引くことね」
 え、と青木は首を傾げた。現実の薪はまだ立ち直っていない、青木の力を必要としてくれているはず。だってそう言ってくれた、ずっと僕を好きでいろと、一生好きでいていいと、だからだからだから。
 心に決めても不安は残る。本当に自分といることが彼にとって一番の幸せなのか。

「分からないの?」
 雪子は青木が尻をついている泥溜まりにさぶんと飛び込んだ。跳ね上がった泥が浴衣の裾を汚す。
「この顔」
 豊かに張った腰に手を当てて、雪子は青木の頬に指を添えた。冷たい手だった。
「この顔を見るたびに、薪くんは克洋くんのことを思い出すわ。越えられる壁も越えられなくなってしまう」
 雪子は腰を折り、青木に顔を近付けた。至近距離で見る彼女の顔は美しく、黒い瞳が真正面で燃えるように輝いていた。
「薪くんの壁を高くしているのは、あなたよ」
 自分の存在が薪の躍進を妨げる。そのことは承知していた、心苦しくも思っていた、しかし。自分が薪の心に悪影響を与えていると弾劾されたのは初めてで、それも薪が一番触れて欲しくない領域に関することで、その指摘の鋭さに青木は息が止まりそうになる。

 自分の顔。鈴木にそっくりのこの顔。
 何度も何度も薪に間違えられた、数えきれないくらい重ねられた。そのことを青木は悲しく思った、でも薪はもっと傷ついたのだ。薪に辛い思いをさせないためには、鈴木か自分、どちらかしか薪の中には住めない、ということだ。
 現実に帰れば薪の元から去らねばならない、だったらこのままこの世界に留まりたい。この世界なら薪は鈴木の笑顔を思い出せる。自分が殺した鈴木の死体ではなく、彼との楽しかった日々を思い起こせる。さすれば彼に瓜二つのこの顔も薪の罪悪感を煽り立てるものではなく、大切な友人の記憶の風化を防ぐ手立てとなろう。薪と鈴木、両方の役に立てるのだ。

「――でもそれは」
 真実ではない。

「青木!」
 夢に過ぎないと言おうとした時、鋭い声で名を呼ばれた。その声を聞いた瞬間、青木は直立した。毎日のように研究室に轟く室長の怒号だ。条件反射とは恐ろしいもので、この声を聞くと例えどんな心理状態でも青木は背中がしゃっきりと伸びる。
「騙されるな。そいつは偽者だ。雪子さんがそんなこと言うわけないだろ」
「あれ。薪さん、いつの間に服を」
 薪は白いボタンダウンのシャツにライトグレーのスラックスを穿いていた。朝と服装が違う。今朝は青木が好きな少年ルックだったはずだ。

「さっきのは僕の偽者だ。ふんじばってトイレの個室に閉じ込めてきた」
「偽者?」
「いや、偽者じゃなくて虚像というべきか。ああ、今はそんなことはどうでもいい」
 薪はざばざばと泥水に入ってきて、雪子に対面した。
「雪子さんに化けるなんて身の程知らずな。彼女の怖さを知らないのか。彼女が本気で怒ったら、この建物全体が吹き飛ぶぞ」
 褒めているのか貶しているのか微妙だが、薪が尊大に言い放つと雪子は舌打ちして身を翻し、前庭から続く森の中に姿を消した。偽者を追い払った薪はさっと振り向き、青木の浴衣の襟を掴んだ。

「青木、目を覚ませ。このままだと僕たち二人ともオダブツだぞ」
「え? なんのことで、痛っ!」
 いきなり頬を張られた。それも往復、しかも速いし! パンパンて音が重なってパパパンて聞こえますけど!?
「いたっ、痛いです、薪さん、そんなに叩かないで」
「いいから起きろ!」
「起きてますよ、とっくに!」
 あまりの痛みに喚いたら、周りが突然暗くなった。

「――あれ?」
 見回すとそこは暗くじめじめした洞窟のような場所で、腰を落とした地面には真っ黒な水が溜まっていた。向かいに薪がいて、青木にビンタをくれようとしていた。刹那、目を覚ました青木と眼が合った、合ったのに。
「痛ったーい!!」
 思い切り頬を張られて青木は泣いた。




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ジャンル : 小説・文学

夢のあとさき(14)

夢のあとさき(14)








「ここ、何処ですか?」
「日光の森の中。古井戸らしい。正確な位置は不明だ」
 おまえ、ずっと気を失ってたんだぞ、と薪に言われて思い出した。森の中で道に迷って、公道を探すために車から降りた。何処からか人の声がして、こちらだと思われる方向に歩いて行ったら地面に穴が開いていて、そこに落ちたのだ。
「するとおまえは上から落ちたんだな。首の骨を折らなかったのはラッキーだったな」
 上を見るとかなりの距離があった。あれだけの高さから落ちて怪我がないのは、薪の言う通り幸運だった。長い年月で井戸の底に泥が堆積し、柔らかかったのが幸いしたのだろう。
「僕はそこの横穴から滑ってきたんだ。おまえにぶつかって脳震盪起こしたけど、衝撃が軽かったおかげで直ぐに目が覚めた」
 薪が指し示した場所は暗くて、青木の眼には周りと区別がつかなかった。月明かりもここまでは届かない。察して、薪は携帯電話の電源を入れ、パネルの明かりで青木にそれを見せてくれた。そこには動物が掘ったのか、歪な形の穴がぽっかりと開いていた。

「落ちた時に水に浸かってしまったらしい。発信機が使えなくなった」
「携帯電話は」
 無言で提示されたスマートフォンの画面には、圏外の文字がでかでかと書かれていた。ナビのGPSも届かない森の中、しかも地中とくれば、携帯電話など通じるはずがなかった。
「落ちた横道から這い上がれば」
「無理だ。草が滑って」
 横穴は青木が通れるほど大きくはなかったが、せめて薪だけでもと思った。薪も自分が助けを呼びに行くことを考えたのだろう、何度か挑戦してみたが駄目だったらしい。
「レンタカーの返却期限が過ぎても返ってこなけりゃ、レンタルショップで探してくれるかな」
「届を出せば所轄が探すかもしれませんが。ここを探し当てるのは何ヶ月先でしょうね」
「そんなに待てるか。明日は仕事だ」
 何ヶ月もここに放置されたら餓死してしまうが、命の心配よりも仕事の心配が先に立つ。実に薪らしい。

「なんとかしてここから出ないと。忌々しい古井戸だ、――おわっ」
「薪さん、大丈夫で――ええっ?!」
 腹立ち紛れに井戸の壁を蹴ろうとして薪はぬかるみに足を取られたらしく、バランスを崩してその場に転倒した。泥まみれになった彼に手を差し伸べようとして、青木は驚きの声を上げる。
 井戸の壁がぐにゃぐにゃと歪んで消えていく。深い穴の底にいたはずの二人は、いつの間にか森の中の草叢の上に座っていた。

「な……なんだ、これ」
「水たまり、ですね」
 尻の冷たい感触だけは本物で、その正体は窪地に溜まった昨夜の雨だ。日の射さない森の中だから乾くのに時間が掛かるのだろう。
「まるで狐に化かされたみたいだ」
 我が眼が捉えた一連の出来事が信じ難くて、青木は呟く。森林の足湯が古井戸の汚水になり、窪地の水溜りになった。
 これまでにも不思議な体験は何度かしてきた、そのいずれもが薪と一緒だったことを思い出し、青木は彼の美しさが呼び寄せるのは人間だけではないのかもしれないとファンタジックな考えを持った。青木はそのくらいで済んでしまうが、理屈屋の薪は超常現象が苦手だ。科学で説明のつかないことに出会うとパニックに陥る傾向がある。青木は彼の乱心を心配したが、薪は意外にも落ち着いていて、軽く肩を竦めると意味不明の言葉を呟いた。
「だからガキは苦手なんだ」
「え?」
「なんでもない。車に戻るぞ」
 薪は「よっこいしょ」とオヤジくさい掛け声を掛けて立ち上がり、左手の茂みを目指して進んだ。すぐそこに、銀色の屋根が見えている。自分たちが乗ってきた車だ。

 青木は薪を追いかけた。長い手を伸ばして細い肩を掴み、彼の優雅な歩みを止める。薪は不機嫌そうに首だけでこちらを振り返り、形の良い眉を盛大にしかめた。
「こんな場所に長居は無用だ。話なら後に」
「薪さん。来週末、休みが取れたらまた此処に来ませんか」
 青木は薪の言葉を遮った。舌打ちを聞かない振り、吊り上がった眉を見ない振りで彼を誘う。薪は少しだけ眉を下げると、再び前を向いた。
「悪いけど。来週はだめだ」
 薪の返事を聞いたら胸が潰れそうになって、青木は咄嗟に薪を抱きしめた。何かで押さえないと、本当に砕けてしまいそうだった。

「な、なんだ急に。離れろ。おい青木」
「オレが」
 中腰になって背中を丸め、華奢な肩に顔を埋めた。青木が泣いていることが分かると、薪はもがくのを止めた。大人しくなった薪をいっそう強く抱きしめて、青木は言った。
「オレがあなたを抱きしめてさしあげます。風邪を引いたときもお腹が痛いときも、こうして抱きしめてさしあげます」
「いやいい。特に病気の時は鬱陶しい」
「傍にいさせてください」
 薪の冷静な切り返しも醒めた口調も気にならない。胴に回した青木の手の甲を、薪の温かい手がやさしく包んでいるから。
「オレがあなたを苦しめるとしても。オレはあなたの傍にいたい」

 人間は、なんて矛盾した生き物なのだろう。彼のためなら何でもできると、それは決して嘘偽りではない青木の本心なのに。その行動は時として薪を追い詰め、その立場を危うくさせる。そんなつもりではない、困らせたいのじゃない、泣かせるつもりなんかなかった。何度も経験した失敗の記憶と、それがまた繰り返されるのではないかという不安。彼と瓜二つの容貌を持つ自分は薪を苦しめているのかもしれないと、薄々感づきながらも彼から遠ざかることができない。

「すみません……すみません」
 身勝手な望みを口にしたら、自分が最低の人間になったような気がした。泣きながら謝る青木に、薪は溜息混じりに、
「なんだ。怖い夢でも見たのか」
 言って右手を自分の肩に伸ばし、そこに突っ伏した男の頭を撫でた。休日仕様のソフトワックスで整えた短い髪を丁寧に梳きながら、薪は愛おしく吐き捨てた。
「ガキ」





テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

夢のあとさき(15)

 明日はジェネシスのコミックスの発売日ですが、清水先生のサイン会の引換券が配布されるそうですね。
 何人かの秘密仲間は渋谷のツタヤまで行かれるとかで。暑い中ごくろうさまです。みなさん、ゲットできますよう応援しております。がんばってー!





夢のあとさき(15)







 車に辿り着いてみると、思いもかけない人物が待ち受けていた。

「きみは昼間の」
 露天風呂でダブルブッキングした子供だ。両親の姿はない。どうやら迷子らしい。こんな子供が森の中に独りきり、さぞ心細かっただろう。
「はぐれちゃったんだね? 大丈夫、すぐにパパやママに会わせてあげるから」
 青木は驚き、咄嗟に彼を勇気づけようとしたが、薪は予測していたみたいだった。彼の顔を見据えて腕を組み、穏やかな口調で、「滝で僕たちの話を聞いていたのか」と質問した。
「ごめんなさい」
 青木には意味が分からなかったが、子供には通じたらしく、彼は薪に向かって頭を下げた。ツーブロックに揃えた黒髪がさらりと下方に流れる。謝罪の理由に見当も付けられず、青木が薪と子供を交互に見ていると、薪は彼の小さな頭に手を載せてやさしく言った。
「お父さん、早く怪我が治るといいな」
「うん。ありがとう」

 まったく話の見えない青木を置き去りにして、薪と子供の会話は進んでいく。あのお、と控えめに掛けた青木の声を、薪は尊大な溜息で迎えた。
「おまえは本当に頭が悪いな。その程度の頭で人間やってて恥ずかしくならないか」
 ひどい言われようだが、薪のアイスピックで心臓一突きにされるみたいな罵倒には慣れている。動じない青木に、薪は明確な回答をくれた。
「彼は滝の上にいた子狐だ」
「ああ、あの滝の、――キツネ!?」
 薪の口から突拍子もない言葉が出て、青木は声を裏返す。此処は森の中、気が付いたら水溜りに座っていた。薪と自分は二人揃って夢を見ていた。昔話によく似たシチュエーションだけど、まさかそんなことって。

「何を驚いてるんだ。さっき自分で言っただろう。『狐に化かされたみたいだ』って」
 いや、言いましたけどそれでオチが付くとは思ってなかったです。

 口はパクパク動くのに声は出てこない。下手くそな腹話術師の人形みたいになった青木が哀れになったのか、薪はこの結論に到った経緯を説明してくれた。
「観瀑台で僕が『予約時間を変更しろ』って言っただろ。彼はそれを真に受けて、あの時間風呂が空くと思ったんだ。それで慌てて家に帰って、両親を連れて温泉に向かった。簡単な幻術で受付の女性を欺いて、でも騙すつもりじゃなかったんだ。キャンセルは本当になると思っていたから、それで」
 狐の一家が風呂に来た理由は分かった。が、どうして狐が風呂に来たがるのだ。
「パンフレットに書いてあったじゃないか。切り傷と打ち身に効くって。彼の父親は足を怪我していた。そもそも彼のような子供が単独で狩りをしなきゃいけなかったのは、親が動けなかったからだ」
 それでは父親の傷を癒すために? 親孝行は立派だが、わざわざ人間が造った施設に出向かなくてもいいだろうと青木は思った。この森には未だ沢山の自然が残されている。その中には薬草も、傷を癒す泉もあるだろう。
「待合室の掲示板に書いてあった。2年前、森の中に自然に湧き出ていた温泉を利用してあの施設が造られた。あの温泉は元々、この子たちのものだったんだ」
 土地の所有権は人間が人間の社会の中で決めたもの。人間は自分たちの都合で勝手に定めた法に則り、先住民である彼らには何の断りもなく彼らの住処を奪っていく。そう思ったら貸切風呂の予約くらい、進んで差し出したい気分になった。

「もしかして薪さん、始めから?」
「まさか。分かったのはついさっきだ。キツネの妖術なんて信じてなかったし。足に包帯を巻いた父親を見て、この子を連想したのは事実だが」
 薪はすっかり納得しているようだったが、青木はまだ頭の中がぐるぐるしている。だって、狐に化かされたのなんか初めてだ。

「ええっと、まだよく分からないんですけど。あの一連の夢はもしかして」
「そうだ。この子の仕業だ」
「森の中で道に迷ったのも古井戸に落ちたのも、この子の悪戯ですか」
「そうだけど、悪気があったんじゃない」
 薪は本当に動物には甘い。楽しみにしていた露天風呂を奪われた上に散々な夢を見せられたのに、怒るどころか彼に微笑みかけている。青木の扱いとはえらい違いだ。
「これは僕の推測だけど、君はまだ子供で、自分の妖気が強くなる一定の場所でしか術が使えないんじゃないか。だから僕たちをあの場所に導く必要があった」
「術?」
「人に願い通りの夢を見せる。礼のつもりだったんだろ」
 子供はこっくりと頷いた。あの時、礼をすると彼は言った。それはこういう意味だったのか。
「所々、子供には不適切な場面があった気がしますが」
「安心しろ。この子がシナリオを書いたわけじゃない。あれはあくまで僕やおまえの心の中の願望が夢に現れただけだ。この子も夢の詳細までは分からないはずだ。でなかったらもっと早くに術を解いていた。そうだろう?」
 少年は再びこくりと頷き、申し訳なさそうに言った。
「ぼく、余計なことしちゃったんだね」
 彼の殊勝な様子に、そんなことはない、と青木は言い掛けたが、夢を見てうなされたことも夢から醒めて泣いたことも、彼は承知しているのだと思い直して止めた。下手な嘘は彼の罪悪感を募らせるだけだ。

「せっかく用意してくれたのに、ゴメンね」
 夢を楽しめなかったことを謝ると、ううん、と子供は首を振り、つぶらな瞳で青木を見上げた。キツネが化けていると分かったせいか、最初見たときよりも愛らしく感じた。
「お父さんが言ってた。この世には箱の中の世界で――ぼくたちはキョコウって呼んでるけど――自分に都合のいい夢を見ることで自分を保っている人がいっぱいいるって。でも、お兄ちゃん達はそうじゃないんだね」
 箱とは何のことだろう。青木は考えて、パソコンのことかもしれないと思いつく。
 古きよき時代の夢と現代の夢は、少々趣を異にする。昔、夢は明日への活力を担う楽しいものだった。いい夢だった、今日も頑張ろう。そんな風に夢をエネルギーに変換できた。
 しかし時代は変った。夢の形態も変わり、現代人は起きたまま、ネットの世界で夢を見られるようになった。電脳世界に展開される理想の自分に酔い知れるのは気分がいい。偽ることはリアルよりずっと簡単で、しかも露見しにくい。
 心地良さに負けてリアルに帰れなくなる。一日の殆どをそちらの世界で過ごす。そんな人間が増え、大きな社会問題になっている。薪の言う三猿の教えではないが、インターネットは諸刃の剣なのかもしれない。

「お兄ちゃん達には、夢は必要なかったんだね」
 青木だって夢を見るのは大好きだ。薪がやさしくしてくれる夢とか薪が好きだと言ってくれる夢とか薪がベッドに誘ってくれる夢とか、何度見たか知れやしない。でもどうしてだろう、青木には現実の素っ気ない薪の方が魅力的なのだ。青木の期待を悉く裏切る、その外しっぷりが薪らしいとさえ思える。
「現実の憂さ晴らしに夢を見るのはいいが、夢に幸せのすべてを求めてしまっては本末転倒だ」
 薪の言う通りだと青木も思う。一日中偽りの世界から離れられない彼らにも彼らなりの意見があろう、でもこの世に生を受けたなら。この世界で精一杯生きるべきじゃないのか。
「夢は夢に過ぎない。大事なのは現実だ。そこから逃げたら何も始まらない」
 転んでも傷ついても、やることなすこと裏目に出ても。頑張って生きること、生き続けること。時には逃げてもいい、夢に縋ってもいい、だけどそれはあくまで緊急避難であり一時的なもの。
 現実以外に、人間が生きる場所はないのだ。

「他人に迷惑掛けなきゃいいだろって言い分もあるけどな。現実に背を向けて人生を終えるなんて、男のすることじゃない」
「お兄ちゃんみたいな人、なんていうか知ってる。ブシって言うんだよね」
 青木は思わず吹き出した。横で薪がフクザツそうな顔をしている。
「後はええと、ジダイサクゴとかカセキとか言うんでしょう?」
 笑いを募らせる青木を薪の脚が蹴り飛ばす。子供を、それも動物を殴るわけにもいかず、溜まったストレスを青木にぶつけるのはいつものことだ。

「お兄ちゃん、カッコイイね」
「そうだよ。薪さんはとってもカッコイイんだ」
 話の流れからいって素直に喜べない薪の代わりに、青木は相槌を打った。自分の腿くらいまでしかない子供に合わせて屈み、彼の小さな肩に手を置く。
「きみも、カッコイイ大人になりなさい」
「うん。おじさんもね」
「だからどうしてオレがおじさんで薪さんがお兄ちゃんなのかそこんとこ説明してくれないかなってきみはなんでこの質問するといなくなっちゃうの?」
「現実から逃げちゃダメってことだろ」
 どうせ後ひと月ほどで30の大台ですけど、41歳の薪さんに言われたくないです。

 一陣の風と共に消え失せた子供が立っていた場所には、茶色い狐の毛が数本。青木がそれを拾っていると、薪に「早くしろ」とどやされた。これから東京へ、しかもあの渋滞の中を帰るのだ。速やかに出発しないと夜が明けてしまう。
 水溜りで濡れたズボンと下着は脱いで、立ち寄り風呂のために用意しておいたものに着替えた。浴衣を貸してくれることを知っていた青木は下着しか用意してこなかったが、予備知識のなかった薪は下着の他にバスタオルとスウェットパンツを持ってきていた。青木は薪からバスタオルを借り、腰から下に巻いて運転することにした。検問に引っかかったら末代までの恥、というか変質者扱いされてそのまま連行されそうだが仕方ない。

 エンジンをかけると、ナビゲーションが誇らしげに帰り道を示した。順路に従って車を走らせると、2分もしないうちに太い砂利道に出た。そこからは来る時と同様一本道で、迷いようもなく公道に戻ることができた。
 公道に出る直前、多くの車が走る音と錯綜するライトに交じって、遠くから、ケーンという鳴き声が聞こえたような気がした。




テーマ : 二次創作(BL)
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夢のあとさき(16)

 昨日は朝早くから行列に並ばれたみなさま、ごくろうさまでした。
 8時開店で10時には配布終了しちゃったそうで……さすが。
 整理券をゲットされた方、おめでとうございました。31日のサイン会、どうか楽しんできてください(^^






夢のあとさき(16)








「もう少し詳しく説明してもらえませんか」
 信号や路上駐車の車両など障害物が多い街中の道路を抜けて高速に乗り、落ち着いたところで青木は切り出した。
 狐に化かされた、いや、お礼に夢を見せてもらった、そこまでは分かった。でも青木の夢は楽しいことばかりではなかったし、最終的には薪に叩かれて眼が覚めたのだ。薪は憧れのアイドルと結婚するというケチの付け所のない夢を見たのに、どうして自分はあんな結果になったのだろう。

「三好先生にイタイとこ衝かれちゃったし」
「雪子さんが出てきたのか?」
 薪は青木の方に身を乗り出して、興味深そうに尋ねた。不思議に思って青木が質問を返す。
「薪さんもいらしたでしょう?」
「僕は恭子ちゃんとの結婚がポシャったところで眼が覚めちゃったから。その後の夢は、おまえしか知らない」
 そうだったのか。では薪の言う通り、2度目の旅行に出かけた薪は虚像だったのだ。道理でやさしくてあっちの方も積極的だったと、ああいっつもこんなんでもうほんとヤダ。

「どんな夢だったんだ?」
 問われて青木は、自分が見た夢を思い返す。

 青木が夢見たのは、薪が何の罪も苦しみも背負わない世界。それを望むと同時に青木は、自分が薪にとってかけがえのない人間であることを願った。鈴木の事件がなかったら青木はここまで薪の心の中に入れなかった。それは十分承知の上で、青木は2つの相反する望みを持った。
 どちらも青木の心からの願い。その願いは最初から矛盾を孕み、だから青木の夢は崩壊したのだ。

 夢の内容を薪に聞かせていいものかどうか少し迷ったけれど、青木は話した。すると薪は、
「僕が一緒だったらその夢はないな」
 そう、あっさりと言った。だから思わず訊いてしまったのだ。
「チラッとも思わないんですか。忘れたいって」
 思わないわけはないと思った。薪が自分の罪に向き合おうとしない弱い人間だなどと言う心算はない、むしろ逆だ。もう7年も経つのだし、罪悪感も薄れていくのが自然だ。なのに薪はこの春の事件で、また抱えなくてもいい罪を背負い込んで。
 青木はもうこれ以上、薪に自分を責める要因の一欠けらたりとも持って欲しくない。あの夢のように薪がすべてを忘れてくれるなら重畳、そのせいで薪に捨てられることになっても我慢しなくてはいけないのだと、彼を本当に愛しているのなら耐えられるはずだと、夢の中の青木は悲壮な決意を固めようとしていたのに。

「鈴木さんのことを忘れるって意味じゃなくて、その……あの事件だけを忘れることができたらって」
「思わない」
 薪が返してきたのは、はっきりとした否定の言葉だった。
「僕に殺されたことまで含めて鈴木の人生だ。僕が背負わなくて誰が背負う」

 それを聞いた瞬間、青木は頭をバットで殴られたような衝撃を覚えた。
 自分はなんておこがましかったのだろう。こんなにも強い人に、自分ごときが何をしてやれると?
 鈴木のことを忘れさせてやりたいとか、彼の支えになりたいとか、よくも言えたものだ。薪に幸せになって欲しい、心から笑って欲しい、青木はそのために努力し続けてきた、その実。それは自分が薪に必要とされたいと切望していただけのこと。
 結局は我欲に塗れた行為だったと今更ながらに気付いて、青木はひどく落ち込んだ。でも、次の瞬間。
 自嘲の形にくちびるを歪めて、薪が言ったのだ。

「まあ、おまえに鈴木の脳を見せてもらうまでは僕もけっこう逃げてたからな。あんまり偉そうなことは言えない」
 鈴木の願いを夢を。その心を伝えてくれたのは青木だと、だから自分は強くなれたのだと。薪はそう言ってくれた。
「ありがとう。僕が自分のことをほんの少しでも好きになれたの、青木のおかげだ」
 涙が溢れて止まらなかった。どうしようもなくぼやけるフロントガラスに、前走車の赤いテールランプが滲んで水に映った夢のように見える。

 しゃくりあげる青木に、薪は言った。
「運転中に泣くな、顔を伏せるな、前を向け――っ!!」



*****

 このシーンを書きたくて、敢えて蛇足を書きました。
 薪さんなら鈴木さんの人生をこんな風に背負うんじゃないかな。


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夢のあとさき(17)

 すみません。昨日、ちょっとフライングしちゃいまして。次の話、下書き保存したつもりが公開になってた☆
 拍手が入ってたのに気付いて下げたんですけど、不完全な状態で公開してしまってすみませんでしたー。特に(3)、ワードからコピペしただけの状態で。読み辛かったでしょう?
 ちゃんと体裁整えて公開し直しますので、少々お待ちください。





 青薪さんは最終章ですー。 
 お付き合いくださってありがとうございました。






夢のあとさき(17)








 怒っても宥めても青木の涙は止まらず、結局、次のサービスエリアで薪と運転を交代することになった。
「ったく。おまえのその泣き虫のクセはどうにかならないのか」
「す、すみませ、うっ、ううっ」
 鬱陶しいからと後部座席に追いやられた青木は、ヘッドレストから少しだけ覗いた亜麻色の髪に向かって頭を下げた。

 高速道路の両側に取り付けられた道路灯が、夢幻のように流れていく。時間が遅くなったせいか道路も空いたらしい。おかげで帰路は順調に進み、高速を下りて薪の自宅までは半時間ほど。ナビの到着予定時刻は午後9時を指していた。明日薪は仕事で、だから今日は薪の家には行けない。マンションの玄関まで見送って「さようなら」だ。
 離れ難いのはいつものこと。その我が侭は青木には許されていない。時計と薪を交互に見て、ミラーの中でそっと溜息を吐く青木に、薪は軽く舌打ちした。
「泊まっていくか」
「いいんですか?」
「帰りに思い出し泣きされて事故って死なれたら寝覚めが悪い」
 ひどい言われようだが、大事なのは言葉面ではなく、薪のほうから誘ってくれたという事実だ。ぴたりと涙を止めて笑顔になる青木をルームミラーで確認し、薪は苦笑した。

 心のまま、人前でも素直に涙を流せる青木を薪は羨ましく思う。よほどのことがなければ、自分は他人の目があるところでは泣けない。涙を見せるのは弱さを曝け出すこと、そんな思いが感情を堰き止める。要は怖いのだ。自分の弱さを他者に知られるのが怖い。
 付き合いの深い岡部や青木には、何度か情けない自分を見せてしまった。そのことも後悔している。そのせいで彼らが薪のために危険を顧みずに行動するようになってしまったのではないかと、ひどく申し訳ない気持ちになる。と同時に、彼らの安全のためにも自分は強くあらねばと思う。

 昔、薪は自分のことが大嫌いだった。
 人類の中で誰か一人を殺してよいと言われたら真っ先に自分を選んだ。薪が自分自身を殺さずにいたのは、鈴木の生き甲斐だった第九を守りたかったのと、死んだ方が楽だったからに他ならない。自分は罰を免れた罪人。楽な方を選んではいけないと思った。
 刑法上の罰を受けることはできなかったが、人を殺しておいて何も報いを受けないなんて、そんなことは道理が通らない。近いうちに自分には天罰とやらが下るのだろう。だから自分がこの世に留まらなくてはいけないのは第九を軌道に乗せるまでだと、それはさほど長い時間ではなく鈴木の元へ逝けるだろうと。
 そんな死生観を持って生きていたはずなのに、いつの間にか。薪には大事なものが沢山できていた。大切な人が、守りたい人が、たくさんたくさん。
 鈴木がいなくなった世界には何も残っていないと思っていた。でも、そうじゃないと気付かされた。薪に殺された鈴木ですら、薪が生きるために大事なものを遺して行ったと教えられた。
 ――この男に。

 青木は自分の部下であり恋人であり、鈴木の本心を見せてくれた恩人でもある。青木への薪の気持ちは、かつて鈴木に向けていたような純粋な恋愛感情ではない。恋心だけではない、様々な気持ちが混じっているのだ。
 その上、問題も山積みだ。以前のように、恋人がいる男に片思いしているのなら現実的な問題は自分の心のケアだけだ。仕事に生き甲斐を感じていた薪にとって、それは耐え切れないほどの痛みではなかった。しかしこうして秘密の関係になってしまうと、自分だけの問題では済まなくなってくる。彼の肉親や友人や仕事仲間。否応なく多勢の人々を巻き込んで、その内の何割かは確実に彼を責めるだろう。自分の眼の届かない所で起きる彼への弾劾、それが辛い。
 秘密を秘密のまま永久に。しておけるなんて夢みたいなことは思っていない。真実は滲み出るものだ。隠しても隠しても、ほんの僅かな隙間から染み出してくる。

 とりあえず、一番大きな課題は。
 1年後にこいつとどうやって別れるかだ。

 青木と付き合い始めた頃に上司と約束した。5年のうちに彼と別れることは、さほど難しくないと思った。というより、初めからそんなに上手く行くとは考えていなかった。あの頃、まだ薪は鈴木に想いを残していて。いつも彼と鈴木を比べていた。もっと酷いことに、彼を鈴木を思い出す縁にしていた。自分のことでありながらそれが無意識に為されることに、当時の薪は深く絶望していた。
 青木との始まりは、そんな薄ら寒い恋人関係だった。長く続くとは到底思えなかったのだ。
 でも青木は諦めなかった。終いには「薪が誰を好きでもいい」と、自らの立場を否定するようなことまで言ってくれた。
 それから色々なことがあって。何度も何度も壊れそうになるものを二人で守って、気がついたら。
 どうしようもないくらい好きになっていた。

「別れてくれ」と薪が言えば、青木はきっと頷く。そのことで薪がのっぴきならない立場に陥ると分かれば、必ずイエスと言う。青木はあの子狐に負けないくらい純真だけれど、なりふり構わず相手にしがみつくほど子供ではない。
 それに、本当のことを知ったら自分から離れて行くかもしれない。心からの愛情を捧げた相手が他の誰かと「彼とは5年のうちに必ず別れます」なんて約束をしていたと知ったら。お人好しの彼にも限界はあるだろう。
 問題は自分だ。
 どうやって彼に別れを切り出せばいいのか、見当もつかない。5年前から用意していた言葉はある。どんな状況になっていても対応できるよう、相手がどんな反論をしてきても封じられるようにシミュレーションを重ねてきた。が、それを口に出せるような雰囲気に持っていくこと、これが難しい。

 青木といると楽しい。バカみたいに楽しい。
 薪は知っている、いい夢は長く見れば見るほど目覚めが辛いこと。だからできるだけ短期間で終わらせるつもりだったのに。
 彼の顔を見た瞬間、そんな気持ちはなくなってしまう。些細なことで笑いあって、ちょっとでも気分が盛り上がったら睦みあって。戯れた後はもっと彼のことが好きになってる。そんなことを繰り返していたら、あっという間に時が過ぎて、約束の日まであと1年を残すばかりになってしまった。
 家に着いたら、今日を最後に別れようと切り出そうか?
 無理すぎて笑える。同じ車中にいるだけで、こんなに浮かれた気分になれる相手と別れる術ばかり考えなきゃいけない。頭がおかしくなりそうだ。

「――ね、薪さん」
「え。なに?」
 考え事をしていて彼の話を聞いていなかった。聞き返すと青木は上の空の恋人を責めもせず、身を乗り出して薪に近付いた。
「今日は手をつないで寝ましょうね、って言ったんです」
 あと一月ほどで三十になる男が、なんて可愛いことを言うのだろう。道端に車止めて押し倒してやりたい。

 ――ほら見ろ、この有様だ。

 ちょっとした彼の仕草や言葉に心を揺さぶられ、様々な感情が入り乱れる。愛しくて苦しくて嬉しくて切ない。まるで僕を愛した殺人鬼のように、自分では止めようのない激情の波に流されて行く。
 僕は彼に恋をしている。夢中で恋をしている。
 こんな状態で、頭の中で組み立てたシミュレーションが何の役に立つ?

「明日は薪さんが仕事だから。今夜はそれだけで我慢します」
 薪の身体に負担が掛からないよう、気を使ったつもりらしい。薪の腹の底で天邪鬼の虫がむくむくと目を覚ます。
 風呂上りに、バスローブ姿で誘惑してやろう。「今日はゆっくり眠らせてくれるんだよな?」と言い含めながら、彼の膝の上に座ってやろう。
 青木の困惑顔を想像して、薪は意地悪く笑った。



―了―


(2013.6)


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イヴに捧げる殺人(1)

 こんにちはっ。

 先週の日曜日はご挨拶もなしに、いただいたコメントも放置状態で、失礼いたしました。金曜日の検査で指摘になった書類を作り直してました。
 先週の水曜日、竣工書類を再提出してきました。請求書も出し終えて、完了です。


 ああ、終わったよー! ようやく解放されたよー!!
 やっと妄想できる! 
 仕事にかまけてほったらかしの家事は、大丈夫、埃で人間死なない!←オットはハウスダストアレルギー(笑) 


 現場で学んだことや経験したことを基に、妄想三昧したいです。
 第九のみんなでお花見に行く話とかいいなっ。←下水道工事関係ない。
 血沸き肉踊るスペクタクルサスペンスとかもいいなっ。←下水道工事もっと関係ない。
 とにかく、ドSとギャグは欠かせないよねっ! ←下水道……。

 妄想できたら、文章の書き方を思い出さんといかんなー。ここしばらく協議書しか書いてなかったから、役所向けの文章しか書けなくなってる(^^;




 さて。
 こちらのお話は、本格的に現場が始まる前に妄想していた推理物です。が、現場が忙しくなって挫折しました。
 一応最後まで書いたことは書いたんですけど、挫折したくらいですから出来が良くなくて。他に何かあればお蔵入りにしようと思ってたんですけど、ぶっちゃけもう在庫がナイ(・∀・)
 お目汚しするのも申し訳ないくらいなのですけど、半年以上前の妄想なんで書き直すのもタルくなっちゃって(←おい)、えいやって公開しちゃいます。

 えいやっ。







イヴに捧げる殺人(1)






 イヴに出会ったアダムのように。わたしはあなたに恋をした。
 例えるならそれは、長しえに続く夜に灯った小さな灯火。灰色の空から零れ落ちる一条の陽光――いいえ、そんなもの無くても人は生きられる。ならばそれは。
 あなたを愛することは、生きることと同義。

 あなたというイヴがいれば。
 神さまが創り損ねて投げ出したこの世さえ、わたしには楽園。




*****



 ―― 寒い。

 岸谷千秋の意識を目覚めさせたのは、本能が鳴らす警鐘だった。太古の昔から人間がその生命を脅かすものとして恐れていた寒さへの恐怖。それに突き動かされるように、千秋は眼を開けた。
 何も見えない。周囲は完全な闇に包まれており、マッチ棒一本ほどの光さえ見当たらなかった。
 それだけでも彼女には多大な負担であった。さらには自分が猿ぐつわを噛まされ、手首を縄のようなもので縛られ拘束されていることを認識するに至って彼女は、激しいパニックに襲われた。

 誘拐犯に攫われて箱のようなものに閉じ込められた。運が悪ければ殺されるかもしれない。
 怖くて涙が溢れた。千秋の家は裕福で、両親は一人娘のための身代金を惜しむことはないと分かってはいたが、無事に帰れる保証はどこにもない。それ以前に、寒くて暗くて身体中痛い。猿ぐつわが無かったら大きな声で泣き喚いていたに違いなかった。
 泣きながら、千秋は恐ろしいことに気付いた。
 呼吸が早まったせいか、妙に息苦しい。この狭い箱の中には十分な空気が無いのかもしれない。だとしたら、窒息して死んでしまう。もしかしたら犯人は既に身代金を手にしていて、千秋を隠れ家に放置したまま逃走してしまったのかも。

 神さま、助けて。
 これからはいい子になりますから、助けてください。

 千秋は必死で神に祈った。その思いが天に通じたのか、果たして扉は開かれた。
 温かい空気と光が、千秋に向かってなだれ込んできた。暗い所に閉じ込められていたためか、普通の蛍光灯の灯りがひどく眩しかった。すっと息が楽になり、千秋は束の間、安堵の息を吐いた。

 明るさに目が慣れて、ようよう千秋が前を見ると、そこには彼女の見知った少女が立っていた。
 なんてこと、と千秋は彼女の顔を見て自分の行いを悔やんだ。
 それは先刻千秋が神に「これからはいい子になる」と誓っていた要因そのもので、要するに彼女は千秋が仲間と一緒に苛めていた生徒だった。つまりこれは苛めの仕返しで、これから自分は彼女にしたことをやり返されるのだ。引っぱたいたり蹴飛ばしたり、バレーボールのように仲間にパスしたり。
 まさか、彼女がこんな実力行使に出るとは思わなかった。それも、どうして今ごろになって?
 理由は分からなかったが、自分がすべきことは分かっていた。謝るのだ、誠心誠意。もう二度とあなたを苛めたりしない、と頭を下げる。彼女は本来はやさしい少女だ。きっと許してくれる。
 千秋は縋るような眼で彼女を見つめた。彼女の表情に怒りの色はなく、むしろ悲痛ですらあった。彼女も、自分のしたことを悔やんでいるのかもしれない。謝れば許してもらえると思った。

 彼女の手が千秋の顔に近付いてきた。猿ぐつわを外してくれるのだ、と千秋は考えた。安心して千秋は眼を閉じた、しかし次の瞬間。
 頬にひやりとした感触があって、千秋は焦った。金属特有の冷たさが千秋に伝えるのは凶禍の予感。

「立って」
 恐怖心から立とうとしてかなわず、千秋は床に転がった。
 刃物で脅されたら身が竦んだ。それでなくとも身体が冷えて、それに長い時間狭い所に閉じ込められていたものだから脚が痺れている。縛られているのは手首だけで脚は自由だが、とても逃げられないと思った。しかも、千秋は衣類を一枚も身につけていなかった。これでは人前に出られない。猿ぐつわが外されても、助けを求めることができない。
 背後に眼を走らせると、自分が閉じ込められていたのが古い冷蔵庫であることが分かった。部屋には見覚えがなかった。6畳ほどの狭い洋間で、家具も絨毯も壁紙もカーテンも使い古された安物だった。
 ここが何処だかは分からないが、少なくとも千秋を追い詰めている人物の家ではない。彼女は自分と同じ学園の生徒、生活水準も同程度だったと記憶している。このみすぼらしい部屋は別の誰かのものだろう。

「立ちなさい。歩いて」
 脚の痺れはそう簡単には癒えなかったが、千秋は言われたとおりに立ち上がった。彼女の手に握られているのは切っ先の尖った包丁。それが自分に迫ってくる。千秋は夢中だった。
 彼女が促す方向に歩いた。そこは浴室だった。
「入って」
 空の浴槽を彼女が眼で示した。不自由な両手でバランスを取りながら、千秋は言われるままそこに腰を下ろした。
 恐怖に眼を見開く千秋を見て、彼女は涙を零した。見れば刃物を持つ彼女の手はぶるぶると震えている。彼女も怖いのだ。
 彼女は包丁をそろそろと動かし、千秋の首の左側に宛がった。そのままの体勢で、しばらく手を震わせていた。
 テレビドラマで、ナイフで脅された人間が繰り出される刃先を避けて逃げる、あれは嘘だと千秋は思った。相手は自分と同い年の女子、しかも泣くほどびびってる。そんな状態でも「切られるかもしれない」と言う恐怖は絶大で、逃げなければその恐怖は確定した未来になると、分かっていても身体が動かない。

「ねえ、早くなさって。お茶が冷めてしまうわ」
 千秋の耳に聞き覚えのある女の声が届いた。これほどの恐怖に晒されていなかったら、その声から千秋はここが何処だか察することができたはずだ。だが、そんなことはしても無駄だった。千秋には、もう時間がなかったのだ。

 左首に、焼けつくような痛みが走った。
 切られたと言うよりは火箸でも押し付けられたような感覚で、でも辺りに飛び散ったのは間違いなく千秋の血だった。
 噴水のように吹き出す自分の血液が遠くの壁に激しく雨の降るように叩きつけられる。それが、千秋が見たこの世で最後の光景だった。





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イヴに捧げる殺人(2)

 おはようございます。

 仕事も一段落つきまして、恒例のお義母さんの温泉行きたい攻撃が始まりまして。
 今日から3日間、行ってまいります世界遺産、富士山。
 温泉につかって、まったりして、幸せ気分で富士山見ながら青薪さんの妄想をします~。薪さんが崖から落っこちて記憶失ってマッドサイエンティストの実験台にされる話とかどうかな? ←体験と妄想の内容が合わない。
 
 では行ってきますー。







イヴに捧げる殺人(2)







 出会った瞬間、九条礼子は彼に嫌悪を感じた。

 正確に言えば驚嘆と嫉妬と羨望と苛立ち、それらが綯い交ぜになった不快感。嫌悪と一括りにできるような単純な感情ではなかったが、表面に現れたのは単純な拒否反応だ。
 ツイてない、と礼子は思った。新しいボディガードが来るとは聞いていたが、こんな男だとは思わなかった。
 彼の何がそんなに礼子の気分を害したのか、言ってしまえば容姿だ。礼子と彼は初対面。第一印象の95%は外見だ。
 一見、年の頃は自分といくらも変わらない。男のくせに線が細くて、透き通るような白い肌をしている。亜麻色の髪はサラサラ、眼はぱっちり二重で睫毛が長くて、下手したら女の子より可愛い。というか自分より確実に可愛い。
 今は彼のような中性的な容姿の草食系男子とやらが流行りらしいが、礼子は嫌いだ。彼の運転手について来たモブ顔のメガネ男の方がずっといい。だって。
 ――こいつと並んだらあたしが霞むじゃない。
 礼子は美人の部類に入るが、言葉を選ぶなら勝気な、選ばなければキツイ顔立ちをしている。日本人らしく黒々とした瞳はそれなりの大きさで美しく輝いているものの、吊り目の一重瞼がそれを険しく見せている。面長の輪郭を縁取るのは栗色のクセ毛で、長さは背中の中ほどまで。見るからに手入れが大変そうだ。

「薪です。よろしくお願いします」
 公僕らしく、彼は簡潔に挨拶をした。他の大人たちのように、現職の国会議員である父親や、その一人娘である自分に愛想笑いをしないところだけは好感が持てたが、頭を下げた時に彼の髪が金糸のように揺れ動くのを見たら腹が立った。
 花の女子高生がクセ毛で悩んでるって言うのに、なにその無駄なサラサラヘアー。ヘアサロンで髪エステとかしてんの、なんか仕事の役に立つの、それ。

「礼子。薪さんには長谷川さんの代わりに、おまえの学校での警護をお願いしたんだよ。ご挨拶なさい」
 どうしてこんな見るからに軟弱そうな男にボディガードなんて力仕事が割り振られたのか疑問だったが、校内の警護と聞いて合点がいった。礼子の学校は女子高で、原則として男性は立ち入り禁止。でも彼の容姿なら黙っていれば女性で通る。長谷川と同じように、学内での待機が可能になるのだ。
「礼子です。薪さま、よろしくお願い致します」
 頭を下げると、長く伸ばした髪が礼子の顔を隠す。鬱陶しかった。クセ毛の長髪なんて手間が掛かるだけで、いいことなんか一つもない。父母の眼がなければ鋏で切ってしまいたいくらいだ。
 不満を抑えつつ、礼子ができるだけ優雅に微笑むと、彼も微笑みを返してきた。礼子と違って気負いのない、自然な笑顔だった。それでいて育ちの良さが感じられた。
 彼の笑顔を見て礼子は確信した。彼は、目的のために容姿最優先で選ばれたのだ。中身は只のチキン野郎だ。

 父母の前では愛想笑いを絶やさなかった礼子だが、それを彼の前でも続ける気はさらさらなかった。明文化されていない学校の決まり事を教える、という名目で私室に招いた彼に、礼子は強い口調で言った。
「余計なことはしないでね」
 こういうことは最初が肝心なのだ。舐められないように、ビシッと言っておかないと。
 自分はソファに座って、彼にはわざと椅子も勧めなかった。彼に気に入られる心算も、誠実に仕事をしてもらう心算もなかった。長谷川が帰ってくるまでの10日間、何もしないでいて欲しかった。
 部屋の掃除をしていた世話係兼家政婦のユリエが、礼子たちに気付いてお茶を淹れに行った。要らない、と怒鳴ったが、ユリエは答えなかった。彼女はいつも都合の悪いことは聞こえない振りをするのだ。

「先ほどとは別人のようですね。淑やかなのはご両親の前だけですか」
「当たり前でしょ。使用人の前でまでお嬢様やってたら、暴漢に襲われる前に神経衰弱で死ぬわ」
 腕を組んで軽蔑したように礼子を見る、彼の瞳に苛立った。負けずにこちらも腕を組み、頭に来たから脚も組んでやった。
「余計なこととおっしゃいますと」
 聞き返した彼に、礼子は胸を張った。ソファに腰を下ろした礼子の隣に立ったままの彼を、鋭く睨み上げる。
「あなたの仕事は何? わたしを守ることでしょ。それ以外のことはしないでって言ってるの」
「例えばこういうことですか」
「げっ」
 カエルが踏みつぶされたような声が出た。人間の声帯は驚くと固まるのだ。
 彼は礼子の勉強机の引き出しを勝手に開けて、中から煙草とライターを持ち出した。それを自分のポケットに入れると、次は花瓶の中から小瓶に入れたお酒を、その次は本棚に眼を付けて百科事典の箱からイケナイ雑誌を、ちょっとそれはカンベンしてー!

「なんで一発で場所が分かるのよ?!」
「こういうのを探すのが得意な友人がいたんです」
 彼は花のように微笑んで――思い掛けて礼子は慌ててその言葉を打ち消した。比喩ではなく、彼の後ろに花が見えたのだ。色は薄ピンクで、花びらがいっぱいあるやつ。ああ気持ち悪い。
「ご両親には内密に処分しておきますよ」
 そう言って、彼は礼子が苦労して集めたコレクションを没収した。得意の右ストレートをお見舞いしてやりたいと礼子は思い、ここが家の中であることを考えて断念した。顔を腫らした彼を父母に見られたら困るのは自分だ。
 ユリエが、お茶を淹れながら肩を震わせて笑っているのが見えて、軽くキレそうになった。覚えときなさいよ、後で泣かしてやるから。

「さあどうぞ。お嬢様のお好きなローズヒップですよ」
「いらないって言ったでしょ」
「では僕が」
 彼はカップを手に取ると、立ったままで紅茶を飲み干した。もしも礼子がそれをしたなら、立ち飲みなんてお行儀が悪いと必ず文句を付けるはずのユリエは、その様子を固唾を飲むように見つめていた。なによ、その差は。
 紅茶を飲み終えて彼は「ごちそうさま」とユリエに微笑みかけ、それを見たユリエがまた頬を赤らめて、ちょっとやめてくれる。二人まとめてサイドボードで殴りたくなっちゃうから。

 部屋を出るとき、彼は丁寧に頭を下げた。
「それでは明日。学校で」
 礼子は精一杯優雅に「ごきげんよう」と挨拶した。もちろん嫌味だ。
 彼がいなくなり、するとそれまで詰めていた息を吐き出しながら、ユリエが感心したように言った。
「おきれいな方ですねえ。本当に男の人なんですか?」
「そうよ。気持ち悪いでしょ」
 は? と不思議そうに首を傾げるユリエに、礼子は吐き捨てる口調で、
「男だか女だか分かんないような男は気持ち悪いわ」
 それは礼子の正直な感想で、現代の風潮を当て擦る彼女の意見でもあった。しかしユリエはコロコロと笑い、
「お嬢様はお若いのに、お祖母さまの年代の美意識をお持ちですのね」
 あんたホントに覚えときなさいよ。

 怒りをため息に変えて、礼子はソファにそっくり返った。女性にしては大きめの手をひらひらと振り、ユリエに仕事をするよう促した。
「そろそろ行ってあげなさい。今頃迷ってるはずだから」
 はい、とユリエは彼の後を追って部屋を出て行った。

 礼子が住んでいる九条の屋敷は実に広大である。母の実家は日本でも有数の資産家で、この家は彼女が結婚したときに実家の両親に建ててもらったものだ。
 巨万の富に支えられた九条の祖父母は少々浮世離れしており、いささか変わり者であった。娘が金目当ての強盗や泥棒の被害に遭わないようにと、迷路のように通路を張り巡らせた屋敷を建てたのだ。
 この家を初めて訪れた客は一様に迷子になる。家人の案内無しにはゲストルームへ行くことも、この屋敷を出ることもできない。彼には住み込みの小間使いであるユリエの助けが必要なのだ。

 ユリエのことは後でシメるとして、問題はあの男だ。家では良い子の仮面を付けなければならない礼子にとって、学校は唯一の息抜きの場だった。長谷川は礼子の事情を心得ているから学校生活を見られてもなんてことはなかったけれど、あの男には通用すまい。余計なことを父母に報告されては困るのだ。

 ノックもなしにドアが開き、礼子はソファの上で身を固くした。暴力的な勢いで思案から現実に引き戻される。
 この部屋のドアをノック無しに開ける者は、家の中には一人しかいない。そして、ノックをせずに彼が部屋に入るときは、それが秘密の来訪であることを意味している。
 男がゆったりとした足取りで礼子に近づき、背後から自分の身体を抱きしめるのに、礼子は落ち着いた口調で尋ねた。
「お母様はお出かけに?」
「ああ。後援会の会合だとさ」
 どうせ若いツバメの所だ、と嘯く男の肩に、礼子は自分の後頭部を預けた。甘ったるい整髪料と煙草の匂い。最悪の組み合わせだ。
 太くてごつごつした指が、麗子の胸をまさぐった。諦めて眼を閉じると、仰向かされてキスされた。ムスクの香りとヤニ臭さが礼子の口の中で混ざり合い、悪心を掻き立てる。礼子は腹に力を入れて、流れ込んできた男の唾液と一緒に吐き気を飲み込んだ。





 

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イヴに捧げる殺人(3)

 ただいまですー。
 旅行は楽しかったのですが、あいにく天候に恵まれませんで、富士山は見られませんでした。 
 でも、河口湖は桜が満開!
 ホテルの部屋にベランダがあったんですけど、そのベランダに桜の枝が張り出していて、桜のつかみ取りができる! 花が可哀想だから触ったりしませんけど、花の群れに顔を寄せる薪さんとか、きれいだろうな~、などと想像しては楽しんでおりました。




 お話の続きです。
 今さらですが、このお話の時期は2066年の11月。「パンデミックパニック」の翌月でございます。薪さん、毎月こんな調子で仕事大丈夫なのかww



イヴに捧げる殺人(3)






「セーラー服は好きかい?」

 書類に印が押されていることを確認しながら「はい」と薪は答えた。いつもの雑談だと思ったからだ。質問者は薪の答えに満足そうに頷き、珍しいことににっこりと微笑んだ。
「それはよかった。嫌いだと言われたら頼みづらくなるところだった。実はね」
「お断りします」
「まだ何も言ってないけど」
 雑談は早合点だったと、自分を見上げた上司の眼で分かった。厄介事の予感。しかもこれはイレギュラーだ。中園と言う男は、それが正当な職務である限りどんなに苛酷な内容であっても「頼みづらい」なんて殊勝なことを言う人間ではない。

「話も聞かないなんて酷くないかい? 僕は君の上司だよ」
「職務外のお話でしたら承諾の義務はないと存じます」
 さっさと踵を返した部下を湿っぽい声で非難する彼を切って捨て、薪は首席参事官室を出ようとした。逃げるが勝ちとばかりにドアを開けた薪の耳に、上役の独り言が響く。
「先月は大変な目に遭ったなあ」
 ここで足を止めたら負けだと本能が叫んだ。非道になれ、薪剛。逃避こそがおまえを救う唯一の手段だ。そう言い聞かせるのに爪先がそれを拒否する。薪の中で後ろめたさが勝った証拠だ。
「夜中に電話で叩き起こされて、『正体不明のウィルスが第九に撒かれた』て誰かさんが騒ぐから慌てて第五と第一と警備部に連絡取って」
 あの時は様々な要因が重なって、それを疑うに値する状況が出来上がってしまった。つくづく思う、偶然て恐ろしい。
「小野田が出張中で良かったよ。いたら絶対に厚生労働省に報告入れて、最高の医療スタッフを用意するために東京中の大学病院の教授連中を叩き起こしただろうから。そうしたら、小野田も僕も終わってたねえ」
「分かりましたよ。もう勘弁してください」
 中園の言う通り、先月のあれは大失態だった。薪の無事を純粋に喜んでくれた小野田と違って、中園は腹の虫が治まらなかったに違いない。実際に迷惑を被ったのは彼なのだ。

 詫びの意味もあって、薪は中園の頼みとやらを聞くことにした。
「九条議員のお嬢さんなんだけどね。ボディガードが怪我をして困ってるんだ。で、彼女の怪我が治るまでの十日ほど、信用できるSPを貸して欲しいって」
「要人警護ですか? それなら警護課に」
 警護は官房室の仕事ではないし、薪はSPの訓練は受けていない。腕に覚えはあるが、本職には遠く及ばない。官房室首席参事官に直接警護を頼んでくるような大物議員の子女なら、専門家に任せた方が無難だ。
「頼めない事情があるんだよ。警護エリアは男子禁制の学校なんだ」
 いま一つ話が見えてこない。男子禁制と聞いた時点でものすごく嫌な予感はしたものの、話の途中で逃げ出すわけにもいかない。駆け出そうとする両脚を、薪は理性で抑えつけた。

「学校って、ボディガード付けられるんですか?」
「通常なら無理だけど。その学校は現在、特別警報発令中でね」
「特別警報?」
「そのお嬢さん、礼子さんて言うんだけど」
 中園は薪の視線をはぐらかし、警護対象者の説明を始めた。警報の内容に薪の興味が向いているうちに、情報を入れてしまおうという腹積もりだろう。テレビコマーシャルの要領ですね、と言う皮肉を頭の隅で思いつくが、それを言葉にするほど薪は野暮ではない。
「学内で何度も危ない目に遭ったらしい。階段から突き落とされたり、上から物が落ちてきたり。制服や学用品も汚されたりして」
「それ、単にその子がイジメに遭ってるんじゃ」
「ご両親もそれを心配してね、学校側に何度も掛けあったそうだ。でもその事実はないって否定されて。だから学内に入ってイジメの証拠を掴んでご両親に報告すれば、そちらでしかるべき処置を取ると思う。そのついでと言っちゃなんだけど」
 ついでと言いながら中園は青灰色の瞳を鋭くした。軽い口調に隠された気迫を感じて、薪は腹の底に力を入れる。此処からが本題だ。

「最近、そのお嬢さんの学友が3人亡くなってる。それもすこぶる変わった死体になって」
「――星稜学園の吸血鬼事件ですか」
 被害者は学園の女生徒で、いずれも17歳。ここ2ヶ月の間に3人の被害者が出た。彼女たちはみな忽然と姿を消し、翌朝には身体中の血を抜かれて死んでいた。刺激的な記事を売り物にするマスコミが名付けた「吸血鬼事件」をそのまま正式な事件名にした捜一の神経もどうかと思うが、その名称が事件の概要を端的に表しているのも事実だ。
 こんな猟奇的な連続殺人がどうして第九に回ってこないのかと言えば、被害者の頭部が完全に潰されていたからだ。司法解剖には薪も立ち会ったが、彼女たちの脳は原形を留めていなかった。MRIによる精査は不可能だと判断した。

 昨今は、こういう事例が増えた。
 MRI捜査の弊害と言うべきか、第九の功績が広く世間に知れ渡るに従って、頭部を潰したり持ち去ったりする犯行が増加した。おかげで本来第九に持ち込まれることのない単純な殺人事件や傷害致死事件に、死体損壊罪のおまけが付くようになってしまった。
 秘密を匿おうとする人間の意志は強く浅ましく。犯人たちはMRI捜査を警戒して遺体の脳を破壊する。自分が人を殺した映像を他人に見られたくないからだ。
 捜一の捜査で十分に犯罪が立証できる事件に、第九は手を出さない。基本的に3件以上の連続殺人、あるいは明らかに異常者の仕業と思われる遺体が発生しない限り、被害者の脳をMRIに掛けることはしない。しかしその基準は世間には公表されていない。MRI捜査の行使による犯罪の抑止効果が失われてしまうからだ。結果、場末の酒場で起きた喧嘩による傷害致死事件の被害者の頭部が持ち去られたりする。
 事件関係者の日常に影響を及ぼさない捜査活動があり得ないように、MRI捜査もその手法自体に大きな問題を孕んでいる。それはさておき、今は吸血鬼事件だ。

「犯人が学内にいると?」
「僕はそう踏んでる。3人とも同じ学校の生徒だし、何より、学友があんな殺され方をしたら普通は警戒するよね。みんな金持ちの娘なんだから、送り迎えはもちろん用心棒も付けたと思う。その状態で第2第3の殺人が起きてることを勘案すると、犯人は被害者の顔見知り。被害者が最後に目撃されているのもすべて校内だし、犯人が学園の人間である可能性は高い」
「捜一の捜査状況は」
「それがさ、この時代に男子禁制を貫いてる学園だけあって、教師陣はともかく生徒は箱入り娘ばっかりで。相手が男ってだけで俯いちまって口も利けない状態なんだよ。だから生徒の中に入って事情を聞いてこれる人間が必要なんだ」
「では潜入捜査を兼ねているわけですね。ですが、女子校でしたらやはり女性の捜査官に任せるべきではありませんか」
 薪が生徒のボディガードとして校内に入ったとしても、男である以上は捜一の刑事たちの二の舞になるだろう。女子高生とのガールズトークは香(小野田の末娘で高校生)で慣れているから捜一の連中よりは巧く聞き出せる自信はあるが、やはり同じ女性には敵うまい。
「僕もね、最初は女性のSPを事務員に仕立て上げて潜り込ませようと思ったんだけど、それだと生徒は警戒するよね。彼女たちから話を聞くにはやっぱり彼女たちと同じ立場で、そう、休み時間に一緒にトイレに行くような関係にならないと」
 一理ある、と薪は思った。大人には言わない事も友人には話す。あの年頃の子はみんなそうだ。中園のことだ、薪が生徒たちから親しみを持ってもらえるよう何らかの対策を立てているに違いない。理事会に圧力をかけて、ボディガードではなく臨時の教師として送り込むとか。教員の立場なら彼女たちの信頼も得られるだろうし、相談に乗ると持ちかければ事件のことを聞きだせるかも。

 事件に挑む時の高揚感を味わいつつ、薪は冗談を交えて尋ねた。
「僕だって女子トイレには入れませんよ。何か策があるんですか?」
「そこでセーラー服の出番だ」
 ……聞かなきゃよかった。

「お断りします」
「先月は本当に大変だった」
「処分してくださって結構です。降格でも減俸でも」
「好きなんだろ? セーラー服」
「見るのも脱がすのも大好きですけど自分が着るのは嫌です」
 言い捨ててドアを閉めた。四十過ぎの男がセーラー服着て女子高生のボディガードって、あり得ないだろ。中園の冗談の際どさは心得ているが、それにしたって。

 内心、ぷりぷりして第九に帰ったら岡部に見とがめられた。何かあったんですか、と訊いてくる。相変わらず鋭い男だ。他の誰にも気付かせなかったのに。
 腹を立てていたし、「それはひどいですね」と言う同意も欲しくて、薪は事情を岡部に話した。
「だいたい、たった十日学校に潜入したところで二ヶ月も警察から逃げおおせている殺人犯が捕まるもんか。あの人は無理難題を僕に押し付けて面白がってるんだ」
 ひどいだろう? と部下を伺うと、岡部は神妙な顔になって、
「九条徹夫議員と言えば大物ですが、黒い噂の絶えない男ですよ。陰では暴力団ともつながってて、薬物疑惑も」
「それは僕の仕事じゃない」
 麻薬等の取り締まりは警視庁組対5課の仕事だ。官房室の管轄ではないし、第九はもっと関係ない。
「特に、麻薬がらみの潜入捜査はごめんだ。何年か前にやって死にかけたんだ」
「あれは薪さんが勝手な行動を取ったからだって課長の脇田が言ってましたけど」
 ……そうだっけ?

「なんでも九条って男は警察の上層部にも顔が効いて、あれこれ煩く言ってくるそうですよ。あの男の差し金で止められた捜査がいくつもあるって、竹内がぼやいてました」
 代議士は多かれ少なかれ、警察に影響力を持つ。十日で潜入捜査を完遂しろと言うのも無謀だと思ったが、中園の真意は九条議員の弱みを掴み、それをネタに警察への口出しを控えさせるというところか。
「だからってセーラー服は」
 ないな、と薪は首を振り、これで話は打ち切りだとばかりに分厚い報告書のファイルを取り上げた。ところが岡部は、聞きたくもない九条議員の情報を薪に話して聞かせ――裏金をごっそりと懐に入れながら、篤志家の顔をアピールする為その一部を様々な福祉団体に寄付していることや、施設から女の子を引き取って育てている事など――、最後にこう結んだ。
「たった十日でしょう。引き受けてあげたらいいじゃないですか。相手が女子高生の苛めっ子なら危険はないでしょうし。ゴスロリに比べたらセーラー服の方がマシでしょう」
「なんだ、おまえまで」
「中園さん、先月のウィルス事件のとき、薪さんのことをものすごく心配してましたよ」
 それを持ち出されると弱い。あの時は岡部にも迷惑を掛けた。

「それに、薪さんは中園さんにプライベートで借りがあるでしょう。この機会に返しておいたらどうですか」
「借り? なんのことだ」
「あれ。聞いてないんですか」
 薪に心当たりはなかったが、岡部は一人頷き、「やっぱり中園さんはいい人ですね」などと笑えないジョークを飛ばした。中園がいい人だったら小野田は間違いなく神さまだ。
「青木のことですよ」
 春の事件の後、どうして自分たちのことが公にならなかったのか、岡部に聞くまで薪はその真相を知らなかった。自分が手を回して守ってやったのだと、中園は一言も言わなかった。

「……くっそ」
 頭を掻き毟るようにして逡巡した後、薪は席を立った。
「岡部。十日ほど第九を頼む」





*****

 薪さんにセーラー服着せてみたい人、手上げてー! ←いるわけない。



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イヴに捧げる殺人(4)

 こんにちは。
 みなさんはもう、連休に入りましたか?
 うちはカレンダー通りの休日で、日曜日と昨日はお休み、3~6日まで連休の予定です。5日に漏水当番が入ってるから実質は3日ですが。

 日曜日はねえ、那須の動物園に行ってきたんだ~。
 カピバラと戯れてアルパカと遊んで、ハシビロコウとにらめっこ。犬猫ウサギ、馬、羊、牛、ラクダ、猿に鳥たち。正に動物キングダム♪
 温泉まであるんだから、うちの青薪さん定番のデートコースになるはずだわ~、て書いたことなかったっけ。今度書く。


 昨日はお休みだったから、ブログの更新とかお返事とかできたわけなんですけどね、昼間っからビール飲んだら眠くなっちゃってテレビ見ながら寝ちゃいました。←ダメ人間の見本みたいな休日。
 人間て、どうしてお休みになるとだらけちゃうんだろうねえ? え、わたしだけ?







イヴに捧げる殺人(4)







「礼子さま、おはようございます」
 校門前で車から降りた途端、礼子は見知らぬ女生徒に声を掛けられた。亜麻色の巻き毛の、はっとするくらいキレイな娘だった。こんな子学校にいたかしら、と礼子はしばらく考えたが思い出せなかった。だいたい、向こうから自分に話し掛けてくるなんて――。
「……うそ」
 昨日、自宅に挨拶に来た男だと気付くのに一分くらいかかった。気付いて白目を剥いた。
 だってセーラー服よ、セーラー服。
 てか似合い過ぎなんだけど。違和感なさ過ぎて気持ち悪い。いっそ叫びながらこの場を走り去りたい。

 気付けば、周囲は登校してきた生徒たちのざわめきに満たされていた。
「あの方はどなた?」「転校生かしら」「なんてきれいな方なんでしょう」「本当に。まるで天使のよう」
 次々と聞こえてくる称賛の声に、礼子は心の中で激しく言い返す。
 いや、確かに似てるけど。宗教の授業の時に習った何とかって言う天使にそっくりだって認めるけど、野郎だからね、こいつ。

 知らぬが仏とは正にこのこと。そんな状況で彼が礼子に声を掛けたから堪らない。礼子は生徒たちの質問の集中砲火を浴びる羽目になった。
「九条さま。この方とお知り合いですの?」「まあ羨ましい。わたくしにも紹介してくださいな」「お名前は何とおっしゃるの?」「お家はどちら?」
 きれいで華やかなものが大好きな彼女たちは、新しいお人形を見つけた興奮にきゃあきゃあ騒いだ。礼子は仕方なく、彼女は自分の遠縁で日本に留学中、今日から十日ほどこの学校に通うことになったのだと説明した。虚言は孤児院育ちの礼子の十八番。お人好しのお嬢様連中には見抜けまい。

 群れ為す生徒たちを朝礼の時間を理由に遠ざけ、礼子と彼は校舎へと向かった。こっそり話していることがみんなに分からないように、互いに前を向いたまま小さな声で刺々しい会話を交わす。
「なんでそんなカッコしてんの。あんた変態だったの」
「ご学友として陰ながらお嬢様をお守りしろとの命令ですので」
「陰ながらって、あたしの方が影になってるんだけど」
「仕方ないですね。お嬢様は地味なお顔立ちですから」
 この場でこいつのスカートめくって社会から抹殺してやろうかしら。
 いい考えだと礼子は思ったが、不発に終わりそうだとも思った。礼子よりも若干短いスカートから伸びている彼の脚の優雅なこと。足首なんか折れそうに細い。スカートの中身が見えたところで男だとは分からないんじゃないか、ていうか、
 生足よね、それ。なんでスネ毛無いのよ。ホント気持ち悪いわ、この男。

「事件の大まかな内容はご両親から伺ってますが、当事者から詳しい話を聞かせてもらえますか」
「事件てなんのこと」
「校内で危ない目に遭われたのでしょう?」
 何故昨日部屋で訊かなかったのだろう。少し考えて、ユリエがいたからだと気付いた。この男は礼子が学校でどんな目に遭っているかおおよその見当を付けていて、それで気を使ったんだと分かったら妙に悔しくなった。
 昇降口で真新しい上履きに履き替える。ついでに、たぐまっていたソックスを引き上げた。隣で同じように上履きを履いている彼に、礼子は素っ気なく言った。
「別に。大したことじゃないわよ」
「もう少しで大怪我をするところだったと聞きましたよ」
「平気よ。あたし、運動神経いいもん」
「ご両親は苛めを疑ってらしたそうですが」
「あたしがエセお嬢様だってみんな知ってるからね。この学校、真正のお嬢様が通う学校だから。面白くない人間もいるんじゃないの」
 育ちのいい子から見れば、礼子が受けている行為は苛めになるのかもしれない。しかし礼子には、そんな被害者意識はなかった。

「流れてる血が違うのよ。あの子たちとあたしは」

 生まれ持った魂の差って、出るものだ。お金持ちの家に生まれた子は品が良く、そうでない家に生まれた子は何処かしら浅ましい。みんなそれを敏感に感じ取って、だから自分を遠巻きするんだろうと礼子には分かっている。皆が悪いのではなく、自分が悪いわけでもない。悪いとしたら、礼子をこんな場違いの学校に入れた養い親のせい。それだって彼らに悪気があったわけじゃない。
 結局、誰も悪くないのだ。

「でも大半は良い子たちよ。見たでしょ、さっきの。此処にいる大抵の子は幸せしか知らないのよ。苛めって言ったって、幼稚な意地悪よ。あんなの、施設の熾烈な生き残り競争に比べたら何でもないわよ」
 施設では、みんなが互いの足を引っ張り合っていた。夕飯のおかずやしょぼいおやつ、そんなものの為に殴られたり、やってもいない悪行をでっち上げられたり。貧しさは人の心を醜くする。それを礼子は幼い頃から叩き込まれて生きてきた。それに比べたらここは天国だ。何もしなくても美味しいご飯が食べられるし、それを誰かに取り上げられる心配もないのだから。
「だからあんたはあたしが苛めになんか遭ってないってお母様たちに報告して。早くあたしの前から消えてちょうだい」
 礼子が彼を遠ざけたいと思った、一番の理由はそれだった。事実を報告されたら、転校させられるかもしれない。それは避けたかった。

 彼は冷静に礼子の話を聞き、堅い声で言った。
「判断するのは僕です。……ところで、前の上履きは誰に捨てられたんですか」
「さあ。気が付いたらなくなって、っ」
 口を滑らせた礼子に、彼はニコリと微笑んで見せた。それがもうどこからどう見ても絶世の美少女で。虫唾が走るわ、この男。
「失礼。月曜日でもないのに、鞄から靴を出されていたので」
「あたしは新しいクツが好きなの。足元がちょっとでも汚れてると気になるのよ」
「それにしてはソックスがずり落ちてるようですけど」
「こ、これはファッションよ。ルーズソックスってやつ」
「百年くらい前に流行ったファッションですよね。大体それ、普通のソックスでしょ」
「今はこれが流行りなのっ」
「さっき引き上げてませんでした?」
 なんて口の立つ男だろう。ああ言えばこう言う。諦めて、礼子は白状した。

「誰に捨てられたかは分からない。でも、本当に大したことじゃないわ。上履きくらい、また買えばいいんだもの」
「他に被害はありませんでしたか」
 ない、と礼子は言い切った。もちろん嘘だった。まだ二学期の半ばなのに、学用品はおろかジャージも制服も三枚目だった。礼子の嘘を見抜いたように、彼は礼子が一番恐れていたことをあっさりと口にした。
「嫌がらせが続くようなら、転校という手もありますよ」
「転校してどうするの? また同じことを繰り返すだけよ。それに」
 礼子は意識的に彼に背を向けた。これ以上、嘘を暴かれるのはごめんだった。
「負けて逃げ出すのは嫌」

 そこで彼との会話は終わった。教室に着いたからだ。彼は転入生だから職員室に行かなくてはいけない。「ではまた」と小さく手を振って廊下を歩いていく、その姿に廊下にいた生徒がみんな見蕩れていた。
 この鞄、後ろから投げつけてやろうかしら。
 そんなことができる筈もなく、礼子は肩をすくめて教室に入り、自分の席に着いた。机が汚されていないことに少なからずホッとし、鞄の中身を机に移す。
 ここ2ヶ月の間に、礼子への苛めは極端に減った。が、彼女を取り巻く環境はさらに劣悪なものになった。クラスでは完全に孤立して、誰も彼女と眼を合わせようとしない。誰も彼女に話しかけない。
 それはそれで気楽だったが、寂しくないと言えば嘘になる。施設では嫌なことばかりだったが、それでも一応は友達と呼べる子が何人かはいた。現在、礼子には友達は一人もいない。

 いや、たった一人だけ。
 好意を持ってくれていると、信じるに足る相手はいた。もう何週間も言葉を交わしていないけれど、礼子は彼女を信じていた。
『何があっても私は礼子さまをお慕いしております』
 彼女はそう言ったのだ。

 その彼女も今は、礼子に話しかけてこない。それは彼女やクラスのみんなが意地悪なわけではない。怖がっているだけなのだ。
 彼女たちは2ヶ月前、いや、一月前までは朝の挨拶くらいはしてくれた。でも先月の頭に2度目の事件が起きて、それから誰も礼子に近付かなくなった。事件の裏に隠された符号に気付いたからだ。学園中がそれを知っているわけではない。クラスメイトと言う近しい関係にあったからこその恐れ。でも礼子には、彼女たちを弱虫と罵る気持ちは起きなかった。だって仕方がない。彼女たちは生まれた時から守られて来たのだから。戦い方を知らないのだ。

 十分ほどすると担任の先生が来て、転入生を紹介した。正門前で起きたことが再び繰り返され、礼子はうんざりした。初めての場所に彼を連れて行くたびにこの脱力感を味あわなくてはいけないのかと思うと、始まったばかりの十日間が十年にも思えた。
 続いて始まった大嫌いな数学の時間を、礼子は欠伸を噛み殺しながらやり過ごした。一時限目にこの科目を持って来られるのは拷問だと思うのは、自分の育ちが悪いからだろうか。
 クラス朝礼で紹介された彼は、礼子の斜め後ろの席に陣取って、油断なくこちらを見ていた。彼が同じクラスに入れたのは、多分父親が手を回したのだろう。父はこの学園の理事の一人なのだ。
 退屈な授業が終わって休み時間、いつもは一人で文庫本を眺めて過ごすのだが、その日はそれが許されなかった。美貌の転入生に群がった生徒たちがうるさくて、本の内容がちっとも頭に入ってこなかったのだ。

「美奈子様は礼子様の御親戚と聞きましたけど、同じ名字ですのね」
 九条美奈子と言うのは彼の偽名だ。学校に転入するのに誰かの戸籍を借りたかでっち上げたかしたのだろう。
「この学校は気に入りまして?」
「ええ。とても素敵な学校ですわね」
「まあ、よかった。よろしかったらお友達になってくださいな」
「よろこんで」
 彼の関心を引こうと何人ものクラスメイトが彼に話しかけ、彼は卒なくそれに答えていた。普段警察でどんな仕事をしているのか、あの板に着いたお嬢言葉はいったい何処で習得してきたのだろう。

「美奈子様がいらしてくださって、久しぶりに華やいだ気分になりましたわ。このところ、嫌なことばかり続いたから」
「まあ、貴子様ったら。美奈子様はこちらにいらしたばかりなのにそんなこと」
「噂は伺っておりますわ。学園に吸血鬼が出るって」
 ざわめいて眉を顰めたのは、彼の近くにいた生徒だけではなかった。皆なるべくその話題には触れないようにしてるのに、無神経な男だ。基本的に此処にいる娘は温室育ちの甘ちゃんで、だから本気で吸血鬼を怖がっている娘もいたりする。礼子の隣の席の娘に至っては真っ青になっていた。見かねて礼子は席を立った。
「そんな噂を信じてらっしゃるの? 案外ロマンチストなのね、美奈子さんは」
 皮肉っぽく言うと彼はコロコロと笑って、だからそれ止めてってば。みんな見惚れてるけどそいつ男だからね。「鈴を転がしたようなお声ですこと」ってパンツ脱がしたら股間に鈴がぶら下がってるからね。

「まさか。吸血鬼なんてこの世にはいませんわ。人間の仕業でしょう」
 彼が断言すると、ざわめきはますます大きくなった。みんな不安で仕方ないのだ。だって被害者はこの学校の生徒ばかりなのだから。いつ自分に白羽の矢が立たないとも限らない。漠然とした恐怖に日夜晒されているのだ。
「恐ろしい」「一体どこの変質者かしら」「この学園の生徒ばかりが狙われるのは何故でしょう」
 口々に不安を零す彼女たちを彼はじっと観察していた。その眼光の鋭さで分かった。彼がボディガードという名目でこの学校に何をしに来たのか、礼子はその時、初めて理解したのだ。
 礼子の意味深な視線に気付くと彼は頬を緩め、見事な作り笑顔で言い放った。
「わたくし、この事件にとても興味がありますの。被害に遭われた方々のことや事件当時のこと、どんな小さなことでもお聞きしたいわ」
「物見高い方ね。生憎わたしたちは、物騒な話は致しませんの」
 利用されてたまるかと、礼子は思った。薪が険悪な目でこちらを睨んだが、気付かない振りをした。

「随分冷たい言い方ですこと。礼子様は美奈子様と御親戚なのでしょう?」
 彼は警察のスパイよ、と叫んでやりたかったがその気も失せた。横やりを入れて来たのが三角貴子だったからだ。彼女はこのクラスにおける礼子排斥グループの筆頭者。勝手に騙されて利用されればいいと思った。
「ああ、そうでしたわね。親戚と言っても血の繋がりはございませんのよね」
 貴子はクスリと嫌な笑い方をし、礼子に見下す視線をくれた。
「私も事件のことはとても気になっておりますのよ。美奈子様とは気が合いそうですわ」
「まあ嬉しい。いろいろ教えて下さいな」
 ぷいとそっぽを向いて、礼子は教室を出た。これから十日間は休み時間を廊下で過ごすことになりそうだ。憂鬱になって彼女は、重苦しいため息を吐いた。






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イヴに捧げる殺人(5)

 こんにちは。
 今日から連休の方、多いですよね。みなさん、行楽なさるのかしら。お天気に恵まれますように。

 わたしは遠出の予定はありませんので、真面目に更新を……あれっ、4月って記事6つ?
 なんで現場出てた時と数変わらないの? ←当事者の言葉とは思えない無責任さ。

 すみません~、5月はがんばるです~。
 でも今日は映画に行ってくるねっ。右京さん、今行くよー!






イヴに捧げる殺人(5)






「美奈子さま。ちょっとお話が……あの、美奈子さま、あのっ」
 それが自分に対する呼び掛けだと気付くまで、4秒ほどかかった。その時薪はよんどころない事情で焦っていて、つまり生理現象だ。潜入捜査とはいえ、さすがに生徒たちがたむろしている女子トイレには入れない。考えた挙句、日中は使われていない講堂か体育館のトイレを使えばいいと思いつき、校舎外に走り出そうとしていたのだ。
「はい」と淑やかに返事をして振り返る。薪を呼びとめたのは、ストレートの黒髪を背中に垂らした大人しそうな女の子だった。同じクラスの、名前は確か更科柚子。席は礼子の隣だ。
「更科さま。なにか」
「もう私の名前を? 優秀でいらっしゃいますのね」
 褒め言葉には微笑みだけを返し、心の中で、あなたのお父様の会社の住所まで知ってますよ、と薪は答えた。一応ね、と中園から渡された資料の中に、礼子のクラスメイトたちの履歴書があった。すべてインプット済みだ。

 廊下の隅に連れて行かれ、お喋りを楽しむ他の生徒たちの眼から隠される。普通の学校なら新入りに対するヤキ入れだが、ここは天下のお嬢様学校。そんな野蛮なことはしないだろうと思う一方で、礼子がイジメを受けている事実を思い出す。ガキのやることなんて、金持ちも庶民もあまり変わらないのかもしれない。
 私のことは柚子とお呼びになって、と微笑んだ後、彼女は口ごもった。言おうか言うまいか迷っている素振り。どうでもいいから早くしてくれ、と言いたいのをぐっと堪える。

「あの、こんなこと、言っていいのかどうか」
「遠慮はいりませんわ。どうぞおっしゃって」
 薪が促すと、柚子は意を決したように顔を上げ、きゅっと唇を引き結んだ。
「礼子さまとは、あまり親しくなさらない方がよろしいと思います」
「何故ですの?」
「礼子さまはその、お可哀想なことに苛めにあってらして……」
「一緒にいるとわたくしまで巻き添えになると? それはご親切にありがとう。でもわたくしは礼子さまとは小さい頃からとても仲良しでしたの。そんな状況ならなおさら、礼子さまの支えになって差し上げたいわ」
「違います。それだけなら私だってこんなことは申しません」
 強く言い返されて、少したじろぐ。マスク越しで話をしているようなホワホワした声しか出せない連中だと思っていたが、例外もいたらしい。薪は改めて彼女を見直し、彼女の黒い瞳に振り絞った勇気を見つけた。

「先ほど、美奈子さまがおっしゃった吸血鬼事件。被害者は3人とも、礼子さまを苛めていた生徒なんです」
「ほう。それは面白い」
「えっ?」
「あ、いえ、そうなんですの。それは初耳ですわ」
 有力な手掛かりに、思わず素が出てしまった。慌ててお嬢様の仮面を被り、薪は咳払いでその場をごまかした。幸い、柚子はそれ以上薪の失言を追求することはしなかった。この辺がお嬢様だ。これが雪子ならここぞとばかりに突っ込んでくる、絶対。
「最初に被害に遭われた三宅裕子様、二人目の遠峯千尋様、そして三人目の岸谷千秋様。みんな礼子様にひどいことを……だから、礼子様は事件と何か関わりがあるんじゃないかって」
 柚子は眼を伏せ、長い髪で顔を隠すように俯いた。それから弱々しい声で、
「あの方に近付くと血を抜かれて殺されてしまうって。クラスでは噂になってるんです。だからクラスであの方に近付く生徒はおりません」
 育ちの良さ以上に。不安が彼女を追い詰めていたのだろう。その中で、彼女は薪の身を案じて忠告してくれたのだと知った。

「大丈夫。こう見えてもわたくし、とても強いんですの。礼子さまはもちろん、柚子さまのことも守って差し上げますわ」
 薪はにっこりと笑い、柚子の小さな肩に手を置いて顔を近付けた。それは子供を安心させるときに青木がよくやっている仕草で、でも薪がやるとまったく別の効果を表す。すなわち柚子はぽーっと顔を赤らめ、つまり彼女にはこれから自分の性癖を疑い悩むと言ういささか可哀想な未来が待っている。色んな意味で罪作りな男である。

「ではこれで。わたくし、休み時間中に行きたいところがありますの」
「あら、どちらへ? よろしかったらご案内しますわ」
「ありがとう。でも大丈夫ですから」
 着いてこられたら身の破滅。これから毎日トイレに行くたびにハラハラしなきゃならないのかと思うと悲しいやら情けないやら。さらには自分のこんな姿を想像して意地の悪い上司が嗤っていることも予想がついて、そうしたら今度はひどく腹が立ってきて今すぐにもこの太腿にまとわりつくスカートを脱ぎ捨ててここから立ち去りたい衝動が沸き起こり。
 それらすべてを薪は、3日後の土曜日、自宅を訪れるはずの恋人をいじめ倒す手段を考えることで押さえつけた。



*****




 薔薇の花が華やかに踊るティーカップを、礼子は乱暴にソーサーに置いた。ガチャンと痛々しい音が響く。エルメスの限定品とか知ったこっちゃない。
「あの男。マジでムカつく」
 礼子の苛立ちの原因は臨時雇いのボディガード。初日から気分は最悪だ。
「どうしてそんなに薪さまのことをお嫌いになるんです? あんなに綺麗な方なのに」
「だから、気持ち悪いって言ってるでしょ」

 雇われ人のくせに上から目線だとか口の利き方が超生意気だとか、彼を不快に思う要素は他にもあるし、心の底では礼子も彼の美しさを認めている。礼子が彼を遠ざけたいと思う、本当の理由は別にある。
 それは彼の気品だ。
 彼の内面から滲み出る優雅さは本物だ。自分のように、上っ面だけの紛いものではない。クラスメイト達と同じ本物だけが持つ品の良さ。自分には決して得られないそれを持っている彼が、礼子には妬ましくて仕方ないのだ。

 礼子は九条家の本当の娘ではない。生物学上の親は顔も知らない。
 孤児という境遇に幼い頃は苦労したが、施設から九条家に引き取られ、それからは何不自由なく育ててもらった。養父が行かせてくれたお嬢様学校も養母が用意してくれた服も、習い事も友だちもまったく趣味ではなかったが、文句を言ったら罰が当たると思った。施設の暮らしに比べれば、ここは天国だ。
 養父母には感謝しなければ、といつも自分に言い聞かせていた。どんなことをされても我慢して、彼らの恩に報いようと思っていた。
 それは幼い頃からの礼子の決意ではあったが、時に我慢の限界を超えそうになった。特に子供の頃は、その純粋さ故に傷つくことが山ほどあった。慣れない上流階級の暮らしやしきたり、来訪者たちの物珍しそうな視線と嘲りの笑み。幼い礼子は彼らの悪気のない態度や言葉に自分を否定され、陰で涙を流した。
 そんなとき、礼子を慰めて元気付けてくれたのがユリエだ。彼女は小間使いで、当然庶民だ。だから礼子とは話が合ったし、気持ちも通じた。その頃はユリエが礼子の支えだったのだ。
 一人寝に慣れていない礼子のために、嵐の晩はそっとベッドに潜んできてくれた。夜が更けるまでお喋りに興じていたから翌朝寝過して一緒に寝ているところを見つかってしまい、執事の高田にめちゃくちゃ怒られていた。それでも礼子が頼むと、添い寝してくれた。中学生になってからはそんなこともなくなったけれど、生まれのせいで学友たちとの間に常に溝がある礼子にとって、ユリエは使用人というよりは気の許せる友人であった。

 高等部に進んで、礼子は一人の女生徒と親しくなった。何度か家に連れてきて、ユリエと3人でお茶を飲んだりした。その彼女とも事件のせいで距離ができてしまったが、彼女を大事に思う礼子の気持ちは変わっていない。

「お代わりはいかがですか?」
「ありがと」
 ユリエがティーポットを傾ける。細い注ぎ口から流れ込むうっとりするような赤色を、礼子はしげしげと見つめた。
 新しいお茶を一口含んで首を捻る。どうしてユリエが淹れるローズヒップはこんなに美味しいのだろう。酸味はあるがまろやかで、何とも言えないコクがある。何処に出しても恥ずかしくない味だ。
「同じ茶葉なのに。なんであたしが淹れると酸っぱくなるのかしら」
「性格が出ますから」
 思わず舌打ちする。小さい頃のあれやこれやを知られている分、ユリエは礼子に遠慮がない。

 そう言えば、あの娘が淹れたお茶は優しい味がした。
 お茶の味に人柄が出ると言うのは本当のことかもしれない。正確には育ちが出るのかも。
 九条の家に引き取られたばかりの頃、料理の味付けが薄いことに驚いた。良質の材料を使えば調味料を多用せずとも十分な旨味が得られる。が、普段安手の材料ばかり使っている人間はその引き出し方を知らないから、ついつい調味料に頼る。それと同じで、茶葉の入れすぎとか時間の置き過ぎとか、礼子が気付いていないミスがあるのかもしれない。

「結局は血が違うのよね……」
 礼子の自嘲めいた呟きを、ユリエはいつものように聞こえなかった振りをしてくれた。





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イヴに捧げる殺人(6)

 こんにちは。
 GW、楽しんでますか~?
 お仕事中の方はご苦労様です。

 わたしのGWは、映画2本立てでした。
「相棒」と「テルマエ」。 どっちも面白かったです。
 個人的には「相棒」の方が笑ったかな。右京さんの変人に磨きがかかってます。まあ、あれも計算のうちなんでしょうけど。

 そう言えば、昨日は結婚記念日だったんですよ。
 去年の結婚記念日も映画を観に行ったんですけどね、その時が「藁の楯」で今年が「相棒」。我ながらシュールなアニバーサリィチョイスだなあ(^^;

 青薪さんにも、結婚記念日(家族になった記念日)ってあるのかしら。
「今日は薪さんが初めてオレの家にいらした日ですから」とか言って3人でお祝いすればいいと思うの。だれか書いてください。 




イヴに捧げる殺人(6)







 支度をしてドアを開けたら青木がいて、うわっと仰け反られた。無理もないと思った。40男のセーラー服なんて薪だって卒倒する、ていうか、条例違反でトラ箱にぶち込む、絶対。

「悪い。驚かせた」
 薪が謝ると青木は慌てて首を振り、
「落ち着いて見れば大丈夫なんですけど、いきなりだとドキッとしますね」と自分の動揺を恥じるように言った。
 醜悪だという自覚はあった。青木は薪の女装は何度も見ていて、つまりは免疫がある。その青木ですらたじろぐような姿なのに。
「おまえがドン引くほどヒドイ格好なのに。不思議だよな、どうしてバレないんだろう」
「いえあの、衣装に驚いたんじゃなくて。要はですね、全世界美少女コンテストの優勝者が突然目の前に現れたら誰だってびっくりするでしょう?」
「美少女コンテストの優勝者? そんな娘とどこで知り合ったんだ?」
「いや、そうじゃなくて」
「僕にも紹介しろ」
「……もういいです」
 訳の分からない事を言い出したと思ったら勝手に会話を終了させて、これだから最近の若い者は。世界一の美少女は何処へ行ったんだ。
 まあいい。薪の好みは成熟した大人の女性だ。背は低めでちょっとぽっちゃり系。他のことはあまり拘らないが、胸はCカップ以上が必須条件。未成年者は対象外だ。

「お嬢様ってのは温室育ちだからな。どこかズレてるんだろうな」
「薪さんには言われたくないと思いますけど」
「何か言ったか」
「いいえ、なにも」
 青木はついと眼を逸らし、薪の追及を逃れた。昔は蛇に睨まれたカエルよろしく冷汗を流すばかりだったのに、最近は空っとぼけるようになった。
 この制服を着るのも4日目だ。さすがに慣れてきて、スカーフを結ぶのも早くなった。おかげで今朝は時間が余って、薪はその空白を2杯目のコーヒーで埋めることにした。昨夜青木が此処に泊った、ということは薪は当然寝不足だ。いつもより多くのカフェインを摂る必要があった。

「調査の方はいかがですか」
 お湯をドリッパーに注ぎながら、青木は現在薪が携わっている事件について尋ねた。青木の問いに、薪はきらっと眼を輝かせ、
「面白いことが分かったぞ」と遠足に出掛ける前の子供のように笑った。
「彼女は間違いなく苛めの被害者だ。それも多数の人間から苛めを受けていた」
「受けて、いた?」
 言葉尻を捉えて青木が聞き返すと薪は満足そうに頷き、次いで青木が差し出したコーヒーを鼻先に近付けて、夢見るように微笑んだ。その美しい微笑み。やわらかな線が織りなす、いっそ夢幻の世界にしか存在しないかのような美貌。
 しかしながら、その花のような口元からこぼれる言葉はひどく現実的で、青木は彼が作り出すギャップと混沌にいつも眩暈を覚える。

「吸血鬼事件の被害者は3人とも、彼女を苛めてた生徒なんだ」
「えらい偶然ですね。捜一の見解はどうなってるんですか?」
「それが件の学園は男子禁制で、生徒たちは男性に免疫がなくてな。捜一の連中が彼女たちに話を聞こうとすると、一様に口を噤んでしまうらしい。だからこの事実は未だ掴んでないと思う」
「潜入捜査のお手柄というわけですか。苦労した甲斐がありましたね」
 昨夜、ベッドに行く前の前哨戦が行われたソファで仕事の話をする。そんな日常にもだいぶ慣れた。
「じゃあ、その子が犯人なのかもしれませんね。苛めに耐えかねて、衝動的に相手を殺してしまった」
「被害者は身体中の血を抜かれてるんだぞ。頭も丹念に潰されてる。子供にできるとは思えないが」
「それは彼女の犯罪を隠そうとして、周りの大人たちが。子供にはできない、と思わせることが目的なんですよ」
「だとしても親は無関係だ。中園さんにボディガードの斡旋を頼んできたくらいだからな」
「父親だけが知らないのかも。母親や使用人たちがグルになってて」
「そろそろ時間だ」
 薪はふいに席を立った。薪が話を打ち切きったということは、青木の推理は却下されたと言うことだ。薪の琴線に響かないなら、この線は誤りなのだろう。青木は思考をリセットし、鞄とコートを持って彼の後を追いかけた。

「あの。苛めの方はまだ続いてるんですよね。放っておいていいんですか」
 車の後部座席に収まった美少女にミラー越しに話しかけると、思いもかけない答えが返ってきた。
「首謀者を絞り込むことはできると思うけど、注意したところで苛めがエスカレートするだけだろう。何より、本人が戦う気マンマンなんだ」
「マンマンですか」
「代議士のお嬢さんで苛めに遭ってるって言うから、風が吹いただけでも泣くような女の子を予想してたんだけど。まるで違ってた」
 ミラーの中で薪は微笑んだ。相手を好ましく思っているときの笑み。子供のお守なんてまっぴらだと、初めはあんなに嫌がっていたくせに。野良猫も3日飼えば情が移るというやつか。

「施設にいたらしくて、小さい頃から苦労して育ったみたいだからそのせいかもしれないけど。必死に強がる様子が、なんか可愛くてさ」
 薪に邪心はないのかもしれないが、青木は穏やかではない。薪は青木の恋人だが、同性愛者ではない。普通に女性が好きなのだ。その証拠に、可愛い女の子がいれば自然にそちらを見る。今もちらっと右側を見た、視線の先にはバス停でバスを待つOL。ふっくらしたくちびるがキュートな女の子だった。
 そんな彼が女の園で潜入捜査。仕事とは言え、楽しくないわけがない。
 嫉妬心に煽られて昨夜は少々無理をさせてしまった。鏡の中で彼が発した大あくびはその証。自覚はあるが反省する気になれないでいる。ヤキモチは謙虚さを遠ざけるのだ。

「それと、あの子には何か秘密がある」
「秘密? それはさっきオレが考えたようなことで?」
「おまえの言う通り、彼女は事件に関係してる。被害者の接点が彼女なんだからな。でも彼女の秘密は事件とは無関係だと……いや、もしかしたら」
 薪は右手の拳を口元に当て、視線を虚空に据えて固まった。推理を巡らせるときのポーズ。表面は静かだが、彼の頭の中では目まぐるしい速度で仮説とそれに基づく論理展開がなされているに違いない。
 それから学校までの約20分、薪は黙りこくって思考を続けた。その間、彼は声も発せず身じろぎもせず、窓の外を見ることもなかった。




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イヴに捧げる殺人(7)

 こんにちは。
 前の記事から10日も過ぎちゃいましたね(^^;)
 どうしてこんなに日が経つのが早いんだろうっ。←万国共通ナマケモノの言い訳。

 うーんとね、実は、実家のおばあちゃんが心筋梗塞で入院したんですよ。
 最近、寒暖差が激しかったし、もう年だからね~。96歳だもん、心臓も疲れるよね。
 そんなこんなで、少しワタついておりました。

 更新を待ってくださってる方、もしもいらしたらゴメンナサイでした。
 続きですー。





イヴに捧げる殺人(7)





「柚子さま。お聞きしたいことがあります」
 体育館の壁の前、ジャージ姿で薪は、自分と同じように隣に座った女生徒に話しかけた。コートではバスケットボールの試合が行われており、広い空間にはドリブルの音とバスケシューズが激しく床を叩く音が響いていた。
 楽しそうでいいな、と薪は軽い羨望を彼女たちに抱く。ジャージならともかく、ここの体操服はブルマなのだ。穿いたら一発で男だとばれてしまう。体育の授業は見学で通すしかない。隣の柚子は生まれつき身体が弱いらしく、激しい運動は医者に止められているそうだ。おかげで彼女に話を聞くことができる。

「なんですの」とこちらに顔を向けた柚子の声を掻き消すように、わっと歓声が上がった。輪の中心にいるのは、驚いたことに礼子だった。
 運動神経が良い、と自慢していただけあって、礼子のプレイは群を抜いていた。周りがおっとりしたお嬢様ばかりだからかもしれないが、薪の眼から見ても俊敏な動きだった。特にドリブルは巧みで、コートの端から端まで3人抜きでシュート、などというスーパープレイも見せてくれた。今のはそれに対する称賛の声だ。
 バスケなんて何年もやってないけど、もともと好きなスポーツだからついつい試合に眼を奪われる。活発に動く若い女性の身体は男の薪から見れば魅力的だ。食べ物のせいか最近の子は発育が良くて、胸やお尻も成人女性と同格以上だ。ハーレム気分なんでしょう、と青木にベッドの中で詰られて、「彼女たちはまだ子供だ」と否定したけれど。中にはそちらの方面の成熟を感じさせる娘もいる。間宮じゃないけど、見れば何となくわかる。男を知っている女の身体。

「あの、美奈子さま?」
「はい?」
「私に聞きたいことって」
 自分から話しかけたくせに彼女の存在を忘れていた。気付いて薪は、コホンと咳払いをした。

「礼子さまを苛めている生徒のこと。詳しく教えていただけませんか」
「先生におっしゃるつもり?」
 情報の出所が自分だと分かれば、今度は自分が標的になる。その恐れが柚子の口を重くした。俯く彼女に、薪はそっと身体を近付けて、
「わたくし、考えましたの。もしも今現在礼子さまを苛めている生徒がいれば、次はその生徒が吸血鬼に狙われるんじゃないかって」
「まさかそんなこと」
「どうしてですか? 被害者の3人が3人ともイジメをしていた生徒なら、次の犠牲者もきっとイジメをしている生徒だとわたくしは思います」
「それもそうですわね……分かりました、お教えします。でもあの」
「大丈夫。あなたから聞いたことは決して誰にも言いません。わたくしたちだけの秘密ということで」
「美奈子さまと私だけの」と顔を赤らめる柚子に、薪はダメ押しとばかりに微笑んだ。彼女の好意を利用するようで気が引けるが、潜入捜査とはこういうものだ。非情でなければ務まらない。非情な人間ならこの任務自体を断れたはずだが、そこは触れないでおくことにした。

 柚子から聞き出した情報によると、礼子を苛めていた生徒は7人。首謀者を含む3人が死んだことで、彼女への苛めは現在は止まっている。次に狙われるとしたら残りの4人の誰かである可能性が高い。薪は被害者候補の名前とクラスを聞き出し、頭の中にメモをした。

 最初に殺人が起きたのが2ヶ月前。2回目がそれから2週間後。3回目がさらに3週間後。最後の殺人から、そろそろ一月が経とうとしていた。
 最初はともかく、2番目3番目の事件の際には被害者たちも警戒していたはずだ。良家の子女なら尚更、単独行動を取らないよう人の少ない場所に行かないよう、親に注意を与えられたに違いない。そんな彼女たちが人知れず連れ去られたのは自ら人気のない場所に赴いていた、つまり自分が人に見られたらまずいことをしていたからではないか。
 被害者は殺される前に陰に隠れて礼子を苛めていた。家や学校では良い子で通っているのだ。人に見られない場所を選んだはずだ。そして被害に遭った。
 そう考えると、やはり犯人は礼子の関係者か。しかし、子供が苛められたからと言ってその相手を殺すか? 現場を押さえたなら、教師や相手の親にその証拠を叩きつければいい。両親は除外される。彼らは苛めの事実を疑ってはいたが、確証を持てずにいたからだ。
 ならば、礼子の使用人たちはどうだ。
 あの家には執事、ボディガード、小間使い、家庭教師に下男、と言った使用人たちが礼子と一緒に暮らしている。例えば小間使い。年が近い誼で、親には言えないことも彼女には話したかもしれない。主人の為に復讐を誓った小間使いが――。

「ないな」
 ちっ、と舌打ちして、薪は首を振った。どこかの執事話ではあるまいに、ご主人さまのために人殺しまでする使用人がそうそういるとは思えない。苛めは学内で行われているのだから、それを使用人たちが把握しているのも変だ。
「み、美奈子さま?」
 しまった。地が出た。
 この柚子と言う子は大人しくて目立たないから、つい居ることを忘れてしまう。空気みたいな娘だ。こういうのをエアー女子と言うのだろう。いつの間にかクラスからいなくなっていても誰も気付かない。遅刻やサボリには最適な能力だ。育ちの良い彼女はそんなことはしないだろうが。

 にこっと笑ってごまかした。相手もつられて微笑む。猜疑心の少ないお嬢様は扱い易い。こういうのが人攫いにとっ捕まって外国へ売られるのだ。自室に酒やタバコを隠し持っているなどとんだ不良娘だが、礼子の方がずっとしっかりしている。自分の意見を持っていて、それをハッキリと言葉にできる。良い子ではないが、頼もしさを感じる。
 ふと思った。柚子のような女の子の眼に、礼子はどんな風に映るのだろう。
 そっと隣を伺えば、真剣に試合を見つめる柚子の姿。よくよく観察すれば彼女の視線は一人の女生徒に固定されており、それはつまりコート上で一番活躍している選手だ。柚子の黒い瞳は羨望と憧憬で満たされ、ふっくらとした丸い頬には朱が上っていた。
 体の弱い少女にとって、スポーツ万能の礼子は憧れなのだろう。更に観察すれば、礼子を同じような眼で見ている生徒は他にもいて、要するに、彼女は苛めを受けていても嫌われ者ではない。誰も彼女に話しかけないのは事件の関与を疑って、或いは巻き込まれるのを懸念した親たちの訓戒に素直に従っているものと思われた。

 礼子は育ちの違いを気にしているようだったが、周りにはそれを介しない人間もたくさんいる。一部の狭量な観念を持った生徒たちが彼女を苛めていたのだ。なのに彼女は。
 ――そうだ。彼女はあのとき何と言った?
『彼女たちとは流れてる血が違うのよ』
 薪が初めてこの学園に登校した朝、正門から昇降口までの短い会話で、彼女はこう言ったのではなかったか。

「血か」
「え? 何かおっしゃいまして?」
 隣で柚子が尋ねたが、答えるのも面倒で無視した。
「美奈子さま、あの、お加減でも?」
「ちょっと気分が。わたくし、保健室に参ります。先生には柚子さまから伝えてください」

 薪は仮病を使って体育館を出た。推理を組み立てている最中に邪魔されるのが一番頭にくる。幸い授業中だ。校舎裏にでも行けば誰にも邪魔されずに考えることができるだろう。
 ところが、体育館から校舎に向かう途中、守衛に見咎められた。授業中に気分が悪くなったので保健室へ行く途中だと言うと、一人では危ないからと付き添われてしまった。藪蛇もいいところだ。

 良家の子女を預かるだけあって、この学校のセキュリティはしっかりしている。
 学校の門は3つ。そのそれぞれに守衛室があり、外部からの訪問客はそこで必ず、住所氏名訪問先、訪問の目的を記載した届出書を身分証明書と一緒に提出しなければならない。守衛は届出書に基づいて訪問先に連絡を取り、訪問の目的が虚偽でないことを確認する。帰りは訪問先の印鑑を書類に貰ってくることが条件だ。
 つまり、内部の人間と通じていないと外部から侵入することは難しい。そして薪のように単独で校庭をうろつくものがいれば、生徒であれ父兄であれ、守衛が寄ってくる。
 加えて今は、腕に覚えのある多数のSPがいる。生徒のボディガードを務める彼女たちは、校舎内に幾つかの部屋を与えられ、そこに待機している。薪と同じように無線の警報受信機を持っており、ご主人さまからの一報があればすぐさま駆けつけると言う段取りだ。

 この状況下では犯人も手出しができないのか、ここ一月、新しい被害者は出ていない。ボディガードの同伴を学校側が許可した時期から犯行が行われていない、その事実は、学内に犯人がいると言う中園の推理を裏付けるものであった。
 薪もその推理に概ね賛成だった。その線で探りを入れてみたが、犯人らしき人物は一向に浮かんでこなかった。
 犯人は大人である可能性が高いと、薪も最初は思っていた。教員、用務員、学園に出入りしている業者。それらの中の誰かが、と、それはしかし捜査一課の見解も同様で、彼らからは十分な事情聴取とそれに基づいた裏付け捜査が為されていた。
 残る学校関係者は生徒たちと父兄。そして3人の被害者を結ぶ糸が礼子が受けていた苛めだとすると、捜査対象は絞られてくる。

 礼子の周りに犯人がいる。1週間の潜入捜査の末、薪が出した結論だった。

 学内には彼女の友人は見当たらないから、家の者かもしれない。両親も使用人たちもそこまでのことをするとは思えなかったが、薪の知らない秘密があるのかもしれない。あるとしたらおそらく、それは礼子の抱える秘密と密接な関係がある。
 礼子の自宅に探りを入れてみようと思った。自宅の警護は任務外だが、父親に報告があると言えば訪問の理由はできる。
 父親にアポを取ろうとして、薪はそれを途中で止めた。
 行くなら不意打ちだ。自分はあの家に探し物をしに行くのだから。
 人間は不意を突かれると、隠しておきたいものに対して不自然な行動を取る。視線がその付近を何度も行き来したり、逆にその場所だけを見なかったり。人を観察することで隠しているものの種類や重要度が分かる。刑事である薪にはそれを見抜く力がある。

「ありがとうございました」
 昇降口まで送ってくれた守衛に礼を言い、薪は教室へ戻った。体育の授業はまだ30分くらい残っている。無人の教室は九条家の捜索計画を立てるのに持ってこいだ。

 何の気なしにドアを開けて、咄嗟に立ち竦んだ。教室の中に人がいたのだ。
 その人物は、机の上に出した学用品に墨汁を降り注いでいた。礼子の席だった。
「何をしている」
 反射的に厳しい声が出た。びくっと身体を強張らせた少女が、怯えた顔で薪を見た。黒髪のおかっぱ頭で色白の少女、このクラスの生徒ではない。先刻、柚子に教えてもらった残り4人のうちの誰かか。

 彼女は身を翻し、薪が現れたのとは反対のドアから逃げ出そうとした。咄嗟のこととはいえ、それを逃がす薪ではない。彼女がドアに行き着く前に、彼女の細い手首は薪の右手にがっちりと拘束されていた。
「お願い、見逃して」
 彼女が持って逃げようとした墨汁の容器に、クラスと名前が書いてあった。C組、水島智子。思った通り、柚子が名を挙げた生徒の一人だった。

「黙っていてあげるから、ひとつ教えて」
 薪の提案に、彼女は訝しそうに顔を上げた。助かるかもしれないと言う一縷の希望と、後悔に歪んだ顔。彼女には自分が悪いことをしている自覚がある。
「頷くだけでいいわ。あなたにこれを命令したのは」
 薪がある女生徒の名を口にすると、彼女は狼狽し、うろうろと目を泳がせた。それで充分だったが、薪は彼女の返答を待った。
 彼女はやがて、すべてを観念したように力なく頷いた。





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イヴに捧げる殺人(8)

 こんにちはー。

 おかげさまで、実家のお祖母ちゃん、退院しました。
 お見舞いくださった方、ありがとうございました(^^


 またまた更新が空いてしまったしづですが、今回は放置していたわけではなく。新しいお話を書いててそっちに夢中になってブログを放ったらかしに、あれ、やっぱり放置ですね、すみません。

 4月中も、お花見の話とか青薪さんが夜中に雪を眺める話とか、ぼちぼち書いてたんですけどね。さっぱり筆が進まないわ、ブランクできちゃったからな~とその時は思ってたんですけど、
 やっぱりネタだね! ドS話だと筆が走る走るw
 というわけで、只今40Pお話の中盤、岡部さんと青木さんは爆弾で吹っ飛ばされて生死不明、薪さんは変態殺人鬼の毒牙に掛かろうとしております。
 いつも自分だけ楽しくてすみません(>▽<)







イヴに捧げる殺人(8)





 その日、自宅に戻った礼子は真っ直ぐに自分の部屋に向かい、机に向かって宿題を始めた。
 教科書の内容がちっとも頭に入ってこないのは、課題が礼子の苦手な数学だからではない。「ただいま」の挨拶をしに養父母の部屋を訪れると、そこには養父だけがおり、養母が不在だったからだ。
 婦人会の集まりで、今夜は遅くなるそうだ。養母は後援会の会長も務めているし、付き合いも広い。養父ほどではないが、夜、家を空けることも多かった。
 要するに、夕食は養父と二人きり。大分日も空いているし、今夜は確実だと思った。
 いっそのこと、泥酔して寝ててやろうか。できもしない抵抗を思いつくが、あの男がそれを歯牙にも掛けないことは、自分がそれを為せないこと以上に明らかだった。相手は礼子の意志などどうでもいいのだ。自分はただの人形。そのために引き取られたのだと今では分かっていた。

 身体の関係ができたせいか、礼子は義父のことを義母以上によく知っていた。見栄っ張りで小物の性格も、篤志家の仮面の裏で様々な悪事を働いていることも。
 今日のようなたっぷりと時間の取れる夜、礼子は義父の部屋に呼ばれる。部屋には常時鍵の掛かっているクローゼットがあるのだが、礼子はその中身を知っている。
 その扉は礼子にとっては絶望の扉だった。そこには女の身体を責め苛むための様々な性具と、義父の未来の政治資金に化ける粉が置いてあるのだ。礼子が義父に逆らわないのは、それを使われるのが怖いせいもある。性具だけならまだしも、薬漬けにされるのは嫌だった。

 ドアがノックされ、養父の声が聞こえた。ユリエが直ぐにドアを開け、何事か言い付けられて部屋を出て行った。
 人払いされたことを知って、礼子は焦る。まさか、こんな時間から?

「ママから電話があってね。今日は夕食までに戻れるそうなんだ。家族3人で食事が取れるのは嬉しいけれど、パパは少しだけ残念な気分だ。礼子もそうだろう?」
 養父は机に向ったままの礼子の背後に迫り、後ろから礼子の身体を椅子ごと抱きしめた。シャープペンを握りしめたまま、礼子は身構える。声が漏れないように奥歯を噛みしめた。
「可愛い娘をがっかりさせるのも忍びなくてね。夜の予定を繰り上げることにしたよ」
 胸のリボンが解かれ、ボタンが外された。襟の隙間から手が入ってくる。ごつごつした男の手。吐き気がした。
「おまえも期待していただろう?」
 養父の息が耳に掛かる。ヤニ臭い男の息。腹の底から嫌悪感が這い上がって来る。このペン先を無粋な手に突き立ててやりたい。
「さ、早く脱ぎなさい」
 養父の性的虐待が始まった当初は、礼子はなんのかんのと理由を付けてそれを拒もうとした。そして学んだ。抵抗しても不快な時間が伸びるだけだ。素直に言う事を聞いて、さっさと終わらせた方がいい。
 諦めて、礼子はシャープペンを机に転がした、その時だった。

「礼子さま。入りますよ」
 入りますよ、と言った時には既に薪は部屋のドアを開けていた。養父が泡を食って礼子から離れる。思わず噴き出しそうになった。
「九条先生もこちらでしたか。ちょうどよかった、先生に報告があって来たんですよ」
「き、君っ、案内もなしに失礼じゃないか!」
「すみません。インターホンを鳴らしても、誰もお出にならなかったので。勝手に入らせていただきました」
 嘘だ。インターホンは鳴らなかったし、玄関には鍵が掛かっている。
 驚くべきは彼がこの部屋に自力で辿り着けたことだ。九条邸は迷路屋敷の異名をとる建物、道順を知らない者にとって主要な部屋に行くのは至難の業だ。からくり屋敷のように入り組んだ廊下と階段が、泥棒避けにもなっているくらいだ。

 躊躇う様子もなく部屋の中に入ってきた彼に、養父は太く短い指を突き付け、だぶついた頬を赤くして彼を糾弾した。
「そんな嘘が通るとでも、――っ」
 ずい、と美しい顔が迫ってきて、養父は言葉を飲んだ。彼の美貌は氷の冷気と凄味を持っていた。
「どうやらインターホンが故障しているようですね。早く修理された方がよろしいですよ。でないと」
 完璧に整った顔が凄まじく微笑む。草食系なんて誰が言ったんだか、彼は立派な猛獣だ。
「不用意に入って、見てはいけないものを見てしまう輩がいないとも限りませんから」
 言外に、見たぞ、と言っている。養父の顔が青ざめて行くのが痛快だった。
「ど、どうかね、夕食でも。報告はそのときに」
「ありがとうございます。では後ほど」
 養父がそそくさと部屋を出ていくと、彼は傲慢に腕を組んだ。冷たい眼で礼子を見る。蔑まれても仕方ないと思った。

「お礼を言うべきかしら」
「僕に感謝する気持ちがあるなら、君にはしなきゃいけないことがあるはずだ」
「お母様に黙っててやるから好きにさせろとでも?」
 寝てやる気なんか無かったけれど、ブラウスの前をはだけて見せた。彼の説教口調は礼子の神経を逆撫でする。大人しく話を聞く気にはなれなかった。
 彼の瞳は礼子の胸元を見ても冷たいままだった。見入るどころか呆れたように、
「最近の女子高生は進んでるって青木が言ってたけど、本当なんだな。まさか、お父上も君の方から誘ったのか」
「8歳の子供にそれができると思うなら勝手に思ってれば」
「そんなに小さい頃から?」
 あのクソ親父、と言う罵声が聞こえたが、気のせいかもしれない。彼の綺麗な顔には何の変化もなく、相変わらず上品でそんなことを言うように見えなかったから。

「なるほど。周り中とても話が合うとは思えない世間知らずのお嬢様ばっかりで、その上いじめにまで遭って。そんな学校にどうして君が行きたがったのか、分かったよ」
 彼は組んでいた腕をほどき、養父が解いて床に落としたリボンを拾って、何も書かれていないノートの上に載せた。白いノートに蛇のようにのたくった臙脂色のリボンは、酸化して黒ずんだ血液を思わせた。
「でも分からないな。君はいじめに負けないくらい強いのに、どうしてあんな親父の言いなりになってるんだ?」
 訳知り顔に言われて腹が立った。彼に自分の気持ちが分かるはずがない。この気持ちは、経験したものでないと分からない。
「生きていくためよ。世の奥さん連中だって自分が食べるために亭主に抱かれるでしょ。あたしがしてることもそれと同じ」
「全然違うと思うけど」
「あんたみたいに裕福な家庭に生まれ育ったお坊ちゃまには分からないわよ。夜ごはんも朝ごはんも誰かに奪られちゃって食べられなくて、学校の給食だけで何日も過ごしたことなんかないでしょ」
「さすがにそこまでの経験はないけど、僕の家だって裕福じゃなかったよ。小さい頃に親が死んで親戚の家に引き取られたんだけど、その家も借金がたくさんあってね。小学生の頃から家のことやら叔母の内職の手伝いやらで、遊ぶ暇もなかった」
 おかげで手先が器用になった、と微笑んだ彼を、礼子はしげしげと見直した。正直、驚いた。そんな幼少期でも、彼のような気品は身に付くものなのか。

「大人になって稼げるようになって、自分で自分の生活を賄うことの喜びを知った。君もそうすればいい」
「働けってこと? 無理よ、そんなの」
「無理なものか。もうすぐ十八だろう。立派に働ける年齢だ」
 君の年には僕はアルバイトで生活費を稼いでいたぞ、とそれは彼だからできたこと。とても優秀な頭脳と飛び抜けた容姿を持っている、そんな人間なら引く手あまたで、就職先にも困らなかっただろう。
「自立するんだ。この家にいちゃいけない」
「だから無理だって。あたしにできることなんて」
 自分には何の取り柄もない。家を出て働くと言っても、まともな職なんか見つかりっこない。結局は身体を売って生活している施設の先輩を、礼子は何人も知っている。要は、不特定多数相手に商売をするか一人に絞って商売をするかの違いで、だったら後者の方が倫理的にもマシではないか。

「いいか。君はもう非力な子供じゃない。大人の言いなりにならなければ生きて行けない、そんな弱い生き物じゃないんだ。勇気を出せ」
「放っておいてよ。あたしは今の生活に満足してるんだから」
「今のままでいいわけないだろ。好きな人ができた時、絶対に後悔するぞ」
 下らないことを言う男だと思った。
 好きな人? どこの世界の夢物語? 少なくとも、今までの自分の人生には無縁のものだった。
「誰も愛してくれないわよ、あたしのことなんて」

 そんなものは、物ごころ付くと同時に諦めた。礼子が純潔を失ったのは九条家に引き取られる以前のことだ。相手は施設の職員で、彼は礼子に「他の子には内緒だよ」と言って菓子や人形を与え、それを代価にして礼子の幼い身体をおもちゃにした。
 その当時、礼子は自分が何をされているのか分からなかった。ただ、これは秘密にしなければいけないことだとは感じていた。もしもこれが皆に知れたら、もうお菓子は食べられなくなる。その程度の認識しか持っていなかったどころか、他の子には与えられないお菓子が自分だけに与えられることに無邪気な優越さえ抱いていた。
 あれが性行為の真似事だったことを知った時、礼子は自分のしたことが恐ろしくなった。お菓子をくれた男性職員が自分の腹の上に撒き散らしていた白い液体が子供の元になる成分だと分かり、もしかしたら自分にも赤ちゃんができるかもしれない、そうしたら皆にこの事が知られてしまう。未だ初潮も迎えていない礼子に妊娠の可能性はなかったが、それを彼女に教えてくれる人はいなかった。
 さらに長じて、お金で自分の身体を売る女たちがいることを知った。娼婦と言うのよ、最低の職業よ、と施設の友人が話しているのを聞いたのだった。お菓子が欲しくて彼の言いなりになった礼子は、知らないうちに娼婦になっていた。

「気が付いたら汚れてた」
 知った時には手遅れだった。なんて愚かだったのだろうと、いくら悔やんでもこの穢れは消えない。
 今となっては顔も覚えていない男性職員を恨む気持ちはなかった。悪いのは自分だ。自分が何も知らないバカな子供だったから。
「あなたには、わたしの気持ちは分からない」
 今さら、自分の身の上を嘆こうとは思わない。なのに、どうしてか涙が溢れた。
 汚い人間には汚い人生しか歩めない。割り切ってすべて受け入れて、自分はこれからもそうやって生きていく。覚悟は決まっていたはずなのにどうしてだろう、彼の亜麻色の瞳を見ていると、心がぐらぐら揺れる。まるで。
『何があっても礼子さまをお慕いしております』
 生まれて初めてあの娘に言われた言葉を、胸のうちで反芻するときのように。

「分かるよ」と彼は呟いた。
「僕は取り返しのつかない罪を犯した人間だから。自分自身を呪わしいと思う、君の気持ちはよく分かる」
 彼の犯した罪がどんなものか礼子は知らなかったが、呪わしいと言う言葉には驚いた。彼のように美しく、優れた人間が自分を呪わしく思うことがあるなど、俄かには信じがたかった。
「でも、僕と君では状況が違う。僕はもう取り戻せないけど、君はまだまだやり直せる。君次第だよ」
「悪いけど、あたしの汚れは年季入ってるわよ。もう落ちないわ」
 諦めるには早すぎる年齢だと、そう言った意味合いの慰めならよして欲しい。若くてきれいなのは表面だけ、皮一枚、剥いだら下は汚物塗れだ。どろりと腐って酸っぱい匂いを撒き散らす肉の塊。誰の目にも触れずに消滅できればいいのに。

「どうやら赤点は数学だけじゃないな。生物もだろ」
 絶望する礼子を、あろうことか彼は嘲笑った。なんて性格の悪い男だろう。確かに礼子は現国以外はオール赤点と言う華々しいタイトルホルダーだが、何もいま成績の話を持ち出すことはなかろうに。
「汚れが落ちない? バカバカしい。人間の皮膚細胞は約28日間、一番サイクルの長い骨でさえ7年ですべて新しくなるんだ。どんなに深く浸透した汚れでも落ちないなんてことはない。第一」
 礼子の非学をせせら笑う調子で知識を披露していた彼は、一旦言葉を切り、表情を改めた。それから礼子の頬に手を伸ばし、人が大切なものを扱うときのやさしさと慎重さで、そおっと頬を包んだ。
「人間は男と寝たくらいじゃ汚れない。汚いとすればそれは君の身体じゃない。心根だ」
 いつも礼子を見下していた亜麻色の眼は、今は下から、椅子に座った礼子を見上げていた。すなわち彼は床に膝をつき、学友の誰よりも近しい距離で礼子を見つめていた。
「どんな辱めを受けようと、君にそれを拒む心があれば君は汚れない。自分の弱さに屈服したとき、初めて人は穢されるんだ」

「これ以上、自分を汚すな」と彼は言った。
 負けるな、戦え。戦って自分の人生を勝ち取れ。

 彼の、見た目よりもずっと温かな手から伝わってくるのは強烈なメッセージ。彼は優しい男じゃない、慰めなんか一言もくれない。厳しく礼子を叱咤し、茨の道を歩ませようとする。
 だけどそれは礼子に大事なものを取り戻すための試練。とうに失くしてしまった未来を夢見る心、何も知らなかった子供の頃に自分を支えてくれたもの。夢とか希望とか、取りとめもなく漠然として具体的に何ができるわけでもない、でも人が人として生きていくには絶対的に必要な、明日を夢見る能力。
 取り戻すことができるなら。惜しいものなど何もない。

「何度か、考えたことはあったの」
 家人の眼を盗んで家を出る。でもその先のことは自信がなかった。未成年の上に身元保証もないのだ、まともな職に就けるとは思えない。そんな女が行き着く先はほぼ決まっている。それでは本末転倒だ。
「それに、わたしは謂わばお父様の暗部なわけでしょう。この家を出たところで、直ぐに連れ戻されてしまうわ。秘密を知る人間は手元に置いて監視しておくのが一番だもの」
「もっともだ。君は案外頭がいいな」
 褒められて嬉しくなった。こんな単純な褒め言葉が嬉しいのは、今現在も自分の細胞が生まれ変わっているから? 屈服しない限り汚れないと言う彼の言葉が本当なら、こんな自分でも幸福を求める権利はある?
 心の中で発した礼子の問いを肯定するように、彼はにこりと微笑んだ。その美しさに礼子は図らずも感動した。大袈裟だけど、神さまに許されたような気がした。
 彼は礼子の机からノートを持ち上げ、少し首をかしげて、
「それでどうしてこんな簡単な問題が解けないんだ?」
 ちょっと、あたしの感動返してくれる。

「君の言う通り。こっそり姿を晦ましたところで天下の代議士先生だ、どこまでも追って来るだろう。そこで提案だ」
 彼はノートの上部を掴んで開き、空白のページを礼子に突き付けた。
「このノートが君の武器になる」



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イヴに捧げる殺人(9)

 こんにちは。
 お祖母ちゃん、また入院しちゃいました。
 なんかねえ、あれは繰り返すんだって。発作が起きると息が吸えなくなるそうで、とっても苦しいって言ってました。がんばって生きてきたのに、どうして最後はみんな痛かったり苦しかったりするのかなあ。

 さて。
 お話の方は、うん、この辺からめんどくさくなっちゃいました感アリアリで……とにかく早くたたんじゃえって雰囲気が随所に現れてる気がしますが、ごめんなさい、大目に見てください。





イヴに捧げる殺人(9)









「まさか娘に告発文を書かせるとはね」
 驚いたな、と中園は微笑み、満足そうな視線を薪にくれた。
 大学ノートを破り取ったものでも、要件さえ揃っていれば法的には有効だ。未成年者でも告訴状は出せるし、正式に提出された以上、警察は責任を持って事実関係を確かめなければならない。
 これで強制捜査が可能になる。九条議員の逮捕は時間の問題と思われた。
「いったいどうやったの? 寝たの?」
「冗談でもそういうこと言わないでもらえますか」
「やきもち妬きの恋人に聞かれたらエライ目に遭わされる?」
 中園はこうして事あるごとに青木との仲を当てこする。ポーカーフェイスの裏側で、薪は舌打ちしたいのを必死でこらえた。

「僕に潜入捜査を命じたの中園さんだって、小野田さんにばらしますよ」
 どうせまた中園の独断だろうと踏んでいた。こんな職務範囲外の危険な仕事、小野田が薪にさせるはずがない。
 痛いところを衝いたのか、途端に中園は猫なで声になって、
「さすが薪くんだ。君のような優秀な部下を持って鼻が高いよ」
「お褒めに預かり恐縮です。で、臨時会の方は抑えられそうですか?」
「うん、電話しておいた。今は11月だからね。時期もよかった」
 国会議員には不逮捕特権がある。円滑な政治を行うため国会の会期中は逮捕を拒むことができる、と言う警察にとっては忌々しい悪法だ。国会の会期とは、通常国会が開かれる1月からの150日間、及び臨時会、特別会の開催期間のことで、最後の特別会は内閣総辞職の際に開かれるものだから今回は関係ないが、心配なのは臨時会だ。
 臨時会の召集決定権を持っているのは内閣だが、総議員の4分の1の要求があれば、内閣はこれを認めなければならない。九条が逮捕を逃れるため、仲間の議員を扇動して臨時会を要請することは十分考えられる。
 しかし、合理的な期間内に常会(通常国会)が召集される場合には臨時会の要請を棄却しても憲法違反にはならない。通常国会が開かれる1月まで2ヶ月足らず。臨時会の召集理由に緊急性が薄いと内閣が判断すれば、正当な棄却の理由になる。もちろん、警察寄りの閣僚に前もって通告はしておくが。

「警護対象の娘が警察の保護下に入るんじゃ、ボディガードもお役御免だね。吸血鬼事件の方は、君が見つけてきた被害者の共通点から洗い直すように捜一に言っておくよ」
「その必要はありません。犯人の目星は付きました」
「本当に?」
 自分が部下に命じた職務でありながら、中園はその成果に舌を巻いた。性格や気質に難はあるものの、この男は捜査に関しては捜査員百人分の働きをする。

「犯人、分かったの」
「証人も見つけましたので間違いないと思います。ただ動機が」
 薪は口ごもった。学内で集めた証言をもとに推理を組み立てるとある人物に辿り着く。黒幕は彼女で間違いない。しかし。
「動機が見えてこないんですよね。らしきものはあるんですけど、理解に苦しむっていうか」
「それは取り調べで明らかにすればいい。連続殺人だぞ、のんびりしてたら次の被害者が」
「その点は大丈夫です。犯人の目的は既に達成されてますから。逃亡の危険もありません。逃げてしまったら殺人を犯した意味がなくなる」
「誰なの、犯人」
「学園の生徒です」
 薪がその人物の素性を告げると、中園はひどく驚いた顔をした。学内に犯人がいると確信してはいたものの、生徒だとは思わなかったのだろう。

「もちろん彼女一人に犯行は無理です。彼女には協力者がいました。この証拠は、協力者の家にあった物です」
 積み重ねられた書類の隙間に音もなく置かれた小瓶には、赤黒い液体。血液だ。薪がこれをここに持ってきたと言うことは、DNA鑑定の結果が被害者の一人と合致したのだろう。
 決定的だね、と中園は呟き、そんな証拠を残しておいた犯人の心理を疑問に思った。血液なんて処分しやすいもの、さっさと流してしまえばよいものを、犯人はこれを何のために取っておいたのだろう。

「物証があるなら速やかに逮捕だ。犯人の氏名を捜査一課に」
「すみません。それはちょっと待ってもらえますか」
「なぜ」
「共犯者が確定できないのと、……できれば、自首を」
 躊躇いながらも薪が言うと、あからさまに舌打ちされた。だから言いたくなかったのだ。自首では世間に警察の有能さと威光を示せない。だが今回は事件関係者に未成年者が含まれることと礼子のプライバシーを優先し、できるだけ秘密裏に事を運びたいと薪は考えていた。
「不明瞭な動機も共犯者の氏名も、取り調べで吐かせればいい。17歳の少女だろ。ちょっと脅せばすぐに落ちるさ」
「被疑者を脅して得られる供述は往々にして真実ではありません」
 それきり薪は口を噤んでしまった。まったく使いにくい部下だ。いくら優秀でも上官の命令に逆らう職員は部下として失格だ。中園ならそれを最初に徹底的に叩き込むのに、小野田が甘やかすから。

 直球では薪の口を開かせるのは難しいと悟って、中園は話題を変えることにした。
「犯人の動機らしきものって?」
 その動機が犯人たちに証拠品を保存させたのかもしれない。中園はそう考えたが、薪はため息交じりに首を振り、
「中園さんには理解できないと思います。もちろん僕にも解りません」
「決めつけないで欲しいな。僕は君みたいな石頭じゃないよ」
「じゃあ話しますけど、つまり」
 珍しく自信無さ気に薪が話すのを聞き終えて、中園は眉間に深い皺を刻んだ。
「なんだい、それ」
「だから言ったじゃないですか、理解できないって。女の子じゃないと無理なんですよ、きっと。雪子さんにでも訊いてみようかな」
「それじゃもう一つの質問。どうして犯人は被害者の血液を2ヶ月も持ってたの? トイレにでも流しちゃえばいいじゃない」
「それも分かりません」
 確かに弱い。物的証拠があるから自白がなくても送検はできるだろうが、供述書に不明点が多過ぎるのは困る。

「女ってのは謎だねえ」
「ええ、まったく」
 上司と部下は顔を見合わせ、殆ど同時にため息を吐いた。
 警察庁の天才と官房室の諸葛亮が知恵を絞っても解けない難問。汝の名は女なり。




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イヴに捧げる殺人(10)

 6月ですね~。
 6月と言えば、我が家では梅を漬ける時期です。
 今年は、すごく梅のデキがいいんですよ。オットがよく梅木の手入れをしてくれたから。
 風の強い日が多かったので落ちちゃった実も多いんですけど、でもそれが上手く間引きになったみたいで、大粒できれいな梅が実ってます。3人しかいないのでね、100個もあれば十分なんですよね。
 新しい梅干しができる夏が、今から楽しみです(^^





イヴに捧げる殺人(10)





 鮮烈に残っている彼のイメージは血の色。血の池と化したバスタブに浸かっていた彼の姿。真っ白な肌も澄んだ瞳も、その時ばかりは血の色に染まっていた。形のよいくちびるを開けばその中も血で真っ赤で、唯一血が付いていなかった左頬は青みがかる程の白さ。
 恐ろしいのに目が離せなくて、魅入られるとはまさにこのこと。
 長身の男がやってきて、裸の彼を抱き上げた。男のシャツも顔も血に染まって、それはさながら吸血鬼に魅入られた憐れな奴隷が主たる怪物にかしずくよう。
 彼の身体から滴る血が、床に不気味な模様を描く。男に抱きしめられた吸血鬼が、ほう、と冷たい息を洩らした。


*****



 礼子の告発書に基づく強制捜査が執行され、九条徹夫議員は逮捕された。九条家には大量の捜査員が押し寄せ、イナゴの群れのようにあらゆるものを持ち去った。彼らが去った後、まるで嵐にでもあったかのような惨状を呈した屋敷を片付けるのに、家政婦の淑子と小間使いのユリエは夜中まで掛かった。

 まったくもって腹が立つ。これは明らかに職務外の仕事だ。ユリエの仕事は礼子の身の回りの世話だ。その礼子がいなくなってしまって、他にすることもなかったのだが。
 実際、ユリエの仕事は掃除くらいしかなかった。
 奥方がいればそのお世話もあるが、彼女は夫の手が後ろに回ると同時に成城の実家に帰り、絶対に表に出てこなかった。賢明な彼女は、それが執念深いマスコミを避ける唯一の手段だと知っていたのだ。幼い頃に引き取って育ててきた子供に裏切られたことはショックだったに違いない。自分の夫が礼子にしていたことを知ればもっと酷いショックを受けたはずだが、それは薪だけが知る秘密で、彼はそれをこの世の誰にも話さなかった。

「このお屋敷も寂しくなりましたね」
 家人が誰もいなくなり、使用人たちは一部を除いて離散した。残った者はほんの数名、執事を筆頭に屋敷の片づけを任されている。この屋敷も遠からず人手に渡るのだ。
「礼子お嬢様はお元気でお過ごしですか」
「ご安心を。警察で手厚く保護していますよ。彼女はもうここに戻ることはありませんが、大丈夫、元気にやってます」
 屋敷を取り巻くマスコミの目をどうやって抜けて来たのか、美貌の警察官は玄関先でユリエに微笑みかけた。十日前と同じ、非の打ちどころのない完璧な美しさだった。

「今日は何の御用ですの」
「ユリエさんに会いに来たんです」
 理由を聞いてユリエは驚いた。彼は礼子嬢の臨時のボディガードとして警察から派遣されたはず。肝心の礼子が此処にいないのに、何をしに来たのだろう。
 ユリエが訝しげに眉を寄せると、彼は何とも可愛らしい照れ笑いを浮かべ、
「こないだ頂いた、何て言いましたっけ、ローズ何とかってお茶。あれが飲みたくて」
「ローズヒップティー、ですわね?」
 そう、それです、と彼は子供のように眼を輝かせてユリエの手を握り、有無を言わせぬ強引さで屋敷の中に入ってきた。
「あのお茶は実に美味でした。屋敷の片づけが終われば、あなたも此処からいなくなるのでしょう。今しかチャンスはないと思って押し掛けた次第です」
「まあ。光栄ですわ」
 茶葉はユリエの自室に置いてあった。屋敷内の品物はすべて業者に買い取ってもらう事になっていたが、飲みさしの茶葉など売り物にならないから、自分が貰って行こうと思っていた。

 客人をどの部屋に通そうか少し考えて、ユリエは彼を自室に招くことにした。主な家具は売却されてしまって、応接間には椅子一つ残っていないからだ。
 ユリエの部屋は屋敷の東の端っこで、六畳一間の狭い洋室だった。ベッドとビニール製の洋服ダンス、小さな化粧台。バストイレ付だが、テレビやステレオコンポと言った孤独を紛らすものは何もなく、つましい生活状況が伺えた。

「自炊なんですか? 住み込みなのに?」
 第九の給湯室より狭いキッチンに、古い冷蔵庫が置いてあった。一つだけだがクッキングヒーターもあって、ユリエはそこで客人のためにお湯を沸かした。
「わたしたち使用人のお食事は、シェフの近藤さんと家政婦の淑子さんが食堂に用意してくれるのですけど、時間を過ぎると下げられてしまうんです。わたしは礼子さまのスケジュールに合わせて仕事をしますので、朝晩は時間内に食堂に行けないことが多くて」
 薬缶のお湯を沸騰させ、茶器を温めてから茶葉を茶匙で掬う。ポットにお湯を注ぐと、ローズヒップの華やかな香りが部屋いっぱいに広がった。

「ああ、やっぱり」
 カップを傾けて彼は、満足そうに微笑んだ。その様子にユリエも嬉しくなる。このところ、ユリエに与えられるのは滅入る仕事ばかりだった。そんな中、自分が淹れたお茶を喜んで飲んでくれる人の存在はありがたく、勇気付けられる心持ちになった。
 ユリエは、彼の口から発せられるであろう称賛の言葉を待った。が、次に彼のつややかなくちびるが開いたとき、そこから零れた言葉はユリエの予想とはまるで違っていた。

 カップに半分ほど残った赤いお茶を見つめ、彼はこう言ったのだ。
「犯人はあなただったんですね。ユリエさん」




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イヴに捧げる殺人(11)

 過去作に拍手をありがとうございます。
 最初の話から、最終章にずっと拍手が入ってるの。昔の話を読んでもらえるの、うれしいです。(あ、拍手だけして読んでない可能性も……だれがそんな無駄なことするんだw)

 第九編が終わって、もうすぐ2年ですね。
 うちは青薪小説がメインですから、2年前に終わった話を延々読んでもらってることになるわけで。今更ながら、原作の素晴らしさを痛感しています。だって、原作に惚れこんでなかったら二次創作なんか読まないでしょう? 連載が終わっても、数多くの人が未だに薪さんにお熱、というこの状況がスゴイなあって。
 ちょーっと原作からズレちゃってますが、それでも沢山の方に読んでもらえて、うちの薪さんは幸せものだなあって思います。ありがとうございます。

 この話が終ったら、10万ヒットのお礼SSと4万5千拍手のお礼SS公開しますね。
 これよりはマシな話になってると思うので(←もうどんだけ(^^;)、どうかよろしくお願いします。




イヴに捧げる殺人(11)







「というわけなんですよ、雪子さん」
 話を終えて薪は、法一の副室長の顔を見上げた。彼女は薪よりも十センチほど背が高く、同じ高さの椅子に座っても僅かに見上げる形になるのだ。
「彼女の気持ちが理解できますか?」
「ぜんぜん」
「雪子さんでも無理ですか」
 きっぱりと首を振られて、薪は肩を落とした。雪子を当てにして、官房室から第九へ戻る途中わざわざ立ち寄ったのに、どうやら無駄足だった。

「先生には無理ですよお。同じ女性でも、先生は彼女たちとは対極にいる人なんですから。多分、薪室長より遠いですよ」
 クスクスと笑いながら、雪子の助手が顔を出した。可愛い顔をして遠慮なくものを言う。あけすけなところが雪子と合うのだろう、彼女たちはとても仲が良かった。
「対極ってなによ。そりゃあたしはお嬢様じゃないけど」
「お嬢様とか庶民とかの問題じゃなくて、いっそ染色体もしくは遺伝子の問題じゃないかと」
 どういう意味、と引き攣った笑いを浮かべる雪子をきれいにスルーして、菅井は薪の質問に答えた。

「わたし、ちょっと分かります」
「本当ですか」
 菅井の言葉に、薪は思わず腰を浮かせた。薪にはまったく理解できない17歳の少女の心。多感な少女時代を過ごしてきた女性なら分かるかもしれないと思っていた。
「その子と同じで、わたしも学生の頃は引っ込み思案で」
「え、だれが?」
「言いたいことも言えなくて」
「ちょっと、誰の話?」
「先生、黙っててください。これでも飲んで」
 話の腰を折りまくる雪子に苛立ったように菅井は、3人分のカップをテーブルに置いた。3つとも、赤いきれいな紅茶だ。花の香りがする。

「いらない。それ、酸っぱいんだもの」
「なに贅沢言ってるんですか。40超えた女が女でいようと思ったら常日頃から努力しなきゃダメです。結婚半年で竹内さんに捨てられたいんですか」
「すみません。話戻してもらっていいですか」
 女と言うのはどうしてこう話がズレるのだろう。飛躍も多いし、彼女たちのお喋りにはとても付いていけない。
「雪子さん、離婚裁判の時には最高の弁護士をお付けします。僕も証人として法廷に立ちますから。二人で協力して、史上最高額の慰謝料ぶんどってやりましょうねっ」
「薪くん、話戻ってない」
 窘められて咳払いをする。何もなかった振りで、薪は先刻の話をおさらいした。

「僕が見る限り、Y嬢はR嬢に恋心にも近い好意を抱いていたと思うんです。なのに彼女は、他の生徒を使ってR嬢を苛めていた。R嬢に近付くと一緒に苛められると言って、R嬢を孤立させていた。どうして好きな人にそんなことを?」
 あの日、薪が教室で捕まえたおかっぱ頭の生徒に聞いた。彼女に礼子の学用品を汚すよう命じたのは更科柚子だった。
 薪が柚子を疑ったのは、彼女が正しい情報を持ち過ぎていたからだ。礼子の苛めについて何人もの生徒から聴取を行ったが、柚子が一番詳しかった。お世辞にも社交的とは言えない彼女がどうしてそれを知り得たのか。苛めの場面を目撃していたか、あるいは逆に。
 そう考えて墨汁を撒いていた生徒にカマを掛けた。真実は後者だった。
 しかし、柚子は熱い瞳でコートを走る礼子を見ていた。あれは恋する者の眼だ。少なくとも、苛めの対象者を見る目ではない。

「誰のものにもなって欲しくなかったんだと思います」
「独占欲ですか? 恋人でもないのに?」
 理屈じゃないんです、と菅井は前置きして、彼女の代弁者になった。
「自分のものにならないなら、誰のものにもなって欲しくない。自分が話しかけられないから誰にも話しかけて欲しくない。愛情の裏返しですよ」

 ずっと、ずっと昔のこと。
 鈴木の恋人になる前、その権利もないのに薪は鈴木の彼女や友人に嫉妬した。鈴木はみんなの人気者で、自分とは釣り合わないと思った。だったら自分が鈴木のようになる努力をすればよいのに、それはひどく難しいことに思えて。いっそ鈴木が自分のように、誰にも相手にされないような欠陥だらけの人間なら自分だけが彼の友だちでいられるのにと考えた。
 バカな話だ。鈴木がそんな人間なら、そもそも好きにならなかった。

「分からないなあ。好きな人には幸せになって欲しいと思わないわけ?」
 雪子は薪よりも彼女たちから遠いところにいる。菅井の言葉は当たっていた。彼女は薪以上に、柚子の気持ちが理解できなかった。
「思いますよ。でも、自分以外の誰かの力で彼女が幸せになるのは許せなかったんだと思います」
「じゃあ自分から彼女に近付いて、親友なり何なりになればよかったじゃない」
「雪子先生みたいに思ったことを行動に出せる人ばかりいないんですよ。特にあの年頃は、それが難しいんです」

 誰かと友だちになることが人殺しよりも困難だと?
 もちろん、協力者の存在がなかったら彼女だってそれを実行に移すことはなかっただろうが、それにしたって。

 薪は心の中でその可能性について思案した。殺人事件の話は雪子たちにはしていない。礼子の苛めの話だけだ。しかし、それがこの事件の核になっていることは間違いない。
 逆に、協力者に利用されたのかもしれない。被害者はいじめを行った後に拉致されている。犯行のタイミングを計れるのは柚子だから、彼女が主犯だと考えたけれど。むしろ柚子は連絡係のようなもので、主犯格は協力者の方だったのかも。

「……すっぱ」
 菅井が淹れてくれた紅茶を無意識のうちに口に運び、薪は思わず顔をしかめた。
「ね。酸っぱくて飲めないわよね、こんなの」
「はちみつ入れると飲みやすいんですけど、用意してないんです。置いてあると雪子先生がみんな舐めちゃうから」
「あたしはどこぞの黄色いクマか」
 二人の掛け合いを聞き流しながら、薪はこれと同じ色合いのお茶を飲んだ時のことを思い出した。ローズヒップティーは礼子の好物だとユリエが言っていたが、あのお茶はもっと飲みやすかった。

「前に飲んだのはこんなに酸っぱくなかったですけど」
 砂糖類は入っていなかったと思う。薪は味覚は鋭い方だが、甘味は感じられなかった。
「偽物の茶葉だったんじゃないですか? ローズヒップはビタミンCが売りなんだから、酸っぱくなかったから嘘ですよ」
「まさか。代議士の屋敷ですよ」
 味を確かめるためにもう一度口に含んだ。酸味が強すぎて他の風味が消されてしまっている。淹れ方の問題かもしれない。薪の恋人がリーズナブルなコーヒー豆を最高級のブレンドに変えるように。淹れてくれた菅井にそれをそのまま伝えるわけにもいかず、茶葉の種類が違ったんでしょうと薪は答えた。
「きっと飛び切り高級な茶葉だったんですよ。味ももっと玄妙で、深いコクが」

 あの味を的確に他人に伝える喩えがないかと、これまでに食した料理や飲料の中から類似したものを探るうち、薪はスッポンの専門店で飲んだ食前酒の味を思い出した。あれは確か赤ワインにスッポンの――。

「薪くん?」
 突然青ざめた薪を心配して、雪子が声を掛けてくれた。
「いや、ちょっと気分が……いえ、大丈夫です。もう何日も前のことですし……うっ、ぷ、し、失礼」
 我慢できず、洗面所に走った。幸いトイレは雪子の私室のすぐ側にあり、でも彼女たちには薪が嘔吐する音が聞こえていたに違いない。
「吐くほど酷い味でした?」
「薪くん、味に過敏なとこあるからねえ。あたしの料理食べて何度か気絶してるし」
 それは薪が弱いのではなく雪子の料理がカクバクダンなのだ。薪は必死に反論したが、込み上げてくる嘔吐に阻まれて、その叫びは誰にも届かなかった。



*****
 
 うちの薪さんて、しょっちゅう吐いてる気がする。

テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

イヴに捧げる殺人(12)

 今日、6月10日はうちの青木さんの誕生日なんですよ。←どうでもいい。
 原作薪さんの誕生日は3月ですが、青木さんはいつなんでしょうね。なんとなく青葉の頃ってイメージがあるんですけど。青木だけに。
 ……青二才の青だったりして(笑)





イヴに捧げる殺人(12)





「おかげで女性二人の前でえらい恥をかきました。あなたのせいですよ」
 苦笑して薪は残りのお茶を飲み干した。混じり気のない強い酸味。これは普通のローズヒップだ。最初の日、ユリエが礼子に淹れたものとは違う。
 あれには、被害者から抜いた血が入っていたのだ。
 薪が被害者の血液を見つけたのは、礼子の自室に備え付けられた小型の冷蔵庫の中だった。冷凍保存用の小型容器に入って冷凍庫に入っていた。
 これは何かと尋ねると、知らないと彼女は答えた。夏の間はアイスクリームを入れておくから冷凍庫を開けることもあるが、残暑を過ぎればそれもない。そもそも、この冷蔵庫の品物は礼子が自分で用意するわけではなく、小間使いのユリエが管理しているのだ。

「自分がずっとそんなものを飲まされていたなんて。礼子が知ったら、僕と同じように胃が空になるまで吐くと思いますよ」
「そんなに悪いお味じゃなかったでしょう? あなただって、美味しいって飲み干してたじゃありませんか」
 薪の指摘に怯むどころか、開き直ったようにユリエは笑った。薪は冷たく彼女を見据え、立ち上がって狭いキッチンに足を踏み入れた。迷うことなく冷凍庫のドアを開ける。中にはビニール製のストッカーに入った血液が大量に保管されていた。

「動かぬ証拠だ。観念なさい」
「何をおっしゃってるのかしら。それはスッポンの血ですよ。美容と健康にいいって話で、通販で安く買ったんです」
「そうですか? じゃあ、僕にも分けてもらえますか。科警研に健康オタクの友人がいまして、ぜひ彼に飲ませてやりたい」
 ユリエはさっと表情を消し、押し黙った。沈黙に焦燥をにじませる彼女に、薪は鋭く言い放つ。
「バカじゃないんですか、あなた。血を飲んだって彼女たちと同じにはなれませんよ」
 冷蔵庫を背中に守るようにして薪はユリエを糾弾した。今では珍しい旧タイプの冷蔵庫は冷蔵室の上に冷凍庫が付いていて、そこに大事な証拠が匿われている。薪は警察官だ、身体を張ってでも守らなくてはならない。
「ましてや礼子に飲ませるなんて。いいですか? 彼女はあの学校の誰よりも魅力的で優れた資質を持ってますよ。そんなものは彼女には必要ない」
 それは生まれ落ちた場所を引け目に思う礼子を救おうとした、彼女なりの愛情表現だったのかもしれない。しかし礼子が呪わしく思っていたのは幼少のころから性的虐待に晒された自身の身体であり、そして本当に払拭するべきは、自分には他の少女のたちのように幸福を求める権利がないと言う思い込みであった。

 薪がきっぱりとユリエの愚行を否定すると、彼女は静かに微笑んだ。
「ええ、存じておりますわ。私の礼子さまは誰よりも素敵なの」
 うっとりと夢見る少女のような顔つきになって、ユリエは主人の名を口にした。柚子と同じ目をしている。礼子の学友と小間使い、なぜ二人が共犯者になり得たのか、やっと分かった。二人は同胞なのだ。
「そんなに礼子が好きなら、どうして養父から彼女を守ってあげなかったんです。何も雇用主に抗議しろと言うんじゃない。奥方が真実に気付くよう仕向けるとか、あなたならできたはずだ」
「そんなことをしたら、礼子さまは此処を追い出されてしまうでしょう。お顔を見れなくなってしまうわ」
 そんなの、耐えられない。
 ユリエは辛そうに零した。

「君のそれは愛じゃない」
 俯くユリエに、薪は強く言い返した。同情なんかできない。彼女は礼子を愛していた、だから彼女を苛めた人間を殺した、それは分かった、でも。
「そんなものは愛とは呼ばない。身勝手を相手に押し付けているだけだ。相手の真の幸せを願うのが本当の愛情だ」
 愛とエゴを取り違える、彼女の不明に腹が立った。恋は盲目とは言え、彼女は殺人まで犯しているのだ。彼女の言い分の何一つ、認めてはいけないと薪は思った。
「押し付けたのはあなたでしょう。礼子さまは今の生活に満足してらしたのに、あなたが礼子さまを唆して」
「彼女は頭のいい子だ。話したらちゃんと分かってくれた。人として何をすべきか、――」
 尻のあたりに微かな振動を感じて、薪は後ろを振り向いた。古い冷蔵庫だからコンプレッサーが弱っているのだろう、そう思って再びユリエに視線を戻す。すると今度はドンと叩かれたような感覚があり、薪は慌てて振り向いた。まさか。

 冷蔵庫の扉を開けてみる。中には猿ぐつわを噛まされた少女が押し込められていた。
「柚子さん」
 ぐったりと薪に身を預けた少女の身体はとても冷たかったが、まだ息はあった。古い冷蔵庫で助かった。パッキンが劣化して、空気の通り道があったのだろう。
「身体が冷え切ってる。温めないと」
 急いで毛布を持ってきて彼女の身体を包んだ。人を呼びに行くことも考えたが、その間に証拠を処分されては困る。薪がここを離れるわけにはいかなかった。

「なんてことを……彼女はあなたの仲間でしょう」
「もう仲間じゃないわ」
 協力して殺人まで犯した相手を、ユリエはゴミでも見るような目で見た。
「私は礼子さまを私たちから奪った人間を許さないと言ったの。礼子さまを傷つけた女たちと同じ目に遭わせてやるって。そうしたら、その子なんて言ったと思う?」
 腰に手を当てて、昂然と顎を上げる。吐き捨てるように言い落した。
「『美奈子さまに酷いことはしないで』」
 冷たい瞳だった。人の情けとか憐みとか、そういった人間らしい感情をみんな打ち捨ててしまったかのように、まるで彼女の身体には冷たい血が流れてでもいるかのように、ユリエはひたすらに冷酷であった。

「あなたに心変わりしたのね。若い子はこれだから」
「そうじゃない。彼女には良心が残っていた。それだけのことだ」
 柚子に唆されて礼子の学用品を汚した生徒から聞いた。最初に苛められていたのは柚子で、それを礼子が助けてくれたのだそうだ。それをきっかけに礼子と柚子は友人になり、礼子は柚子を庇い続けた。そのせいで苛めのターゲットは礼子に移り、柚子は心を痛めると同時にほの暗い愉悦を味わった。
 柚子は、それまで陰のアイドル的存在だった礼子が自分と同じ立場になったことに同情と親和を抱いた。昔の彼女には告げられなかった想いも、今の彼女になら言えると思った。

 一世一代の勇気を出して告白した。
『私は何があっても礼子さまをお慕いしております』

 でも礼子は、柚子と違って苛めに負けなかった。学校を休むこともなく、平気な顔で毎日を過ごしていた。礼子は本当に強かった。
 やはり自分では彼女に釣り合わない。そう思った柚子は、彼女を孤立させることを考えた。他に誰も彼女に話しかける人がいなくなれば、彼女の方から自分のところへ来てくれるのではないかと、淡い期待を抱いたのだ。彼女と一緒にいると苛めに巻き込まれる。柚子はそんな言葉で人が好い学友たちを操った。
 しかし、礼子が実際に怪我をしたり殴られたりすることには耐えられなかった。柚子の気持ちは本当だった。それでユリエに相談したのだ。

 友人として、柚子は何度か九条家を訪れていた。その際にユリエと出会い、話してみて、彼女が自分と同じ気持ちを礼子に抱いていること知った。それから二人は礼子の情報を共有するようになった。
 柚子の知らない家での礼子と、ユリエの知らない学校での礼子。互いの情報は貴重で、彼女たちは毎日のようにメールをやり取りした。その中で、自然に苛めの話もユリエに伝わることになった。
 ユリエは激怒した。体育の時間に飛び箱に突っ込んだ、と笑っていた礼子の怪我が、他人によって故意につけられたものだと知り、報復を決意した。
 今度現場を押さえたらその場で連絡して。そう頼まれた柚子は言われるまま、礼子が裏庭に呼び出されると同時にユリエにメールを送った。その時点で柚子は、苛めの事実をユリエが明らかにしてくれると思っていた。苛めた生徒たちは親や先生に叱られて、反省すればいい。ところが。
 翌日になって柚子は青くなった。苛めを行っていた生徒の一人が死んだからだ。
「メールが残ってるわ。あなたも共犯よ」
 問題は昨日のメールだけではない。ユリエに煽られて、自分をいじめた連中が死んだらすっとする、などと毒の強い言葉を手紙に書いてしまった。柚子にも殺意はあったとユリエは言い、そんなことはないと否定すると、
「警察はどう思うかしら」
 それからはもう、ユリエの言いなりになるしかなかった。柚子は世間知らずの子供だったのだ。

 礼子を苛めていた主犯格の3人が死んで、ユリエの凶行も止まった。柚子は胸を撫で下ろしたが、一方で、「苛めに巻き込まれる」と言う自分の流言は効果を無くしてしまった。そこで彼女は自分で苛めを演出することにした。自分と同じ気の弱そうな生徒に目を付け、礼子に嫌がらせをするように仕向けたのだ。やり方はこうだ。
「礼子に嫌がらせをしないとあなたを標的にするって。伝えて来いと、私も脅されましたの」
 彼女たちは震え上がり、柚子の僕になった。柚子が過去に苛めを受けていたことは周知の実であり、その彼女が言うことを疑う者はいなかった。柚子は自分の立場を逆手にとって、自分を苛めた人間や見て見ぬふりをした彼女たちを利用していたのだ。

「いいえ、心変わりよ。あなたの正体が男だったと知って、彼女あなたを好きになったみたい。結局、礼子さまを本当に愛してるのはわたしだけ。もともとその娘は礼子様の復讐一つ果たせなかった弱虫よ。ほんのちょっと血を見ただけで気を失ってしまって、結局わたしが全部やらなきゃいけなかったわ。本当に役立たずな子」
 とどのつまり、吸血鬼事件に於いて柚子がしたことは、ユリエに情報を流したこととユリエが殺人者であることを知りながらそれを黙っていたことだ。弱さが彼女を罪から遠ざけた。しかし、罪を引き寄せたのもまた彼女の弱さであった。
「礼子さまのためならこの手を汚すことすら厭わない、それが真実の愛と言うものよ」
「笑わせるな。他人の命を軽く扱う者に、真実の愛など見つけられるものか」
 毛布で包んだ柚子の身体を手のひらで擦るが、彼女の頬は真っ白なまま。一向に血の気は差してこない。早く病院に運んだほうが良いと判断し、薪は携帯電話を取り出した。

「困るわ。それはこっちへ渡して」
 ユリエの手に握られたものを見て、薪は手を止めた。相手を刺激しないように、そっと電話を床に置く。ユリエは手に、煮えたぎった薬缶を持っていた。
「渡して」
 床を滑らせて携帯電話をユリエの足元に送った。ユリエは薪の携帯電話を拾い、それをエプロンのポケットに入れた。
「あなたが余計なことをするから。だから礼子さまは私の前からいなくなってしまった」
 一歩、また一歩と、ユリエがこちらに近付いてくる。
「あなたは蛇ね。イヴに余計な知恵を付けてエデンから追放させた」
 ユリエはまだ薬缶を手放さない。薪は少女の身体をしっかりと抱きしめ、自分の身体で少女を匿おうとした。柚子は17歳の女の子。顔や体に火傷の跡が残ったら可哀想だ。

「悪い蛇は殺さなきゃね」
「僕を殺したら、残りの人生は刑務所の中だぞ」
「刑務所になんて入らないわ。いくら警察だって、死人は捕まえられないでしょう」
「死ぬ気なのか」
「イヴのいないエデンなんて。わたしには何の意味もないの」
 何処かで聞いたような科白だと思った。思い出して、薪は説得を諦めた。
 何を言っても無駄だ、そう、何を言われても無駄だった。彼がいなくなった世界は無意味だと、何の価値もないと、そう思っていたあの頃。
 そんな季節を過ごしてきた自分だから分かることがある。ユリエを死なせてはいけない。

「どこまでも身勝手な女だな。死にたきゃ一人で死ね。人を巻き込むな」
 一か八か、飛びかかって凶器の薬缶を取り上げる。それしかないと思った。薪の言葉に激昂したユリエは薬缶を振り上げる、凶器が彼女の身体から一番遠い場所に到達したときがそのチャンスだ。
「――あ?」
 屈んだ状態からジャンプしようとした、瞬間、膝の力が抜けた。体勢を崩して床に転がる。起き上がろうとしたができなかった。
「さっきのお茶に何か」
 迂闊だった。ユリエは薪の来訪の目的に気付いていたのか、それとも、自分から礼子を遠ざける原因になった薪を最初から殺すつもりだったのか。いずれにせよこのままでは二人とも、いや、三人とも死んでしまう。

「もう何も要らない。あなたもこの子も、これも」
 霞んでいく薪の視界で、ユリエが冷凍庫から血液のストックを出すのが見えた。大事な証拠品が、とそこで薪の意識は完全に途絶えた。
 身動きするものがいなくなった部屋に、ユリエの独白がぽつりと落ちる。
「わたしも」




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

イヴに捧げる殺人(13)

 このお話って、1年くらい前にツイッターで話したことがきっかけで書いた覚えがあります。血塗れの薪さんを青木さんが抱き上げるシチュエーション。なんでそんな話になったんだかは忘れましたけど。

 その後、ツイッターからはすっかり遠ざかってしまいましたが。
 確認してみたら、最後のツイートが去年の12月でした。今年になってから新しくフォローしてくれた方とか、ホント申し訳ない(^^;)
 だってねっ!
 ツイッターって140文字しか喋れないんだよ。そんな短い文章、書けないよ。10ページ以下の短編だってきついのに。←壊滅的言語不自由者。
 ツイッター慣れしてるどなたか、コツを教えてください。




イヴに捧げる殺人(13)





 真っ白な肌を赤黒い血が汚していた。
 一人用の小さなバスタブの中、その液体は座った彼の腰の位置に到達していた。壊れた人形のように手足を投げ出した彼の意識はなく、でもその胸は緩やかに上下している。
 浴室の床に座り、バスタブの中に上半身をうつ伏せるようにして、一人の少女が倒れていた。彼女の手首からは血が滴り、それは既に黒く酸化したバスタブの中の血液に一瞬の紅を咲かせたのち、すぐに交じって見分けがつかなくなった。

「起きて」
 ピシャピシャと頬を張られ、薪は眼を開けた。ひどく不快な気分で、部屋の空気を吸うとすぐに胸が悪くなった。狭い浴室は血の臭いで満たされていた。
「ねえ見て。礼子さまは憧れてらしたけど、そんなにきれいなものじゃないわよね」
 彼女に促されて下を見ると、自分の手首に手錠が掛けられていた。自分の手錠で拘束されるのはこれで二度目だ。不愉快極まりない。

「――っ」
 その光景が眼に入って、薪は思わず顔を背けた。予想していたこととはいえ、大量の血液の中に人間の身体が浮いているなんて気味の悪い絵面、MRIでだってなかなかお目に掛かれない。肌に染み込んで取れなくなりそうだ。ていうか、なんで裸なんだ。
「逃げられないようにと思って」
 女ならではの発想だが、薪は男だから裸で人前に出ても平気だ。好んで見られたいとは思わないが、肌を見せることを躊躇って焼け死んだ昔の女性たちほど強固な慎みは持ち合わせていない。
 しかし、逃げることも難しそうだ。まだ身体が言うことを聞かない。下半身に力が入らない状態だ。これでは手錠を掛けられていなくても立てない。

 どうやらここが犯行現場らしい、と薪は思った。少女たちは此処で命を奪われ、血を抜かれたのだ。今薪が身を浸しているバスタブにこんな風に血を溜めて、パック詰めして冷凍。残りは排水溝に流し、壁や床に残った大量の血痕はシャワーで流す。実に効率的だ。
 吐き気を堪えて横を向くと、そこには柚子が横たわっていた。手首から大量の出血があり、それが薪のいるバスタブの中に流れ込んでいる。
「柚子さん、柚子さん!」
 呼びかけると彼女は微かに呻いた。まだ息はある。が、このままでは時間の問題だろう。
「彼女は、むぐっ」
 助けてやってくれ、と言おうとした薪の口に、布のようなものが詰め込まれた。それがミニタオルであることに安堵する。さすがは女性だ。薪が反対の立場だったらパンツとか靴下とか突っ込んでる、絶対。
「大声を出されると困るの。お屋敷には淑子さんと執事の瀬川さんが残ってるんだから」
 そんな状況でこのような凶行に及ぶ彼女の精神は、すでに彼岸の向こう側。誰が死のうが生きようが関係ない。自分自身ですら。
「このお屋敷も処分するんですって。要らないものはみんな捨てるの。この娘も――あなたも、わたしも」
 言葉を操ることができても、死を望む人間相手のネゴシエイトは難しい。ましてや今薪は呻くことしかできない。

 柚子の手首を切ったと思われるナイフの切っ先が自分の喉に宛がわれ、薪は眼を閉じた。
 じりっと焼けつくような痛みが首に走った。切られたのだ。
 噴水のように吹き出す鮮血のイメージが薪の脳裏を過ぎる。情けないことに気が遠くなりかけた。腹の底に力を入れて意識を留める。ここで自分が死んだら柚子も死ぬ。
 痛みでアドレナリンが多量分泌されたのか、いくらか身体が動くようになった。
 手錠で戒められた両手で血を掬い、ユリエの顔めがけて投げつけた。「きゃっ」と怯むのを逃さず、二つ揃えた手の甲でナイフを叩き落とす。
 ユリエがナイフを拾いに行く間に浴室から出て助けを求める、しかしそこで薪の反撃は頓挫した。何とか立ち上がったまではいいが、血で足が滑って浴槽に逆戻り。頭まで血に浸かってしまった。刑事も長いことやってるが、ここまで血まみれになったのは初めてだ。
 生臭くて気持ち悪い。口の中に詰めこまれたハンドタオルが血を吸って、強制的に血を飲まされた。夢中で取って思い切り咳き込む。風呂がトラウマになりそうだ。
 ユリエは素早くナイフを拾い、薪のところへ戻ってきた。彼女の顔も血まみれだった。ザマアミロだ。

「これが原因で僕が風呂嫌いになったら一生怨むぞ」
「口の減らない人ね。死ぬのが怖くないの?」
「怖いさ。けどな」
 不自由な両手で前髪を後ろに流す。白い額も血の洗礼を受けていたが、その形は相も変わらず人形のように整っていた。
「僕はおまえみたいに自分のエゴを他人に押し付けることを愛情だと思ってるような人間が一番嫌いなんだ。命乞いなんか死んでもするか」
 薪が鋭く言い放つと、ユリエはぎょっと上半身を後ろに引いた。薪はそれを自分の気迫が為せる技と解釈したが、現実はそんな都合のよいものではなかった。
 亜麻色の瞳は血で濁って、白目の部分が赤く染まっていた。口を開けば歯も舌も血を含み、ただでさえ人並み外れて美しい彼はまるで本物の吸血鬼のようだ。気の弱い人間なら恐怖に駆られて逃げ出していたに違いない。

「おまえなんかに好かれて礼子もいい迷惑だな。やっぱりこの家から連れ出して正解、っ」
 再びナイフが薪に突き付けられた。ユリエには先刻までの余裕はなく、薪はその時が迫っていることを悟った。
「黙って」
「……何も言わなくても殺すんだろ」
「そうね」
 振り上げられたナイフの切っ先が、真っ直ぐに薪の喉元を狙っていた。咄嗟に身を躱そうとしたが、狭い浴槽の中、避けるに避けられない。薪がぎりっと奥歯を噛みしめた、その瞬間。

「ユリエ!」
 鋭い女の声が浴室に響いた。
 声の主は一瞬の躊躇いもなく、凄惨に彩られた部屋の中に駆け込んできた。
「お、お嬢様」
 ユリエの頬を無言で引っぱたく。ぱあん、と景気の良い音が浴室に木霊した。刃物を持った人間の顔を叩くなど、薪だってちょっと引く。すごい勇気だと思った。

 最愛の女主人に自分の悪行を知られて放心したのか、ユリエはゆっくりとその場に膝を着いた。礼子はユリエからナイフを取り上げてもう一度彼女の血塗れの頬を張ると、後は彼女には目もくれず、こちらに突進してきた。
「大丈夫?!」
 何のかんの言って、可愛い娘だ。薪のことが心配で、さっきは夢中だったのだろう。若い女の子にそんな風に尽くされるのは悪い気分じゃない。若い女の子の好意は無条件で嬉しい、これはオヤジのサガだ。
 礼子の後ろからもう一人、見慣れたシルエットが現れた。青木だ。民間人を先に現場に入れるなんてどういう了見だ、と怒鳴りつけてやりたい。
 彼は血の浴槽に腰まで浸かった薪を見つけるや否や、礼子に負けない勢いでこちらに突っ込んできた。
「薪さん、無事ですかっ」
「アホ! おまえは犯人確保が先だ!」
 要領を弁えない部下に眩暈を覚える。青木にはもう少し、現場の経験を積ませないといけない。この調子では将来現場の指揮を執る際、現状を無視した指示を出してしまうことになりかねない。

 薪に叱りつけられた青木がユリエに手錠を掛ける間に、礼子は衣服が汚れるのも厭わず、薪の傍に膝を着いた。そんなに僕を心配してくれるなんて、とちょっと感動した。ていうか、この娘もしかしたら僕のこと好きなんじゃないか、先日の説教で惚れられちゃったのかな、参ったな、僕には一応青木と言う恋人がいるんだけど、まあ相手は高校生だしその辺ちょっと遊びに行くくらいなら付き合ってやっても、
「柚子! しっかりして!」
「なんだ、そっちか」
 ぽろっと零したら青木に睨まれた。こういうことだけは耳聡い男だ。

「大丈夫だ、血は止まっている」
 普通に手首を切っただけでは、出血多量で死ぬほどの血液は流れ出ない。傷口を水に浸すなどして血が固まるのを防がなければ、自然に止まってしまうのだ。
 礼子は薪に言われて傷口を確認し、僅かに血が滲み出す患部をハンカチでぎゅっと縛った。幼少期に身に着けたのか、適切な処置だった。

「柚子……よかった」
 あの礼子が泣いていた。
 養父に弄ばれ、学校では苛めを受け、それでも気丈に振る舞っていた礼子が、柚子の無事を知って安堵の涙を流している。彼女が苛めの事実を両親に隠そうとした理由、つまりは転校を拒んだ、引いては養父の虐待に耐えていた本当の理由を、薪はそのとき初めて知った。

 たった一人の大切なともだち。何を犠牲にしても離れたくない。

 礼子にとって彼女を傷つけられることは、ナイフの恐怖を凌駕するくらい頭に来ることだった。そんな礼子が事件のからくりを知ったら、どんなに傷つくことか。ましてや自分のために殺人が行われ、大事な友人がその手伝いをさせられたと分かったら。
 今はただ涙を流すだけの少女に、薪は同情せずにはいられなかった。

テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

イヴに捧げる殺人(14)

 こんにちは。
 メロディまで二週間になりましたね。 
 早く来週にならないかな~。一日なんて四時間もあれば十分なのにな~。
 え。それじゃ妄想以外何もできないだろうって?
 大丈夫! 今もそれ以外してないから。


 さてさて、お話の方は残り三章です。
 もう少し我慢してください。





イヴに捧げる殺人(14)






「薪さん。本当にご無事でよかったです」
「無事じゃない! 遅い!」
 無事でよかったと涙を流す青木を、薪は怒鳴り付けた。殺人犯が連行された後の九条家である。これから礼子は警察の事情聴取を受けなければならない。今捜査員たちは現場検証で大わらわだから、それを待つ間、唯一家具が残っている執事の部屋を借りたのだ。
 執事が淹れてくれたお茶を挟み、礼子は彼らと向き合う形で年代物のソファに腰を下ろした。途端、この騒ぎが始まったのだ。

「僕が信号を出したの、いつだと思ってるんだ。1時間も前だぞ」
「それが、このお屋敷迷路みたいで。迷ってしまって」
 礼子さんに案内していただいたんです、と青木は申し訳なさそうに頭を下げた。
「おまえの方向音痴のせいで死にかけたの、これで何度目だ」
「すみません」
 薪はそう言うが、この迷路屋敷で迷わない人間はなかなかいない。家人の案内がなければ目的の部屋が解っていても到達することは難しい。先日、薪が礼子の部屋に自力で入れたのは、彼に天才的な記憶力があったからだ。普通の人間には無理だし、ましてや本館ではなく離れとくれば、この屋敷に長く住んでいる人間以外、例えば通いの家政婦などは2,3回は来た道を戻る羽目になるだろう。ユリエの犯罪が発覚しなかったのは、この屋敷の特異性による部分も大きかったと思われる。
 礼子が此処に来たのは柚子からメールが届いたからだ。
 話したいことがあって家の前まで来てる、玄関まで迎えに来て欲しい。柚子は礼子が家を出たことを知らなかったのだ。自分もうその家にはいない、と礼子は返信したが、それに対する返事はなかった。気になって電話を掛けてみたが、その時には柚子の携帯の電源は切られていた。心配になって家まで来てみたら、廊下でうろうろしている青木を見つけた。彼から事情を聞いて、ここまで案内してきたと言うわけだ。薪は運がよかったのだ。本人は文句タラタラだが。

 二人のやり取りを礼子は公正に聞き、薪の部下を可哀相だと思った。彼はあんなに薪のことを心配していたのに。
 血の池に浸かって動けない薪を、彼は迷わず抱き上げた。亜麻色の髪を、白い肌を凄惨に彩る血が、散りぎわの黒ずんだ薔薇のようだった。
 彼の身体に大量に振りまかれた、鮮度の落ちた血液の臭いは吐き気を催すほど。それでも彼は大切そうに、薪の身体を自分の上着で包み込んだ。
 そうして隣の部屋のバスルームまで彼を運び、彼の身体を綺麗にしたのだ。ユリエに薬を盛られたとかで動けない薪に献身的に、ていうか、疑ってる相手が淹れたお茶を飲んじゃうってバカなのこいつ。
 薪を助けるために服を汚してしまった青木は、今は身の丈に合わないシャツとズボンを身に着けている。執事からの借り物だが、絶望的にサイズが合わないのだ。シャツはぴちぴち、丈はつんつるてんで、ズボンのボタンが留まらないからそれを隠すために腰にバスタオルを巻いている。ひきかえ薪はちゃっかりと自分の服を着ている。あんな状況でも、ユリエは薪の服をハンガーに掛けておいた。小間使いの習性だ。

 執事に案内されてきた刑事たちが、放心状態のユリエを連れて行った。意識不明の柚子のことも、病院に運んでくれた。
 毎日顔を合わせていた小間使いが恐ろしい殺人犯だったなんて、礼子には信じがたかった。でもそれは事実だった。ナイフで薪を刺し殺そうとした彼女を、礼子はその眼で見たのだ。

「ねえ。ユリエはどうしてあんなことをしたの」
「礼子ちゃん。それはさっきも言った通り」
 廊下で迷子になっていた青木に最初に会った時、一番に言われた。ユリエさんの部屋に案内して欲しい、おそらくそこに君の友だちもいる。でも事件のことは一切説明できない。
 警察には守秘義務があるんだよ、とそれは礼子も承知の上。だけど聞かずにはいられなかった。だって。
「ユリエとは10年以上の付き合いなのよ。子供の頃は、夜は一緒に寝てくれたの。やさしい子なのよ。それがどうして」
「オレたちにもまだ分からないんだよ。理由はこれから取り調べで」
「青木さん、なんで嘘吐くの。警官でしょ」
 礼子がずばりと切りこむと、青木は眼鏡の奥の黒い瞳を泳がせた。正直な男らしい。
「許してやってくれ。こいつは嘘が下手なんだ」
 苦笑いして薪は、青木を庇った。おかしな男だ。あれだけ悪しざまに彼を責めておいて、礼子がちょっとキツイことを言っただけで彼をフォローするのは矛盾していると思った。

「礼子。これから僕が話すことを、落ち着いて聞いて欲しい」
 薪の雰囲気で、何か悪いことを言われるのだと分かった。父親が麻薬容疑で逮捕された上に小間使いが殺人犯、それ以上に悪いことなんてそうそう考えつかないけど、よっぽど衝撃的なことなのだろうと思った。彼の亜麻色の瞳が礼子に告発状を書かせたときと同じように、心配そうに、でも強く輝いていたから。
「薪さん、それは話すべきじゃありません。礼子さんのためにならない」
「鈴木の脳を僕に見せたおまえがそれを言うのか」

 横から口を出した青木に、薪は礼子には解らないことを言った。
 脳を見る? 何のこと?
 少し考えて思い至った。警察の中に第九って部署があって、そこでは死人の脳を見て捜査をしていると、テレビで見たことがある。ホラー映画みたいな話が現実にあるのだと知って驚いたが、この二人はそこの人間なのか。そこの捜査官は変質者ばかりに違いないと思っていたけど、部下の方は変質者には見えない。上司は立派な変態みたいだけど。

「すみません」
 その言葉はこれまでのどの言葉よりも穏やかに発せられたのに、青木は顔色を変えて謝った。青くなって俯く彼に薪は、先日礼子にしたように下からその顔を覗き込み、彼が自分の膝の上で強く握った大きな手に自分のほっそりした手を添えて、
「勘違いするな」
 顔を上げた青木の瞳が、薪の瞳にぶつかった。他人が見ても分かる、二人の間を行き交うなにがしかのエネルギー。
 経緯を知らない礼子は、その様子を黙って見ているしかなかった。なかったけど、ねえ、あんたたち普通じゃないでしょ。眼と眼で会話しちゃって、どう見てもデキちゃってるわよね?
「やっぱ二人とも変態か」
「「うん?」」と揃って声を上げて振り向くとか、本当に止めて欲しいと思った。息ぴったりなのは認めるから、どっかよそでやって。

「礼子、君は強い子だ。僕にできたことは君にもできると信じている」
 薪は青木から礼子に向き直り、真剣な眼差しで彼女を見つめた。嫌な予感に、礼子の胸がどきどきと鼓動を早める。
「真実を受け止めろ。僕が力になる」
 聞かない方がいいのかもしれない。幼少期のあれが性行為の真似事だったと、知らない方が幸せだったように。今回もそういうことかもしれない。
 でも、薪はそれを礼子に知らせようとしている。どんなに残酷な真実でも知らないままに未来を過ごすことは虚構でしかないと、彼の瞳が言っている。覚悟を決めて、礼子は彼の言葉を待った。

「ユリエが殺人を犯したのは君のためだ」
 つややかなくちびるが次に開いた時、そこにあったのは礼子の人生をひっくり返すような現実だった。
「どういうこと」
 呻くような声が出た。自分のせいで誰かが命を奪われたなどと言われても、咄嗟には理解できなかった。頭が理解することを拒んだと言ってもいい。
「ユリエは君を愛していた。君を傷つけた者たちが許せなかったんだ」
 ユリエは自分のために殺人者になったのだと薪は言う。苛めに遭った自分の復讐の為に、学友たちを殺したのだと。

「なにそれ」
 乾いた声が出た。
 腹が立った。仇を取ってくれたと、感謝の気持ちなんか微塵も沸いてこなかった。
「そんなのあたしは知らない。そんなこと頼んでない、ユリエが勝手にやったことでしょ。なのにどうしてあたしが」
 どうしてこんな罪悪感に押し潰されなきゃいけないの。

 喉が詰まって、最後は言葉にならなかった。泣きそうな顔を見られるのが嫌で、礼子は俯いた。長い髪が顔を隠してくれる。この時ばかりは養母の趣味に感謝した。
 気が付くと、薪が隣に座っていた。
 青木にしたように手を握るでも肩に手を置くでもなく、ただ前を向いて座っていた。そうして礼子が落ち着くのを待っていた。まだ続きがあるのだ、と礼子は直感した。
 果たして薪は口を開いた。

「柚子ちゃんのことだけど」
 その名前を聞いて、礼子は心を強くする。
 どんなことがあってもわたしを好きでいてくれると言った。幼い頃から男の欲望に晒された身でも、人殺しの動機になるような人間でも。彼女だけはわたしを見限らない。そう信じていた。
 そんな彼女を巻き込んでしまった。礼子の心は彼女に対する申し訳なさでいっぱいになった。そんな礼子の気持ちを踏みにじるように、薪の冷徹な声が響いた。
「彼女はユリエの共犯者だ。そして苛めの首謀者でもある」

 今度こそ、礼子の思考は停止した。ユリエが殺人犯だったことよりも受け入れがたい事実だった。「うそ」と反射的に言葉が零れた。
「君に直接危害を加えてきた連中とは別口で、彼女は君が学校中から無視されるように仕向けていた。学用品や上履きの嫌がらせは彼女がやらせていたんだ」
「うそ」ともう一度礼子は言った。今度は反射ではなく、意志の籠った打ち消しだった。この優秀な男に間違いなどあり得ない、解っていても否定せずにはいられなかった。
「本当だ。こないだ君、教科書に墨撒かれただろ? 僕はあの現場を押さえた。君の机に墨を掛けた生徒から直接聞いたんだ」
 彼は警察官だ。証拠もなしに憶測を述べたりしない。
 身体中の力が抜けて、礼子はソファにもたれかかった。思わず笑いがこぼれた。衝撃も大きすぎると笑えてくる。あの時もそうだった。「娼婦と言うのよ」と施設の友だちから聞いた時、礼子は笑ったのだ。

「あーあ。結局、何処も変わらないのね。施設と同じだわ」
 顔を上げると、向かいで青木がとても心配そうにこちらを見ていた。薪への献身ぶりからも伺える、彼はやさしい男なのだろう。だから真実を告げようとした薪を止めようとした。でも、嘘は嘘だ。そこには礼子に必要なものは何もない。
「大丈夫よ。こんなの慣れっこだもの。優しくしてくる人には何か裏があるの。みんなそうだった」
 施設にいた頃お菓子をくれた職員も、自分を引き取ってくれた養父も、ユリエも。醜い欲望を、その優しい仮面の下に隠していた。柚子も彼らと変わらない。そういうことだ。
 彼女の純真を、笑顔を、その言葉を、信じた自分が馬鹿だった。人は気紛れに自分に近付いてきて、耳に心地よい言葉を残して、でもいつかは去っていく。だから信じては駄目、縋っては駄目。所詮、人間は一人なのだ。

「ありがとう、薪さん。あたし、強くなるわ」


*****

 この章、長いので2つに分けます。



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イヴに捧げる殺人(15)

 いつもたくさんの拍手をありがとうございますー!
 二人がまだ恋人になる前の話とか、原作で彼らが家族になった今では化石みたいなものだと思うんですけど、読んでくださる方、ありがとうございます。

 お話の続きです。
 この辺になるとまとめよう感が強くて自分でもツライです(^^;)、でも、もうすぐメロディだし! 更新がんばります!




イヴに捧げる殺人(15)






「ありがとう、薪さん。あたし、強くなるわ」
 礼子が薪に礼を言ったのは皮肉ではなかった。本気で感謝していた。
 自分はこれから、誰にも頼らず独りで生きていく。そのためには強くあらねばならない。他人の好意などに縋らなくても済むように、強く強く。薪は真実を告げることで、それを自分に教えてくれたのだと考えた。ところが。
「やっぱりバカだな、きみは」
 彼は片頬を引き攣らすようにして軽蔑の笑いを浮かべ、てか、なんてムカつく顔なの。あたしの感謝返しなさいよ。
「薪さん。失礼ですよ、そんな」
「おまえといい勝負だ」
 青木が薪の無礼を諌めた、その瞬間だけは感心したのに。一言で怯んでんじゃないわよ、このヘタレ男。

 こういう場合、大人と言うものはもっと優しい言葉を掛けてくれるものではないだろうか。養父の虐待を知った時もそうだったが、薪は常に冷然と礼子を叱咤する。
 何故だろうと考えた。何故彼は、礼子が他人から同情されると余計に傷つくことを知っているのだろう。

「強くなると言うことは、悲しみから目を背けることじゃない。自分の心に嘘を吐くことでもない。悲しみも、それによって傷つく弱い自分も全部認めて、そこから再生することを言うんだ。それが本当の強さだ」
 どうしてオヤジって生き物は説教をしたがるのだろう。自分の経験値をひけらかしたいのか、いいこと言ってる自分に酔いたいのか、その辺の心理は不明だけど。嘘は言ってないと思った。
 確かに彼は自分よりも長く生きていて、その間には色々な経験を積んできたのだろう。そこから学んだことを礼子に教えようとしている。礼子が、道に迷わないように、回り道をしなくて済むように。

「傷ついてない振りなんかするな。ぼろぼろのくせに」
 ぽん、と頭に手を載せられた。気安くさわらないでよ、と何故だか振り払うことができなかった。
 目の前が霞む。こめかみがパンパンに膨れ上がっていた。ずっと息を止めてるせいだ。
「我慢なんかするな。泣きたきゃ泣け」
 冗談じゃないと思った。せっかくここまで我慢したのに。
「きみは未だ子供で、しかも女の子だ。それが許される立場にある。特権は使えるうちに使っておけ。いずれ、使えなくなる日がくるんだ」
 彼の言う通りだと思った。
 自分は子供で女だ。子供の無知と女の弱さの両方を持っている。そのことを認めなければ、改善することもできない。先に進めないのだ。

「泣き顔を人に見られるのが嫌なら僕の胸を貸してやっても、――お?」
 飛び込んだ胸は、これまでに礼子を抱いたどの男よりも薄くて頼りなかった。だけどすごく安心できた。言葉も態度も冷たいのに、彼の胸はとてもやさしかった。
「うっ、ううっ、うっ」
「泣くな! おまえは男で大人だろ!」
 何故か向かいで青木が泣いてて、薪に怒鳴りつけられていた。よく分からない男だ。

 彼は礼子を抱きしめることはせず、子供をあやすように背中をぽんぽん叩きながら、礼子が泣きやむのを待っていた。彼に比べたら自分は子供かもしれないが、さすがに幼児扱いはないだろうと少し頭に来たから、最後にブランド物らしいネクタイで思いっきり洟をかんでやった。彼は複雑な顔でネクタイをつまみ上げ、無言でネクタイを外すとゴミ箱に捨てた。
「ごめん遊ばせ」
「ホンっとに可愛くないな、きみは」
「自分より可愛い男の前で可愛い女演じて何の意味があるのよ」
 ちっと舌打ちして彼はそっぽを向き、「ずっと泣いてりゃいいのに」と警官とは思えないような暴言を吐いた。

「いくらかすっきりしたか? でもしんどいのはこれからだぞ。不意に思い出しては辛くなる。君の言う通り、君は強くならなきゃいけない」
「平気よ。あたしは雑草だって言ったでしょ」
 頼もしいね、と彼は皮肉に笑い、礼子の方を見もせずに言った。
「どんな状況でも強くあろうとする、僕は君の考え方には大賛成だ。でも人間てのはおかしなもので、自分を守るのは案外下手なんだ。いくら努力してもその強さを発揮しきれない。すぐに自分なんかって思ってしまう。自分のために頑張れる人間は、案外少ないよ」
 まるで独り言のようだった。自分自身を振り返っているのかもしれない。他人が見たら欠点なんか性格の悪さ以外は見当たらないような彼でも、そんな失敗を重ねてきたのだろうか。

「人間が、その最大の強さを発揮するのは大事なものを守る時なんだ。これからの痛みは、すべてそのための訓練だと思え」
「大事なものって?」
「それは人によって様々だ。人だったり物だったり、目に見えないものだったりする。でも、人が人として生きていくためにはそれは絶対に必要なものなんだ」
 礼子は既に人生を選び取った。養父の玩具としてではなく、人間として生きて行こう。自分がそれを実行に移せたのは彼のおかげだけれど、その欲求はずっと前から抱いていた。そもそものきっかけは。

「柚子にはいつ会えるの」
 礼子の言葉に、薪は息を飲んだ。大きな眼を見開いて、まじまじと礼子を見る。自分を裏切った友人に会いたいなんて、正気の沙汰じゃないのかもしれない。でも。
 彼女がくれた言葉が。礼子を支えてきた。
 それは欺瞞だった、嘘だった、でも。支えられた事実は無くならない。

「彼女は実行犯の一人だ。取り調べが済むまで面会は出来ない」
「じゃあ伝えて。ずっと待ってるって」
 え、と薪が聞き返した。自分の耳が信じられなかったのかもしれない。
「あの子はあたしに言ったの。何があってもあたしのことが好きだって。だからあたしも答えたの。自分もそうだって」
 礼子自身、自分の言うことはおかしいと感じていた。だけど言わなきゃいけない。自分にとっての大事なもの。
 柚子はあたしの友だち。
「だから伝えて。あたしの気持ちは変わらないからって」

 薪はくちびるを引き結び、礼子の願いを聞いていた。礼子が話し終えると彼は詰めていた息を吐き出し、やれやれと言うように軽く肩をすくめた。
「参ったな。君はどうやら僕より強い」
 薪は両手を自分の肩の高さに上げ、要するにそれは降参の証。
「本当のことを教えよう。君なら、この修羅の道を行けるだろう」
「どういうこと?」
「柚子ちゃんは君が好きなんだよ。おそらく君に恋をしている。彼女は君を独り占めしたくて、それで誰も君に近付かないように仕向けたんだ」
 多分、薪はそれを秘密のままにしておこうとした。その方が礼子がこの事件を乗り越え易くなるからだ。柚子の本当の気持ちが解れば、礼子は彼女を放ってはおけなくなる。しかしそれは事件の加害者と被害者が同じ道を歩むと言うことで、二人とも互いを見ては事件のことを思い出すだろう。
 正に修羅の道。しかしそれはかつて、薪と雪子が選んだ道でもあった。

「馬鹿ね。他に話したい子なんか一人もいなかったのに」
 嬉し涙を滲ませる礼子を、薪はやるせない眼で見ていた。「苦労するぞ」と、それは彼の経験から出た言葉。加害者と被害者が友人関係を築く難しさも、同性で愛し合うことの困難も、嫌というほど知っている。
 それでも、彼女たちがそれを選ぶなら。止める権利は薪にはない。

「君は自分じゃ気付いてなかったみたいだけど、意外と人気者だったんだよ。友だちが少なかったのも多分、君の前だと緊張して喋れなくなる子が多かったんじゃないかな。憧れの君ってやつだ」
「バカバカしい。貴子じゃないけど、あたしの血は」
 何処の誰とも知らない親から生まれたのよ、と礼子が卑下するのを薪は嘲笑い、
「人間の血液の組成は45%の血球成分と55%の血漿だ。血球成分の殆どは赤血球で、そこに1%弱の白血球および血小板が含まれる。赤血球は直径約7.5ミクロン、厚さ約1~2ミクロンの円盤状で」
「薪さん、薪さん、その辺で。礼子ちゃん、耳から煙が出てます」
「精神は強いのに。頭は軟弱だな」
「これが数学なら放電現象が起きてるわ」
 本当に煙を押さえるためでもあるまいが、耳を塞いだ礼子に薪は語りかけた。
「君もその眼で見ただろう。血に格差なんか無い」
 そうね、と礼子は笑った。
「いまこの瞬間にも、あたしの細胞は生まれ変わってるんだものね」
「その通りだ」
 彼だけに通じる言葉で礼子は言い、彼はそれに微笑みを返した。訳が分からなくてキョトンとしている青木の様子が、何だか可笑しかった。

 それから幾らも経たずに二人の刑事が執事に案内されてきた。その一人に、「大友さん、よろしくお願いします」と青木が頭を下げた。礼子を促した刑事が「薪室長、失礼します」と挨拶するのに、薪は横柄に頷いただけだった。
 部屋を出るとき、ソファに座った薪の後姿に礼子は呼び掛けた。
「ねえ。ちゃんと伝えてよ」
 薪は答える代りに右手を上げた。了承の合図だと分かった。
 後ろにいた刑事が、何故だかぎょっとした顔をした。不思議に思ったが、初対面の人間に裏事情を訊けるほど礼子は気さくな性格ではなかった。彼女がその理由を知るのは、それから1時間後。事情聴取が終わって薪の身分と年齢が明らかになった時だ。
 聴取をした若い刑事が教えてくれた。警視長と言うのは上から二番目の役職で、彼は本来なら自分たちなど口も利けないくらい上層にいる人なのだと。

「ふうん、偉いのね」
「来年あたり警視監になるんじゃないかって言われてる。四十代前半で大したものだよ」
「えっ、四十?!」
 てっきり二十代前半だと思っていた、ていうか、四十オヤジがセーラー服を着こなしていた事実に卒倒しそうなんだけど。ユリエや柚子のショックに負けてないんだけど。
「まさか本物の吸血鬼じゃ」
「あはは。それが本当でも誰も驚かないねえ」
 星稜学園には吸血鬼はいなかったけれど、警察にはいるのかもしれない。礼子は美奈子と言う名の女生徒を脳裏に浮かべ、今度薪に会ったらどんなふうに皮肉ってやろうかと考えて、にんまりと笑った。



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イヴに捧げる殺人(16)

 やっと、最終章です~。

 このお話、4月から公開してたんですね。
 こんな話に3ヶ月も付き合わせて申し訳なかったです。読んでくださった方の温情には心から感謝しております。
 この後、あとがき代わりの後日談がございますので、もう少しお付き合いください。 




イヴに捧げる殺人(16)





 レジャー帰りのファミリーカーが渋滞を生み出す休日の夜道を、闇に溶け込むような黒いボディの公用車が滑って行く。その運転席では青木が、つんつるてんのシャツにボタンの留まらないズボンという何とも情けない恰好でハンドルを握っていた。
 時刻は夜の九時過ぎ。今日は日曜日だから薪を家に送ったらそのまま帰らなければいけない。土曜日だったら泊らせてもらえたかもしれない、どうせなら一日早く今日の事件が起こればよかったのにと、とても人には言えないような考えが浮かぶのを慌てて打ち消す。薪にこんなことが知れたら殴られる、絶対。

 渋滞に捕まってノロノロ運転の車の中、そっと助手席の薪を見るとドアに頬杖を着く形で熟睡していた。疲れたのだろう。薪は平気な顔をしているから他人にそうとは気付かせないが、殺されかけたのだ。精神的な苦痛も大きかったはずだ。
 相変わらず無茶をする人だ。何度目かの赤信号を隠れ蓑に青木は深いため息を吐く。本当に、こんなことを続けていたら命がいくつあっても足りない。
 今回のことだって、何も薪が自分でユリエを聴取することはなかった。九条家の誰かが犯人たりうる物証が上がっていたのだから、捜一の捜査員に任せればよかったのだ。それを、あの少女たちの未来を守るために。

 青木は礼子の秘密を知らなかった。そのことを、薪は青木にすら話さなかった。しかし薪が彼女のために無茶を通したことは解った。
 どうしてだろう、と青木は薪の寝顔を見ながら考える。
 薪はやさしい人だけど、そこまで事件関係者に入れ込むタイプの捜査官ではない。感情移入はするな、同情心に溺れるな、割り切り無しに捜査はできない。事件関係者の心情に振り回されがちな青木はいつも薪にそう言われる。その彼が、どうして。

 対向車の多さにサンデードライバーらしい先行車が右折できないまま信号が変わり、同じ交差点で二度目の赤信号に捕まった。停止を命じる強烈な赤に、薪が青木に突き付けたレッドカードを思い出す。

 ――僕に鈴木の脳を見せたおまえがそれを言うのか。

 僕の判断に生意気な口を挟むなと、叱られたのだと思ったけれど。違ったのかもしれない。
『勘違いするな』と薪は言った。
 思い上がるな、自分の立場を弁えろ。あれはそう言われたわけじゃなくて、もしかしたらまったく逆の意味で。
 貝沼事件の真相を薪に告げたこと、それを後悔するなと言ったのかもしれない。だって薪が、自分がされてマイナスにしかならないと感じたことを他人にするはずがない。
 勘違いするな、責めてるんじゃない。あれは必要なことだった。
 そう言いたくてわざわざ鈴木の名前を出したのかもしれない。そう思っていたから、礼子にとっては残酷な真相を話したのかもしれない。おそらく、薪は礼子を自分と重ねていたのだ。

 薪のせいで沢山の少年の命が奪われた。鈴木はそれを隠そうと自分の命を犠牲にし、青木は真実を掘り起こして彼に伝えた。
 あの頃、青木はまだ本当に未熟な新人で。何も分かっていなかった、MRIの矛盾も冷酷も。ただ最新鋭の捜査に自分が加われることに感激し、憧れの薪の下で捜査ができることに浮かれ。躊躇いもなく鈴木が隠した真実を暴いた。それが正しいことだと信じていた。
 経験を重ねるに従って、明らかにしない真実があっていいことを学んだ。そうして自分の行為の傲慢さに気付いた。
 あの行為の是非は、青木の中ではまだ答えが出ていないけれど。捜査官として間違ってはいないと、薪はそう言ってくれたのかもしれない。

「まだ着かないのか」
 零れた不平に隣を見ると、薪が起きていた。眼を細めて眉をしかめて、いかにも寝起きと言った顔だ。
「日曜の夜ですからね。お台場帰りの車の渋滞にハマっちゃったみたいです」
「いま何時だ」
「九時四十分です」
「家に泊っていくか」
「はい。――えっ」
 右折可能の矢印が消えた、その瞬間に言われたものだから、ついブレーキを踏み込んでしまった。助手席で前後に頭を振られた薪が、不機嫌そうに青木を睨む。

「いいんですか? 明日、月曜ですけど」
「構わん。おまえが玄関で寝ればいいんだ」
 玄関はちょっとスペース的にキツイです。
「せめて寝室の床を貸してください」
 そうさせてもらえたらどんなに楽だろうと、青木は思った。今ごろ薪はどんな気持ちでいるんだろうとか悪夢にうなされてやしないかとか、思うだけで何もできない情けなさに比べたら、その場に居合わせて自分の無力を思い知る方痛みの方がマシだ。知らないところで苦しまれるよりずっといい。

「勝手にしろ」
 薪は欠伸混じりに言って、再び眼を閉じた。その横顔を対向車のヘッドライトと信号機の青が青白く照らし出す。
「はい。勝手にします」
 そう返して青木はハンドルを切り、ようやく途切れた対向車の隙間を横切った。


―了―


(2013.11)

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イヴに捧げる殺人 後日談(1)

 日曜日にたくさん拍手くださった方、ありがとうございました。
 せっかくの日曜日を無駄にし、いえその(^^;)、
 貴重なお時間を費やしていただいて光栄です。常連さんもご新規さんも、ありがとうございます(〃▽〃)


 さてさて、
 今週末は1年ぶりの薪さんですねっ。
 予告によると薪さんが誌面に登場するかどうか分からないのですけど、薪さんいないと秘密始まらないと思うし。会えるといいな~。





イヴに捧げる殺人 後日談(1)





 比較的早い時間に退庁が叶った金曜日の夜。予定がなかったら付き合え、と薪に誘われた。
 薪と向き合ったとき、イエス以外の言葉なんて青木の中には存在しない。「どんてん」で待っている小池たちを裏切る決意をするのにコンマ1秒、「急な用事ができました」とメールを打って携帯電話の電源を切るまで1分もかからなかった。
 明日から連休と言う夜に誘いを受けたのだ。彼は青木の上司だけれど、これは仕事ではない。その証拠に公用車は使うなと指示された。駅前で拾ったタクシーの運転手に薪が告げた行先は有名な繁華街。想像するに、酒を交えた食事をしてからホテルに一泊するか薪のマンションに行くか、どちらにせよ青木にとっては最高の夜が待っているはずだ。

 道端に停められたタクシーから降りた青木は、わくわくしながら薪の後について歩き、店に入り席に着き。薪が、おしぼりを持ち上げたところでブチ切れた。
「なんでキャバクラなんですか?!」
 いくら薪でもあり得ない。金曜の夜の恋人たちが甘い時を過ごす場所がキャバクラって! 薪は見た目は高校生でも中身は立派なオヤジ、それは知ってるけれどこれはない!

「騒いでないでおまえも指名入れろよ」
 薪は慣れた様子でボーイを呼び、女性の名前を告げた。指名する女の子がいるってことは、彼はこの店に何度か出入りしていると言うことだ。遊ぶなとまでは言わないけど、何も青木の目の前でキャバ嬢といちゃつかなくたって。それとも新しい嫌がらせ?
「オレ、今週なにかミスしましたっけ」
「報告は上がってないが、なにかやったのか」
「覚えがないから聞いてるんです。どうしてこんな仕打ちを受けなきゃいけないのかと思って」
「おかしなやつだな。普通、上司にキャバクラ奢ってもらったら喜ぶだろ」
 それは普通の上司と部下の場合であってオレたちには当て嵌まりません、と大声で叫びたかったけれど、人前ではマズイ。青木は歯を食いしばり、眼の縁に浮かぶ涙を必死で堪え、ようとしてくじけた。ソファに突っ伏して大きな体躯を丸める。だって耐えられないもん、こんなの。

 薪の指名を受けた女の子が、こちらに近付く足音がする。まさかそういう関係にはなってないと思うけど、こういう店で働く娘って貞操観念が薄いし、ましてや相手は薪だし、むしろ女の子から誘ってきたりとか、あああどうしようオレこの娘殺っちゃうかも。

「何しに来たのよ」
 相手を見てしまったら自分が抑え切れなくなりそうで、顔を伏せたままの青木の耳に、尖った女の声が聞こえた。思わず跳ね起きる。青木が知っている声だったからだ。
「れ、礼子ちゃん?」
「あら青木さん。来てくれたの。うれしい、ご指名ありがとうございまーす」
「おい、指名入れたのは僕だぞ。ここの勘定も僕持ちだ」
「だからなに」
「礼を言うなら僕に言え」
「うっわ、かっこ悪。恩着せがましい男って最低」
 開いた口が塞がらない青木と薪の間に礼子は腰を下ろし、激しく舌打ちする薪をガン無視して青木に笑い掛けた。前々から可愛い娘だったけど、綺麗に化粧をして華やかな衣装を着けた彼女はあの頃とは比べ物にならない。グラビアアイドルにときめかなくなって久しい青木ですら一瞬見蕩れた。

「礼子ちゃん、ここで働いてるの?」
 2ヶ月前の事件で九条の家を出たとは聞いたが、こんな仕事で生計を立てていたとは。青木は彼女の現況を知って、やるせない気分になった。
 礼子は告発者であり、事件被害者でもある。彼らには国から補償金が出る仕組みにはなっているが、生活を賄える十分な額は支給されないのが現状だ。結局はこのように、まだ少女のうちから辛い仕事に就かなくてはいけなくなる。

 同情心いっぱいの青木の視線を跳ね返すように、礼子は明るく笑って、
「うん。薪さんの紹介」
「そう、薪さんに、えええええ!?」
 未成年に水商売斡旋する警官が何処にいるんですか!!
 叫びたかったけれど、ここは店の中だ。礼子の立場も薪の立場も悪くなる。青木は慌てて自分の口を押さえた。
 声には出せなくてもそれは拙いでしょうと薪を見れば、澄ました顔で水割りのグラスを傾けている。警察官というより人としてどうなの、この人。

「この水割り薄いぞ。もう少し濃いめに作り直せ」
「自分で足せば」
「おい、僕は客だぞ」
 横柄な口調で嫌われる客ナンバー1の台詞を吐いてソファにそっくり返る、青木の眼から見ても感じが悪い。案の定、礼子は眉をしかめて言い返した。
「うるっさいなあ。本当に何しに来たのよ」
「キャバクラに女子の胸を触る以外の目的で来る男がいたらお目に掛かりたいものだ」
「薪さん、違います。みなさん、女の子とお喋りしに来てるんです」
「馬鹿かおまえ。そんな健全な経営方針で風俗店が成り立つか」
 それは分かってますけど建前上。
「と言うわけで揉ませろ」
 言ってることと外見のギャップがものすごいんですけど。いっそこの場で気絶したいくらいなんですけど。
「薪さん」
 青木の非難がましい声なんざどこ吹く風。不良警官はその華奢な指を卑猥なカタチに曲げて、礼子に迫った。白い手の甲を、涼しげなパールブルーのマニキュアに彩られた指先がぱちんと叩く。
「――って。おい、それが客に対する態度か!」
 うわー、お約束。それが警察官の態度ですかと言ってやってほしい。

 憤る薪に対し、礼子はきちんと膝を揃え、その上に両手を置いてすっと頭を下げた。
「当店では女の子との過剰な接触は禁じられております。ご了承ください」
「よし。酔っ払いの撃退は慣れたみたいだな」
 手の甲が赤くなるほど叩かれたのに薪は満足そうに頷いて、いそいそとグラスを取り上げた。ウィスキーの蓋を開けて、青木の水割りを作り直してくれる。青木の好みに調整された水割りは舌に心地よく絡み、ベルガモットの香りが鼻腔を官能的にくすぐった。
「その辺の男に簡単に触らせるなよ。何度も言うけど、将来好きな人ができたとき」
「そうね。あたしの身も心も、柚子のものだものね」
「その道は行かせたくなかったんだが」
「……あのお」
 質問の形に手を上げた青木を、二人が振り返った。顔を見合わせてすぐ、薪はふいっと横を向き、察して礼子が説明役を引き受けた。

 よくよく話を聞いてみれば。
 この店は薪の捜一時代の先輩の行きつけで、他の店のように暴力団とのつながりは一切ない。何でも店主が元警察関係者で組にも顔が効くので、彼らも簡単には手出しができないらしい。
 礼子のような身寄りもなく行き場のない少女たちを、彼女は自分の店で働かせている。現代の日本で、手に職もない女の子が生活しながら資金を貯め、人並の生活を手に入れるためにはコンビニのアルバイトでは不可能だ。何年かの間この店で稼がせてもらって、ある程度の余裕ができたら給金は安くても昼間の勤めに切り替える。その就職先もママが紹介してくれるんだって、あたし、美容師になりたいんだ、と礼子は遠い未来の話を夢見るように語った。
 が、あくまでも風俗店。店主は信頼が置けるが、客のすべてが素性がいいとは限らない。薪は礼子が心配で、何度も店に顔を出していたそうだ。酔客の対応に困窮する彼女を警察手帳をちらつかせて救ってやったこともあるとか。
「なんだかお父さんみたいですね」
「冗談!」「願い下げだ!」
 二人から突っ込まれて青木も思い直した。それもそうだ、年が合わない。実年齢ではなく外見的に。正直な印象は美人姉妹。口に出したら殴られるから言いませんけど。

「でも礼子ちゃん、17でしたよね?」
「いいだろ、2ヶ月くらい。固いこと言うな。こんだけ胸がでかけりゃ大丈夫だ」
「さっきから胸胸ってイヤラシイ。セクハラよ、それ」
「あのな、胸はでかさだけじゃなくて形も大事なんだ。恭子ちゃんの女神のような胸に比べたら、おまえの胸なんかまだまだ」
「恭子ちゃんてだれ? 薪さんの恋人?」
「いや。深田恭子ちゃん。女優の」
「ああ……」
「可哀相な人を見る眼で僕を見るな!!」
 二人のやり取りを聞くと、ほんの僅かなジェラシーをおぼえる。薪はこんな風に、女の子に遠慮なくぽんぽん言われるのが嬉しいのだろう。
 薪のファンは数知れず、でも彼女たちはお互い牽制し合って彼を遠巻きに見つめるだけ。直接話し掛けたり、ましてやこのような親しげな関係になったら仲間の制裁が待っている。もっと恐ろしいのは腐女子と呼ばれる過激な一派で、薪の相手は男性以外あり得ないと言う凝り固まった信念を元に、布教活動と称して薪と警察内部の美形との恋物語をまことしやかに吹聴している。相手は竹内だったり二課の大山だったり間宮部長だったり、おかげで薪はすっかり誤解を受けて、ていうか、どうしてその相手の中にオレがいないんですか、腐女子のみなさんっ。

 とにかく。
 薪が礼子を気に入っているのは、その眼で分かった。青木や部下たちに向けるのと同じ、温かい眼。
 もしかしたら、と青木は思う。
 もし自分とこういう関係になる前に彼女と出会っていたら。薪は素直に彼女を愛したのかもしれない。年は20以上も違うけれど、そんな夫婦は世の中にいくらでもいる。大切なのは気持ちだ。
 こうして見ればお似合いの美男美女だし、性格も合ってるみたいだし、この二人が恋人関係にあってもなんら不思議ではない。まあ、薪に限って浮気なんて面倒なことは、
「ねえ。お店終わったら部屋に来てよ」
 ……部屋ってなに。しかもこの口ぶり、誘ったのは今日が初めてじゃない。
「ああ。こないだの続きだな」
 続きってなんの続き? 寸前まで行ったとかここから先は結婚してからとかそういうこと?
「よし、今日は朝までみっちり」
「許しません!!」
 二人の間に大きな手を割り込ませ、青木は鋭い声を上げた。びっくり眼で青木を見る、薪の顔はやっぱり可愛い。その隣で何故だか礼子がにんまりと笑った。

「なに怒ってんだ」
「そりゃ怒りますよ。現職の警察官がキャバ嬢の部屋で朝まで頑張るとか言われたら」
「あたしは二人相手でもいいけど。てか、その方がいいかも。薪さん一人じゃ体力が」
 なに言い出すの礼子ちゃん! 柚子ちゃんに操立てるんじゃなかったの? 男は別腹とかそんなのお父さんは許しませんよっ!
「そうだな。疲れたら交代できるし、仮眠取って再開しても」
 あんたはどんだけやる気なんですか。

「青木、頼めるか」
「冗談じゃありませんよ!」
 青木はソファを蹴り倒す勢いで立ち上がった。長身の彼は立つだけで人々の注目を集める。店中の視線が集中する中、青木はついに叫んだ。
「オレ、もう薪さん以外の人には欲情しないって何度も言ってるじゃないですか! ハッキリ言って女の子の胸なんか肉の塊にしか見えませ、ぐぎゃっ!」
 青木の顔にストレートパンチがめり込んだが、一瞬遅かった。殴られた頬を押さえながら起き上った青木の眼に、腹を抱えて笑い転げる礼子と頭を抱え込む薪が映った。



*****

 あおまきさんの絡みはやっぱり楽しいです。
 この後日談のために3ヶ月耐えてきたといっても過言ではないww



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イヴに捧げる殺人 後日談(2)

 いっつも後手に回ってすみませんー。注釈入れるの忘れてました(^^;
 礼子が勤めてるキャバクラは、羽佐間さんの行きつけです。羽佐間さんは薪さんの捜一時代の指導員です。ADカテゴリの「折れない翼」という話に書いてあります。よろしくです。






イヴに捧げる殺人 後日談(2)






「夜間高校行ってるの。明後日、数学の追試なんだ」
 窓際に置かれた勉強机代わりのローテーブルの前で、礼子は数学の教科書を掲げてみせた。

 礼子のアパートは小間使いのユリエの私室より小さくて古い物件だったけれど、こまめに掃除されているようだった。ここも店のママの持ち物だそうで、彼女は礼子の生活を全般に渡ってサポートしてくれているらしい。おそらく薪が昔のツテを使って、頼み込んだのだろう。
 部屋を見回して、青木は複雑な顔をした。女の子の部屋というよりは男の子の部屋みたいだったからだ。カーテンや壁に掛かっている服には英文字やら髑髏やらが踊っていて、色づかいもモノクロや青系が多い。それでも、所々に星やハートが混じっているところはやっぱり女の子だ。

 青木が一人入ったら一杯になってしまう手狭い台所でインスタントコーヒーを淹れて戻ると、二人は畳敷きの床に座って額を寄せ合っていた。本当に、仲の良い兄妹みたいだ。
「他の科目は何とかなったんだけど、これだけはどうしても苦手で」
「数学なんか簡単だろ。公式さえ覚えておけば、後はそれを当てはめるだけなんだから」
「ちっ」
「女の子が舌打ちなんかするな」
 説教臭いところはやっぱりお父さんですね。

「なあ青木。数学は公式さえ抑えれば楽勝だよな」
「そうですね。オレも地理や歴史の方が苦手でした。覚えることいっぱいあって」
「なんで。一度読めば覚えるだろ」
「「ちっ」」
「おい。今、舌打ち二つ聞こえたぞ」
 青木がコーヒーを差し出すと、薪は不機嫌に青木を睨み上げるようにしたけれど。クレーンゲームで獲ったぬいぐるみが置いてあったり(キャバクラの先輩からのプレゼントだそうだ)、コーヒースプーンの柄にカエルの顔が描いてあったりする女の子の部屋で、畳に胡坐の薪は何だかあどけなくて、礼子がいなかったら襲ってたかもしれない。青木なんか人差し指どころか小指も入らない女性用のカップの持ち手に彼の二本の指が無理なく入ってしまう様とか、来客用らしい白地に桜模様の陶磁器が薪の上品な顔立ちにすごくよく似合う様子とか、そんな微細な、でも青木の心を猛烈に焚き付けるものがプライベートの薪には盛り沢山で、ついつい熱っぽく彼を見つめてしまう。心を落ち着けようとして、青木は熱いコーヒーを一気に飲んだ。

 これのどこに疑問を挟む余地があるんだ、と礼子とはまた違った意味で薪が教科書に首を捻っている隙に、礼子が青木を意味ありげな眼差しで見た。多分、青木の視線の特別さに気付いたのだ。
 いや、以前から気付かれていたのかもしれない。雪子もそうだけれど、恋愛慣れしていないように見えても女の子は鋭い。
 もっと気を付けないといけないと思った。薪に迷惑が掛かるのだけは避けたい。既に色々なリスクを背負わせてしまっているのは分かっている、だからこれ以上は。

 1年くらい前、薪に言われた。ずっと僕のことを好きでいろ、と。
 その時にふっ切ったつもりだった。弱気になることはない、引け目なんか感じることはない。もちろん自分よりも彼に相応しい人はいる、でも選ぶのは彼自身。自分は彼に言われた通りひたすらに彼を愛していればいい。だけど。
 ――本当にそれでいいのだろうか。
 同じループに何度でもはまる。この選択は正しいのか。彼のためになることなのか。何十回も考えたのに、未だに答えは出ない。答え合わせのできない宿題はいつまでも残って、心の隅に深く根を張る。つねに出張って来るわけではないけれど、視線をめぐらせればいつもそこにいる。愛するが故の根深さで。

「青木、手伝え」
 イライラしたような声で呼びかけられて、青木は我に返った。畳に胡坐の薪が、こちらを向いて眉を吊り上げている。
「こいつ、言った端から忘れていくんだ。僕一人じゃ教えきれん」
「なによ、教え方が悪いのよ。柚子はもっと分かりやすかったわ」
「どれどれ。ああこれはね、10万と2万と3千とって言うように、単位ごとに分けて考えるといいんだよ」
「なんでそんなことする必要があるんだ。そのまま掛けりゃいいじゃないか」
「薪さん。普通の人間は6ケタの掛け算は暗算じゃできないんです」
「なんで」
「「ちっ」」
「あっ、また舌打ちしたな、おまえら!」

 それから、数学とは相性の悪い礼子の脳に二人がかりで数式を詰め込むこと二時間。礼子が疲れて不平を言い始めたのと薪のイライラが頂点に達したのを見取って、青木は2度目のコーヒーブレイクを提案した。
 なんでこんな簡単な式が覚えられないんだ、と薪は、コーヒーの湯気の向こうで心底不思議そうに首を捻る。舌打ちの代わりに歯を食いしばって、礼子はこっそりと青木に洩らした。
「もー。どうして薪さんてあんなに意地悪なの」
 素直な憤慨に思わず笑う。青木もむかし新人だった頃、似たようなことを思っていた。でも今は、彼の思考経路を察することができる。あれは嫌味ではない。
 彼女がどうして数式を覚えられないのか、薪には本当に分からないのだ。よって悪気はない。悪気がない分タチが悪い、というやつだ。
 薪は家庭教師には向かない。教師に向くのは天才ではなく秀才だからだ。天才という生き物は、教科書を一読するだけでカメラで写し取ったかのように細部まで正確に覚えてしまう。しかも一度覚えたことは忘れない。覚える努力、理解する努力というのをしたことがないのだ。だから生徒たちが問題の何処に躓いているのか、見当がつかない。青木のように悩みながら勉強してきた人間の方が、教えるのは巧い。

 誤解されやすい薪を庇おうと、青木は礼子に薪のフォローを入れた。
「本当に意地悪な人は、勉強見てくれないと思うよ」
「ったく。うちの部下たちの方がまだマシだ。頭の程度はおまえと変わらんが、根性だけはあるからな」
 言った途端にとばっちりが来て、青木は黙ってコーヒーを飲む。安価なインスタントコーヒーの味にここまで癒されたのは初めてかもしれない。同情心に溢れた顔つきで、礼子がぽんと青木の肩を叩いた。
「苦労してるのね、青木さん」
「すみません、慰めないでもらえます? 泣きたくなっちゃうんで」
「職場では嫌われ者で恋人もいない。薪さんも大概ボッチよねえ。これであたしまで冷たくしたら、ちょっと可哀想かな」
 礼子の表情に青木は危機感を抱く。やばい、本気で同情している。彼女には柚子がいるが、この年頃の女の子の気持ちは変わりやすいもの。同情から恋に発展したりとか、その可能性が例え百万分の一でも潰しておかないと青木は不安で眠れない。

「そんなことないよ。薪さんは厳しいけどね、すごくやさしい人なんだよ。誰よりも多くの仕事をこなしてるし、辛い仕事は全部自分で抱え込んじゃう。部下の誰かがその仕事をしなきゃいけない時だって、必ず自分がフォローに付くんだ。そんな人だから、どんなに厳しくされてもみんな薪さんが大好きなんだよ」
「本当に?」
「そうだよ。薪さんはみんなに好かれてるよ」
「それは青木さんが」
 礼子はそこで言葉を切り、人を揶揄する目つきになった。黙ってコーヒーを飲む彼女の頭の中では何かが企まれている気配。やがて礼子は口を開いた。
「そう言えばさ。薪さんて、右のお尻の下にホクロがあるでしょ」

 ぷつん、と青木の中で何かが切れた音がした。青木は半分ほど残ったコーヒーカップをトレーに戻し、すっくと立ち上がって3歩ほど歩いた。それだけで薪の背中に到達する、そんな狭い部屋だった。当然、礼子の言葉も薪の耳に入っている。1メートル近い落差で見下ろす青木の表情からこれから起こることを察したらしい、彼は数学の教科書を盾のようにして身構えた。
「薪さん」
「待て青木、落ち着け」
「彼女、薪さんのホクロが何処にあるか知ってました」
「そ、それはつまりその、ほら、こないだの事件のとき」
「あの時は薪さんの腰から下は血で染まってて、ホクロなんか見えませんでした」
「無駄に鋭いな、おまえ」
 青木を取りなすことに懸命な薪と、薪を詰問するのにいっぱいいっぱいの青木は、青木の大きな身体に隠れた場所で礼子が笑いをかみ殺しているのに気付かない。

「寝たんですね」
「ちがう。僕は何もしてない」
「じゃあどうして彼女が薪さんのホクロの位置を知ってるんですか? 礼子ちゃんの前でパンツ脱いだってことでしょ?」
「礼子じゃない。脱いだのは他の女の前で、それも自分から脱いだんじゃなくて、無理矢理脱がされたと言うか剥ぎ取られたと言うか」
「他の女とも?!」
 自分の意志じゃない、という薪の言い訳は青木には届かなかった。青木の頭を満たしたのはたった一つ、薪の秘部を自分以外の誰かが見たという事実。
「じゃあオレは最低二人は殺らなくちゃいけないんですね……」
「青木―! 戻って来いー!!」
 焦りまくって叫んだ薪の声に、礼子の笑い声が重なった。若い女の子らしくケラケラ笑う彼女に、冗談じゃないぞ、と薪が舌打ちする。
「あー、可笑しかった」
 礼子は眼の縁に溜まった涙を拭い、「意地悪のお返しよ」と薪に舌を出して見せた。
「青木さん、思い詰めると怖いタイプね」
「下手に刺激しないでくれ。地獄を見るのは僕なんだから」

 種を明かせば。
 薪が捜査一課で羽佐間とコンビを組んでいた頃、連れて来られたのが礼子が働いている店で、まだ24歳だった薪はそこでキャバ嬢たちにからかわれて丸裸にされた。その時のキャバ嬢の一人が現在のママになっている。礼子はママからその話を聞いたのだ。
「キャバ嬢軍団に服を脱がされたのは事実だけど、酒の席のおふざけみたいなもんで、おまえが邪推するような事実はどこにもない。そもそも男のケツなんか見られたって減るもんじゃなし」
 礼子の前で、青木と恋人関係であることを匂わせるような会話は避けたかったのだが仕方ない。青木が向こう岸に渡ってしまわないうちに引き戻さないと。
「そうですか、集団で。じゃあオレはいったい何人殺せば……」
 戻って来れないらしい。

 畳に正座し、壁に向かってぶつぶつ言い始めた青木をほったらかして、薪はコーヒーカップを片手に礼子の方へやってきた。隣に胡坐をかいてコーヒーを飲み始めた彼に、礼子は夜中特有のテンションで絡む。
「抱きしめてアイシテルって言ってあげればいいのにぃ」
「腹減って錯乱してるだけだ。何か食わせりゃ正気に戻る」
「そこまで単純?」
 薪の冗談に礼子は笑った。念のために言い添えるが、薪は冗談を言ったつもりはない。

「あたしもお腹空いた。薪さん、なにか食べさせて」
「作るのはいいけど、こないだみたいに冷蔵庫の中空っぽのくせに手間の掛かるグラタン食いたいとか無茶言うなよ」
「薪さん、グラタン作るんですか? オレの分もありますか?」
 グラタンと聞いただけで四つん這いで走り寄って来た、青木は正座して、薪を期待に輝く瞳で見つめる。その姿は正にイヌ。
「おまえの分も作ってやるから手伝え」
「はい!」
 小さな冷蔵庫の中を覗き込む薪と、ウキウキしながらその後ろに付き従う青木を見て、礼子はため息交じりに呟いた。
「悪いことして青木さんに捕まったら、フライドチキンを投げてその隙に逃げるわ」
「楽勝だな」
「え。なんですか、それ。どういう意味ですか」
 きょとんと首を傾ける青木に向かって、使い掛けの玉ねぎが投げられた。咄嗟に右手でキャッチする。細い指先が青木を指し、職場仕様の硬い声が言った。
「みじん切り」




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イヴに捧げる殺人 後日談(3)

 発売日ですね! 
 本屋さん行ってきます! 薪さんに会えますように!!

 あ、あとがき、これでおしまいです。
 最後まで読んでくださってありがとうございました(^^




イヴに捧げる殺人 後日談(3)






「ねえ、薪さん。ユリエの裁判っていつ頃始まるの」
 礼子の問いに、薪は直ぐには答えなかった。フォークの先端に貫かれたマカロニに息を吹きかけ、伸びたチーズの糸をくるくると巻き付ける。礼子はしばらくその様子を見ていたが、やがて諦めたようにホワイトソースに包まれた鶏肉を口に入れた。
 薪のつややかな唇がぱくりとフォークを咥える。薪は牛乳の匂いが苦手なのに、グラタンやシチューは平気で食べる。青木には不思議でたまらない。温めたら匂いは強くなると思うのだが。

「来月だ」
 薪が正直に答えたから、青木は少し驚いた。事件のことは早く忘れろと、てっきりそう言うと思ったのだ。しかし。
「傍聴したいなら席は僕が用意してやる」
「薪さん」
 思わず口を挟んだ。あの事件から未だ2ヶ月も経っていない。裁判の傍聴は礼子にとっては生傷を抉るようなものだ。
「ただし、一人では行くな。ママにでも付き添ってもらえ」
「薪さん」
「分かった」
 薪を留めようとした青木の声と、礼子の了承が重なった。礼子の強い瞳に押されて薪を伺えば、おまえは口を出すなと薪の眼が言っている。

 事件の時も感じたけれど。
 薪は真実は隠すべきではないと言う強い信念を持っている。おそらくそれは、警察官としての正義というよりは経験に基づいての結論なのだろう。

 青木は薪の心情をそのように察したが、その解答は80点。薪の中にも迷いはあるし、礼子に真実を告げることが絶対に正しいと信じ切っているわけではない。だが、薪にはそれを隠すことはできない。
 例えそれがどんなに残酷な事実でも、どれだけの愛とやさしさでもって包み隠そうとした秘密でも、それを知ることで悔いるばかりの人生が待っているとしても。隠してはいけないのだ。
 秘密は必ず洩れる。何年かかっても、日の元にその姿をさらけ出す。問題はその現れ方で、秘密というものは人を介すると必ずと言っていいほど真実から遠ざかる。秘密が内包する不確定要素と、時間が経つほどに曖昧になる人の記憶のせいだ。結果、歪められた真実が当事者に届くことになる。それは隠した者の本意でも隠された者の幸福でもない、単なる悲劇だ。
 未来永劫誰一人としてそれを知らずに済む保証がないなら、真実は隠すべきではない。そして、そんな保証は誰にもできない。

 加えて。
 薪は自分の経験から知っている。人間はそんなにやわじゃない。どれだけ凄惨な事実を突き付けられても、先に進める。一時は足が竦んで、一歩を踏み出すそれだけで針を踏むような痛みを覚えても、ちゃんと歩いていける。何よりも強くそれを信じている、否、信じなければいけない。
 ――だって。
 そのことを教えてくれたのは青木だから。何年もの間、そして今も。薪に真心を注ぎ続けてくれた、薪が自分の脚で歩きだすのを辛抱強く待っていてくれた彼だから。

 現実にはショックのあまり、発作的に自ら命を絶ってしまったり、精神的に病んでしまう人間がいることも知っている。さらには青木が自分にしてくれたように、彼女の傍にいて彼女に愛情を注ぐことは薪にはできない。それが分かっていてこの行動を取る無責任は承知の上、それでも薪は彼女の強さを信じたい。
 誰かが自分を信じてくれる、それだけで人は強くなれる。そのことを薪に教えてくれたのもやっぱり青木なのだ。

 一回りも年下で、見れば未熟さばかりが目につく彼の、なのに多くのことを教えてくれる男を、薪は改めて見直す。前に進む勇気をくれるのはいつだって彼だ。
 命令されずとも食べ終わった皿を集めて洗い始める青木の背中を眺めながら、薪は小さくため息を吐いた。彼の支えがなくなったとき、自分が今と同じように行動できるかどうか未だ自信が持てない。情けない話だ。

 青木は濡れた手を拭きながら戻ってきて、膨れた腹を擦っている礼子に声を掛けた。
「さあて、あとひと踏ん張りだね。礼子ちゃん、応用問題に挑む前に正弦定理を確認しておこうか」
「まかせて。cosA = (b2 + c2 +a2)× 2bc」
「うん、それは余弦定理だよね。しかも間違ってるし……薪さあん」
 薪と二人掛かり、懸命に教えたことが空腹感と一緒に礼子の中から消えてしまったことを知って、青木は薪に泣きついた。なんだったの、あの苦労。

「だから言っただろ。そいつ、教える側から忘れていくって」
「礼子ちゃん、もう一度やるよ。正弦定理は三角形とそれに接する円に関する定理で」
 薪が投げかけた匙を青木が拾い上げる。青木は薪よりも諦めが悪いのだ。そうでなかったら、とっくに薪のことも見限っていただろう。
 諦めないこと、続けることが何よりも大切だということ。それも彼に身を以て教えてもらった。

「どうやらおまえは僕よりも教師向きだ。頑張れよ、先生」
「ちょ、薪さん、ずるっ」
 黄緑色の鞘から犬のような顔を出しているキャラクタークッションを枕にして、薪はころりと横になった。くあ、と欠伸をして5秒後には寝息が聞こえてくる。相変わらず見事な墜落睡眠である。
 眠りに堕ちる寸前、二人が揃ってクスッと笑う声が聞こえた。




(おしまい)


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蛇姫綺譚(1)

 こんにちは。

 8月の末ごろから、たくさん拍手くださってる方、ありがとうございます~(〃▽〃)
 最初のお話から順に入ってたので、ご新規さんかな、それとも再読の方かな? 3ケタ久しぶりだな、って思ってたら1週間も続いて、さぞお疲れになったと思います。目薬さして、ゆっくり休んでくださいね、破壊された精神の回復を図ってくださいね、心配でしたら心療内科に行ってみてくださいねっ。(そこまで?)
 とにかくありがとうございました。おかげさまでSSの読み直し頑張れました。(一番キライな作業なんです。自分の話読み返さなきゃいけないのはけっこうな苦行(^^;)

 励ましていただいたおかげで、
 今日から公開できますこのお話、5万5千拍手のお礼SSでございます。
 夏に書いたので、日本の怪談的なものを目指してみたのですけどいつの間にかアクションコメディになぜ! これこそ怪談!←え。

 時期は2066年8月。
 タイムリミットを翌年に控えて少々焦りが出ている頃のお話です。

 長編ストーリーは実に1年振りなので、突っ込みどころは多々あるかと思いますが、どうか広いお心で。
 よろしくお願いします。





蛇姫綺譚(1)





 日曜日のカフェになんて入るもんじゃない。
 薪は心の中で軽く舌打ちした。コーヒーを挟んで恋人と向かい合っているのに、相手があからさまに隣の席を見ていたからだ。

「可愛いですねえ」
 青木が褒めたのは薪のことではない。それで面白くない、わけではない。
 二人で過ごすとき、青木は薪以外の人間を殆ど見ない。薪に危害を加えようとする人間、もといナンパ男の牽制は怠らないがそれは外敵に注意を払うと言った意味合いで、対象に興味を持っている訳ではない。付き合い始めて何年かになるが、青木は未だに薪に夢中で、他の人間なんか目に入らないのだ。

 そんな彼にも例外はあって、それが隣の席の女子だ。ずっと見ていたものだから自然と目が合って、すると相手は恥ずかしがって母親の腰に顔を伏せてしまった。要するに。
「ママ。おじさん、リエのこと見てる」
「え。ちょっと」
「や、違います。決して怪しい者では、――薪さん」
 母親の疑いの眼差しへの弁解をこちらに求めてきた青木に、薪は、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く。
 バーカ。人さまの娘さんをジロジロ見るからだ。

 そこへ折りよく、隣の親子連れが注文したサンドイッチとパフェが運ばれてきた。子供ならではの切り替えの速さで、彼女はフルーツと生クリームがトッピングされた華やかなスイーツに歓声を上げる。母親の心配も、危なっかしい手つきで柄の長いスプーンを操る子供の手元に向いたようで、隣席の変質者はころりと忘れ去られた。どうも日本人は危機感が足りなくていけない。

「ふふ。一生懸命食べてるなあ」
 まだ見てる。懲りないやつだ。

 子供は可愛いと誰もが言うけれど、薪は子供が嫌いだ。うるさいし、我儘だし。どうして青木がそんなに優しい眼で彼らを見るのか、自分にはさっぱり――。
 いや、と薪は目を伏せた。コーヒーの湯気に濡れた睫毛が、艶を含んで重たげに重なる。
 本当は分かっている。青木は子供が好きなのだ。姪のことも、ウザがられるくらい可愛がっている。
 そんな彼が自分の子供が欲しくないわけはないと、彼が一度も口にしたことがないその事実を、子供たちを見ると嫌でも思い知らされてしまうから、だから薪は子供が好きになれないのだと思う。
 自分の弱さを認め、改めて幼子を見れば、食欲全開でパフェを頬張る彼女は己が欲望に忠実で、その潔さに感動すら覚える。ほっぺたを生クリームだらけにして無心で食べている様子に思わず笑みがこぼれた。……なるほど。向かいの大男がニヤニヤしてるのはこういった感情からか。

「悪かったな。産んでやれなくて」
 ぼそりと呟いたら、青木が横を向いたまま固まった。手のひらに載せていた顎を浮かせ、信じられないものを見る目でこちらを見たから、もう一度謝った。
「すまん。僕には産めない。て、おい」
 謝った薪に、青木はプフーっと噴き出した。結構しんどいセリフだったのに、ひどくないかそれ。
「いや、すみません。でもお互いさまでしょ」
「お互いさまじゃない。僕はおまえみたいに小さい女の子を愛でる趣味はない」
「なんか違う意味に聞こえますけど」
 青木はようやく薪の方へ身体を向けて、椅子に座り直した。コースターの上に放置されて、グラスの周りにたくさん汗をかいたアイスコーヒーを一口すすり、気が付いてストローで中身をかき混ぜる。氷が溶けたアイスコーヒーは、完全な二層構造になっていた。

「後悔なんかしてません。微塵も」
 カラカラと涼やかな音をさせながら、青木は静かに言った。
「無理するな。僕も責任を感じて謝ってるわけじゃない。ただ」
「後悔なんかしません。これからも」
 何と答えてよいものか、薪は少し迷い、けれども答えは出せず、黙って冷めかけたコーヒーを飲んだ。

 そうこうするうちに隣の席の親子連れはパフェとサンドイッチを食べ終え、伝票を持って席を立った。性懲りもなくバイバイと手を振った青木に、根負けしたらしい母娘は笑って手を振り返した。




*****


 メロディ10月号の感想ですが、今回はやめておきます。
 書いてたらアンチっぽくなっちゃったので(^^;
 追跡調査の件がどうしても納得できなくて~。わたしのカンチガイだったらいいのですけど。
 青木さんから送られてきたMRIの内容が、まだそれだと決まったわけじゃないしね。この先、それが正しかったと思えるようになるのかもしれないしね。
 大人しく続きを待ってますので、先生、よろしくお願いします。

 

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蛇姫綺譚(2)

 コミックス買いました!
 冒頭の部分が加筆されてましたね。事件の背景がより分かりやすくなってました。
 
 本誌連載中はあーだこーだ言いましたが、まとめて読んだらよかったです。
 エンドゲームの時もそうだったんですけど、一気に読むとすんなり読める。大騒ぎした「好きだじゃなかった事件」も、意外なくらい納得できて。「一番手のかかる家族」、いーじゃない、それ。なんか薪さんらしいよ。
 青木さんも、諦めちゃったの?! と思ってたけど、そうじゃないんですね。薪さんは見送りとかそういうの苦手、だから(手紙のことも)いいんです、てことなんですね。諦めたなんてどこにも書いてない。青木さん、笑ってるし。きっと心の中で、(急がなくていいです、待ってますから)って言ってたんだよ、きっと。そうじゃないと、
 新連載の青木さんの態度につながらないじゃん。
 まあ、薪さんは完全に今の状態に満足してるみたいだけど……ただ、その気持ちも分かるんだよね。現状維持なら誰も傷つかないもの。先に進むのは勇気がいるよね。ちょうど構図的には2061年のうちの青薪さんみたいになってるのかな。青木さんは薪さん大好きで、薪さんはそれを嬉しく思いながらも上司と部下の一線を超えないように頑張ってる。でもそれは長くは続かない……のは男爵だからか。原作薪さんなら10年くらい引っ張りそうで怖いわー。


 さてさて。
 お話の続きでございます。





蛇姫綺譚(2)






 捜査一課から協力依頼のあった事件の被害者は、ごく普通の中小企業に勤めるOLだった。全身を30箇所以上も刃物で刺され、自宅付近の川に遺棄されていた。
 被害者の名は宮原さつき、25歳。親兄弟も親類もなく、天涯孤独の身の上。そのせいか、美人だが雰囲気が暗い。
 初動捜査で目撃証言は得られなかった。事件現場は人通りの少ない河原、しかも犯行は雨の夜に行われた。翌朝、散歩途中の老人が死体を見つけるまでに、証拠は雨が洗い流してしまっていた。

 遺体の状態から怨恨の線を洗い始めた捜査陣は、しかしすぐに壁にぶち当たった。彼女は孤独に、ひっそりと生きていた。両親はおらず、親しい友人もなく、恋人もいない。あまりにも孤独過ぎて、殺されるような理由が全く見当たらなかった。
 怨恨の線がなければ通り魔か。ならば近いうちに同じように川に女の死体が上がるだろう。さすれば新たな証拠も出ると捜査本部は考えた。が、事件発生から3ヶ月が過ぎても類似性のある事件は起きなかった。
 もはや考えられるのは、通り魔殺人、それも一発屋。となると、犯人の絞り込みは困難を極める。
 ここに到ってようやく、第九に捜査依頼が来た。遺体の損壊が激しい事件、初動捜査が振るわなかった事件被害者の脳は万が一に備えて冷凍保存しておくのが慣例になっている。おかげで最近、第九には冷凍された脳しか回ってこなくなった。

 捜一の捜査は難航したが、第九での捜査は順調だった。
 首から下の損壊はひどかったものの、脳と眼は無事だった。彼女の最期の画――それは暗い川の底に沈んだ粗大ゴミの画だった――から遡ること1時間。土木作業員風の男が彼女に言い寄ろうとし、それを拒まれて犯行に至った経緯が判明した。
 無我夢中だったのだろう、男は恐ろしい形相で凶行に及んでいたが、彼女が動かなくなったことに気付くと、急に自分がしたことが恐ろしくなったらしく、彼女を川に捨てて逃げてしまった。犯人の男は顔を隠しておらず、しかも自分が勤めている工務店の社名が入った作業服を着ていた。その画像から身元を割り出すのは造作もないことだった。
 かくして犯人は確定され、捜査権と資料は捜査一課に返った。この事件に於いての第九の仕事は終わった。
 はずだった。

「な?」
 不機嫌そうな声で同意を促され、でも何のことか見当も付かず、青木は困惑して顔を上げた。目の前には腕を組んで仁王立ちになっている恋人の姿。上から目線のその眼差しがここまで似合う人を青木は他に知らない。
 薪の高飛車な態度はいつものことで、しかし彼が何について自分に同意を求めてきたのか、青木には分からなかった。もしかしたら彼に何か仕事を頼まれていたかと思い返してみるが、いつも薪の仕事は最優先で片付ける青木のこと、こんな時間に彼に催促されるような仕事が残っているはずもなかった。
「なんでしょう」と聞いてみる。当然、薪の反応は冷たかった。

「分からないのか。おまえは僕のなんだ」
 恋人の言いたいことも察せないのかと薪は大層おかんむりだが、分からないものは仕方ない。「分かりません」と正直に言うと、案の定薪は、若竹の葉っぱみたいに細くて形の良い眉をしかめ、辛辣な口調で言い返してきた。
「職員一丸となって取り組んでいる労働時間短縮問題の対策として科警研全体で定めた定時退室の水曜日に、こんな時間まで職場に残り、たった一人の閲覧者のためにシステムを動かして経費の無駄遣いをしているからにはさぞや重大な案件に違いない。つまり画面に映っているのが今日の昼前には捜査一課に報告を上げて処理済みのフォルダに仕舞われたはずの被害者の脳データに見えるのは僕の見間違い、ということだな?」
 すみません。「な」だけから以上の言葉を読み取るのはいくらオレが薪さんに関してエキスパートでも不可能です。

「もう終わります」
「いやいや、遠慮することはないぞ、青木。おまえのように優秀な捜査官が、半日以上前に片が付いた事件について調べ直しているからには報告に重大な不備があったと、僕のような愚鈍な者でも簡単に推察できる。最悪、冤罪事件に発展する可能性があると考えていい。そうなれば僕は、今この時間も続いているであろう容疑者の取り調べを差し止める手配をしなくてはならん。今夜は忙しくなりそうだ」
 どこまで続くんですか、その皮肉。
「ゆえに、おまえは僕に今夜のディナーは諦めろと言いたいわけだ」
 終了オペレーションを起動させようとしていたマウスポインタがピタリと止まる。時計の針は午後7時。よく考えたら薪がこの時間に退庁できることは滅多にないのだ。労働時間短縮は一般職員の目標であって、警視正以上の管理職員には関係ない。
 青木が定時退室できるはずの水曜日、官房室との掛け持ちで人の2倍も忙しいはずの彼が、懸命に仕事を片付け、或いは明日に回し、必死に時間を作って来てみたら恋人は終わったはずの事件を引っくり返している。不機嫌になるわけだ。

「すみません。1分で終わりますから」
 左下の終了アイコンをクリックしようとした青木の右手に、薪の手が重なった。次はどんな意地悪をされるのかと冷や汗をかく青木に、薪はふっと微笑んだ。
「冗談の通じないやつだ」
 全宇宙探したとして、通じる人いるんですか、その冗談。

「見せてみろ。どの辺が引っかかったんだ?」
 薪は青木の机に左手を付き、一緒にモニターを覗き込んだ。青木の右のこめかみを、薪のさらさらとした髪がくすぐる。懐かしい感覚。思わず頬が緩む。
「なんだ」
「いえ。昔、よくこうしてご指導いただいたことを思い出しまして」
 仕事の鬼の薪に気に入られたかったら、仕事ができる人間になるしかない。青木は必死で努力した。意欲的な部下に、薪も協力を惜しまなかった。二人きりで第九に残って夜遅くまでトレーニングをした。思えば贅沢な日々だった。
「つきっきりで薪さんに教えていただけて。幸せでした」
 青木も第九に入って6年目。捜査官としても中堅だ。一から十まで室長の指示を仰ぐのではなく、自分の考えで行動しなくてはならない。
「昔の方がよかったか」
「いえ、そんなことは」
 薪の役に立てるようになりたくて、青木は努力したのだ。昔の方がいいなんてことは決してない。ただ、薪がいつも自分を気に掛けてくれる幸福な日々を、そうとは知らずに過ごしていたあの頃に戻ってその幸せを噛みしめたいと言う感傷に囚われる事はある。

 青木が軽く目を伏せると、亜麻色の毛先にくすぐられていたこめかみにそっと柔らかいものが触れた。びっくりして身を引くと、薪が悪戯っ子のように笑っていた。
「昔に戻りたいか?」
「いいえ」
 あれから6年が過ぎて、二人は恋人同士。薪もいくらか丸くなって、職場でこんなこともしてくれる。今の方が絶対にいい。
「8時にオードヴィのディナーを予約してある。さっさと流せ」
「はいっ」
 青木は意気込んで、問題の画像ナンバーを入力した。

 MRI画像の中には、特別残酷なシーンではないのに背筋がざわざわするものがある。画面を閉じようとすると後ろ髪を引かれる。今回の事件は犯人そのものは間違いようがなかったが、この嫌な感じが全体に付きまとっていた。つまり青木が気になったのは犯人ではなく、被害者の方だ。

「薪さん、これで――違うんです、待ってください!」
 画面を見た途端、競歩の速度で出口に向かった薪に、青木は必死で取りすがる。薪の気持ちも分かるが青木だってけっこう辛かった。
 それは情交の画だった。
 他人のそういうシーンならお金を出しても見たい男はたくさんいるし、実際に産業として成り立っている。青木も薪も男である以上は商品化されたそれらに全く興味がないわけではないが、女性視点の情交画像となると話は別だ。
 被害者は女性で、この脳は彼女のものだ。当然視界には相手の男の裸しか映っていない。その相手がまた毛深い中年男で、見ても全然楽しくないどころか純粋にキモチワルイ。現に、画面には毛だらけ男性器が大写しになっていて、薪が脱兎のごとく逃げ出したのも無理はないのだ。

「青木、おまえ本当はこういうのが好みなのか」
「ちがいますってば。いや、画を間違えたわけじゃないんですけど、どうもこの辺の画が気持ち悪くて」
「画も気持ち悪いけど、それを熱心に見てるおまえも相当気持ち悪いぞ」
 薪に引かれても仕方のない状況で、しかも当の青木も何が引っ掛かったのか明確な答えを持ち合わせていない。どう説明したらよいものか迷ううち、薪が、
「Rアップって身体に塗ってもいいのかな……」
 ヘンな方向に走って行こうとしてる!
「すみません、オレの気のせいでした」
 自分のせいで、薪の美しい肌が岡部のような剛毛に覆われることになったら青木は死んでも死にきれない。青木は画面のスイッチに手を伸ばした。

「待て」
 薪の細い手が青木の手首を押さえる。青木が自分の手を机に戻すと、薪の指が中年男の腰の横、画面の右下端を指した。
「ここ」
 眼を凝らすが、何も見えない。促されて拡大した。2回、3回、まだ見えない。
 5回目の拡大作業を終えてようやく、それは姿を現した。限界まで解像度を上げる。急激に重くなったデータに、MRIシステムのファンが唸りを上げた。

 映っていたのは子供だった。たぶん男の子。裸に剥かれて、逆さまになっている。肌は異様な白さだ。いっそ青い。生きた人間の肌の色ではない。

「見えたんですか、これ」
「いや」
 見えたのでなかったら何だったのだろう。青木は畏怖の眼差しで薪を見上げた。
「彼女、薬をやってたか」
「あ、はい、多分。よく分かりましたね」
「普通、女性が男のアレなんか見ないだろ。薬で羞恥心が麻痺していたとしか思えない」
 この辺は経験の差というか。薪は女性の純情を信じる傾向が強いが、青木に言わせると薪の方がよっぽどピュアで恥ずかしがり屋だ。青木の知り合いには、男の裸を見るのが大好きな女もいる。
 根拠はともかく、彼女が薬を服用していたのはほぼ間違いない。情交に入る少し前、彼女は必ず盃に一杯の酒を飲んでいたが、その後は決まって画像が不安定になった。ほんの少量のアルコールで酩酊する体質と考えるより、快感を高める効力のある薬物を摂取していたと考える方が自然だ。

「画の粗さから言って、3年は経っているな」
「はい。5年前です」
「5年? 5年も前の画をよくここまで」
 終わりの頃は口の中で言われたから聞き取れなかったけれど、褒めてくれたのだと分かった。亜麻色の瞳が、とてもやさしく輝いたから。

「5年前の夏、彼女は複数の男性と関係を持っています。場所はいつもこれと同じ場所です」
 青木はマウスを操作して、背景にピントを合わせた。天井に、自然の形をした木が何本も横たわっている。床は畳敷きで壁は木製。色褪せた襖に黄ばんだ障子。古民家のような家だ。
「どういった理由からそんな生活を送っていたのかは不明ですけど、その間は仕事にも就かず、と言うか、これが仕事みたいな按配で」
「客を取っていたということか」
「それがですね、金銭のやり取りをしている場面は出てこないんですよ。まあ、引き出せる限界の画が今の画像だったんで、一括前金で受け取っていたら話は別ですけど、ちょっと考えにくいですよね」
「では純粋に男漁りをしていたと?」
 パソコンに取り込んでおいた被害者の資料を見て、薪が首を傾げる。そうなのだ。それは彼女のイメージではない。
「人は見掛けに依らないものですけど。違和感ありありですよね」
 見た目もそうだが、その後の彼女の暮らしぶりや交友関係の狭さからして、男を渡り歩くタイプの女性とは思えないのだ。これだけ多くの男性を落とせる気概があったのなら男友達の一人や二人、いてもよさそうなものではないか。
「なんらかの理由で不特定多数の相手との行為を強要されていた、と考える方が自然かもしれないな」
「暴力団絡みでしょうか。借金とか」
「違うな。連中はあんな殺し方はしない」
 薪の言う通り、彼らの殺しは散文的だ。裏切り者に対する見せしめでもなければ、遺体を逆さに吊るすなんて手間は掛けない。子供を暴力団の裏切り者と考えるのは無理がある。

 画面に顔を近付け、真剣に手がかりを探す薪に、青木は気になっていたことを尋ねた。
「この画は本物でしょうか」
 被害者は薬を服用していた、然るに幻覚を見ていた可能性が高い。幻覚は視界の中心付近に現れるのが普通で、焦点から外れたこのような場所に映っていることは稀だが皆無ではない。
「MRIのセオリーから言えばそうだが」
 薪は右手をくちびるの下に当て、ほんの数秒考えていたが、すぐに腹を決めたようだった。迅速な対応が必要とされる警察の捜査に於いて、決断の早さは優れた上司の重要な条件だ。

「青木。この画を僕の端末に送ってくれ。それと報告書」
「え。これ、上に報告するんですか」
 問題の画を掘り出したのは青木だが、薬のこともあるし、この画が現実である自信はない。こんな曖昧な根拠で報告書を上げて大丈夫だろうか。
「もしも現実だったらどうする。調べて何も出なければそれに越したことはない」
「分かりました。明日、報告書をまとめます」
 薪らしいと思った。職務に対して真摯で、手間を惜しまない。そして。
「なにを呑気なことを言ってる。今すぐやれ」
「え。だってもう8時だし」
「心配するな。オードヴィの予約は取り消しておいた」
 青木とのディナーはもっと惜しまない。
「うっ、ううっ」
「泣くな! 泣く暇があったらさっさと報告書をまとめろ!」
 こういうところは6年前からちっとも変わらない。青木は画面を涙で霞ませながら、報告書作成のためのシステムを起動させた。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

蛇姫綺譚(3)

 日曜日、横浜の原画展に行って参りました!
 土曜日の夜に行けることが決まったので、お友だちに声を掛ける暇もなく、今回はオットと一緒です。

 1巻の原画は初見でしたが、10年以上も前の作品とは思えないクオリティの高さでした。
 大変失礼ですが、漫画家さんの中には、「最初ひどかったけど上手くなったなあ」とか、「昔はよく描き込んでたのに最近デフォルメ強すぎて残念」という方もいらっしゃると思うのですけど、清水先生の場合はそれが全くないのが素晴らしいと思います。
 10年前から、てか、デビュー当時からレベル100で、最近はもう人間のレベル超えたんじゃないかってくらい美しい絵を描かれて、しかもアングルや構図なんかどうやって思いつくんだろうって不思議になるくらいカッコよくなってきて、この人あれだ、
『進化する神』
 オットにはそう説明しておきました。

 原画の並びは順不同でございました。
 秘密未読のオットが、「これ、どっちから読むの?」と訊くので、番号順に指差して行ったら「覚えてるの?」てドン引かれましたけど。聞いておいて引くってどういうこと?

 
 店員さんに聞いたら、原画展は9月一杯やってるそうです。
 コミックス2,3巻同時購入特典のクリアファイルも在庫有り、でしたので、まだの方はぜひ!

 *開催会場を追記しておきます。
  有隣堂書店 横浜西口ザ・ダイアモンド店
  地図はこちら  (ぽちると案内図に飛びます)




 さて。
 お話の続きです。
 本日もよしなにお願いします。



蛇姫綺譚(3)






「すごい田舎ですねえ」
 運転席の感心したような声に、薪は書類から眼を離して顔を上げた。少し気分が悪い。砂利道を跳ねる車内で細かい文字を追っていたせいか、車に酔ったらしい。
 窓を開けて風を入れる。閉塞感は緩和されたが爽快感は得られなかった。顔に当たるのは夏の盛りのむっとするような空気。今日も文句なしの真夏日だ。

「オレの田舎よりすごいです。30キロ走って車一台通らないなんて、本当にこの先に町があるんですか?」
「心配するな。道は一本道だ。方向音痴のおまえでも迷いようがないはずだ」
 青木の疑問に皮肉を返し、薪は小さく呟いた。
「捜一の資料が正しければな」
 捜査一課から預かった資料を封筒に戻し、薪は物憂げに車窓を眺める。捜一から資料は借りられたものの、捜査協力は得られなかった。抽出できたMRI画像が曖昧過ぎたのだ。

 もとより、MRI画像には証拠能力がない。MRIに映っている容疑者を逮捕するためには裏付け捜査が必要だ。宮原さつきの事件も、工務店の男を探し、彼の同僚や家族から話を聞き、アリバイを確認し、任意同行の上で自白に追い込んでいる。MRIだけでは犯人を見ることはできても捕まえることはできないのだ。
 その理由は、MRI画像が人間の脳から生み出された映像であることに尽きる。
 MRI画像は当事者の主観が強く表れるため、現実とは違った映像になることがある。例えば酷い暴力を受けた時など、相手の顔が本物の鬼のように映るのだ。これではモンタージュが作れない。
 そう言った一面が、MRI捜査全体の証拠能力を引き下げている。最先端の科学技術を駆使して人間の脳から取り出したMRI画像が、科学的根拠に乏しいと言う理由で証拠にならない。何とも皮肉なことだ。

 幻覚と現実の見極めは捜査官の力量に掛かってくるわけだが、人間のすること、絶対はないと言われてしまうと否定はできない。これを改善するには法から制定しなければならない。
 現行の裁判制度では、有識者の意見を付与することによって様々な状況証拠が物証に劣らない威力を発揮する。医療裁判における医学者の証言、精神鑑定における精神科医の診断等がその例だ。それに追随する形で、MRI捜査官による検証制度を作れないかと薪は考えている。その際、第九の捜査官に検証させたのでは身贔屓を疑われるから、アメリカやフランス等、利害関係を生じない第三国者に検証してもらう。他国のために誰がそんな面倒を、と失笑されそうだが、何処の国のMRI捜査でもこの問題は付いて回るはず。他国に出向く必要はなく、データのやり取りをするだけだからそれほどの手間は掛からない。互いに協力体制を整えれば実現可能な話だし、双方の利になるはずだ。
 ただし、今回のように熟練した捜査官でも判断が難しい場合には、やはり現場での検証が必要となる。その場合の規約をどのように定めるかは今後の課題であるが、まずは裁判で確かな証拠としてMRI画像が認められる道を作ること。それが自分にできる、第九室長としての最後の仕事だと思っている。

 それはさておき。
 捜査一課の協力が得られないとなれば、自分たちで行動するほかはない。積極的に行使することは少ないが、第九には独自の捜査権が認められているのだ。
 そんなわけで、被害者、宮原さつきの生まれ故郷、N県K市に二人は来ている。

 例の殺害シーンが映っていた5年前、捜一の調べに依れば宮原さつきはN県の田舎に住んでいた。東京に出て現在の会社に就職したのが4年前。21歳まで、彼女は地元で暮らしていたことになる。
 親兄弟もいない彼女が、20年以上も住んでいた土地を離れるからにはそれなりの理由があったはずだ。それもまた、あの画が真実である可能性を高める。何よりも青木が。
 初めて、捜査官としてのカンを働かせて掘り当てた事件なのだ。他の誰も気付かなかったのに、青木だけが彼女の異常性に気付いた。調べもせずにお蔵入りなんて、そんなことはできない。強い決意のもと、雹のごとき中園の厭味を潜り抜け、小野田の冷たい視線を黙殺し、3日間の猶予を捥ぎ取って来たのだ。

 そこまで考えて薪は、はたと気付く。
 もしかして、これって公私混同? いや、第九の誰が言い出したことでも調べたさ。岡部はもちろん今井でも小池でも、あ、曽我はちょっとビミョーかな……。

 軽く首を傾げた瞬間、何かに突き飛ばされたように薪の身体が前に振られた。下腹にシートベルトがめり込んで、思わず呻く。
「すみません、大丈夫ですか」
「なんだ。曽我の呪いか」
「は? 曽我さんがどうかしましたか」
「いや、なんでも……お」
 車の運転なら総理大臣の運転手にも引けを取らない青木が急ブレーキなんて、どうしたことかと思えば砂利道の上に障害物。それは一匹の蛇であった。右の草むらから左の草むらへ移動中だったらしい。ノンブレーキで轢いてしまったと見えて、細長い身体が2つに轢断されていた。

「砂利道が保護色になって。見えませんでした」
「白蛇か。珍しいな」
 舗装道路なら白い蛇は目立っただろうが、砂利道、それも再生材を使用した白っぽい砕石道路で白蛇を見つけるのは、自転車でも難しかろう。
 青木は路肩に車を停め、道に降り立った。交通の障害になる死骸を片付けるつもりらしいが、果たして。

「ふわっ、ひっ、ひゃっ」
 情けない悲鳴が聞こえてくる。青木は蛇が苦手なのだ。その証拠に、動物園の爬虫類ブースではいつも無言になる。蛇特有のぬめるような肌質に生理的恐怖を感じる人間は多いが、彼もそうなのだろう。見かねて薪は車から降りた。
「おまえはサル以下か」
 青木は素手で蛇の死体を動かそうとしていた。その辺に落ちている棒切れか何か使えばいいものを。
「でも。この蛇はオレが轢いたんですから」
 まったく青木らしい。苦手な相手にも誠実を尽くそうとする。薪にはできない芸当だ。
 薪は「やれやれ」と大仰に肩を竦め、長々と地面に横たわった白蛇の死骸を両手で持ち上げた。慌てて青木が手を差し出す。
「薪さん、大丈夫です。オレがやります」
 薪に被害が及ぶとなれば、生理的嫌悪など消えてなくなる。こと薪に関してだけ、青木は時々人を超える。
「僕も乗ってたからな。同罪だ」
 もう半分を持って来い、と薪が命じると、青木は、目を背けながらではあったが、半分になった蛇の尾っぽの方を子猫でも持ち上げるようにそっと両手に乗せた。

「で。どうするんだ」
「この辺りに埋めてあげましょう」
 言うと思った。交通の邪魔にならない場所に捨てておくとか、そういう発想は青木にはない。
「穴はおまえが掘れよ」
「はい。――あの樹の下にしましょう」
 田舎道の両側は我が物顔でのさばる雑草と、その花の小さな紫色に覆われていたが、5メートルほど先に1本だけ、大きな樹が佇んでいた。樹が養分を吸い上げてしまうのか、その周りだけ草が少ない。墓も作り易そうだった。

 穴は青木が掘ったが、土をかけるのだけは手伝ってやった。白く細い身体を渦巻の形に丸くして、暗い穴の底に収まった姿を見れば、青木ほどではないが可哀想なことをしたと思う。彼の仲間たちは今この瞬間も夏を謳歌しているのに、こいつには微生物に分解される未来だけが待っているのだ。
 隣で、簡素な墓に向かって屈み、汚れた手を合わせる青木の横顔に、少しでも白蛇の魂が救われてくれることを願った。

「青木、そろそろ」
 薪は立ち上がって出発を促したが、青木は一心不乱に蛇の冥福を祈っている。まったくもって青木はやさしい。こんな行きずりの爬虫類にまで、それは自分には持ちえない美徳だ。職務中の寄り道だということも忘れて、惚れ直してしまいそうに――。
「青木?」
 青木の唇が小さく動いていることに気付いて、薪は再度屈んだ。顔を寄せ、じっと耳をそばだてる。すると、
「祟らないでください、呪わないでください、お願いします、お願いしま、痛っ」
 自己保身かよ! 惚れ直して損した!

「なに非科学的なこと言ってんだ。それでもおまえは第九の捜査官か」
「だってっ。白蛇は神さまの使いだって昔から」
「ああん? アクマの間違いだろ」
 エデンの園で、アダムとイヴを唆して知恵の実を食べさせた。どちらかと言うと悪いやつだ。
「白蛇は特別です。ご神体として祀ってる神社も、だから蹴らないでくださいよっ」
「白蛇に特別な能力なんて無い。白化現象を起こしてるだけで蛇は蛇だ。祀り上げられて、できもしないことを期待される方も迷惑だ」
 行くぞ、と厳しく追い立てると、青木はようやく腰を上げた。車に戻り、汚れた手をウェットティッシュで拭う。車をスタートさせると、5分も走らないうちに市境界の印の立札を見つけた。珍しいことに、今どき木札だ。大分古いものらしく、「ようこそ」と書かれた文字の下にはK市の名前があったのだろうが、風雨に晒されて消えてしまっていた。

 やがて、点在する民家が見えてきた。
 立札に相応しいレトロな風景で、揃いも揃って年代物の民家の周りは一面畑だ。胡瓜やトマト、南瓜などの夏野菜がたわわに実っている。夕飯の野菜料理が今から楽しみだ。
「なんだ、すぐ傍まで来てたんですね。その割には人の姿が見えなかったけど」
 これだけ田畑が広がっていれば、住民たちはその殆どが農業人で、昼間は畑仕事で忙しいのだろう。天気の良い日にふらふらしている者などいないのだ。

「あれっ?」
 青木が訝しげな声を出したかと思うと、アクセルを緩めた。蛇を轢いた時ほどではないが、前方へと身体を振られて、薪は足を踏ん張った。
「どうした」
「いえ、急にナビが消えちゃって。どうしたんだろう」
「故障だろ。公用車だからな。予算的にも車検が精一杯でナビの整備まではなかなか、――うん?」
 車のナビゲーションの代わりにスマホの地図アプリを起動させたが、『ページを表示できません』とエラーが出た。見ると、右上に圏外の文字。これではルート検索が使えない。
「嘘だろ」
 海の中でも携帯電話が使えるこの時代に、圏外って。

「困りましたね。道を訊こうにも人の姿は見えないし。どっちへ行けば」
 二人が目指しているのは地元の警察署だ。管轄外の場所で勝手に捜査をするわけにはいかないから、電話で話は通しておいた。先方に自分たちが行くことは伝えてあるから、電話さえつながれば道を訊くことも迎えに来てもらうこともできたのだが。
 困惑する青木に、後部座席から薪の落ち着いた声が聞こえた。
「そこ、右だ」
「え」
「5キロ走ったら左。川を渡って12キロ先に消防署。その裏手が警察署だ」
 目を丸くする青木に、薪はルームミラーの中から話しかける。
「昨日、地図を見ておいた。道の形状と大体の距離しか覚えてないけど、何とかなるだろ」
「薪さんの頭の中ってどうなってるんですか」
「頭蓋骨の下に髄膜、大脳に覆われるように脳梁と脳弓、その下に間脳、更に下に脳幹があって」
「いや、脳の構造についてレクチャーを受けたいわけでは……もういいです」
 人に質問しておきながら答えを途中で遮った青木に薪は些少の苛立ちを感じたが、何も言わずに引き下がった。我ながら現金なことだが、久しぶりの現場で機嫌がよいのだ。薪は微笑さえ浮かべて背もたれに寄り掛かり、どこまでも広がる田畑の風景を眺めた。

 しばらく走ると、畑で働く男たちの姿が見えてきた。意外なことに若者の姿が目立つ。今や第一次産業に従事する若者は絶滅寸前だと聞いていたが、この地域では率先して農作業に臨む若者が大勢いるらしい。頼もしいことだ。
 逆に、女性はひどく少なかった。
 特に若い女性は皆無で、背中の曲がった老婆しか見かけない。えらく偏った人口ピラミッドだが、地方では珍しくない。農家の嫁は重労働だ。成り手がいないのだろう。
 こんな処に竹内が来たら30分と我慢できまい。老婆たちが集団で豆をむしっている大豆畑の真ん中に放り込んでやりたいものだ。想像して薪は、薄く笑った。



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ジャンル : 小説・文学

蛇姫綺譚(4)

 5連休ですね。みなさんはいかがお過ごしですか?

 うちは、
 仕事です! 5日とも!!
 だって……あんなに雨が続いたら工期に間に合わないよ……。

 てなわけで、シルバーウィークも通常運転でございます。
 本日も広いお心でお願いします。





蛇姫綺譚(4)





「あれっ。あれあれ?」
 川を渡って5分ほど走った頃、またもや青木が騒ぎ出した。
「どうした」
「いや、エンジンの調子が……あ」
 プスン、と車は空気の抜けるような音を出し、ガクンと車体を揺らして止まった。今度は竹内の呪いだろうか。
「おかしいなあ。ちゃんと点検済みのものを借りてきたのに」
「整備したやつがいいい加減だったんだろう。帰ったら整備部に文句を言ってやる」
 ちょっと見てみます、と青木はボンネットを開けた。車オタクの青木は車のメカ構造にも詳しい。エアロパーツの取付けはもちろん、ドライブレコーダーやナビは自分で配線するし、簡単な故障なら自分で直す。こと車に関して、薪の出る幕はない。

 薪が車の中から様子を伺っていると、青木はトランクから工具を取り出し、本格的にエンジンをいじり始めた。これは時間を食いそうだ。
 薪は車から降りた。
 見渡す限りの広大な畑が広がっている。土と草の匂い。明るい日差しの中、人々は農作業に勤しみ、空ではヒバリの声がする。のどかな農村の風景であった。

 薪は小石を踏み分けながら砂利道を進み、目に着いた畑の、一番近くで畝を作っていた男に話し掛けた。
「お仕事中にすみません。警察に連絡を取りたいのですが、お宅の電話を貸していただけませんか」
 車の故障で約束の時間に遅れそうだから相手方に連絡をしなくてはならない。しかし、携帯電話は使えない。公衆電話も無いから誰かに家の電話を借りるしかない。
「警察? なにか、困りごとかね」
 金でも落としんさったか、と心配そうに尋ねる男に薪は顔をほころばせた。一般に田舎の人は警戒心が強く、余所者を歓迎しない傾向がある。以前、青木が誤認逮捕された町などはその典型で、薪は大層辛い思いをした。
 ここの住民は余所者にも親切でやさしい。こんな風に思いやりの心に満たされた土地柄なら、あの孤独を絵に描いたような宮原さつきも、きっと孤独ではなかったはずだ。荒れた生活をしていたようだが、それでも彼女はこの町を出るべきではなかった。

「僕は東京から来た刑事です。こちらの警察の方と約束がありまして」
「東京の刑事さんが、こんな田舎になんの用ね」
「宮原さつきさんと言う女性について調べています」
「宮原?」
「5年ほど前まで、こちらに住んでいたはずですが。ご存じありませんか」
「知らんなあ」
 宮原さつきの家は、この近所ではないらしい。
「では、5年ほど前に事故、あるいは行方不明になった子供に心当たりはありませんか。3、4歳の、男の子だと思うのですが」
 二番目の質問にも、男は首を振った。それほど期待して訊いたわけではなかったが、幸先の悪いことだ。
 薪が少しだけ眉を寄せると、男は持っていた農具を畝の傍らに置き、手に付いた土を落とすためにパンパンと手を叩いた。
「駐在さんには俺から連絡しちゃるけん。あんたら、車がエンコしたんやろ。迎えに来てもらえるよう頼んじゃるわ。そこで待っとって」
 そうしてもらえると助かる。薪は素直に礼を言った。

「ひゃあっ!」
 男が自宅に戻りかけた時だった。青木の悲鳴が聞こえた。
 驚いて振り向くと、青木が飛びのくように車から離れるのが見えた。さては焼けたエンジンを触って火傷でもしたのかと、薪は慌てて彼に走り寄った。

「怪我をしたのか」
「あ、違います。ちょっと驚いただけで……でも、こんなことって」
 口に手を当てて眉をしかめる青木の様子に、薪もエンジンルームを覗き込む。ラジエーターやバッテリーの周りを埋め尽くすコードやチューブに混ざって、そいつらはいた。
 それは3匹の蛇だった。青、緑、赤とそれぞれ色が違う。焼けたエンジンルームの中で、それらは息絶えていた。肉の焦げる臭気が辺りに漂う。
「どうやって入ったんだ」
「ボンネットは割と隙間がありますから、それほど珍しいことではないんです。ただ」
 3匹って言うのはちょっと、と青木は語尾を濁し、困り果てた表情で薪を見た。ここにきて4匹目の蛇だ。夏だから蛇が出てくるのは自然だが、その悉くを死なせてしまっているのだ。少々、気味が悪い。

 とにかく、この死骸を取り除かねばならない。焼けた部品に触らないように気を付けて、彼らを外に出した。先ほどの白蛇同様、埋葬してやりたいところだが、周りは畑ばかりだ。誰だって自分の畑に蛇の死骸を埋められるのは嫌だろう。
 ひとまず、ここへ来る途中に立ち寄ったコンビニの袋に入れた。障害物が無くなったから車も直るかもしれない。青木はスパナを握り直し、薪は蛇の死骸をトランクに入れようと車の後部に回った。
 トランクには、3日分の着替えを詰めたボストンバックが2つと、私服に着替えた時のための薪のスニーカーが置いてある。その横にビニール袋を置いた。
 と、そこに人影が差した。振り返ると先ほどの男だった。警察署と連絡が取れたのだろう。親切な男に薪はにこりと笑いかけた。

「ありがとうございます。先方は、なんて?」
「警察は来ん」
「え。それは何故」
「あんたたちは蛇姫さんの使いを殺した。このまま帰すわけにはいかん」
「は? 一体なんのこと」
 周りを見ると、いつの間にやら囲まれていた。農民たちは怒りに眼を赤く濁らせて、手に手にショベルやら鍬やらを持っている。たった今まで農作物に命を吹き込んでいた農具が人の命を奪う武器になるのだ。農村てこわい。

「みなさん、落ち着いてください。僕たちは何かあなた方の気に障ることをしてしまったのかもしれませんが、決して悪気があったわけでは、わ!」
 言葉半ばで、薪の足元に鍬が振り下ろされる。こいつら、目がイッちゃってるぞ。
「申し開きは儂らではなく、蛇姫さまにしろ」
「ヘビ? 蛇がなんだって?」
「なんてバチ当たりな。蛇姫さまを知らんのか。あのありがたい神さまを」
「神さま?」

 これは厄介だ、と薪は思った。
 田舎に良くある土地神信仰と言うやつだ。この辺では蛇姫とやらが神さまで、蛇はその使いだと信じられているのだろう。それをいっぺんに3匹も殺してしまった余所者――本当は4匹なのだか――に対する制裁を、彼らはこの場で加える気なのだ。
 相手は5人。武器を持っているとはいえ、全員素人だ。2、3人投げ飛ばせば恐れをなして引き上げてくれるかもしれない、と薪が構えを取って腰を落とした時。

「薪さん、乗ってください!」
 ラッセル車のように突っ込んできた青木は、一気に3人の男を跳ね除けた。タイミングを逃さず、薪は車の中に逃げ込む。体格と腕力に物を言わせ、青木は更に2人の男を薙ぎ倒し、運転席に乗り込んだ。
 砂埃を立てて車が急発進する。さすがに、追いかけてくる者はいなかった。

「ああ驚いた。田舎って怖いなー。たかが蛇が死んだくらいで」
「だから祟りですよ! さっきの白蛇のタタリ!」
「あれは祟りって言わないだろ。完全に人災だろ」
 蛇を崇め奉っている前時代的な村で、たまたま運悪く蛇がボンネットから侵入して死んで、それを土地の者に見られただけのこと。帰りは別の道を通れば済む話だ。あの暴力的な教義は問題があるが、それこそ余所者が口を挟むことではない。
 小心者の青木が小声で白蛇の成仏を祈り続ける横で、薪はさっさとその事件を頭の中から追い出した。

 が、後から振り返るに、これは青木の方が正しかった。
 この時、彼らはすでに捕えられていたのだ。人智を超えた恐ろしい蛇姫の呪いに。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

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2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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